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第八十話「理事の視界、清掃員の足元」

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第八十話「理事の視界、清掃員の足元」

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 コア炉の振動を掌で確認しながら、手帳に数値を記録していた。


 朝の点検だ。炉の出力は昨日より〇・三パーセント上昇している。魔素流の密度が上がっている。今夜、発電機の翼角度を〇・二度調整する必要がある。


「渉さん。第八層入口ゲートに単独の訪問者です」


「今度は何人だ?」


「一名です」


 手が止まった。


「識別信号は……JDA理事、武藤正信。武装なし。随行員もなし」


「武藤が一人で……」


「はい。入域許可を求めています」


 手帳を閉じた。


「通せ。コア室に案内しろ」


「よろしいのですか」


「来るなら来い。俺はここで仕事をしている。それだけだ。」



 扉が開いた。


 ダークスーツを着た初老の男が入ってきた。背筋が真っ直ぐだ。眼鏡の奥の目に、組織の頂点で長く生きてきた者の静けさがある。武装も護衛もない。


 俺は炉の計器から目を離さなかった。


「佐藤渉氏……だな」


「はい。武藤理事ですね」


「時間を取らせて申し訳ない」


 答えなかった。


 武藤はコア室を見回した。壁面のパネル。発電機からの給電ライン。ゴールドが壁際に立っている。それから俺を見た。


「良い施設だ。第八層がこれほど安定しているとは。報告書で読むのとはわけが違う。」


「現場ですから。」


「その現場を、君一人で守っている。」


 俺は計器の数値をもう一列、手帳に書き込んだ。



 武藤がタブレットを取り出した。


「単刀直入に言おう。第八層を、JDAの正式なエネルギー実験区画としたい。管理権をJDAに正式移管してもらう。」


 手帳を閉じた。武藤の方を向いた。


「君が構築した発電システムは、ダンジョンエネルギー自給のモデルケースとして極めて価値が高い。予算と人員を正式に配分する。年俸は現在の三倍。第八層の予算は五倍。必要な資材はJDAの調達網を通じて好きなだけ手に入る。」


 タブレットの数字を見た。確かに大きい数字が並んでいる。


「どうだ。悪い話ではないはずだ。」


「ひとつ、聞いていいですか」


「なんだ」


「管理権をJDAに移した後、発電機の出力調整は誰が決めるんです?」


「それは専門の技術委員会で……」


「委員会の開催頻度は?」


「月に一度……臨時開催も可能だが」


「コアの魔素変動は、分単位で起こります」


 武藤の眉がわずかに動いた。


「昨夜の午前三時十七分、魔素流が通常の一・八倍に急上昇しました。俺はその場で発電機の翼角度を〇・七度調整し、コアへの過負荷を防いだ。委員会や理事会の承認を待っていたら、コアは暴走していました」



 武藤が眼鏡を外してゆっくりと拭き始めた。


「佐藤さん。君の言い分は理解した。現場の速度が必要なことも。だが、考えてみてほしい」


 眼鏡をかけ直した。


「JDAは第八層だけを管理しているわけではない。数百の施設、数千の職員、数百億の予算を扱っている。それらを動かすためには、ルールが必要だ。例外を認めすぎれば、組織は立ち行かなくなる。」


「第八層は例外じゃない。現場です」


「その言葉が、組織にとってどれほど危険か……」


 武藤の声に、初めてわずかな感情が滲んだ。諦念に近い何かだ。


「これまで何人もの現場の天才を見てきた。彼らは皆、ルールを無視し、手続きを軽んじ、組織を足かせと呼んだ。そして彼らがいなくなった後、現場は混乱した。天才がいなければ動かない現場は、組織にとって負債でしかない。」


 俺は窓の方を向いた。第七層の暗がりに、風車の翼が微かに見えた。


「武藤理事」


「なんだ」


「あなたの発電機活用計画。コアへの過負荷リスクは計算していますか?」


「それは技術委員会が——」


「コアの魔素出力は、毎月〇・〇三パーセントずつ低下しています。今の抽出効率のまま規模を拡大すれば、七年から十年で枯渇する。そのデータは先代のマニュアルにあります」


 武藤が黙った。


「JDA全体のエネルギー問題を解決したいなら、抽出効率より先にコアの維持サイクルを見直すべきです。今のペースで使えば、この第八層はいずれ死にます。俺はそれを止めるために、ここにいる」



 二人の間に沈黙が落ちた。


 炉の唸りだけが続いていた。


「……つまり、提案を拒否する、と」


「はい。管理権は渡せません」


「理由は?」


「委員会の承認速度と、コアの変動速度が釣り合わないからです。それだけです」


 武藤はしばらく俺を見ていた。それから微かに笑った。予想通りだったという顔だ。


「そうか」


 立ち上がり、スーツの襟を正した。


「君は自分の正しさを信じている。それは結構なことだ。だがね、佐藤さん。組織の維持のためには、一部の特異点は排除するか、管理下に置くしかない。それが組織の宿命だ。管理を拒否するなら、次は排除の手順に入る」


「排除ですか?」


「残念だが、そういうことだ。」


 武藤は扉に向かった。俺はその背中を見た。


「武藤理事」


 武藤が足を止めた。振り返らない。


「JDAは俺の敵だとは思っていません。石倉さんのような人もいる。ただ、あなたは組織そのものだ」


 武藤がわずかに動いた。


「組織そのもの、か。良い言葉だ」


 振り返った。その顔に、不敵な笑みがあった。


「ならば、次の手が楽しみだ。佐藤渉。君という現場そのものが、私という組織そのものに、どこまで抗えるか。見せてもらおう」


「お好きに。」


 扉が閉まった。



「渉さん……」


 メイの声が静かに聞こえた。


「大丈夫だ、メイ」


「しかし……」


「来るなら来い。俺は止めない。第八層を守るだけだ」


 手帳を開いた。今日の日付を書いた。


「武藤理事・管理権移管の提案→拒否。コア枯渇リスクを提示。理事、次の手を予告」


 一行書き添えた。


「コア七年維持のために、抽出効率の再試算を要する。メイに依頼済」


 手帳を閉じた。


 点検ハンマーを手に取り、炉の外装を叩いた。


 コン。


 均一な音だ。問題ない。


 炉は今日も、変わらず鼓動している。武藤が来ようと、去ろうと、コアはこの音を出し続けていた。それが現場というものだ。


 次の確認箇所へ歩き出した。


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           〈第八十話 了〉

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