第四十話 愛してる
薄く、目を開けた。視界が安定しておらず、ぐにゃぐにゃと回っている。呼吸も落ち着いていて、苦しさはなにもない。
ぼんやりした頭で横を見ると、そこにはエディアスが座っていた。
「エディアス……」
「セレン……起きたのか。」
彼はいつも通りの無表情で私を見ていた。でも、アイスラベンダーの双眸だけが、動揺を隠せずに揺れていた。
私の頬に、エディアスの大きな手が触れた。
――なのに。
(何かが違う。)
いつも、彼に触れるだけでわかる"何か"が、感じられない。私の気持ちは変わっていないのに、何故か彼との間に壁が作られたような、そんな感覚だけがある。
「……なんで?」
私が呟いた疑問に、エディアスは何も答えなかった。きっと、聡い彼なら私の言葉の意味はわかっているはずだ。
なのに、エディアスは、何も言わなかった。ただ、わずかに視線を逸らす。それだけで、胸の奥がひどく冷えた。
どうして。
そう問いかけるより先に――
空気が、歪んだ。
「――っ!」
反射的に顔を上げる。
壊れた研究室の奥。瓦礫の影が、ゆらりと揺れた。
次の瞬間。
黒い何かが、一直線にこちらへ走る。
速い。目で追えないほどに。
――狙いは、私。
理解した時には、もう遅かった。身体が、動かない。
「――下がれ」
けれど、低い声がすぐそばで確かに聞こえた。
視界が遮られる。
私と“それ”の間に、エディアスの背中が割り込んだ。
鈍い音が響いて、私の頬に何かが飛んだ。
「……え」
一拍遅れて、理解する。
彼が、私を庇ったのだと。
エディアスの身体がわずかに揺れて、そのまま片膝をついた。
床に赤が落ちていき、染みを大きくしていく。
「エディアス……!?」
咄嗟に手を伸ばす。
けれど、その瞬間――
歌わなければ、と。力を使わなねば、そう思った。
喉が震える。音が、零れる。
――何も、起きない。
「……なんで」
水も反応している。空気だって揺れている。なのに、彼の傷は治らなかった。
ただ、か細い声だけが虚しく消えていく。
エディアスに、届いていない。
そう理解した瞬間、背筋が凍った。
「……やっと、だ」
くぐもった声が奥から響いてくる。ゆっくりと、影が姿を現した。
アレスだった。
その瞳は、焦点が合っていない。けれど、確かにこちらを――いや、“私だけ”を見ている。
「君が、欲しいんだよ」
歪んだ笑み。
けれどその言葉は、どこか空虚で。誰にも届かないものを、必死に掴もうとしているみたいだった。
「……来るな」
エディアスが、低く告げる。
立ち上がろうとするが、血が止まらない。
傷は深くて、呼吸も不安定なのに。
それでも前に出ようとする、その背中が。
どうしようもなく、遠い。
「僕を見て、僕だけを見てよ。」
アレスは今ので魔力を使い切ったのか、血液が足りなくなったようだった。それでも、私に向かってくる。
「アレス。愛がなんなのか、貴方は分かっていないでしょう。」
「分かっているさ! 僕の気持ちは本物だ!」
私に触れようとするアレスの手を叩いた。
「愛はね、お互いの気持ちが通じ合って初めてそう呼べるのよ。」
私は何か言おうとしたアレスに重ねるように続ける。
「相手の気持ち、考えたことはある? ちゃんと向き合ったことはある?」
「あ、あ……」
「……一生、わからないでしょうね。」
皮肉な話だ。私だって、カノン姉様がこの男に連れ去られなかったら、こんなに素敵な愛を知らなかった。
「アレス。貴方は、もう誰にも愛されないわ。」
その言葉が静かに落ちた瞬間、アレスの瞳が大きく揺れた。
何かを言おうとして、言葉にならない声だけが漏れる。伸ばされた手が、宙を掴む。
誰にも届かないそれは、あまりにも空虚で――
やがて、崩れるようにその場に膝をついた。
もう、終わった。そう思ったのに。
「……っ」
背後で、微かな音がした。
私は勢いよく振り返る。
エディアスの呼吸が、明らかに浅くなっていた。血は止まらず、床へどんどん広がっていく。
「エディアス……!」
駆け寄って、頬にそっと触れた。
冷たい。
こうしている間にも、彼の体温がどんどん奪われていく。
咄嗟に、もう一度喉を震わせる。願いを込めて歌ってみる。けれど、何も起きなかった。
「どうして……」
わかっている。もう、わかってしまった。
彼には、私の力は届かない。それが、代償なのだと。
その時、視界の端に小さな光が映った。
――鱗。
最後の一枚が、転がった瓶の中にぽつんと残されていた。ゆっくりそれを拾い上げると、手の中で淡く光を放った。
これを使えば私は――きっと、人魚ではいられなくなる。
海にも帰れない。ただの人間になってしまえば、何もなくなる。もう彼の隣にも立てないかもしれない。
それでも。
視線を落とす。苦しそうに呼吸をするエディアスの姿が見える。
私を庇って、何も言わずに、ただ前に立って。
「ずるいわ。」
こんなの、選べるはずがないじゃない。
私は小さく息を吸った。
「……エディアス」
彼の名前を呼んだ。
意識はもうほとんどない。それでも、構わなかった。
ちゃんと、伝えたかったから。これが私の出した、たった一つの答えだから。
「――愛してる」
静かに、言葉を紡いだ。
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
同時に、鱗が眩しいほどに強く光る。
水の気配が一気に膨れ上がって――次の瞬間には、消えた。
音もなく、跡形もなく。
すべてが、消えた。
身体の奥から、何かが抜け落ちていく感覚があった。ずっと当たり前にあったものが、静かに、確実に。
――もう、戻れない。それでも。
私の腕の中で、エディアスの呼吸が次第に戻っていく。浅かったそれが、ゆっくりと、確かに。
深い傷も、鱗の力で塞がっていく。
助かった。
その事実に、ようやく息を吐く。
けれど、喉に違和感が残ったままだった。
私は試すように、息を震わせて声を出す。
――何も、起きない。水も、空気も、もう応えなかった。
ただの、声。それだけが、残ったのだ。
少しだけ、寂しいと思った。でも、腕の中の温もりは、確かにここにある。
「……エディアス」
もう一度、名前を呼ぶ。今度は、はっきりと。
ただの――人間のセレンの声で。
それでも、その名前だけは何よりも大切に響いた。




