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第三十八話 貴方に会いたい



 研究室に再び静寂が訪れた。

 

 水槽は割れて水が溢れている。魔道具は全て破損していて、床や壁にヒビが入っていた。


 そんな中、私は目を覚ました。身体から熱が抜け落ちたみたいに寒くて、まるで深海に沈められたみたいだった。


 椅子に縛り付けられた手首が痛い。少し身を捩ると、先ほどの歌で縄が緩んでいたようで、するりと縄から手を抜くことができた。


 喉が痛い。とても痛い。鮫の鋭い歯に噛まれているような、それよりももっと酷いような、激しい痛みが私を襲う。


 全身が震えていて、呼吸も苦しくて。肺が限界だと、悲鳴を上げている。


 私は霞む視界の中に、薄い金色を見つけた。


 彼は――アレスは床に倒れて気を失っている。至近距離で私の歌を聞いたのだから、意識がある方がおかしい話だが。


「私からの贈り物よ。」


 破滅の歌、とでも名付けようか。


 身を滅ぼすほどの力を使ったこの歌は、きっと彼の構造を根本から変えてしまっただろう。


 薄々気づいていた。私――人魚姫の末裔には、他にはない力があると。世界を書き換えてしまえるほどの。


 歌で彼に干渉した際に、知ってしまった。彼は、人魚姫をどのみち殺すつもりだったことを。


 彼の愛は狂っている。人魚という存在が欲しくてたまらないのだ。頂点である人魚姫を食べて、一つになりたいと思うほどに。


 悪意などない、壊れていながら純粋。それがアレスという男だった。


「……う、ごほっ!」


 呼吸もままならなくなってきて、指先から始まり感覚がどんどんなくなっていく。自分の四肢がなくなっていくみたいに。


 彼から"愛されること"を奪った。アレスの人魚姫の血は取り除いた。死ぬまで、誰からも愛されることはない。


 少し、かわいそうだとは思った。それでも、彼のしたことには罰を与えなければならない。それ相応の報いを。


 ああ、とうとう呼吸もままならなくなってきた。私も限界が近いみたい。


 最後に、会いたかった。


 まだ、はっきりと気持ちを伝えられていないし、曖昧なまま終わりたくないわ。


 でも、言えない。魔女の約束をまだ覚えているから。


『愛を伝えてしまえば、人魚には戻れない。』


 ここでは言えない。ちゃんと、面と向かって言いたいの。


 最初はカノン姉様を奪った人間たちが大嫌いだった。でも、貴方に出会ってから私は変わった。


 貴方に触れるたび、私は何も知らなかったのだと理解したわ。人間は手のひらがあたたかいこと、笑顔を見ると嬉しくなること――それから、色々な愛の形のこと。


 貴方を見ると、とても不思議な気持ちになるの。


 上手く言葉にできないけれど、それほど複雑で、素敵な気持ち。


 カノン姉様への気持ちとは、全く違うもの。


 ああ、貴方に会いたい。


 エディアス、貴方に会いたいわ。


 


 ――コツ、コツ。


 静まり返っていた研究室に、不意に足音が響いた。重くて迷いのない音が、こちらへ向かってきている。


 誰かが、来る。


 ぼやけた視界の中で、壊れた扉の向こうに影が落ちた。逆光で顔がよく見えない、けれど――


「見つけた。」


 低くて、鼓膜を優しく撫でていくような落ち着いた声。今は少し抑えられているけれど、聞き間違えるはずがなかった。


「エディ、アス……」


 名前を呼んだ瞬間に、張り詰めていた糸が切れる。


 ああ、最後に会えた。間に合った。


 そのまま、私の意識は深海よりも深い、底のない闇へ――静かに落ちていった。


  


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