1003_俺たちはそこを現研とよぶ.log
2009年4月13日(月) 放課後
本館から実習棟に移ると、廊下の雰囲気が変わった。
天井には古い蛍光灯。壁は上がくすんだ白、腰から下が薄い灰緑色。後から増やしたらしい配線のカバーが、壁の隅を走っている。
1階の北側で、日向と辰馬が立ち止まった。
擦り傷のある灰緑色の金属扉。上部の細長い曇りガラス越しに、室内の明かりがぼんやり見える。
扉の脇には古い部屋番号のプレート。その下に、手書きの札があった。
〈現研〉
普通、表札に略称を使うもんだろうか。いや、略称じゃないってことか?
「これで、げんけん?」
余計に混乱したのが顔に出たんだろう。辰馬と日向が口を開けそうなくらい呆れている。
「こりゃ重症だな。先生に相談すっか」
「先生の専門分野にハマってたら困るんだけど」
「たしかに」
そう言って辰馬が扉へ手を伸ばす。
何の専門家なのか知らないけど、とりあえず聞きたいことはいっぱいある。
そう思うと、なぜか俺は深呼吸をした。
「どした?」
辰馬が振り向く。
「心の準備」
「部室に?」
「俺の知らない俺がいる場所に」
「お前ほどここ知ってるやついないんだけどな」
辰馬が再び向き直り、レバーを下げた。金属のラッチが鳴って、重い扉が開く。
日向が先に入る。俺が続くと、最後に入った辰馬が後ろ手に扉を閉めた。
中は研究室と倉庫を足して二で割って、片づける時間だけ引いたような部屋だった。
壁の塗り分けは廊下と同じ。塗装の下にはモルタルのざらつきが残り、後付けのコンセントだけが妙に新しい。北側のアルミサッシから午後の光が入り、天井の蛍光灯も点いている。灰色のビニルタイルには、何度も作業台を動かしたらしい傷が残っていた。
入口寄りの掲示板に地図。壁際の棚に測定器と部品ケース。窓際の机に古いデスクトップと、開いたノートパソコン。机の下に登山靴。泥の残る手袋は作業台脇のラックに干してある。
日向は慣れた様子で鞄を椅子に置いた。俺だけが入り口で立ち尽くす。
なぜかかなり大きめのダンベルが床に転がっている。
「何あれ」
「筋トレ用」
「そういう部活?」
「あの人だけ」
「お前らも少しは鍛えろ」
辰馬の言葉を遮った声は、机の端に置かれた携帯からだった。通話中の画面が光っている。
スピーカー越しの声は、部室の隅まで届いていた。
「聞いとったけど、やっぱ変やな、恒一」
「ガク兄」
小津岳人。
その名前は迷わなかった。
近所の兄ちゃん。ガキの頃から周りより一回り以上デカかった。
身体はデカいのに手先は器用で、俺に機械いじりを教えてくれた人。
俺が壊したラジコンを、一緒に開けたことがある。
「外からじゃなんもわからん、開けたら意外とぱっとわかるもんや」
壊れたものを開ける。
外から見ただけじゃ分からないから。
そういう癖の始まりが、ガク兄だったのかもしれない。
2037年でも知っている。俺がいた、元の世界。
「原世界」
と名付けかけて、やめた。
何だそれ。
とりあえず未来側。
今はそれでいい。
「峠側の観測、早めに切り上げたけど、今日は顔出せん」
「奥へ入ってないね?」
掲示板の地図に線を描いていた白衣の女性が、ペンを止めずに答える。
髪は後ろで雑にまとめている。白衣もきっちり着るというより、作業の途中で羽織った感じだ。
「入ってません。足跡がいつもと違ったんで、道路まで下りてます」
「ならいい。気をつけて帰って」
「はい」
「はい、が軽い」
「荷物は重いんですけどね」
「そういう話じゃない。間違ってもクマにプロレス技かけようなんてするなよ」
「先生、俺はプロレスファンであって、プロレスラーになりたいわけじゃ」
「そうか。体育の柔道でフルネルソンスープレックスで柔道部主将を仕留めたアホがいると職員室で話題になってたんでな」
「我ながら見事に決まりましたね」
「ほめてないぞ」
「まあ体育の先生にはこっぴどく怒られたんですけど、検証しただけっすよ、襟を取らせなきゃ勝てるんじゃないかって……」
電話が切られた。
俺は少し笑った。
俺が知っているガク兄も昔から、機械とプロレスが好きだった。
あの人にプロレスの話をさせると、技の凄さより、その技がどういう意味を持つかという話になる。
何でもないヘッドロックが、積み重ねた因縁と試合の流れ次第で観客を総立ちにさせる。
選手だけじゃない。実況も、レフェリーも、観客も。その全部が関わって1つの試合になる。
歓声も悲鳴も野次も、それらを取り込んで戦いで魅せるのがプロレスラーなんだと。
機械も、1個の部品だけじゃ何もできない。部品同士がつながり、働き合って、初めて機械になる。
そして機械も人間が手をかけないと動かなくなるし、手をかけると性能が上がる。
「パフォーマンスってよくできてる言葉やな」
ガク兄はよくそう言っていた。
理解を深めることでパフォーマンスを上げられるのが共通しているんだと。
体育の柔道でフルネルソンスープレックスを決めるのが理解を深めた結果だとしたら問題だとは思うが。
電話を切って振り向いた女性を見る。
白衣の左胸に、小さな名札が付いている。
〈平賀 絃〉。その上に、小さく〈現相工学〉と書かれている。
「平野。今日は大人しくしてろ。機械を触るなら、先に声をかけて」
担任や保健室から話が回っているらしい。
「あの、俺、先生のことも……」
「私のことも抜けてるのか?」
「すみません」
「謝るより、体調悪かったら言う」
淡々としている。
俺をいきなり怪異扱いしないのはありがたい。
……と思ったところで、先生が俺を見た。
「ただし、怪異由来の影響がないとはまだ言わない」
「え」
先に言われた。
「昨日まで普通だった人が、今日になって記憶の一部だけ大きく抜けてる。現研なら候補には入れる」
「じゃあ平野そのものが怪異って可能性もあんの?」
辰馬が半分冗談みたいに言った。
笑うところかと思った。
絃先生は笑わなかった。
「可能性としては切らない」
その瞬間、冗談じゃなくなった。
自分が怪異かもしれない。
口にしていないのに、思ったより嫌だった。
先生は俺の顔を見た。
「可能性をゼロにしない。でも、今のところそう判断する材料もない」
決めつけない。
それだけで少し楽になる。
「絃先生。足元にネジ」
窓際の机から声がした。
小柄な女子が、ノートパソコンの画面から一度だけ目を離して先生の靴の横を指す。
短い黒髪に黒縁の眼鏡。制服の上に学校指定の白地に赤いラインが入ったジャージを着ている。
この部室の作業場みたいな環境なら、制服を汚さないようにしているのかもしれない。
先生が1歩引き、床を見る。
「あった」
拾ったネジを、机の小皿へ入れた。
「最後の1本かは確認してください」
女子はもう画面へ目を戻し、素早くキーを叩いている。髪も制服もきっちりしていて、眼鏡もかけてるのに、パソコンにはやたら近い。
辰馬が小声で言う。
「ちひろっち、今日も厳しいねぇ」
俺も小声で返した。
「ちが多いな」
女子がこっちを見る。
聞こえていたらしい。
「八木千尋です。2年。分かります?」
「顔は、なんとなく」
「十分です。おむすびは直りましたか?」
「俺の?」
千尋が壁の掲示板に留めた写真を指す。
泥の斜面で、白い三角形のロボットが見事にひっくり返っている。
赤字で、
〈小津先輩、転倒後も押さない。確認事項増〉
その下には、
〈おむすびころころ事件として記録〉
と粗い文字にきっちりとした二重線が引かれている。
「被害者、機械の方なんだな」
「先輩の機械です」
「そこは分かってる」
分かっていないことが多すぎる。
そこくらいは守りたい。
「犯人は、小津」
「それもわかった。なんでポートピアなんだよ」
辰馬が古いゲームが好きという要らないことは分かった。
「忘れてるって言う割に、背中の鞄におむすび入れてるじゃないか」
窓際から、別の声が飛んできた。
入った時からそこにいた背の高い女子が、細長い袋を壁と椅子の間に立てかけている。
声の主だった。
黒髪を高い位置で1つに束ねている。紺と白のセーラーブレザーは日向と同じだが、深緑のタイをネクタイのように結び、スカートの下には黒いタイツ。立ち姿が妙にきちんとしていて、辰馬とは別方向に目立つ。そのせいかスカート丈が短いのが、ファッションというより機能性の結果なのもなぜか伝わってくる。
辰馬が小声で言った。
「トワっち」
「本人の前でトワっち言うな」
女子が振り向く。眼光が鋭い。
「聞こえてる」
「俺じゃない」
「今、平野も言った」
しまった。
「柳瀬十和。昨日は家の手伝いで来られなかった。そこまで覚えてる?」
「名字だけ。昨日のことは今朝聞いた。で、今、名前に顔がついた」
「なら進歩だね。之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為す。是れ知るなり」
「……何?」
「論語。知らないことを知ったふりするな、ってこと」
論語、存在するのか。教科書に出たくらいしか知らないから、同じ言葉があるのか知らないけど。
「今の俺には簡単だな。知らないことだらけだから」
「威張ることじゃないだろ」
袋の口から木刀の柄が少し見える。
「剣道?」
「家の訓練で使ってる。この部活では使わない」
「家が剣道場?」
「怪異対処の仕事。私は好きじゃないけど通称、退治屋って呼ばれるやつ」
豆腐屋みたいな言い方だった。
怪異。
朝から何度か聞いた言葉。
「退治するってことは怪異って、やっぱ妖怪的な?」
十和の目が細くなる。鋭いというよりいぶかしむ目だ。
辰馬まで顔から笑いが消えてる。
絃先生が作業台の脇からパイプ椅子を引き出した。
「とりあえず、ここに座って。1個ずつでいい。まず、何が分からない?」
その聞き方が助かった。
全部、じゃなくていい。
俺は鞄を置いて座り、携帯とノートを出す。
朝から増やしているメモ。
「まず、Sh。朝テレビに出てた」
「シキ。げんそう干渉強度を表す単位です」
千尋が答える。
千尋は俺の開いたメモのひらがなを見て、パソコンへ〈現相干渉強度〉と打ち込み、画面をこちらへ向けた。
最初の2文字を指した。
「現実と相関で、げんそうです」
ようやく朝のテレビで聞いた音に字がついた。
「その現相ってのは」
「その場所や対象で、現実の状態がどれくらい“ずれやすいか”を見るための指標です。ただし原因そのものを測っているわけではありません」
「強度って言ったけど、強弱なの? 高い低いで見るの?」
「表示は数値です。住宅地や道路なら30〜50 Shほどが一般的です。神社の境内には10 Sh以下の場所もあります」
「神社はそんなに低いんだ」
「うちも、参道とお社の前じゃ同じ数字にならないよ」
日向が言った。
「安い測定器でも分かる?」
「廉価な民生用の機械は整数表示です。一桁台だと誤差が大きいので、0 Shと出ても完全なゼロとは限りません」
「なるほど。で、低い方が安全なの?」
「高い時に異常が出やすい傾向はあります。でも、高いから怪異、低いから安全とは決められません」
一旦ノートに書き出す。
〈Sh=現相干渉強度の単位。普通の場所では30〜50程度。高低だけで怪異とは判定できない〉
「次。変生ってのは?」
「生き物が、周囲の現相の偏りや怪異との接触なんかで、普通と違う状態になること」
十和が答える。
「感染?」
「感染とは限らない。場所に長くいた結果のこともあるし、接触がきっかけのこともある」
呪いと聞くと呆れられる気がして聞き方を変えたのに、感染もあるのか。
「熊とか猪が変生したら?」
「気性や容姿に変化がでる」
「凶暴になって危険?」
「そうとも限らない」
「てか、熊の時点で危険だろ」
辰馬が横から言った。
「それはそうだけど、さっきの退治屋ってのはそういうのも退治するんだろ?」
「それも、そうとも限らない」
「なんで?」
「熊が怪異の影響から抜ければ、そこからは猟友会に任せることになる」
また書く。
〈変生=現相影響で生物の状態が変わる。危険とは限らない〉
書いてから顔を上げる。
「変生ってのが怪異なることかと思ったけど、そもそも、その怪異ってのは?」
「そこは一言にしない方がいい」
絃先生が言う。
「かつては、妖怪、悪魔などのように視認できるものを怪異とし、それらが起こす現象を怪異現象としていた。お前がさっき妖怪といったものは、それを指しているんだろう?」
俺は頷く。
「でも、今のお前が現相を理解できていないというなら、怪異はもっと広範囲な現相で変わったもの全般を指すと認識を変えて。物でも、生き物でも、場所でも、出来事でも起きる。現実の認識や関係までおかしくするものもある」
「それ、範囲広すぎません?」
「だから研究する。原因が目に見えるとは限らない。それでも現相の変化で起きる異常がある。だから、それら含めて怪異と呼ぶようになってきた」
なるほど。
この世界でもまだ研究中。呼称も用語も変化しているわけか。
「じゃあ現研は?」
「現相環境研究部」
やっぱり略称を表札にしていたのか。
「学校には怪異へ直接対応する別の部活もある。ただし、ここでいう対処は、部活で模擬対処や判断、実技を訓練する方。実際の事件へ出るのは警察や専門職」
ちゃんとしてるな。
高校生が勝手に怪異退治へ出る世界ではないらしい。
「そっちが“出たもの”への対処手順を学ぶなら、現研はその前後を見る。どこで何が変わったか。機械故障なのか。人の勘違いなのか。怪異なのか。分からないなら、分からないまま記録する」
そこは分かる。
そして、この部活は分からないものを、分からないまま扱う部活。
俺には妙に馴染んだ。
之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為す。是れ知るなり。
今度、論語を読んでみるか。
「授業で扱う部分もあるが、うちは実際に山に入って観測したりもするし、機材の研究なんかもしてる」
「主に平野がばらして、ネジをなくし、ガク兄が山で壊す」
「部費が無駄になります」
辰馬の茶化しに千尋が真面目に言う。
どうやら、ここでの俺も機械をとりあえず開けるくせがあるらしい。
それでガク兄は今日、山に入っているのか。
絃先生が線を引いていた掲示板に貼ってある山の地図を見る。地図の周りには山で撮った観測記録の写真も貼ってある。
「昨日はみんなでその山に行ってたんだよ」
日向が俺の視線を追って言った。
その隣に、さっき絃先生が言っていた別の部活のポスターもあった。
〈怪異対策部 全国大会出場〉
大会とかあるのか。
中央には木刀を構えた女子が写っている。髪型や雰囲気は違うのに十和によく似ている。
「姉。柳瀬零。5年」
十和が言う。
「俺の顔、質問出る前に分かる?」
「分かりやすい」
辰馬が頷く。日向はもっと強く頷いている。
「怪異対策部部長。私はもっと知見を広げたくてこっちの部を選んだ」
「聞く前に答えられるの怖い」
「字幕出てるし」
「心の字幕」
「お前ら2人とも後で覚えとけ」
「忘れてるの、平野の方だろ」
「それは今言うな」
部室に笑いが出る。
少しだけ、呼吸できた。




