第二十八話 選ばれた
夜が明けても、城は眠らないままだった。兵が慌ただしく動き、話し声が飛び交っている。
私は現在、エディアスと地下牢に向かっている途中だ。捕まっているあの男から、情報を引き出すため。
厳重に施錠された鉄の扉を開けて、地下牢への階段を降りていく。湿った石の匂いが、緊張感をじわじわ高めていく。
松明の灯りがあっても尚、暗いままの廊下を歩く。やがてたどり着いた牢の中で、鎖に繋がれている男と目が合った。
彼はまるで客でも待っているかのような顔で座っている。
「来たか、皇国のお偉いさん。」
男は冗談めかしてそう言った。『余裕』だとこちらに示すように。
「貴方の名前は?」
「はっ、そんなもん教えて何になる。」
嘲笑うかのように鼻で笑われる。内側でくすぶる怒りを抑えながら、私は質問を続ける。
「目的は何なの?」
「さぁね。」
その後も男の素性について問いただした。しかし、のらりくらりと躱されてしまうだけだった。
すると、突然こんなことを言い始める。
「皇国が本当に正しいと思ってるのか?」
「……どういうことだ。」
エディアスが前に出た。男は不気味に微笑んだまま。
「人魚を守るだって? ハッ、笑わせる。」
「率直に言え、でないと四肢をもぎ取るぞ。」
「おお、怖い怖い。父親ゆずりか?」
エディアスの肩が少しだけ跳ねた。父親。その言葉に反応した。
「皇妃サマは知らないのか? 今は亡き皇帝は……」
「やめろ、それ以上言うな。」
男は私の瞳を見て、それから口を開いた。
「__人魚姫を殺したんだ。」
その言葉が落ちた瞬間、地下牢の空気が凍りついた。松明の火が小さく揺れる。
「……何の話だ。」
エディアスの声は低かった。怒りではない。むしろ、押し殺したような静けさだ。
男は愉快そうに肩を揺らして笑う。
「おや、知らないのか?」
「質問しているのはこっちだ。」
「そうだったな。」
鎖がわずかに鳴る。男はゆっくりとこちらへ視線を向けた。
そして今度は__私を見る。
「だが、お前は気になるんじゃないか?」
心臓が強く脈打つ。
「海の姫が、どうやって死んだのか。」
「……黙れ。」
エディアスが低く言う。しかし男は止まらない。
「皇国は綺麗な顔をしているがな。海の底にはずいぶんと沈んでいるぞ。」
「何を知っている。」
「全部じゃないさ。」
男は怪しげに笑った。
「だが一つだけ確かなことがある。」
鎖に繋がれたまま、男は身体を少し前に傾ける。
松明の光が、その目を照らした。
「海は怒っている。」
地下牢の空気がさらに冷えた気がした。
「一匹さらったくらいで終わると思うなよ。」
「……何だと。」
「始まりだ。」
男ははっきりと言った。
「お前たちが海にしたことの、な。」
場が静まり返った。エディアスも、私も、言葉を発することができなかった。
『海』とは何を指す言葉なの?
「それと……」
突然、男が私を見て無表情になった。それに恐怖を感じて一歩下がる。
「お前はどっちだ? 海か、人間か。」
息が詰まって、呼吸が止まった。この男は、エディアスの目の前で私の正体を__
「黙りなさい!!」
「はは、ご乱心ってところか?」
行き場のない恐怖だけが私の中に渦巻いている。私は拳を強く握って俯いた。
「……『海』とは、何だ。王妃のことか?」
「王妃? あんなのはただの駒にすぎない。」
男はつまらなそうに鼻で笑った。
「……何?」
エディアスの声が一段低くなる。空気が電気を帯びているようにピリピリとしている。
男は鎖に繋がれた手をわずかに持ち上げ、からかうように言った。
「本当に何も知らないんだな、皇太子殿下。」
松明の火がパチリと弾けた。それと同時に、エディアスの顔が顰められる。
「王妃が全てだと思っていたのか?」
男はゆっくりと首を傾げる。それから確信に満ちた声でこう言った。
「違う。王妃は"使われている側"だ。」
黙っていたエディアスが、ようやく口を開いた。その瞳は鋭く、全てを串刺しにしてしまいそうだった。
「誰にだ。」
「さあな。」
男はまた笑う。今までよりもずっと不気味に、恐ろしく。
「俺たちは"選ばれた"。」
昨夜と同じ言葉に、胸がざわついた。
「あの方に。」
男は名前を出さず、口を割らない。だが、それだけでも十分なように思えた。
もっと深い場所で、糸を引いている人物がいる。それが確信となった瞬間だった。
「安心しろ。」
男は急に穏やかな声になった。
「まだ序章だ。」
背筋が冷たくなる。氷の海に沈められたみたい。
「一匹さらったくらいで騒ぐなよ。」
ゆっくりと、男は笑った。
「次はもっと価値がある。」
その視線が__私に向いた。
心臓が大きく跳ねて、止まってくれない。
「例えば__」
男が口を開いたその瞬間のことだった。
ごぽっ。
粘り気のある水音と共に、男の身体が前に崩れ落ちる。護衛の一人が牢の鍵を開け、口の中に手を突っ込んでいた。
「毒です!」
地下牢が一瞬で騒然とする。
「自害用の毒を仕込んでいたようです!」
男は床に倒れたまま、喉の奥から笑い声を漏らした。
「……遅い。」
血が口元から流れる。それでも男は笑っていた。
「海は……もう……」
最後の言葉は、音にならなかった。男の身体から力が抜ける。
地下牢に沈黙が落ちた。
何も聞き出せないまま。ただ一つだけ、確かなことが残る。
この国のどこかに__まだ敵がいる。




