第四十話「現場の裁量、帰還の権利」
翌朝。
カルロスとディルクが帰る準備をしていた。
馬が管理棟前に用意されていた。
渉が工房のシャッターを開けていると、カルロスが来た。
「少し、いいか」
「どうぞ」
「一つ頼みがある」
「何ですか」
カルロスは腰の剣を外した。
渉に差し出した。
「……この剣の、調子が悪い。見てくれるか」
◆
渉は剣を受け取った。
鞘ごと受け取って、まず重さを確認した。
鞘から抜かずに、柄を握ってみた。
少し動かした。
「柄の部分ですか」
「そうだ。抜く時に、引っかかりを感じる。半年前からだ」
渉は鞘の口の部分を見た。
内側を指で触れた。
「ここが少し変形しています。鞘の素材が湿気で歪んだか、あるいは当たり続けて摩耗した。剣を抜く時に、刀身の一部がここに触れている」
「直せるか」
「俺の専門外ですが、バラムさんに頼めばすぐ直ります」
◆
バラムを呼んだ。
バラムが鞘を見て、「十分で直る」と言った。
変形した箇所を専用の工具で押し広げて、内側を研磨する。
渉はバラムの作業を横で見ながら、カルロスに言った。
「こういうのは早めに直した方がいいです。放置すると刀身が傷む」
「……特務部では、装備の整備は専任の者がいる。しかしこういう細かい不具合は、見落とされることが多い」
「定期的に自分で確認するのがいいです。使う人間が一番、変化に気づける」
「あなたは、自分の道具を自分で整備するか」
「全部、自分でやります」
◆
バラムが鞘を渉に返した。
「終わった」
渉がカルロスに渡した。
カルロスが剣を抜いた。
すっと、音もなく抜けた。
カルロスが少し目を細めた。
「……きれいに動く」
「当然だ」とバラムが言った。
カルロスは剣を鞘に戻した。
渉を見た。
「礼を言う」
「バラムさんに言ってください」
「あなたにも言う」
◆
カルロスが少し間を置いた。
「……報告書を書き換える。装置の状態と、接収・破壊が困難な理由を正確に記載する。渉殿が安全な管理を行っているという評価も入れる」
「ありがとうございます」
「上がどう判断するかは、わからない。しかし少なくとも、現場の事実は伝える」
「それで十分です」
「……あなたは、なぜそれで十分なんだ」
「事実を伝えてもらえれば、あとは上の判断です。俺にできることは現場を正確に管理することで、上の判断に介入することじゃない」
◆
ディルクが馬の横で待っていた。
カルロスが向かおうとして、足を止めた。
振り返った。
「一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「帰還装置は、使う気があるか」
渉は少し考えた。
「直したことは後悔していません。壊れていたから直した。それが最初の理由です」
「使うかどうかは」
「まだ決めていません」
「なぜ」
渉は管理棟の方を見た。
田所がガラス越しにこちらを見ていた。
視線を感じたのか、コーヒーを持ち上げて目をそらした。
「今の現場を離れる理由が、まだない。それだけです」
◆
カルロスは何も言わなかった。
馬に乗った。
ディルクも乗った。
カルロスが手綱を持ちながら、最後に言った。
「……良い現場を」
「ありがとうございます」
二人が去っていった。
◆
その夜。
渉はリーニャ、メイ、フィオナと夕食を食べた。
バラムも珍しく来た。
田所が「今日は特別に私も」と言って、席に加わった。
ゴールドは庭に立っていた。
食事が進んで、話がひと段落した頃、渉は工房に一度戻った。
棚のナンバープレートを手に取った。
品川 530 あ 12-34。
ウエスで一度拭いた。
帰ることを諦めたわけじゃない、と思った。
ただ、帰る時に「あの頃より腕が落ちた」では話にならない。
バラムの工房で教わったこと。メイと何度も失敗して作ったはんだごて。ゴールドの関節の感触。帰還装置の基板に流したハンダの手応え。
全部、向こうに持って帰れる技術だ。
帰るためにも、今の現場で腕をなまらせるわけにはいかない。
だから今はまだ、ここにいる。
それだけだった。
渉はナンバープレートを棚に戻した。
◆
帰還する権利が手に入った。
バイパスを解除すれば、装置は動く。
鍵は自分が持っている。
しかし今夜は、それだけでいい。
食卓に戻ると、バラムがメイに何かを言っていて、メイが困った顔をしていた。フィオナが笑っていた。リーニャが渉を見て、少し表情を緩めた。
「どうでした」
「ナンバープレートを拭きました」
「……それだけですか」
「それだけです」
◆
食後、渉は工房で道具の手入れをした。
バールを磨く。
インパクトレンチを確認する。
精密はんだごてのコテ先を清掃する。
帰還装置は、壁の中で静かに待機している。
鍵は、ポケットの中にある。
渉はトルクレンチを手に取った。
カチッ。
いつもの音が、工房に小さく響いた。
今の現場を離れる理由が、まだない。
それだけだった。
それだけで、今夜は十分だった。
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〈第四十話 了〉
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現在全話を修正中のため、41話の更新は3月29日の9時以降になります。




