第三十九話 生きてくれ
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セレンの鱗が示す方向へと向かい、小屋の地下階段を下っていた。やっと部屋の入り口が見えたが、目の前に広がっている光景に、一瞬だけ思考が止まった。
崩壊した研究室。割れた水槽から溢れた水が床を濡らし、魔道具は無残に砕け散っている。
そして――
「……セレン。」
椅子にもたれかかるようにして、ぐったりと力を失っている彼女の姿。それを見た瞬間に、足が動いていた。
大きな歩幅で駆け寄って、彼女の状態を確認していく。
呼吸は浅く、今にも途切れそうだ。体温も異様に低く、まるで真冬の海に浮かぶ氷のようだった。
遅かったか――そんな考えが頭を過る。
だが。
「……まだだ。」
小さく、吐き捨てるようにそう呟いた。
視線を横に向けると、アレスが床に倒れているのを見つけた。意識はないが生きているらしい。
どうでもいい。今優先すべきは一つだけだ。
再びセレンに視線を戻す。微かに上下する胸。だが、それも限界が近い。
――選べ。
頭の奥で、冷静な声が響く。
気づけば、俺はセレンから渡された小瓶を出していた。中には淡く光っている鱗が二枚入っている。
これを使えばどうなるか、それはとっくに理解している。
代償は軽くない。寧ろ、取り返しがつかなくなる可能性がある類のものだ。
それでも。
目の前で消えかけている彼女を――愛する人を前にして、迷う理由などなかった。
「選ぶまでもない。」
俺は小瓶の蓋を開けて、鱗を一枚取り出した。静かに脈打つそれは、まるで生きているようだった。
「これで最後じゃない。だが――」
言葉はそこで途切れて。続ける必要もなかった。
そっと、セレンの胸元へと鱗を触れさせる。その瞬間に、光がパチパチと弾けた。
柔らかな水のような七色の輝きが、彼女の身体を包み込んでいく。まるで広い海そのものが、この場に現れたかのように。
冷え切っていた指先に、わずかな熱が戻る。浅かった呼吸が、少しずつ、確かに整っていく。
――間に合う。
確信した、その時。
「……っ」
胸の奥に違和感が走った。何かが綺麗に削ぎ落とされたような感覚。
けれど、それが何なのかを確かめる前に、光はゆっくりと収束していく。
やがて、この部屋に静寂が戻った。
俺の腕の中で、セレンの呼吸は既に安定していた。もう、さっきのような危うさはない。
助かった。
その事実だけを確認して、長く息を吐いた。
だが――
胸の奥に残った“空白”は、消えなかった。
それが何を意味するのか。今はまだ、考えない。
ただ一つ確かなのは、この選択に後悔はないということだけだった。
俺は、"セレン"を愛している。守るだけじゃ足りない、ずっと側にいてほしいと願ってしまった。
傲慢だ、と言ってくれて構わない。後で俺を思い切り叱ってくれ。
だから、頼む。
「……生きてくれ。」




