第三十六話 歌声と過去
最初は、掠れるような小さな音だった。声というより、ただ空気が震えただけのような、頼りない響き。けれど――次の音を紡いだ瞬間に、研究室の空気が変わった。
ぴたり、と。暖炉の火が揺れるのをやめる。ぱち、と弾けるはずの火花の音も消えて、空間そのものが息を潜めた。水槽の中の水も、波紋一つ立てずに静止している。
ただ、私の声だけがゆるやかに広がっていく。胸の奥が熱い。じわり、と何かが滲み出してくるような感覚に、息が詰まる。
止めなければいけないと分かっているのに――止まらない。声が、勝手に続いていく。この瞬間に歌っているのは、どこか懐かしい旋律だった。知らないはずなのに、知っている。
触れたことのないはずの記憶が、指の隙間から零れ落ちるみたいに、次々と浮かんでは消えていく。深い海の底。揺れる光。遠くで響く、誰かの笑い声。
胸が締めつけられる。これは、私のものじゃなかった。それなのに――どうしようもなく、愛おしい。
「……やっぱり。」
すぐそばで、アレスの声が落ちた。低く、震えている。目を合わせられない。歌を止めることも、私にはできない。ただ、声だけが静かに空間を満たしていく。
「間違いない……」
アレスの声が、熱を帯びる。それは、今まで聞いたことのない響きだった。歓喜と、執着と、狂気が、全部ぐちゃぐちゃに混ざったような。
「君は――」
一瞬、間が落ちる。その沈黙さえも、私の歌に飲み込まれていく。ぽつり、と空間に溶けるように放たれた一言は、私の耳にしっかり届いていた。
「やっぱり“人魚姫”の血を引いている、あの子と同じだ……!!」
やがて歌い終わり、最後の音が響いて消えた。意を決してアレスを見ると――彼は恍惚とした表情で私を見ていた。
しかし、焦点が合っていなかった。揺れる金色の瞳を覗いて、そこで気づいてしまったのだ。彼は私ではなく"私を誰かと重ねて見ている"ことに。
「見つけた……! やっと、やっとだ……!」
その声は、彼からは想像できないほどに震えていた。喜びに満ちているはずなのに――どこか、壊れている。
「ずっと、探していたんだ。」
ふらり、とよろけるように一歩こちらへ近づいてきた。私は反射的に後ずさるも、背中に何かがぶつかった。退路を断たれてしまった。逃げ場がない。
「君みたいな存在を、ずっと……」
ゆっくりと手を伸ばされて、頬に触れられる。ぞわりとした感覚に、息が止まった。
「彼女を取り戻せるかもしれない、希望を……!」
「――彼女?」
緊張して掠れた声で聞き返した。すると、彼は目を細めて眉を下げていた。まるで過去を懐かしむみたいに、それでいてどこか歪んだ笑みを浮かべて。
「……僕の、大切な人だよ。」
指先が、するりと私の頬をなぞるように撫でた。
「海の底みたいに静かで、誰よりも自由で、眩しかった。」
その言葉に、胸がざわついた。先ほど見た"記憶"と重なるのだ。しかし、アレスの次の言葉は、声の温度が一気に落ちていた。
「でも――殺された。奪われたんだよ、理不尽に。」
頬に触れている手に、力がこもっていく。
「だから取り戻すんだ。」
それは、迷いのないまっすぐな声だった。
「どんな手を使っても。」
私は黙って話を聞いていた。得体の知れない男の、どうしようもない愛を目の当たりにした。彼も人間なんだと、そう思ってしまった。
「君なら、できるはずだ。」
その言葉に、返事ができなかった。期待されている、縋られている。でも――その感情は、決して私に向けられたものじゃない。"道具"に向けられている。
「私に、何をさせるつもりなの。」
できるだけ感情を押し殺し、平坦な声を無理やり作ってそう問い返した。アレスは私の問いに一瞬だけ目を丸くした後、笑みを深めた。
「決まってるじゃないか。」
頬にあった手が顎へと滑り落ちて、そのまま掴まれた。決して強くはないが、逃げられないような力加減で。
「取り戻すんだよ。」
「……誰を。」
わかっているのに、聞き返さずにはいられなかった。アレスの薄い金色の瞳が、恍惚と揺れる。
「僕の愛した人魚姫を。」
はっきりと言い切った。静かな研究室、水槽の水からは、ごぽりと泡の音。
「――死んだ人は、二度と戻らないのよ。」
自分にも言い聞かせるように、絞り出すようにそう言った。しかし、私のそんな精一杯を、アレスは首を横に振って否定した。
「戻るよ。」
顎をさらに持ち上げられて、至近距離で目が合った。
「君がいれば、ね。」
吐息が混ざるほどの距離でそう言われた。そして、アレスはまた過去をこの場にとどめるように話す。
「……彼女はね、ずっと昔の皇太子に殺されたんだよ。」
「知ってる。」
「だから、恨んでる。」
私は、姉様を殺された。彼もまた、復讐する側の人間だったことを、認めたくなかった。だけど、認めざるを得なかった。
「リッテだっけ? 彼女に薬を飲ませてやった。ま、君に阻止されたけどね。」
息が止まった。頭が真っ白になる。リッテに、薬を飲ませていた。その事実を理解するのに、少し時間がかかった。
「……あとさ。」
ふと、思い出したようにアレスは言う。嫌な予感が背筋を走っていた。
「君のお姉さんのこと、残念だったね。」
――やめろ。本能がそう叫んでいた。
「彼女は僕が人間にしたんだ。」
あの日聞いた、カノン姉様の言葉が頭をよぎる。姉様が話していたのは――王子ではなく、アレスだったのだ。
「まあ、言う事聞かないから王子に壊れるまで監禁させたけど。」
「……っやめて。」
「僕なら君を助けられる、だから取り戻す方法を教えろって洗脳しようとした。それは叶わなくて、王妃をけしかけたけど。」
全身が燃えるように熱かった。先ほどまでの恐怖が、憤怒へと塗り替わっていく。
「お前が、カノン姉様を……!!」
気づけば、叫んでいた。胸の奥に溜まっていたものが、一気に噴き出す。怖いなんて感情は、もうどこにもなかった。あるのは、ただ焼けつくような怒りだけ。
「よくも……よくもっ……!!」
震える手で、アレスの胸を押し返そうとする。
けれど――びくりとも動かない。
「……ああ。」
アレスは、あっさりと肯定した。まるで、どうでもいいことのように。
「君のお姉さんは、なかなか頑固でね。」
彼はくすり、と小さく笑う。その声音に、一片の罪悪感もない。
「でも、大丈夫。」
するり、と私の手首を掴まれる。途端に押し寄せる嫌悪。私は振り払おうとしたが、力の差があってできなかった。
「君は、ああはならない。」
逃がさないように、ゆっくりと力が込められていく。
「ちゃんと、“役に立ってもらう”から。」




