第二十七話 底からの手
夜、私は中庭の草の上に座っていた。城内はいつも通り静かで、人の気配がなかった。
胸元に手を滑らせた。やはり__鱗がある。
薬を飲んで人間になったはずなのに、どうして鱗があるのだろうか。剥がそうとしても取れないし、かといってそのままにしておくのもよくない。
水面が微かに揺らぐ。波紋が広がっていき、やがて大きな音を立てた。
それに混じって、草を踏み走る音がした。振り返った時にはもう遅かった。
どぷん。
池に落ちた。それも、何者かによって押されたのだ。池の魚が衝撃に驚いて逃げていく。
池から上がろうとして、縁に並べられた石にすがりつく。すると、腕を誰かに掴まれた。
「ッなんなの……!!」
「貴様、本当に人魚なのか?」
心臓が嫌な音を立てる。私が人魚だということを、誰かが知ろうとしている。確信を持とうと狙っている。
黒いローブを着た、知らない男__誰かが送ってきた暗殺者?
「離して!!」
「……やはり。」
暗殺者の男は私の瞳を見て笑う。そこには、純粋な狂気だけが浮かんでいた。
男の指が私の顎を掴む。そして、至近距離でこう言った。
「薬で抑えているのか?だが、水は誤魔化せない。」
冷たい声が耳に響いた途端、池の水が私の身体にまとわりついた。
触れている部分が熱い。胸元の鱗がじわりと浮き上がるのがわかった。
やめて。
これ以上水に触れたら__
水面が不自然に脈打つ。私の感情に呼応するように、池の水が大きく渦を巻いた。
「……面白い。」
男は腕を掴んだまま、這い上がろうとする私を再び池へ沈めようとする。
その瞬間、水が勢いよく弾けた。
男の体が横に吹き飛ぶ。私はその隙に草の上へと転がり出た。濡れた髪の毛が頬に張り付く。
胸元の鱗が月光に照らされて、淡く光っていた。
男はゆっくりと起き上がり、口元を歪ませる。
「これで証明は十分だ。」
(証明?)
その言葉に背筋が凍る。脳が危険信号を送っている。
「殺すなと言われている、今日は確認だけだ。」
「こっちに来ないで……!!」
「その鱗、素材にも証明にもなる。一枚だけもらっていくぞ。」
男が私に近づいてくる。手が伸ばされたその時、遠くから足音が響いた。
「皇妃様!!」
見回りをしていたであろう、護衛の声だった。男は動きを止めるも、逃げる様子は全くない。
寧ろ、ゆっくりと両手を上げた。
「もう遅い。」
何が__
その問いが言葉という形になる前に、別の兵が駆け込んでくる。
「急報! 港より報告です!! 監査対象の倉庫が破られ、保護対象が__」
保護対象。あの子を逃がしたあとも、人魚の保護は続いていた。
私の喉から空気が抜ける音がする。
「人魚が一体、連れ去られました!」
まるで、世界の全てが凍りついてしまったみたい。
こちらが動きを見せれば、相手も動く。
つまりは__私のせいだ。
私が人間になったから、復讐をするために陸へ上がったから。関係のない同胞まで巻き込まれた。
動揺する私の目の前で、男は静かに笑う。
「海は静かだが、底は深い。」
護衛に押さえつけられながらも、その声だけははっきりとしていた。私はまだ、立ち上がれない。
指先から滴る水滴が、ぽたりと草に落ちる。その瞬間に、草は茶色に変色していく。
感情が制御できない。
「セレン。」
その時だった。後ろから低い声がしたのは。振り返るとエディアスが立っていた。
怒りも動揺もない。ただ、冷たい王の顔。
「封鎖しろ。港も、城門もだ。」
「はっ。」
エディアスの声に、数人の護衛が走っていく。何の変哲もないはずの夜が、一変する。
「……友好は維持する。」
昼間と同じ言葉。でも、今回は意味が違うように聞こえる。
「だが、我が民を奪う者は許さない。」
彼の視線が暗殺者に向いた。そして__ほんの一瞬だけ、私へ。
何も問わない。責めない。ただ、確信している目。私は震える声で呟くように言う。
「私が……私が原因です。」
それを聞いた彼は、すぐに否定しなかった。嵐の前のような静かな声で、代わりにこう言った。
「原因ではない、引き金だ。」
夜風が強く吹き、髪を揺らす。水面がざわざわと荒れる。
城の中に、裏切り者がいる。そして、保護されていた人魚が連れ去られた。
もう、皇国は後戻りができない。
「哀れだな。」
押さえつけられている男が、不意にそう笑った。誰に向けた言葉なのかはわからない。
「裏切り者を探しているんだろう? だが、本当に裏切ったわけではない。」
エディアスの視線が鋭く細められた。
「何が言いたい。」
「選ばれたのさ。」
男の瞳が怪しく光ったような気がした。口元を歪めながら、楽しげに言う。
「"あの方"に。」
空気が一気に張り詰めた。
名は出ない。だが、確実に誰かがいる。
王妃ではない、もっと奥で糸を引いている存在が。
「忠義も正義も、少し揺らせば簡単に傾く。皇国の未来のためと囁けば、人は喜んで刃になるのさ。」
操られている。利用されている。それでも、本人は"正しいことをしている"と思い込んでいる。
それが一番厄介だ。
「裏切り者と"そいつ"の名前を言え。」
エディアスが問い詰めるも、男は笑うだけ。
「海はすでに動いている。」
次の瞬間、護衛が男の口を強く抑えた。男は舌を噛み切ろうとしたのだ。
間一髪で留められる。
死ぬつもりだった。口を割らないために。
エディアスの瞳が完全に冷えた。
「地下牢へ。絶対に生かしておけ。」
短い命令。夜が戦場に変わる。
そして私は、はっきりと悟った。これは王妃との駆け引きではない。
もっと深い場所で、誰かが私たちを見ている。
暗く果てしない海の底から、引きずり込もうとしている。




