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第七十話「境界の不法侵入(メンテナンス)」

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第七十話「境界の不法侵入メンテナンス

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 翌朝七時。


 廃工場の前に、渉と田中が立っていた。


 秋晴れだった。


 品川の空は高かった。


「準備はいいか」と田中が言った。


「いいです」


「……今度こそ、いつ帰ってくるんだ」


 渉は少し間を置いた。


「点検が終わるまでだ」


「前と同じ答えだな」


「同じ理由です」



 田中が床下の入口を開けた。


「俺は地上で待機する。通信は繋げたままにしとく」


「ありがとうございます」


「向こうで何かあったら、勇馬くんから連絡が来るようにしてあるか?」


「してあります。向こうの端末から田中さんのスマートフォンに電波が届くか、実験してあります」


「届くのか?」


「微弱ですが届きます。ノイズが多いですが、聞こえます」


「……俺も、通信で繋がれてるわけだ」


「そうです」



 渉は床下に降りた。


 コンクリートの匂い。機械油の匂い。先代の装置が放つ、かすかな電気の匂い。


 装置の前に立った。


 社紋が見えた。


 山下解体工業の社紋。


「……行きます」


 渉は地上の田中に向けて言った。


「わかった」と田中が答えた。「……達者でな」


「先代と同じことを言いますね」


「先代から聞いた言い方だ。お前に使う日が来るとは思わなかったけど」



 渉はスマートフォンを取り出した。


 勇馬に通信した。


「聞こえますか」


「聞こえます! 来てくれるんですね!」


「行きます。装置の準備をしてください。今の第八層の状態を教えてください」


「DTSが九時に来ます。今は誰もいません。メイさんと石倉さんが、到着を遅らせる工作をしてくれてます」


「どのくらい遅らせられますか」


「最大で二時間、と石倉さんが言ってます」


「十分です」



 渉は装置のスイッチを確認した。


 田中が直結してくれた銅線は、今も健全だった。


 絶縁テープが巻かれていた。丁寧な仕事だ。


「田中、スイッチを倒してください」


「今か?」


「タイミングは俺が言います。三で」


「わかった」


「勇馬、向こうの装置の準備は」


「できています。レバーに手をかけました」


「三、二、一」



 スイッチが倒された。


 レバーが引かれた。


 装置が起動した。


 青白い光が、床下を満たした。


 渉は光の中に踏み込んだ。



 光が、消えた。


 暗い。


 次に、空気が変わった。


 金属の匂い。石の匂い。かすかにラスペネの匂い。


 ヘッドライトが当たった。


 第八層だった。


「渉さん!!」


 勇馬の声がした。


 渉はヘッドライトを向けた。


 勇馬が走ってきた。


 メモ帳を持って。作業着を着て。


「……来ました」


「来てくれた! ほんとに来た!」


「道具の状態を確認してください。工房のバールとインパクトレンチが使えるかどうか」


「確認済みです。全部使えます」


「ありがとうございます」



 渉は装置を見た。


 サスペンションは、まだ取り外されていなかった。


 ゴールドが壁際に立っていた。


「マスター」


「来ました。待たせました」


「待っていない。しかし……少し待っていた」


「矛盾してますね」


「そうかもしれない」



 渉は装置を確認した。


 DTSが触れた形跡があった。


 ボルトの頭に、傷があった。


 左ネジを右に回した傷だ。


 ネジ山は崩れていなかった。メイが止めるのが間に合っていた。


「よく止めてくれました」と渉は勇馬に言った。


「メイさんが止めてくれたんです。俺は……正直、焦ってました」


「焦ってても止めたなら、十分です」



 渉は工具箱を開けた。


 バールを手に取った。


 感触が戻ってきた。


 二十五年使い込んだバール。


 品川で買い直した道具とは違う、この感触だ。


「……戻ってきましたね」


 渉は小声で言った。


 バールに向かって言ったのか、現場に向かって言ったのか、自分でもわからなかった。



 メイが来た。


「渉さん! 石倉さんが二時間稼ぎました。その間に……」


「まず装置の全体確認をします。DTSが触れた部分を全部チェックします。問題があれば修正します。その後、サスペンションが外されないための根拠を作ります」


「根拠?」


「サスペンションを外すとゴールドが消える、という事実を、JDAが無視できない形で記録します。メイさん、論文にできますか、今日中に」


「……今日中に書きます!」



 渉は作業を始めた。


 DTSが触れた場所を一か所ずつ確認した。


 ボルトの頭の傷。


 接続端子の微細な汚れ。


 ケーブルの引っ張り跡。


 全部、記録してメモ帳に書いた。


 それから修正した。


 パーツクリーナーで汚れを落とした。


 ケーブルの引っ張り跡は養生テープで保護した。


 一か所ずつ、丁寧に。



 作業を続けながら、渉はスマートフォンで田中と通信した。


「聞こえますか、田中」


「聞こえてる。どうだ向こうは」


「無事に着きました。今、確認作業中です」


「良かった。……颯太くんも来てたぞ。廃工場の前に。心配してた」


「そうですか」


「何か伝言があれば」


「ありがとうございます、とだけ伝えてください。サスペンションの件で」


「伝えておく」



 二時間後、DTSが第八層に降りてきた。


 しかし今度は、三人が先頭に立っていた。


 勇馬、メイ、そして渉。


 DTSのチームが固まった。


「佐藤……渉氏? 帰還したはずでは……」


「メンテナンスで戻りました」渉は言った。「装置に不具合が出ていたので」


「不具合? 我々の測定では……」


「測定に出ない不具合があります」渉は工具箱を持ち上げた。「今日はここで作業させてもらいます。邪魔しないでください」



 DTSのチームが、渉を見た。


 作業着。バール。工具箱。


 一年半前、第三ダンジョンで伝説になった男と同じ顔だった。


 先頭の男が部下に「上に確認する」と言った。


 渉はその間も、作業を続けた。


「勇馬、周囲の確認を」


「異常なし」


「メイさん、論文の準備は」


「三十分後に提出できます」


「ゴールド」


「待機中」



 渉は作業台の前に立った。


 バールを手に持った。


 品川の空はあの秋晴れだった。


 ここは第八層の金属の壁だ。


 でも、同じ現場だ。


「……続きをやります」



 DTSのチームが「上から待機命令が来た」と言って、引き上げていった。


 石倉がまた書類で動いていた。


 渉は装置の最終確認を続けた。


 勇馬が隣で作業ノートを書いていた。


 メイが論文をまとめていた。


 ゴールドが庭を守っていた。


 田所がどこかでコーヒーを飲んでいるはずだった。


 田中が地上で待っていた。


 いつもの現場だった。


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           〈第七十話 了〉

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    第三部「黒い工務店とJDA内乱編」開幕


【次話予告】

 翌日、JDA上層部から直接連絡が来た。

 「佐藤渉氏の不法侵入について、法的措置を検討します」

 渉はメモ帳を見ながら言った。

 「点検記録があります。整備士として、整備対象の状態確認のために来ました。法的に問題ありますか」

 石倉が「ありません」と即答した。



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【あとがき・第七十話特別版】

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 第七十話、最後までお読みいただきありがとうございました。


 第三部「黒い工務店とJDA内乱編」が開幕しました。


 「点検が終わるまでだ」という渉の答えは、第二部の帰還シーンからそのまま続くセリフです。最初の転移は偶然でした。二度目は半ば必然でした。そして今回は、完全に意志を持った選択です。「整備士として、壊された現場を直しに行く」という職人の責任感からです。


 「達者でな」という田中の言葉。先代が最後の音声ログで渉に言った言葉と同じです。田中はそれを「先代から聞いた言い方だ」と言っています。言葉が、人から人へ渡っていく。これが技術と同じように、職人の世界では起きることです。


 「……続きをやります」という渉の一言。この作品で渉が発する言葉の中で、一番好きなセリフかもしれません。品川の現場も、ダンジョンの現場も、全部「続き」なんです。終わった仕事はない。常に、続きがある。


 第三部では、JDA上層部との本格的な対立と、現場を守るための全員の戦いが描かれます。引き続きお付き合いいただければ幸いです。


                   (作者)

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