第七十話「境界の不法侵入(メンテナンス)」
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第七十話「境界の不法侵入」
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翌朝七時。
廃工場の前に、渉と田中が立っていた。
秋晴れだった。
品川の空は高かった。
「準備はいいか」と田中が言った。
「いいです」
「……今度こそ、いつ帰ってくるんだ」
渉は少し間を置いた。
「点検が終わるまでだ」
「前と同じ答えだな」
「同じ理由です」
◆
田中が床下の入口を開けた。
「俺は地上で待機する。通信は繋げたままにしとく」
「ありがとうございます」
「向こうで何かあったら、勇馬くんから連絡が来るようにしてあるか?」
「してあります。向こうの端末から田中さんのスマートフォンに電波が届くか、実験してあります」
「届くのか?」
「微弱ですが届きます。ノイズが多いですが、聞こえます」
「……俺も、通信で繋がれてるわけだ」
「そうです」
◆
渉は床下に降りた。
コンクリートの匂い。機械油の匂い。先代の装置が放つ、かすかな電気の匂い。
装置の前に立った。
社紋が見えた。
山下解体工業の社紋。
「……行きます」
渉は地上の田中に向けて言った。
「わかった」と田中が答えた。「……達者でな」
「先代と同じことを言いますね」
「先代から聞いた言い方だ。お前に使う日が来るとは思わなかったけど」
◆
渉はスマートフォンを取り出した。
勇馬に通信した。
「聞こえますか」
「聞こえます! 来てくれるんですね!」
「行きます。装置の準備をしてください。今の第八層の状態を教えてください」
「DTSが九時に来ます。今は誰もいません。メイさんと石倉さんが、到着を遅らせる工作をしてくれてます」
「どのくらい遅らせられますか」
「最大で二時間、と石倉さんが言ってます」
「十分です」
◆
渉は装置のスイッチを確認した。
田中が直結してくれた銅線は、今も健全だった。
絶縁テープが巻かれていた。丁寧な仕事だ。
「田中、スイッチを倒してください」
「今か?」
「タイミングは俺が言います。三で」
「わかった」
「勇馬、向こうの装置の準備は」
「できています。レバーに手をかけました」
「三、二、一」
◆
スイッチが倒された。
レバーが引かれた。
装置が起動した。
青白い光が、床下を満たした。
渉は光の中に踏み込んだ。
◆
光が、消えた。
暗い。
次に、空気が変わった。
金属の匂い。石の匂い。かすかにラスペネの匂い。
ヘッドライトが当たった。
第八層だった。
「渉さん!!」
勇馬の声がした。
渉はヘッドライトを向けた。
勇馬が走ってきた。
メモ帳を持って。作業着を着て。
「……来ました」
「来てくれた! ほんとに来た!」
「道具の状態を確認してください。工房のバールとインパクトレンチが使えるかどうか」
「確認済みです。全部使えます」
「ありがとうございます」
◆
渉は装置を見た。
サスペンションは、まだ取り外されていなかった。
ゴールドが壁際に立っていた。
「マスター」
「来ました。待たせました」
「待っていない。しかし……少し待っていた」
「矛盾してますね」
「そうかもしれない」
◆
渉は装置を確認した。
DTSが触れた形跡があった。
ボルトの頭に、傷があった。
左ネジを右に回した傷だ。
ネジ山は崩れていなかった。メイが止めるのが間に合っていた。
「よく止めてくれました」と渉は勇馬に言った。
「メイさんが止めてくれたんです。俺は……正直、焦ってました」
「焦ってても止めたなら、十分です」
◆
渉は工具箱を開けた。
バールを手に取った。
感触が戻ってきた。
二十五年使い込んだバール。
品川で買い直した道具とは違う、この感触だ。
「……戻ってきましたね」
渉は小声で言った。
バールに向かって言ったのか、現場に向かって言ったのか、自分でもわからなかった。
◆
メイが来た。
「渉さん! 石倉さんが二時間稼ぎました。その間に……」
「まず装置の全体確認をします。DTSが触れた部分を全部チェックします。問題があれば修正します。その後、サスペンションが外されないための根拠を作ります」
「根拠?」
「サスペンションを外すとゴールドが消える、という事実を、JDAが無視できない形で記録します。メイさん、論文にできますか、今日中に」
「……今日中に書きます!」
◆
渉は作業を始めた。
DTSが触れた場所を一か所ずつ確認した。
ボルトの頭の傷。
接続端子の微細な汚れ。
ケーブルの引っ張り跡。
全部、記録してメモ帳に書いた。
それから修正した。
パーツクリーナーで汚れを落とした。
ケーブルの引っ張り跡は養生テープで保護した。
一か所ずつ、丁寧に。
◆
作業を続けながら、渉はスマートフォンで田中と通信した。
「聞こえますか、田中」
「聞こえてる。どうだ向こうは」
「無事に着きました。今、確認作業中です」
「良かった。……颯太くんも来てたぞ。廃工場の前に。心配してた」
「そうですか」
「何か伝言があれば」
「ありがとうございます、とだけ伝えてください。サスペンションの件で」
「伝えておく」
◆
二時間後、DTSが第八層に降りてきた。
しかし今度は、三人が先頭に立っていた。
勇馬、メイ、そして渉。
DTSのチームが固まった。
「佐藤……渉氏? 帰還したはずでは……」
「メンテナンスで戻りました」渉は言った。「装置に不具合が出ていたので」
「不具合? 我々の測定では……」
「測定に出ない不具合があります」渉は工具箱を持ち上げた。「今日はここで作業させてもらいます。邪魔しないでください」
◆
DTSのチームが、渉を見た。
作業着。バール。工具箱。
一年半前、第三ダンジョンで伝説になった男と同じ顔だった。
先頭の男が部下に「上に確認する」と言った。
渉はその間も、作業を続けた。
「勇馬、周囲の確認を」
「異常なし」
「メイさん、論文の準備は」
「三十分後に提出できます」
「ゴールド」
「待機中」
◆
渉は作業台の前に立った。
バールを手に持った。
品川の空はあの秋晴れだった。
ここは第八層の金属の壁だ。
でも、同じ現場だ。
「……続きをやります」
◆
DTSのチームが「上から待機命令が来た」と言って、引き上げていった。
石倉がまた書類で動いていた。
渉は装置の最終確認を続けた。
勇馬が隣で作業ノートを書いていた。
メイが論文をまとめていた。
ゴールドが庭を守っていた。
田所がどこかでコーヒーを飲んでいるはずだった。
田中が地上で待っていた。
いつもの現場だった。
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〈第七十話 了〉
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第三部「黒い工務店とJDA内乱編」開幕
【次話予告】
翌日、JDA上層部から直接連絡が来た。
「佐藤渉氏の不法侵入について、法的措置を検討します」
渉はメモ帳を見ながら言った。
「点検記録があります。整備士として、整備対象の状態確認のために来ました。法的に問題ありますか」
石倉が「ありません」と即答した。
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【あとがき・第七十話特別版】
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第七十話、最後までお読みいただきありがとうございました。
第三部「黒い工務店とJDA内乱編」が開幕しました。
「点検が終わるまでだ」という渉の答えは、第二部の帰還シーンからそのまま続くセリフです。最初の転移は偶然でした。二度目は半ば必然でした。そして今回は、完全に意志を持った選択です。「整備士として、壊された現場を直しに行く」という職人の責任感からです。
「達者でな」という田中の言葉。先代が最後の音声ログで渉に言った言葉と同じです。田中はそれを「先代から聞いた言い方だ」と言っています。言葉が、人から人へ渡っていく。これが技術と同じように、職人の世界では起きることです。
「……続きをやります」という渉の一言。この作品で渉が発する言葉の中で、一番好きなセリフかもしれません。品川の現場も、ダンジョンの現場も、全部「続き」なんです。終わった仕事はない。常に、続きがある。
第三部では、JDA上層部との本格的な対立と、現場を守るための全員の戦いが描かれます。引き続きお付き合いいただければ幸いです。
(作者)




