第三十三話 提案
誰も、動くことはできなかった。ただ一人、アレスを除いて。彼は私の頬から手を離して、不気味なほど爽やかな笑みを浮かべた。
「そんなに怖い顔しないでよ。」
くすくすと子供のように笑いながら、一歩だけ引いた。それから、私と目を合わせた。逃さないとでも言うように。
「でさ、僕の研究には君が必要なんだよ。」
「研究……」
アレスは小さく呟く私を見て、すっと目を細めた。
「そう。君の人魚の力……いや、人魚姫の末裔の力が欲しい。」
見透かされている。私がただの人魚ではないと、この男は知っている。一体どこまで知られている?
「何故、私のことを?」
「君のお姉さんは死んでしまった。だから、君が必要なんだよ。」
全身の血が沸騰しそうだった。怒りと恐怖でぐちゃぐちゃの脳内が、警鐘を鳴らしている。それでも平静を保ち、私は会話を続ける。
「……何を求めているの。」
「ん?そうだなぁ……"揺り戻す"ことかな。」
「揺り戻す……?」
アレスの意図がうまく掴めないまま、時間だけが無情にも過ぎていく。揺り戻すとは、一体どういう意味を持つのだろうか。
すると、突然レベリオ王妃が立ち上がった。震える四肢に気づかないフリをしながら、まるで小鹿のように。それから、今出せる精一杯の大声で、アレスに向かって叫んだ。
「やめなさい! それ以上は……!」
「おや、君だってわかっているだろう? 僕は止まらない。」
ニヤリ、と笑ったアレスが、再び私に触れようとしたが――エディアスの地を這うような低い声でそれは止まった。
「それ以上、セレンに近づくな。」
瞳孔が開き、額に青筋を立てている。剣を抜いてアレスを切ることを必死に我慢しているような、そんな滲む殺気を肌で感じた。
「守れるとでも? ただの人間が、彼女を。」
アレスはそう言って心底おかしいとでも言うように笑った。ただの人間。その言い方に少し違和感を感じたが、すぐにかき消された。
「……セレン、君には一緒に来てもらう。」
「……は?」
私は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。目を見開いて固まる私に、アレスは酷く優しげな微笑みを見せる。
「僕と一緒においでよ。」
悪魔だ。この男は悪魔に違いないと、そう思った。この状況でまだ私を追い詰めるのか。喉から空気の漏れる音が聞こえた気がした。
「嫌よ、ついていかない。」
「あーあ、振られちゃった。でも、いいのかな?」
アレスは私の首元に指を滑らせる。それから、耳元に顔を寄せて甘く囁いた。
「君が来てくれれば、これ以上は壊さないよ。」
どんな果実よりも甘く、どこまでも最低な提案だった。その言葉が何を指すのかを、私は察してしまった。
エディアス、レベリオ王妃、リッテ。それから、皇国の民。私がこの男についていけば、危害が加えられることはないだろう。
でも、私が断れば何をしでかすかわからない。選択肢を与えられているようで、与えられてなどいない。この男はそういう人間なのだ。
「来ないならどうなるか、聡明な君ならわかるよね?」
ここで迷ってしまう私は、悪い人魚だ。復讐のために人になった。だから、地上で会った人間に情なんていらないはずだった。
それなのに。どうしようもなくあたたかくて、心地よくて――大好きなこの場所を、壊したくはないのだ。
保身のために逃げればいいものを、私は一歩前に踏み出すことしかできなかった。
「待て。」
後ろに体が引かれる感覚。私はエディアスに腕をつかまれて、止められていた。
強く、引き戻された。
思っていたよりもずっと力強くて、逃がすつもりなんて一切ないと伝わってくる。エディアスの指が、私の腕に食い込むほど強く握られていた。
「行くな。」
低く押し殺した声。けれど、その奥にある感情は隠しきれていない。
怒りと――恐怖。私は息を呑んだ。こんな声、初めて聞いた。
「離して……」
そう言ったはずなのに、声はひどく弱々しかった。自分でも驚くくらいに、揺れている。
「離さない。」
即答だった。一瞬の迷いもない。その言葉に、胸の奥が大きく波打つ。
「お前が何であろうと関係ない。」
掴む力が、さらに強くなる。
「人魚でも、なんでもいい。そんなことはどうでもいいんだ。」
どうでもいい、なんて。
さっきまで揺れていたはずの人が、そんなふうに言い切るなんて。理解が追いつかない。
「行く必要なんてない。」
その声は、命令のようでいて――懇願にも聞こえた。
私は振り返ることができない。振り返ってしまったら、きっと決意が揺らぐ。それが分かっていたから。
「……でも、」
言葉が続かない。行かなければ、守れない。
でも――行きたくない。そんな矛盾が、喉元で絡まっている。
「セレン。」
名前を呼ばれる。それだけで、足が止まる。ああ、ずるい。そんな呼び方をされたら、どうしていいか分からなくなる。
その時。
「いいねぇ。」
背後で、くすくすと笑う声がした。アレスだ。
「実に人間らしい。」
楽しそうに、心底愉快そうに。
「そうやって迷ってくれる方が、見ていて面白いよ。」
ぞくり、と背筋が冷えた。この男は、全部分かっている。私が迷うことも、揺れることも、その先にどんな選択をするかさえ。
それでも、私は――決めなければならない。
「……ごめんなさい。」
先ほどより弱くなっていたエディアスの手を外して、震えている大きな手を包んだ。泣いている子供を安心させるように、そっと。
「私なら、大丈夫ですから。」
「やめろ、待て……!!」
私は、持っていた鱗の小瓶をエディアスの手のひらに忍ばせて、アレスの方へ向き直った。
「行くわ。」
「うん、いい判断だね。」
アレスが私に近づいてくる。それを見たエディアスが必死にこちらへ来ようとしているが、レベリオ王妃によって止められていた。
「離せ!!」
「だめよ! 今行っても無理なのよ!!」
王妃が泣きじゃくりながら、全力でエディアスの行く手を阻んでいる。正解だ。
「セレン! 待ってくれ……!!」
「お願い、エディアス!!」
今ここでアレスという底が知れない男に挑んでも、きっと勝てない。それを痛いほどわかっているから、彼は私に訴えかけている。
私はアレスに抱えられて、窓際に連れて行かれる。去る間際に、彼は横目でエディアスと王妃を見た。
「じゃあ、君の大切な姫はもらっていくね。皇太子サマ。」
私は窓から飛び降りたアレスと共に、夜の闇へと混ざっていく。最後に見えたのは――月光で滲んだ、アイスラベンダーの瞳だった。




