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第三十五話 確かめたい



 夜風の隙間を縫うように進んでいく。寝巻きで外にいるのに寒くない。背中にあるアレスの手には温度があり、それが不気味でたまらなかった。


 アレスは魔法を使っているのか、はたまた人魚の力を奪ったものなのか。空中で水面を跳ねるように飛んでいく。軽やかで、揺れ一つない。星空が私の心とは対照的に、きらきらと瞬いていた。


 やがてたどり着いたのは、ファンシュバキア王国の国境の近くであろう森。暗く鬱蒼としていて、湿気が肌にまとわりついた。


「さあ、着いたよ。」


 目の前には、小さな小屋があった。ごく普通の、木こりが住んでいそうな。私は地面に下ろされて、アレスはついてこいと言うように顎で扉を指した。


 中はしっかりと生活感があった。暖炉には火が灯っていて、パチパチと火花が弾けている。ベッドのシーツは少しくしゃっとなっていた。


「こっち、ついてきて。」 


 アレスが指先を切って、床に血を一滴落とした。すると、現れた魔法陣が光を放った後、地下への階段が露見した。


 階段は先が見えないほどに暗く、どこまで続いているのかもわからない。アレスに従って階段へ一歩踏み出した。すると、音が吸われたように何も聞こえなくなった。まるで地上から遮断されたようで、背筋が震えた。


「大丈夫? 怖かったら言ってね、僕がエスコートしてあげるから。」


「……平気よ。」


「そっか。」


 どれくらい下っただろうか。やがて前方から光が見えてきて、アレスの輪郭を縁取っている。


「ようこそ、僕の城へ。」


 光の先から鉄と水――それから、ほんの僅かに血の匂いがした。小さな小屋に不釣り合いなほど広いここは、アレスの研究室らしい。


 中の見えない水槽がいくつも並んでいる。少し奥には壁から血のついた鎖が垂れていて、古びた日記の山が机の上にできている。床にはそこら中に割れた鱗が散らばっていた。


「寒くない? 無理させたくないんだ。」


「平気。」


「そっけないね。」


 アレスは笑った。私がどんな気持ちでここにいるか、考えていないのだろう。彼に倫理を求めてはいけない。


「ねえ、少しだけ――」


 アレスの指先が私の髪の毛に触れた。反射的に肩を震わせる。彼はそのまま優しく梳くようにして、下へ手を動かした。まるで、恋人にするように。


「やっぱり、この色だ。」


 独り言のように呟いて、髪の毛を一房すくった。


「……綺麗だね。」


 ぞわり、と肌が粟立つ。褒められている、そのはずなのに――品定めされているような、そんな感覚だった。


「ねえ、君の声を聞かせてよ。」


「声……?」


「そう、歌声。」


 思わず、アレスの顔を見た。


 月明かりの下で見た時よりもはっきりと分かる。白に近い金色の髪が、さらりと肩にかかっている。整った顔立ち。けれど、その瞳には――温度がなかった。

 

 まるで、生きているものを見ていないような。それなのに、こちらを見つめる視線だけはやけに執着じみていて。思わず、息を呑んだ。


「だめ?」


 お願いをしている子供のようでありながら、有無を言わせぬ力を持っている。矛盾だらけのその一言に、私は言葉が出なかった。


「何故、私の歌を?」


「……言わないといけない?」


 少しだけ首を傾げながら、アレスは困ったように言う。その笑顔が深淵のように底が知れなくて、喉がさらに引きつった。


「言葉にすると、つまらなくなるんだ。」


 彼は一歩だけ、私との距離を詰める。


「ただ、確かめたいだけだよ。」


「確かめる……?」


「うん。」


 細く骨ばった指先が、私の喉元にそっと触れた。体が強張るも、逃げることはできなかった。


「君が、ちゃんと"本物か"どうかを。」


 心臓が大きく跳ねる。全て見透かした上での、最終確認をしようとしているのだと理解した。最初から逃げ場などなかったことを、今思い知らされた。


「ねえ。」


 耳元に顔が近づけられる。吐息がかかって、甘い声が落とされた。


「一曲でいいからさ。」


 逃げることなどできない。それを分かりきっているのに、私の喉は震えたまま、声を出すことを拒否していた。


「お願い、別に痛いことはしないからさ、ね?」


 喉がひどく乾いていた。何かを言おうとしても、空気が掠れるだけで音になってはくれなかった。


 歌え。そう命令されているわけではないのに、逃げ場を塞がれているような圧迫感が、胸をじわじわと締め付けている。


 視線をそらそうとして、できなかった。アレスは瞬きもせず、まっすぐに私を見ている。観察するように――否、確かめるように。


「どうしたの?」


 柔らかい声。急かすでも責めるでもない、彼はただ待っているだけだった。それが余計に恐ろしい。


 歌えば何かが変わってしまう。そんな予感を拭うことができなくて――けれど、ここで断ればどうなるかわからなくて。


「……す、少し、だけなら。」


 やっとのことで絞り出した声は、自分でも驚くほどに弱々しく震えていた。それを聞いたアレスの顔が緩んでいく。


「ありがとう、君はいい子だ。」


 まるで、言う事を聞いた子供を褒めるように、そう言った。


 彼は心底嬉しそうに微笑んでいる。その表情が、どうしようもなく歪んで見えた。私は目を閉じて、一度深く呼吸をする。


 心の中で、何かがひび割れるような音が聞こえた気がした。私は、ゆっくりと唇を開いた――

 

 


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