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第八十三話「所有権という名のリスク」

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第八十三話「所有権という名のリスク」

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 第七層の発電機から戻ったところだった。


 軍手を外しながらゲートに近づくと、三人のスーツ姿が見えた。今日は武装していない。書類鞄を持っている。


「渉さん。JDA法務部の識別信号です。法務部次長の桜井理恵。もう二名は若手弁護士です」


 メイの声がイヤホンに入った。


 軍手をポケットにしまって、三人の前に立った。



「佐藤渉氏ですね。JDA法務部次長の桜井です」


 名刺を差し出してきた。四十五歳前後の女性。スーツは完璧だった。その隣に若手が二人。三人とも、床の油染みを踏まないようにしながら立っていた。


 名刺を受け取り、作業着のポケットにしまった。


「本日は、第八層の法的地位について正式な通告に参りました」


 桜井が後ろから書類の束を受け取り、差し出した。分厚い。登記簿謄本に、施設管理権限証明書、判例集のコピー。


「第八層は、JDAが正式に所有権を有する施設です。ダンジョン基本法第十二条に基づき、国からJDAに管理権限が委譲されています。あなたは現在、JDAの所有する施設に無許可で滞在し、無許可で設備を設置・運用しています。法的には不法占拠にあたります」


 受け取って、一通り読んだ。


「桜井さん。ひとつ確認させてください」


「なんでしょう」


「第八層はJDAの所有物だと言いました。間違いないですね」


「法的に明確です」


「その所有物で事故が起きた場合、責任を負うのは誰ですか」



 桜井の眉が、わずかに動いた。


「事故……ですか」


「第八層のコア炉が停止し、封鎖機構が誤作動した場合。あるいは魔導炉が暴走し、第七層から第十二層まで連鎖的に閉鎖された場合」


「それは仮定の話では……」


「仮定ではありません」


 メイがホログラムを起動した。


「過去二十年間で、コア炉が臨界停止寸前に至った事例は記録上十七件確認されています。いずれも現場での緊急対応により回避されました」


「十七件。このうち一件でも対応が遅れていれば、第八層は止まっていました。仮定じゃなく、現実のリスクです」


 桜井は答えない。


「JDAは、第八層のコアが停止した場合の賠償リスクを試算したことがありますか」


「……それは」


「試算していないなら、確認します。メイ」


「第八層のコア炉が完全停止した場合の想定被害試算です。第七層から第十二層の連鎖閉鎖による経済損失、JDA試算で最低二千四百億円。環境修復費用が約八百億から千二百億円。周辺住民への補償が約五百億円」


「合計で最低四千億円以上のリスクです。JDAの年間予算の約三年分に相当します」


 若手の一人が数字を見て、声を詰まらせた。


「JDAは、三年分の予算に相当する賠償リスクを本当に負えるんですか。負う覚悟があってここに来ているんですか」



「佐藤さん」桜井が応じた。声は落ち着いていた。「工作物責任の話をしているのでしょうが、あなたが現在ここにいるのは無許可です。正式な管理者でも占有者でもない」


「では、実際に第八層で日々の管理業務を行っているのは誰ですか」


「それは……JDA施設管理局が責任を持ち……」


「施設管理局が、昨日の朝五時の点検をやりましたか」


 桜井は答えなかった。


「俺が毎朝やっています。あなたたちが不法占拠と呼んでいる俺が、二十年以上にわたりこの施設の実質的な管理を続けてきた。点検し、調整し、異常を記録し、事故を未然に防いできた」


 書類を折り畳んで、桜井に返した。


「法律上の所有者はJDAです。でも実質的な管理者は俺です。事故が起きた時、裁判所は所有者と管理者のどちらに、より重い責任を問うと思いますか」


 若手の二人が顔を見合わせた。


「特に、管理者が何度も危険を警告していたにもかかわらず、所有者がその警告を無視して管理者を排除しようとした場合。裁判所はその所有者の行為をどう評価するか」



 桜井が沈黙していた。


 その時、ゲートの向こうから石倉義男が歩いてきた。手に薄い封筒を持っていた。


「桜井次長。よいところに」


「石倉参与……」


「今回の『所有権に基づく排除』は、理事会の正式な承認を経た決定ですか。それとも特定の理事の個人的な指示ですか」


 桜井の動きが止まった。


「JDA定款第二十三条。重要な施設管理方針の変更は、理事会の決議を要します。今回の件が、その手続きを経ていない場合……強行排除が行われ、その後に事故が起きれば、責任は組織ではなく指示を出した個人に及ぶ可能性があります」


 石倉は封筒を桜井に渡した。


「監査部の見解をまとめておきました。参考にしてください」


 石倉は渉に一度だけ目を向け、ゲートの方へ歩いて消えた。



 桜井が封筒を開けて読んだ。


 若手の一人が耳打ちした。「桜井さん、これは……」


「わかっている」


 桜井は書類を閉じて、渉を見た。


「佐藤さん。一点だけ聞かせてください。あなたは、ここを出ていくつもりは全くないんですね」


「第八層のコアが動いている限りはそうです」


「なぜそこまで」


 俺は少し考えた。


「壊れているものを直したい。動いているものを止めたくない。それだけです。所有権がどこにあろうと、そこは変わりません」


 桜井はしばらく俺を見ていた。その目は、法務担当者の目ではなく、別の何かを考えている人間の目だった。


「……今日は持ち帰ります。法務部として、あらためて検討します」


 三人がゲートへ向かった。若手の一人が振り返りかけて、やめた。


 靴の裏に油が少しついていた。



 コア室に戻った。


 工具箱の蓋の上に置いてあった解雇通知書が、炉の振動でまたかすかに震えていた。


 配管のボルトが一本、わずかに浮いていた。


 トルクレンチを当てて締めた。カチッ。


「渉さん。石倉参与から通信が入りました」


「なんて」


「『法務部は所有権主張のリスクを認識した。当面、強制排除の動きは止まる見込み。ただし武藤は次の手を考えるだろう』とのことです」


「そうか」


 手帳を開いた。今日の点検結果を書き込んだ。


「……先代のマニュアルに、民法七百十七条が書いてありました。工作物責任の原則。所有者と管理者の責任の所在。それを使えと」


「先代が……」


「二十年前に書いていた。JDAがいつか所有権を持ち出すと予測して」


 最後のページにある先代の手記を、声に出さずに読んだ。


 「覚えておけ。いつか使う日が来る」


「職人ってのは、今だけじゃなく次のことを考える。困る前に答えを用意しておく。先代はそういう人だった」


 手帳を閉じた。


 炉の唸りが、変わらず部屋を満たしていた。所有権という言葉も、工作物責任という言葉も、この音の前ではただの言葉だった。


 明日の朝五時の点検まで、数時間ある。


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           〈第八十三話 了〉

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【次話予告】

 数日後、石倉から連絡が入った。

 「武藤が次の手を打ってきました。JDAの法務部を動かして、渉さんの『在留資格』の問題です。あなたがダンジョン内に滞在する根拠が、雇用契約解除によって失われたという解釈で……」

 渉は手帳の白紙のページを開いた。

 「先代のマニュアルに、その話も書いてありますか」

 「……ありませんでした」

 「じゃあ、俺が書きます」



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【あとがき】

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 第八十三話、お読みいただきありがとうございました。


 「所有権とは責任を伴うものだ」という論理は、先代のマニュアルに書いてありました。渉はそれを使っただけです。法律の勉強をしたわけでも、弁護士に相談したわけでもない。先代が「いつか使う日が来る」と書き残した言葉が、今日、機能した。これが職人の継承です。


 桜井理恵というキャラクターは、悪人として描きたくありませんでした。彼女は依頼者の指示に従い、法的に可能な手段を追求したプロです。渉の反論を聞いて、それが法的に正当であると瞬時に理解した。そして、理解したからこそ持ち帰ることにした。有能な法務担当者が、法的な正しさによって追い詰められるという構造です。


 「壊れているものを直したい。動いているものを止めたくない。それだけです」という渉の言葉は、この作品全体を通じて渉の行動原理を最も端的に表しています。所有権も雇用契約も、渉の動機に影響しない。炉が動いている限り、渉はここにいる。


 靴の裏に油がついていた若手弁護士の描写を入れました。「オフィス街の理論」と「現場の物理」の境界線が、床の油染みという形で可視化されています。


                   (作者)

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