第六十五話「二つの世界、最後の一締め」
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第六十五話「二つの世界、最後の一締め」
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全ての作業が終わった翌朝。
渉は工房を片付けた。
使った道具を全部拭いた。
定位置に収めた。
ラスペネ、パーツクリーナー、ラチェットセット、バール(大・中・小)、インパクトレンチ、精密はんだごて、ノギス、トルクレンチ。
一つずつ、丁寧に。
工房の棚が、整然と並んだ。
◆
全員が工房に集まった。
リーニャ、メイ、フィオナ、勇馬、ゴールド、バラム、田所、石倉。
今日、石倉がここに来たのは初めてだった。
「来てもいいと言ってもらったので」と石倉は言った。
「どうぞ」と渉は言った。
◆
渉は全員を見た。
「最終確認をします。帰還装置の起動条件は全て満たされています。振動吸収も取り付けました。地上側の田中との同期も準備できています」
全員が静かに聞いていた。
「帰還装置を使います」
◆
リーニャが少し前に出た。
「……渉さん、一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「帰ったら、どうするんですか」
渉は少し考えた。
「品川に戻って、田中と焼き肉を食べます」
リーニャが「それだけですか」という顔をした。
「それから、仕事を探します」
「解体の仕事ですか」
「できれば、そうしたいです」
◆
メイが手帳を閉じた。
「……一つ、頼みがあります」
「なんですか」
「バックアップ室のマニュアルを、もう一冊書いてもらえませんか。次に誰かが来た時のために」
「俺が書くんですか」
「先代が書いたように。渉さんが整備した内容を、全部」
渉は少し考えた。
「向こうに帰ってから、送ります。田中が届けてくれます」
「ありがとうございます」
◆
勇馬が渉に近づいた。
「……最後に、一つ教えてください」
「なんですか」
「俺が、一人前の整備士になるには、あと何年かかりますか」
渉はしばらく考えた。
「整備士に一人前という区切りはないです。二十五年やっても、まだわからないことがある」
「じゃあ、どうすれば」
「毎日、現場に出てください。道具を手入れしてください。音を聞いてください。それだけです」
「……それだけですか」
「それだけです」
勇馬がメモ帳に書いた。
渉はその姿を見た。
自分が若い頃、先代に言われたことをメモした、あの頃の自分に少し似ていた。
◆
田所がコーヒーを渡した。
「……最後に飲んでいってください」
「ありがとうございます」
渉はコーヒーを受け取って、一口飲んだ。
旨かった。
いつも田所が入れるコーヒーは、旨かった。
「田所さん、空調のフィルターは来週換えてください。今週交換時期が来ます」
「……そんな話をしてる場合ですか」
「大事なことです」
「わかりました。やります」
「冷媒の量も確認してください。先月少し下がってた」
「わかりました。それも」
「以上です」
田所が少し笑った。
「……渉さんらしい遺言ですね」
◆
バラムが渉の前に来た。
「お前と作業して、面白かった」
「俺もです」
「もし向こうで困ったことがあれば、どうにかして来る」
「向こうには来られないですよ」
「来る方法があるかもしれない。それを探すのが楽しいかもしれない」
渉は少し笑った。
「バラムさんなら、見つけそうですね」
◆
ゴールドが最後に近づいた。
「マスター」
「なんですか」
「我は、ここにいる。マスターが帰った後も、ここの現場を守る」
「頼みます」
「任せろ」
ゴールドが頭を垂れた。
渉はゴールドを見上げた。
最初に見た時から、この三メートルの金属の巨人は変わっていない。
でも渉の見え方が変わった。
最初は「整備対象」だった。
今は、「仕事仲間」だった。
◆
渉はスマートフォンを取り出した。
「田中、最終確認をします。準備はできましたか」
「できてる。手が震えてるのはいつものことだから大丈夫」
「地上側の装置は異常ないですか」
「昨日確認した。問題なし」
「ヒューズの予備は」
「三本持ってる」
「わかりました。俺がカウントを出します。三で同時に引いてください」
「……わかった」
◆
田中が少し間を置いてから言った。
「佐藤さん」
「なんですか」
「……また会おうな」
渉は少し間を置いた。
「また会います。焼き肉の約束が残ってます」
「忘れるなよ」
「忘れません」
◆
渉は品川ナンバーを手に取った。
品川 530 あ 12-34。
ウエスで、一度だけ拭いた。
それから、工房の棚に置き直した。
ここに、残していく。
次に誰かが来た時のために。
先代が残したように。
◆
渉は帰還装置のレバーの前に立った。
バールを一本だけ持っていた。
二十五年使い込んだやつだ。
「いきます」
渉は全員を見た。
全員が、渉を見ていた。
「三、二、一」
◆
レバーを引いた。
地上で、田中がスイッチを倒した。
装置が唸り始めた。
コイルスプリングが振動を吸収した。
第八層が、青白い光に包まれた。
渉は目を細めた。
◆
その時、スマートフォンから田中の声が聞こえた。
「佐藤さん! 業者がドアをぶっ壊して入ってきた! でもまだレバーは離さねえぞ!」
「よくやった。もう五秒持たせろ」
「五秒ならいける!」
◆
五秒後。
「今だ、引け!」
田中がレバーを引き切った。
装置の光が、最大になった。
「田中、離れてください!」
「離れた! 佐藤さん、ちゃんと帰ってこいよ!」
◆
光の中で、渉はバールを握り締めた。
工房が、仲間の顔が、ゴールドの黄金色が、遠くなっていった。
リーニャが「また……」と何か言った。
その先が聞こえなかった。
メイが手帳を持ったまま、目を閉じていた。
勇馬がメモ帳を握り締めていた。
◆
光が、消えた。
◆
暗い。
次に、空気が変わった。
コンクリートの匂い。
埃の匂い。
機械油の匂い。
懐中電灯の光が当たった。
「……佐藤さん」
田中の声だった。
「来たよ。お前、来たよ!」
渉は目を開いた。
品川の廃工場の床下だった。
天井が低い。コンクリートの床。
田中が懐中電灯を持って、渉を見ていた。
◆
渉は起き上がった。
手にバールを持っていた。
「……来ましたね」
「来た! 本当に来た!」田中が声を震わせた。「どうだった、向こうは」
「良い現場でした」
「どのくらいいたんだ」
「一年半くらいです」
「……一年半」
◆
渉は立ち上がった。
腰を叩いた。
ちょっと痛かった。
「床下は腰に来ますね」
「佐藤さん、帰ってきて最初の一言がそれか!」
「事実です」
田中が笑った。
渉も、少しだけ笑った。
◆
床下から出ると、外に田中の車があった。
秋の空が広がっていた。
品川の空だった。
渉はしばらく、空を見た。
向こうでも、同じ空を見た。
薄い膜一枚を挟んだだけの、同じ空だ。
「……腹が減りました」
「焼き肉、今夜でいいか」
「今夜でお願いします」
「一番いい店を予約してある」
「ありがとうございます」
◆
田中の車が走り出した。
品川の街が流れていった。
渉はシートに背を預けて、目を閉じた。
向こうの工房の棚に、品川ナンバーが立ててある。
バックアップ室のマニュアルの隣に、コクヨのノートがある。
ゴールドが庭を守っている。
勇馬がメモ帳を持って、現場に出ている。
メイが論文を書いている。
リーニャが探索者として、今日も働いている。
田所がコーヒーを飲みながら、報告書を書いている。
石倉が書類で現場を守っている。
バラムが次の依頼品を削っている。
全部、現場だ。
全部、続いている。
「……いい現場だったな」
渉は小声で言った。
車が品川の街を走り続けた。
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〈第六十五話 了〉
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第二部「二つの品川・同期編」完
【次話予告】
第三部「黒い工務店とJDA内乱編」開幕。
品川に戻った渉の元に、勇馬からメッセージが来た。
「渉さん、JDA本部から業者が来てます。前より悪いやつです」
渉はコーヒーを一口飲んで立ち上がった。
「……また現場が荒れてるのか」
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【あとがき・第六十五話特別版】
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第六十五話、最後までお読みいただき、ありがとうございました。
第二部「二つの品川・同期編」、これで完結です。
今回の最大の見せ場は「田中、業者がドアをぶっ壊して入ってきた!でもまだレバーは離さねえぞ!」という叫びでした。渉より技術はない。プロの探索者でもない。でも信じて、離さない。それが田中という人間の強さです。そしてそれが、渉の帰還を可能にした。
品川ナンバーを「ここに残していく」という決断。先代がノートを残したように、渉も次の誰かのために、自分の痕跡を置いていく。これが職人の仕事の継承です。
「いい現場だったな」という最後の言葉。渉がダンジョンをそう呼んだのは、この一言が初めてです。最初は「仕事の場所」でした。それが一年半かけて「現場」になった。その変化を、最後の一言に込めました。
帰還直後の「腰に来ますね」というセリフも、渉らしい一言だと思っています。世界を救って帰ってきた直後に、腰の痛みを言う。それが佐藤渉です。
第三部では、ダンジョンに戻った渉と、品川から支援する渉の両軸で物語が動きます。次もお付き合いいただければ幸いです。
(作者)




