第八十話「理事の視界、清掃員の足元」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
第八十話「理事の視界、清掃員の足元」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
コア炉の振動を掌で確認しながら、手帳に数値を記録していた。
朝の点検だ。炉の出力は昨日より〇・三パーセント上昇している。魔素流の密度が上がっている。今夜、発電機の翼角度を〇・二度調整する必要がある。
「渉さん。第八層入口ゲートに単独の訪問者です」
「今度は何人だ?」
「一名です」
手が止まった。
「識別信号は……JDA理事、武藤正信。武装なし。随行員もなし」
「武藤が一人で……」
「はい。入域許可を求めています」
手帳を閉じた。
「通せ。コア室に案内しろ」
「よろしいのですか」
「来るなら来い。俺はここで仕事をしている。それだけだ。」
◆
扉が開いた。
ダークスーツを着た初老の男が入ってきた。背筋が真っ直ぐだ。眼鏡の奥の目に、組織の頂点で長く生きてきた者の静けさがある。武装も護衛もない。
俺は炉の計器から目を離さなかった。
「佐藤渉氏……だな」
「はい。武藤理事ですね」
「時間を取らせて申し訳ない」
答えなかった。
武藤はコア室を見回した。壁面のパネル。発電機からの給電ライン。ゴールドが壁際に立っている。それから俺を見た。
「良い施設だ。第八層がこれほど安定しているとは。報告書で読むのとはわけが違う。」
「現場ですから。」
「その現場を、君一人で守っている。」
俺は計器の数値をもう一列、手帳に書き込んだ。
◆
武藤がタブレットを取り出した。
「単刀直入に言おう。第八層を、JDAの正式なエネルギー実験区画としたい。管理権をJDAに正式移管してもらう。」
手帳を閉じた。武藤の方を向いた。
「君が構築した発電システムは、ダンジョンエネルギー自給のモデルケースとして極めて価値が高い。予算と人員を正式に配分する。年俸は現在の三倍。第八層の予算は五倍。必要な資材はJDAの調達網を通じて好きなだけ手に入る。」
タブレットの数字を見た。確かに大きい数字が並んでいる。
「どうだ。悪い話ではないはずだ。」
「ひとつ、聞いていいですか」
「なんだ」
「管理権をJDAに移した後、発電機の出力調整は誰が決めるんです?」
「それは専門の技術委員会で……」
「委員会の開催頻度は?」
「月に一度……臨時開催も可能だが」
「コアの魔素変動は、分単位で起こります」
武藤の眉がわずかに動いた。
「昨夜の午前三時十七分、魔素流が通常の一・八倍に急上昇しました。俺はその場で発電機の翼角度を〇・七度調整し、コアへの過負荷を防いだ。委員会や理事会の承認を待っていたら、コアは暴走していました」
◆
武藤が眼鏡を外してゆっくりと拭き始めた。
「佐藤さん。君の言い分は理解した。現場の速度が必要なことも。だが、考えてみてほしい」
眼鏡をかけ直した。
「JDAは第八層だけを管理しているわけではない。数百の施設、数千の職員、数百億の予算を扱っている。それらを動かすためには、ルールが必要だ。例外を認めすぎれば、組織は立ち行かなくなる。」
「第八層は例外じゃない。現場です」
「その言葉が、組織にとってどれほど危険か……」
武藤の声に、初めてわずかな感情が滲んだ。諦念に近い何かだ。
「これまで何人もの現場の天才を見てきた。彼らは皆、ルールを無視し、手続きを軽んじ、組織を足かせと呼んだ。そして彼らがいなくなった後、現場は混乱した。天才がいなければ動かない現場は、組織にとって負債でしかない。」
俺は窓の方を向いた。第七層の暗がりに、風車の翼が微かに見えた。
「武藤理事」
「なんだ」
「あなたの発電機活用計画。コアへの過負荷リスクは計算していますか?」
「それは技術委員会が——」
「コアの魔素出力は、毎月〇・〇三パーセントずつ低下しています。今の抽出効率のまま規模を拡大すれば、七年から十年で枯渇する。そのデータは先代のマニュアルにあります」
武藤が黙った。
「JDA全体のエネルギー問題を解決したいなら、抽出効率より先にコアの維持サイクルを見直すべきです。今のペースで使えば、この第八層はいずれ死にます。俺はそれを止めるために、ここにいる」
◆
二人の間に沈黙が落ちた。
炉の唸りだけが続いていた。
「……つまり、提案を拒否する、と」
「はい。管理権は渡せません」
「理由は?」
「委員会の承認速度と、コアの変動速度が釣り合わないからです。それだけです」
武藤はしばらく俺を見ていた。それから微かに笑った。予想通りだったという顔だ。
「そうか」
立ち上がり、スーツの襟を正した。
「君は自分の正しさを信じている。それは結構なことだ。だがね、佐藤さん。組織の維持のためには、一部の特異点は排除するか、管理下に置くしかない。それが組織の宿命だ。管理を拒否するなら、次は排除の手順に入る」
「排除ですか?」
「残念だが、そういうことだ。」
武藤は扉に向かった。俺はその背中を見た。
「武藤理事」
武藤が足を止めた。振り返らない。
「JDAは俺の敵だとは思っていません。石倉さんのような人もいる。ただ、あなたは組織そのものだ」
武藤がわずかに動いた。
「組織そのもの、か。良い言葉だ」
振り返った。その顔に、不敵な笑みがあった。
「ならば、次の手が楽しみだ。佐藤渉。君という現場そのものが、私という組織そのものに、どこまで抗えるか。見せてもらおう」
「お好きに。」
扉が閉まった。
◆
「渉さん……」
メイの声が静かに聞こえた。
「大丈夫だ、メイ」
「しかし……」
「来るなら来い。俺は止めない。第八層を守るだけだ」
手帳を開いた。今日の日付を書いた。
「武藤理事・管理権移管の提案→拒否。コア枯渇リスクを提示。理事、次の手を予告」
一行書き添えた。
「コア七年維持のために、抽出効率の再試算を要する。メイに依頼済」
手帳を閉じた。
点検ハンマーを手に取り、炉の外装を叩いた。
コン。
均一な音だ。問題ない。
炉は今日も、変わらず鼓動している。武藤が来ようと、去ろうと、コアはこの音を出し続けていた。それが現場というものだ。
次の確認箇所へ歩き出した。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
〈第八十話 了〉
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━




