第二十五話 狭間に立つ者
数日後。無事に治療は終わり、人魚は海に返されることになった。準備は着々と進んでいき、ついに別れの時がやってきた。
日が昇る前の静かな浜辺にて。魔法で転送されてきた彼女は、大きな水槽の中にいた。
「では、海へと戻します。」
「ああ、頼む。」
傷一つない体が、元気になったことを示していた。彼女は海を見つめ、瞳を潤ませていた。
水槽から数人がかりで持ち上げられ、そっと砂浜の上に降ろされる。
「そのまま帰って大丈夫ですぞ。」
研究員の一人が彼女に声をかける。なんとなく意味が伝わったのか、海へ向かって這いずり始めた。
しかし、海へ入る直前にこちらへ振り向いた。彼女の目線の先は__私だった。
『末裔のお方、ありがとう。あなたが私を生かしてくれたんでしょ?』
人魚同士で使う超音波で、彼女は確かにそう言っていた。人間には聞こえないそれを使い、私も返事をする。
『いいえ……貴女の無事を願う人間のおかげよ。』
『……そう、いい人間もいるのね。』
彼女は人間に傷つけられ、人間に助けられた。それが腑に落ちないのか、顔を少し曇らせている。
『人魚の密漁は、私達がなんとかするから。』
『……ありがとう、またどこかで会いましょう。』
彼女は最後に微笑んだ。そして、美しい海へと潜っていった。
「……これにて、人魚護送の件は解決した。研究員の諸君、協力に感謝する。」
エディアスが宣言すると、研究員たちは水槽を持ち上げて、スクロールを使って施設へ戻っていった。
護衛や騎士の人たちと共に、私とエディアスも皇城へと踵を返した。
◇◇◇
潮風がまだ届く道中のこと、エディアスが不意に口を開いてこんなことを言った。
「……海は好きか?」
薄々感じてはいた。彼はきっと、私の正体を掴みかけている。だからこその核心を避けた質問だった。
「嫌いではありません。」
嘘ではない、でも本当でもない。
「戻りたいと思うことは。」
潮の香りが心地よかった。砂の感触が懐かしかった。それでも、今はまだ戻れない。
「さあ……人は皆、海から生まれたと言いますものね。」
足が震え、立ち止まりそうになる。けれど、止めることは許されない。
「……どうでしょう。」
自分でもわからなくて、曖昧な言い方しかできなかった。彼の隣を選んだのは私。でも、それは復讐を果たすまでのこと。
__本当の気持ちを、認めたくない。
認めてしまえば、戻れない。口に出せば、私が私じゃなくなってしまう。
エディアスはそれ以上何も聞かなかった。
「そうか。」
ただ、短くそう言った。それだけだった。
◇◇◇
城門が見えてきたところで、一人の騎士がこちらに駆け寄ってくる。切羽詰まった表情をして、エディアスの前に立った。
「殿下、港の調査ですが__」
エディアスは睨むように騎士を見つめた。
「後で聞く。」
「で、ですが……」
「細かく言わないとわからないのか? セレンが疲れているから、後でいいと言っている。」
私は自分の頬に手を当てた。そんなに疲れが顔に出ていたのだろうか。
疲れているというよりも、嵐の前のような静かなざわめきが、心に大きく残っている。
「私は大丈夫なので、報告をお願いしても?」
「は、はい!」
騎士は姿勢を正してから、はっきりと話し始める。
「資金の流れが、王国のロボス男爵家から出ていることが判明いたしました。」
「ロボス男爵……」
エディアスの声が一段低くなった。それに怯えながらも、騎士は報告を続けた。
「また、人魚を売買ではなく研究に回していたとの情報も。」
「何の研究なんですか?」
「詳細はわかりませんが……男爵は近年、王妃殿下主導の学術振興計画に多額の寄付をしております。」
空気が冷えて張り詰めていく。押しつぶすような緊迫感が、私の喉を締めるようだった。
「研究、だと?」
「はい。海洋魔術と生体適応の研究と記されております。」
背筋が温度をなくしていく。私の頭に浮かぶのは、あの日見た王妃の展示物だった。
(誰が、何を目的としているの?)
エディアスは声を荒げてこそいないが、その沈黙の中には確かな怒りがあった。
「証拠は揃っているのか。」
「いえ、資金の流れから照らし合わせて……」
「憶測で口にするな、もう下がれ。」
「……はっ。」
鋭いもので刺すように告げたエディアス。騎士はぎこちない動きで城に戻っていった。
「研究は、必要なのでしょうか。」
「……必要だ。」
エディアスは前を向いたままそう答えた。
誰かが前へ進むには、他の誰かが犠牲にならないといけない。それは生物にとって当たり前のことなのだ。
「だが、何を犠牲にするかは選ばなければならない。」
「……そうですね。」
私達はそこでようやく歩き始めた。城門をくぐり広場を抜け、玄関ホールへと入る。
そしてすぐ、エディアスは側近に低く命じた。
「王国との外交記録を洗え。」
「はっ。」
「特に学術振興計画に関する往来を。」
「承知いたしました。」
側近は命を受けてすぐに、記録を調べにどこかへ行ってしまった。
王国の学術振興、それを主導しているレベリオ王妃。あの微笑みの奥には、どれほどの思惑があるのだろう。
ほんの少しだけ、怖くなった。
「……王国と、揉めることになりますか。」
私はエディアスの袖口を控えめに掴み、小さな声で問いかけた。彼は即答せず、数秒の間が空く。
「証拠が出ればな。皇国の民を害する者は、誰であろうと許さない。」
「そう、ですよね。」
「……君も皇国の民、皇妃だろう。俺が守るから心配しなくていいよ。」
そう言い残して、エディアスは執務室の方向へ歩いていく。袖口を掴んでいた手は、虚しく浮いたままだった。
優しい言葉だったのに、怖かった。その言葉に甘えてしまえば、本当に戻れなくなる。
網は海だけに張られているのではない。国と国の間にも、静かに広がっている。
揺れているのは、海だけではない。王国と皇国、その狭間に立つ私もまた__




