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第三十二話 暴く



 彼の声は鋭く、空気を裂いた。私は反射的に後ろに振り返る。


 __そこにいた。


 開いた窓から差し込む月光が、男の輪郭をかたどっている。逆光で表情は影に隠れている。私は咄嗟に距離をとった。


「おや、ずいぶんと過保護だね……皇太子サマ。」


 低く、楽しげなその声に、レベリオ王妃の体が震え出した。それから、何かを言いたげに唇を動かしていた。


「アレス……」


 喉から絞り出したような、酷く弱々しい声だった。それを見た男の、青色の瞳だけがやけに光っている気がした。


「久しぶり、王妃様……いや、"思い出した"とでも言うべき?」


 目を限界まで見開いて、何も言わずに震えているだけの王妃。エディアスが一歩前に出て、男に問いかける。


「お前は何者だ。」


「名乗るほどの者じゃないよ。ただ__」


 アレス、と呼ばれた男の視線が私に向いた。ぞくり、と背中が粟立つ。全身がこのアレスという男を拒絶している。


「"海"から来た彼女に、少し用があるんだ。」


 その言葉を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。この男は、私に__人魚に用があるのだ。


「陸の生活にはもう慣れた?」


「な、何を言って……」


「呼吸は苦しくない? あ、今は人間のふりしてるんだっけ。」


 言葉が出てこなかった。視界の端でエディアスが私を見ている。その姿は、驚きと__どこか、納得しているようにも見えた。


「セレン……?」


 呼ばれた。でも、応えられなかった。喉に言葉が張り付いたように、何も出てこなくなってしまった。


 拳をぎゅっと握りしめて、動揺を隠すように力を込め続ける。指先が白くなり、三日月型の跡ができようと、今は関係ない。


「隠すのは上手だったね。」


 アレスは小さく笑って、私に一歩近づいた。


「でも、もういいでしょ。」


 獲物を追い詰めるタコのように、ゆっくりと近づいて、暴いていく。私にはそれを止められる術がない。


「その姿でさ、どこまで騙すつもりだったの?」


 逃げ場がない。逃げたい。今すぐアレスから離れたい。


 反射的にそう思った瞬間__私の中で、何かが音を立てて軋んだ。


 抑えていたものが溢れ出す。空気が揺れ、水が動く気配。王妃が息を呑む音がしたと同時に、私は思い切り叫んだ。


「やめて……!」


 その瞬間、水差しが割れて水が溢れた。陶器の破片が細かくなって足元に飛んでくる。続いて、花瓶も割れた。花が地面に転がって、花弁を散らしている。


「__ほらね。」


 アレスが笑う。月光に照らされてようやく見えたその表情は、玩具を前にして喜んでいる子供のようで、酷く幼く見えてしまった。


「やっぱり、人間じゃない。」


 王妃が一歩前に出ようとしたが、エディアスに止められる。私は、アレスに頬を撫でられていた。壊れ物を扱うように、触れるすれすれをゆっくりなぞっていく。


「彼女は、人魚だよ。」


 静寂。恐ろしいほどに何も音がなかった。誰も、外の鳥でさえも鳴き声を発していない。


 誰も、すぐに言葉を紡ぐことができなかった。私は俯いたまま拳を握りしめ続けている。やがて、血が床に滴る音だけがその場を支配した。


 全部。彼に全部を知られてしまった。


 その焦燥と絶望が、私の中で激しく渦巻いている。


「……セレン。」


 エディアスの声がして、恐る恐る顔を上げた。


 彼は__私と目が合った一瞬、言葉を失っていた。


「……そうか。」


 短く、それだけ言った。それ以上は何もない。拒絶でも、受容でもない。ただ、事実を受け止めただけの感情のない声だった。唇だけが震えていた。


 王妃はぺたりと床に座り込んでしまっている。


「わ……わたしの……わたしのせいで……」


 違う、と言いたかった。でも、言えなかった。震える彼女を目の前にして、動くことができなかった。


「……ふふ。」


 そんな私達の惨状を見て、アレスは満足そうに微笑んだ。それから、ゆっくりと口を開く。


「さて、これで隠し事はなくなったね。」


 鮮やかな青色の瞳が細められた。


「じゃあ__本題に入ろうか。」


 喉の奥がひどく乾いていた。息を吸うたびに、胸の奥がひりつくように痛む。

 

 逃げなければいけない。そう頭では分かっているのに、足が動かない。まるで床に縫い付けられたみたいに、指先一つ動かせなかった。

 

 視界の端で、エディアスの指がわずかに動く。剣に手をかけたまま、しかし抜かない。その逡巡が、今の状況を何よりも雄弁に物語っていた。

 

 ――信じたいのに、信じきれない。その迷いが、痛いほど伝わってくる。

 

 王妃は床に崩れ落ちたまま、何度も何度も首を横に振っていた。違うと、違うのだと。まるで自分に言い聞かせるように。

 

 けれど、現実はあまりにも残酷だった。

 

 割れた水差しから広がった水が、月光を受けて淡く光っている。その揺らめきは、まるで海のようで――否応なく、私の正体を突きつけてくる。

 

 隠し続けてきたもの。守ろうとしてきたもの。

 

 そのすべてが、今この瞬間に崩れ落ちていく。

 

 逃げ場なんて、最初からどこにもなかったのだと、ようやく思い知った。


  __ここからが本当の地獄なのだと、理解してしまったから。

 

 

 

 

 

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