人に傷ついた癖に人と関わりたいと願う、そういうところ、俺は嫌いじゃないよ
高校へ近づいていくごとに手足が動かなくなっていく。
まるで干からびていく餅のように、表面からギシギシと強張っていくようだった。
教室のドアをくぐった瞬間、四方から注意が一斉に注がれる。
高三の自習期間なので、教室にいる生徒の数はけっして多くない。
複数のグループがいるはずなのに、私に対して「直接は」視線は来ない。
見渡しても誰とも目が合わない。
つるりつるりと、存在することを否定され続ける、終わらない長い時間。
故意に空気にされている、独特の居心地のなさ。
席に座ってカバンを置く、そして椅子に座って教科書を開く。
たったそれだけのことに頭がくらくらするほど精神力が減って行く。
「――あてつけなのかな」
クラスメイトのざわめきの中、拾わなければいいのに、私の耳は容易くあの子の声を拾い上げる。
ひそひそ、ひそひそ。
たった数日前までは普通に挨拶していたクラスメイトの、嘲笑交じりの好奇が、呼吸する胸を射る、耳を射る、後ろ頭を射る。
私は目を閉じる。瞬きさえ、芝居がかってしまうほど難しい。
学校はほぼ自習だけなのだから来なくてもいい。
だけど私は教室に来た。
ここで一度逃げてしまっては、私は卒業式に参加する勇気も失ってしまいそうだった。
りりりり。
のんきな音電子音が大きく響く。
スマートフォンのメッセージ音だ。
りりりり。
もう一度ダメ押しのように、教室中の生徒のスマートフォンが一斉に鳴る。
みんな一斉に画面を確認したかと思えば、にやにやと仲間内で笑い合う。
私に視線は来ない。
私は制服のプリーツをかき分け、ポケットの中を探す。
出てこない。ポケットにスマートフォンはない。
りりりり。
更に音が鳴る。
私には与えられない、人と繋がる権利、人に受け入れられる権利。
りりりり。
――やめて。やめて。
呼吸も辛くなって頭を抱えたいのに、一挙一動を見張られている思いがして指先ひとつ動かない。
叫び出したい。叫べない。
りりりり。
メッセージ音は再び鳴る。
のどかな音が私を責めたてる。お前は許されないのだと。
お前は静かに波風を立てないよう、黙りこんで空気になれ、と――
---
ベッドから身を起こしてピンク色のカーテンを開くと、平和すぎる眩しい朝日が目を射た。
息がかかった窓が白く曇る。
汗ばんだ手のひらをパジャマで拭い、私は動悸と眩暈と安心ゆえの虚脱感に放心する。
最悪の夢見だった。
――アトラス・シトラスと出会って7日目。
私は枕元にあるスマートフォンを確かめる。
佑白からのメッセージが数件、立て続けに受信されていた。
「これのせいか……」
温かな毛布の海に沈みながら目を通すなり、私は飛び起きて通話ボタンを押す。
コール数回で佑白はすぐに出た。
私はすぐにメッセージの内容を問いただした。
「ノート見つかったって? ボロボロってどういうこと?」
興奮する私に対し、佑白は醒めた声音で答える。
「寝てたでしょ」
「どうしてわかるの」
「声。――とりあえずなおしとくから、早くおいでよ」
私は超特急で外出の支度をした。
コーディネイト不要のワンピースにタイツに、爆発した髪の毛を無理矢理シュシュでまとめる。
簡単に化粧を済ませると、玄関先に置いた鞄を掴んでドアから飛び出す。
「おはよ」
半刻ほどで部室に着くと、コタツで寝ていた佑白が身を起こして出迎えてくれた。
本棚には探し求めていたものが元のあった位置に鎮座していた。名簿ノートだ。
「いつからあったの?」
「俺が便所に行ってた五分くらいの間に、そこの床に放り投げられてた」
佑白はドアから入ってすぐの床を指す。
「部屋が無人になるから鍵をかけて行っててたんだけど。戻った時も鍵がかけてあったから、置いていったのは部内のだれかだね」
久しぶりに再会したノートは見るからにぼろぼろになっていた。
「あちゃあ。こりゃたしかに修繕が必要だわ」
元々多少くたびれてはいたものの、今のように表紙に明らかな足跡がつけられていたり、棚にかけるための紐がちぎれていたりなんてしていなかった。
「どっかに捨てられてたのを、戻してくれたのかも……いや、それなら佑白にだまっておく理由がないか……」
「ボロボロにしちゃったから返せなかったのかもね」
言いながら佑白はノートをめくる。
「何らかの理由で黙って借りたけど、その時はすぐに返すつもりだった。でもボロボロになっちゃって、更にズルズル返すまで時間が伸びちゃって、出すに出せなくなったとか」
確かに説明がつく。
正式に公言していないまでも、佑白と私がノート捜索をしている事は役員以外の部員にも伝わっている可能性がある。
佑白が一人なのを好機とみてそっと返却したのだろう。
名簿にはエキストラへの連絡先の横に、それを記入した日付と部員名を書く決まりだ。
名簿の最後の日付は一週間以上前だった。
つまり持ち出されている間、書き込みは増えてはいないということになる。
「持ち去った人は判らないけど、とりあえず一安心だね」
ノートが発見された安堵感のかわりに、むくむくと興奮が湧いてくる。
この中にアトラス・シトラスの名前や連絡先があるはずなのだ。
エキストラ参加した人の名前と連絡先は原則きちんと記録しなければならないからだ。
さしあたり私はスマートフォンで名簿を撮影した。
カメラを構える私に、佑白がわざとらしく口を出す。
「いけないんだ。撮影しちゃ」
「ちゃんとアトラス・シトラスを探し終えたら消すから」
時間を確認すると、まだ午前の授業まで少し余裕がある。
「今日は部会だし、とりあえずノートの件は一件落着だね」
「あとはアトラス・シトラスだけか」
「そっちは余計」
佑白は眼鏡を外すとコタツにごそごそと寝そべり、胸で指を組んで瞳を閉じた。
気持ちよさそうな様子に、私は実家で飼っていた犬の寝顔を思い出す。
「……何」
「いや、別にぃ」
思わず笑ってしまった私に視線で問いかける、眼差しの気の抜けた様子もよく似ていた。
私はさっそく先ほど撮った名簿のチェックを始める。
今回――大学祭発表作品に出演したエキストラの名前を調べればいいのだけれど、それでも結構な量だ。
使用したエキストラの名前・連絡先は、基本的に映像作品の監督自身が筆記している。
外の喧騒が程よいBGMになって、作業によく集中できた。
冬の眩い日差しは好きだ。夏みたいに攻撃的じゃなく、きらきらと輝いている。
様々な筆跡で書かれた名簿から女性名だけをチェックしていきながら、どきどきする。
この中にアトラス・シトラスがいるのだ。
日を追うごとに、彼女と出会ったびりびりとした強烈な印象は薄れてきている。
同時にじわじわと湧き上がってくるのは、彼女の優しい指先の体温と、寝ている私に触れた熱い唇の感触だった。
指先のそっけないほど冷えた感触と相反する、じっと押し付けるように触れた唇の確かな熱さ。
思い出すだけで唇がぴりっと痺れる。
佑白が怪訝な目でこちらを見ていた。
ぼおっと自分の唇を触っていたのに気付き、慌てて私は視線をノートに落とす。
「ね、寝たんじゃないの。寝てなさいよ」
「しっかし」
再び目を閉じ、佑白は独りごとのように口にする。
「ナンパ目的で個人情報使うなんて、必死だねぇ」
「何の情報もないのよ。ちょっとぐらい必死になってもいいでしょ」
「そこまでする程の女とも思えないけど」
「見てもない癖に言わないでよね」
口論のようでありながら、口調はいつもの軽口の言い合いだった。
「私はモテないし隠れてるんだし、貴重なチャンスはモノにしたいの」
「いつも思ってるんだけどさ」
手を止めた私を、佑白の凪の瞳が見つめる。
「そこまで神経質に隠れなくても別にいいんじゃないの」
「それは……」
「皆にバラさなくってもさ、シアンちゃんくらいなら引かないんじゃない」
佑白が純粋な親切で言っているらしい事は、彼の眼差しで分かる。
ばらしたらどうなるか――
当たり前のように友達ができるなんて、高校時代のあの頃と比べたら奇跡だ。
佑白は勿論、シアンだって。軽く話す程度の仲の子ならサークルにも同じ学部にもいる。
私は今、願っていた平和な大学生活を手にしている。細々とした誤魔化しと徹底的な隠蔽を続けながら。
『私どこで勘違いさせちゃったのかなあ』
不意に今朝の頭痛と悪夢を思い出す。
まどろみたくなる温かな日差しとコタツの温もりも他人事のように遠くなる。
心臓にドライアイスを直接放り込まれたような、温度を吸い上げていく冷たい苦しさが襲ってきた。
かばうように胸に手のひらをあて深呼吸する。
「どうしたの?」
佑白が気遣うような眼差しを向ける。うるさい、あんたのせいだよ。
思いつつもそれは八つ当たりなので押し込み、苦しみを振り払うように私は無理やり笑顔を作った。
「なんでもないよ。ヤなこと思い出しただけ。今が幸せなんだしさ。無理に状況壊さなくってよくない?」
「それでいいなら、いいけど……」
くだらないトラウマを振り切るように、私はノートを捲りながら、意識して明るい声を出した。
「私も生まれ変わったら、佑白みたいに嫌でも女が寄ってくる人間になりたいな。蚊取り線香みたいに。モテて困るって言ってみたい」
「蚊取り線香みたいにオンとオフが切り替えられたらいいんだけど」
その時。話題を聞いていたかのようなタイミングで、部室に女の子が飛び込んできた。
彼女は真っ直ぐ佑白を見下ろす。
「ねえ。あなたよね、斎灯佑白って人は」
廊下にはこちらを伺う女の子の姿があった。
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