第四十一話 それでも、隣に
眩しい光が消えて、次に目を開けたとき。
最初に感じたのは――静けさだった。壊れた研究室。崩れた壁。乾ききらない血の匂い。
すべてがそのままなのに、あのときの緊張だけが嘘みたいに消えていた。
「……エディアス。」
腕の中に視線を向ける。彼は、すぐそこにいる。
静かに目を閉じていて、呼吸はとても穏やかだった。傷もちゃんと癒えている。
生きている。
その事実に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
少しだけ躊躇ってから、私はその頬に優しく触れた。
――何も、変わらない。今は、ただの温もりだけがそこにある。
「……よかった。」
零れた言葉は、驚くほど穏やかだった。それでいいと、思えたから。
彼の頬に水滴が一つ落ちた。私の涙だと気づくのに時間はかからなかったが、どんどん零れて止まらなかった。
しばらくして、エディアスがゆっくりと目を開ける。焦点の合わない視線が、やがてこちらを捉えた。
「……セレン。」
かすれた声で、私のことを呼んでいる。
「起きたのね。」
震えた声でそう返すと、彼はほんのわずかに息を吐いた。それから、私の頬に無骨な手が触れる。お互いの頬に触れ合う形になった。
沈黙が落ちる。不思議と、居心地の悪さはなかった。
ただ――少しだけ、距離が変わった気がした。
人魚と人間の感覚が違うせいだろうか。前よりも遠くて。でも、前よりも確かで。
「……無事か。」
「ええ。」
短いやり取り。それだけなのに、ちゃんと通じているとわかる。それが、少しだけ嬉しかった。
エディアスが、ゆっくりと身体を起こす。その動きに、思わず手を伸ばしかけて――止めた。
彼もまた、何も言わなかった。
けれど、一瞬だけ視線が交わる。それだけで、十分だった。
◇◇◇
外に出ると、空はひどく澄んでいた。既に朝日が昇った後で、小鳥のさえずりが聞こえる。
アレスは――後から来た近衛兵によって連行された。もう抵抗する気力すら残っていなかったらしく、ぐったりと項垂れていた。
これで本当に、何もかもが終わったのだ。
風が吹いて、私の髪が揺れる。
私はもう一度だけ、試すように小さく息を震わせる。
――やはり、何も起きない。
水は、もう応えてくれない。その事実に少しだけ、胸が痛んだ。
けれど、それでもいいの。
もう、特別な力は何もない。彼に何かを与えることもできないし、直接何かを感じ取ることもできない。
でも、隣にいることをちゃんと知っている。
「……ねえ、エディアス」
私の呼びかけに、彼がこちらを見る。
「私ね、やっぱり――」
一度、言葉を飲み込んだ。それでも、今度は迷わなかった。
「貴方のことが、好きよ。」
返事は、すぐには返ってこなかった。けれど。
「……ああ」
それだけで、よかった。
◇◇◇
同じ場所で、同じように息をして。
同じ景色を見て、同じ時間を歩んでいく。
私はもう、人魚ではない。ただの――人間のセレンだ。
それでも、この手で選んだこの道を、後悔することはきっとない。
隣には、愛する彼がいる――それが、何よりも私の心を満たしていた。




