第四章「敵に回す」 2/8
ジェイクが来てから、数日が経とうとしていた。
奴は座学講習はおろか、仕事実習も戦闘訓練も参加しない。
ただ悠々自適に、この監獄を自分の庭のように遊び歩いていた。
そして、食堂の一件以降は、ほとんど接点がないと言っていい。
ジェイクが動かないおかげで、俺たちは平穏な囚人生活を送れていた。
――その静けさが、ほんの少し不気味に思えるくらいには。
そしてついに、囚人たちが待ちに待った日がやってきた。
本来なら夜飯を食べて、男女に分かれて風呂に行き、その後囚人室に戻る。
だが今日は、囚人室に戻る前に刑務官からプレゼントがある。
「本日は給料日となります。一人ずつ呼びますので、囚人番号を呼ばれた方は受け取りに来てください」
刑務官が給料日を告げると、あたりは一気に歓喜の渦に包まれた。
「よしよしよしッ! ついに来たぞッ!! 給料日ーーーーーッ!」
たらし野郎はルンルンなステップで俺に近寄り、背中をバシバシ叩いてくる。
やかましいことこの上ないが、かくいう俺も、内心テンションが上がっていた。
金がないときには買えなかったが、いつもの食券とは別に
“ウルトラスーパーランチセット”や“スペシャルハイパーディナーセット”なんてメニューがある。どれも銀貨数枚は飛ぶため普段なら手が届かないが、給料をもらえた今なら話は別だ。
というわけで、打ち上げを提案してみた。
「この金で、明日にでも打ち上げするか!」
「いいじゃんいいじゃん、使いまくるぜ! 明日だけとは言わず、明後日も!」
「はぁ……アンタたちねぇ、貯金とかするつもりないわけ?」
せっかくの給料日に、泥女が水を差してきた。
とても給料日に聞くセリフとは思えない、という顔をしたたらし野郎が即座に噛みつく。
「あのな……なんでこんなストレス溜まる場所で、お金まで貯めなきゃならんのだ!
使わなきゃただの持ち腐れだろ!」
「はぁ~やだやだ。これだから後先考えずに生きてる男どもは」
「じゃあ明日、俺たちがスペシャルハイパーディナーセット食べてても文句言うなよ?」
「…………二口もらうわ。それで勘弁してあげる」
「ざけんな、金払えよ」
以前一度だけ、「今日は空腹だから一口ちょうだい」と泥女にせがまれたことがあった。一口だけなら、と許したら――栗鼠想喰みたいに頬をパンパンに膨らませる量を持っていかれた。
あれ以来、こいつの一口は信用していない。というか二口もくれてやったら、断食コースになりかねない。
そんなトラウマを思い出していたところで、俺の囚人番号が呼ばれた。
俺は余裕をもって、堂々と、そしてゆっくり刑務官の元へ歩き出す。
ここで走って向かうような奴は――たまに行く夜の賭場で有り金をすっからかんにして、追い銭を作りに走って金を取りに行く俺と同レベルだ。そう思われたくない、というしょうもないプライドが勝った。
「囚人番号0610さん。こちらが給料になります。預ける場合は、奥の金庫棚を利用してください」
奥には頑丈そうな金庫がずらりと並んでいた。盗難防止用か、しっかりと監視想具も設置されている。ここは監獄だ、盗難云々の問題が多いのも当然か。
俺は、明日使う分だけをポケットに入れ、残りは全額預けた。
その後、たらし野郎も泥女も給料を受け取り、各自中身を確認していた。
そこでようやく気づく、俺だけ明らかに金額が少ないことに。
まあ、それも当然だ。
この金は仕事実習の給料で、例の事件のあと医務室にこもりっぱなしだった俺が少ないのは当たり前だ。そう頭では分かっていても、あのとき命張って頑張ったのに報われないことが残念だった。
すると、その場に――突然ジェイクが現れた。
仕事実習を一度もこなしていない奴が、給料日にここへ来る理由なんてないはずだ。だが、ジェイクはニヤけ顔のまま、全員に聞こえる声で叫んだ。
「よぉし、全員給料を受け取ったなぁ? ではこれより“献上”を開始するぅ!!」
何やら意味不明なことをほざいているので、たらし野郎と泥女に小声で愚痴る。
「献上だぁ? 何をほざいてんだあの野郎……」
「正常じゃないのは確かね」
(やかましいこと言うな、静かにしろ! しかも全然上手くねぇし!)
ジェイクは、わざとらしく胸を反らせて説明を始めた。
「分からねぇカスのために、心優しいこの俺が説明してやる。
ここでは、俺が“絶対”だ。故にカス共が汗水たらして稼いだ金も、全部俺の貢ぎ物になる。けどよぉ、全員から全部徴収するのはちげぇよなぁ? 俺一人が抱えたところで経済は回らねぇ。
だからこそ……“俺に全て貢ぐやつ”を、今から一人指名する。嬉しいよなぁ!? この俺に捧げることができるんだ!! ひゃっひゃっ!」
それは、誰もが喜ぶ給料日の幸福を、一瞬で踏み潰す宣告だった。
ジェイクの言葉に絶望したのか、誰も声を発さない。
その沈黙が気に入らなかったのか、奴はわざと声を低くする。
「おい、カスども。『嬉しいよな?』って俺は投げかけたよな。なんか反応しろよ」
ギロリと睨む視線に耐えきれず、囚人たちは空笑いを浮かべ、
ジェイクを褒めそやす声が、ちらほらと湧き上がる。
そんな様子を、俺たちは冷めた目で眺めていることしかできなかった。
――内心、分かっていた。奴が指名するのは、俺だ。
食堂の一件から何もしてこなかったのは、油断させるため。
つかの間の幸せを味わわせてから、俺を絶望のどん底に叩き落とすためだ。
そんな俺を見かねて、たらし野郎と泥女が声をかけてくる。
「間違っても手を出すなよ? 金なんぞ、後でオレたちで分ければいいんだからな?」
「銅貨なら恵んであげるわよ」
女の情報を集めまくって口説き回るチャラ男と、手癖が悪くて思ったことをそのまま口に出す毒舌女とは思えない台詞だった。犯罪に手を染めた者同士だが、根っこは良い奴らなんだと改めて思う。
「今回の指名は……」
そう言って、ジェイクは囚人たちの間をうろうろ歩き回り始めた。
こいつなりの演出ってやつだろう。ふざけやがって、さっさとしやがれ。
そして次の瞬間、ジェイクが指差したのは――。
「お前だ、そこの赤毛の女」
俺ではなく、泥女だった。
「…………え?」
それは俺の声か、泥女の声か。
判別できないくらい、俺たちは同じタイミングで驚いていた。
「さっさとしろよ。俺の前に来い」
泥女は震える声で、ジェイクにすがるように問い返す。
「……待ってよ、なんでアタシなの?」
「あ? 知らねぇよ。たまたま目に入ったから選んだだけだ」
ジェイクは俺に執着していると思っていた。だが、実際は違う。
俺は奴にとって“玩具のひとつ”でしかなく、今日はたまたま、別の玩具に目が向いただけ――そう言わんばかりだ。金庫の前で立ちすくむ泥女に、ジェイクが苛立った声を飛ばす。
「いつまで突っ立ってんだ。さっさと金庫開けて、俺に寄越せ」
「…………嫌」
「……あ? よく聞こえなかったなぁ。もう一回聞かせてみろよ」
「渡さない。これはアタシが犯した罪を償うために充てるお金……アンタみたいな、お金の価値も分かってないやつに渡したくないッ!!」
泥女は、ジェイクを前にしてはっきり言い切った。
静寂が落ちる。
大した度胸だった。だが――それを許すほど、ジェイクは優しくない。
奴は泥女にゆっくり近づき、その顔面を強打した。
「――っ……ッ!」
女だろうが一切容赦のない拳に、場の全員が息を呑んだ。
口の中を切ったのか、泥女の唇から血が滲む。
「おい、誰に向かって意見言ってんだ? あ?」
倒れこんだ泥女の髪を鷲掴みにして引き起こし、自分のほうへ顔を向けさせる。
そのまま、今度は容赦ない平手打ちが飛んだ。
「きゃっ……!」
その様子を少し離れた場所から見ていた俺は――気づけば、もう右足が一歩前に出ていた。だが、それをたらし野郎が腕を掴んで止める。
「手を出すなって言っただろ!! お前が行っても、ややこしくなるだけだ!」
「いや……けどッ!」
次に視線を向けた瞬間、泥女の腹にジェイクの拳が深々とめり込んでいた。
「か、はっ……!」
「テメェみてぇな市民が、俺に指図ぅ? 笑っちまうよなぁ!?」
二度と同じ轍は踏むまいと、周囲の囚人たちは条件反射のように愛想笑いを浮かべる。その光景を、俺はただ――歯噛みしながら見ていることしかできなかった。
倒れ込んだ泥女の髪を、再びジェイクが乱暴に掴み上げる。
「教えといてやるよ。“長い物には巻かれろ”。
弱者と強者なんざ、生まれたときから決まってんだよ。
お前ら弱者はなぁ、相応しく地面を這いつくばってりゃいいんだ」
「……何を言われようが……渡したくないッ……!」
涙を浮かべながら、それでも泥女はそう吐き捨てた。
その顔を――俺はもう見ていられなかった。
「おいおい、まだ足りねぇか? とんだマゾ女だ。嫌いじゃねぇぜ、お前みたいな奴」
たらし野郎にも、クレリアにも、これでもかというほど言われた言葉を思い出す。
だから、その約束を破るわけにはいかない。
込み上げる怒りを押さえ込むために、俺はあえて口に出した。
「ああ、手は出さねぇよ」
その言葉に、たらし野郎はホッとしたように手を離した。
そして俺は――左手から風の加護を全力で射出する。
この風は、まだまともに制御できない。
ほとんど身動きも取れないほどの勢いで、俺の体は一直線にジェイクのほうへ吹き飛ばされた。
そのまま、ジェイクの顔面めがけて”蹴り”をお見舞いする。
あまりにも突然の出来事に、ジェイク自身も何が起きたのか分からなかったのだろう。受け身も取れず、二、三回転する勢いで派手に転がり、そのまま仰向けにぶっ倒れた。
奴にしてみれば――なぜ自分が天井を見上げているのか、理解不能だったはずだ。上体を起こしかけたジェイクに、俺は状況説明をしてやる。
「悪ぃな……《《足が》》滑った」
遠目ではあるが、奴の一番嫌いな“見下ろす構図”を、しっかり作ってやる。額に青筋を浮かべながらも、ジェイクは口の端を歪めて笑い、ゆっくり立ち上がった。
「……クハハ、やっぱ面白れぇよ、お前」
絡みつくような声には、はっきりとした殺意が滲んでいた。
気づけば、俺の右手には剣が握られていた。
自分を守ろうとする防衛本能が、勝手に想具を形にしていた。
「そう来なくちゃなぁ……あぁ、いいねぇ。
ぶっ殺したくなっちまったぁ!!」
ガキンッ、という金属音と共に、奴の手には巨大な大鎌が現れた。
――こうなりゃヤケだ。やってやるよ。
俺は右手の剣を握りしめ、目の前のクソ野郎と真正面から向き合った。




