第四章「敵に回す」 1/8
その夜、俺は自分の囚人室で日課の鍛錬をしていた。
腕、足、腹。
この狭い空間でできることなんてたかが知れているが、今の俺にできることを精一杯尽くしている。
だが――今日だけは、いつもと同じじゃいられなかった。
煮えたぎる怒りをどうにかしないと、眠れそうになかったからだ。
だから、目標回数を全部倍にした。
「198……199……200ッ! ……はぁ、はぁ……」
汗だくのまま床に倒れ込み、仰向けになる。
天井を見上げて息を整えながら、さっきクレリアから聞かされた話を思い出していた。
* * *
『ジェイク・ロウガーデン。
セバスト様の……ご子息にあたります』
『また……その名前かよ』
つくづく縁があるらしい。
ろくでもない親に、ろくでもない息子。想像するまでもなかった。
『普段なら、セバスト様に証拠を握りつぶされてジェイクさんは無罪放免。それで、罪を逃れることが当たり前でした。けれど、貴方のせい……いえ貴方のおかげで、セバスト様は現在自室に引きこもられています。きっと匿うタイミングが遅れたのでしょう。それが、さっき言っていた“特別な条件”となります』
ほんのちょっぴりやりすぎたかなと思っていた拳骨が、結果としてはいい方向に転がっていたらしい。
『どんな奴なんだ? そいつは』
『歳は二十歳。幼くして想弾師になった、いわゆる天才です。
そして性格は……言うまでもありませんが、褒められたものではありません。
同じ三大貴族として何度かお会いしましたが、周囲への侮辱、暴言、暴行……見るに堪えませんでした』
セバストが可愛く思えるくらいの邪知暴虐っぷり。
そいつへの怒りが、またじわじわと胸の奥から這い上がってくる。
『刑期は……何年なんだ?』
答える前に、クレリアは一度苦しそうに目を伏せた。
『……三ヶ月、です』
その瞬間、怒りがこみ上げた。
『人を死に追い込んで……たった三ヶ月だと……!?
ふざけんなよッ! どうせセバストが後から介入したんだろ!』
『はい……。私では、どうすることもできず……』
『っ……すまねぇな。クレリアに当たっても、しょうがねぇのに』
怒りの矛先が間違っているのは分かっている。
それでもぶつけずにはいられないくらい、理不尽な話だった。
しばらくしてから、クレリアはまっすぐ俺の目を見て、きっぱりと言った。
『約束してくれましたよね。手を上げないって。ジェイクさんが横柄な態度を取っても、絶対に守ってください。刑期が伸びるどころの騒ぎではありません……。彼を敵に回したら、私でも止められません』
熊型想喰に暴発男――あの場をたった一人で収めたクレリアの強さは、この目で見ている。その彼女が止められないとまで言う相手だ。興味半分、警戒半分で問い返した。
『そんなに強いのか?』
『はい。私が思うに、この国の“五本の指”には入るかと……』
『……クレリアが言うなら、間違いねぇんだろうな』
頭では分かっている。挑発されて殴りかかれば、待っているのは自分の破滅だ。
だが、胸の奥に渦巻いている怒りは簡単に冷めてくれそうになかった。
そんな俺の様子を見て、クレリアは少しだけ声を柔らかくして続けた。
『スプラウト雑貨店。貴方には“帰る場所”がありますよね。
本日、私もご同行させていただいて、ウィン君とジュリアさんが、心の底から貴方の帰りを待っていることが分かりました。その想いを……どうか裏切らないでください』
* * *
俺はそこで目を開け、勢いよく上体を起こした。
汗を拭い、洗面台代わりの水を顔にばしゃっとかける。
「……そうだよな」
俺には帰る場所がある。
だからこそ、安い挑発に乗って殴りかかるわけにはいかない。俺はそう誓った。
ベッドに寝転がり、天井を見ながら、ふと頭に浮かんだ疑問を思い出す。
「そういえば……クレリアとロウガーデン家って、なんか関係あんのかな」
セバストの悪口になると、妙に避ける節があるし、
たとえジェイクがどれだけ強かろうが、騎士団として止めようとしそうだが……。
まぁ貴族同士の面倒ごとなんて、囚人の俺が首を突っ込む話じゃないのかもしれない。そんな考えが頭をよぎったところで、思考を強制的に切り落とす。
「……今考えてもしゃあねぇしな」
その胸のモヤをいったん押し込めるように、俺は眠りについた。
* * *
後日。俺たちは夜飯前の仕事実習に駆り出されていた。
作業内容は、熊公が暴れ回ってボロボロになった訓練場の壁と、俺がぶち破ったガラスの補修だ。
あのときは切羽詰まっていて周りを見る余裕なんてなかったが、改めて眺めてみると本当に傷だらけだった。よくまあ死人が出なかったもんだと、今さらになって背筋が冷たくなる。
ひび割れた壁に壁土を塗り込んで補強していると、たらし野郎がぼそっと話しかけてきた。
「おいキンパツ、本当に本当なのか? この監獄にロウガーデン家のご子息が来るって話」
「ああ。未成年の女の子追い詰めておきながら、刑期は三ヶ月だとよ。どうなってんだ、この国は……」
「そもそも、貴族が監獄に収監されること自体が前代未聞だ。しかも三大貴族とは……お前、三ヶ月の間は大人しくしてろよ?」
「人を想喰みたいに言うんじゃねぇ」
そんなやり取りをしていると、いつの間にか泥女も近くの壁を補強しながら会話に入ってきた。
「さっき刑務官が話してたけど、もう食堂にいるらしいわよ。
とても囚人とは思えない態度で、ふんぞり返ってるってさ」
「あぁ……終わった。オレたちの憩いの食事場が、殺伐とした戦場になっちまった」
「戦場? 何言ってんだ、別にほっとけばいいだろ」
横柄な態度を取っていようが、視界に入れなきゃいいだけだ。
だが、たらし野郎はやけに真剣な眼差しで俺を見た。
「ち・が・う! 座席の話だよ!!食堂は自由席……つまり、いかに早く奴の位置を把握し、最も遠く、そして見つかりにくい席を確保できるか。それが俺たちの食生活に直結してくる。だが、そんなことは囚人全員が考えていることだ。つまり……食堂はたった今この時から、座席を奪い合う戦場になったってわけだ!」
何を熱弁してんだこいつは、と呆れつつも――勝負事となれば話は別だ。
俺はニヤリと笑い、たらし野郎に告げた。
「ほぅ……それは負けられねぇな。盛り上がってきたじゃねぇか」
「盛り上がってんのはアンタたちだけよ」
一人だけ冷めた声を出しやがったので、軽く毒を刺しておく。
「じゃあ泥女はそのドラ息子の隣、行ってやれよ?」
「死んでもごめんだわ。もしそうなったら、アンタたちも道連れにするからよろしく」
「そんなことしてみろ、マジで呪い殺すからな」
そんなふざけたやり取りをしているうちに、仕事実習の終わりを告げる鐘が鳴り響いた。刑務官の号令とともに、俺たちは食堂へと向かうのだった。
* * *
俺たちが見慣れた場所にたどり着くと、席の配置はいつも通りなのに、空気だけがまるで別物になっているのが一目で分かった。
その原因は――中央に堂々とふんぞり返っている男だった。
両脇には、囚人の中でも顔立ちの整った女を二人はべらせ、机の上には金貨五枚はくだらないであろう牛型想喰の肉がこんがり焼かれて乗っている。その隣には、夜の店でしかお目にかからなさそうな、いかにも高そうな酒瓶。
さらに背後には、ガタイのいい囚人を二人、きっちり立たせている。さながら用心棒だ。
「ッケハハ、この監獄にぶち込まれたときは、あのクソ親父をぶっ殺してやろうと思ったが……存外、悪くねぇな」
食堂全体の空気が、ぴりっと張りつめるのが分かる。
そして、そいつは気まぐれに囚人を指さした。
「おい、そこのハゲ」
「は、はっはい。私でしょうか?」
「テメェ以外にハゲはいねぇだろ。舐めてんのか?」
“ハゲ”と呼ばれた、髪の薄い気弱そうな囚人がビクビクしながらジェイクに近づいていく。
「ここの椅子は硬ってぇよなぁ。この俺が……腰を痛めたら可哀想だよなぁ?」
「え、はっはい……」
「なら、さっさとやれや」
もはや指示としては曖昧にもほどがある。
それでも――ハゲがやるべきことは一つしかなかった。
ジェイクの背後に回り込み、四つん這いになる。
そして、用済みになった椅子を蹴り飛ばし、その男の背中に腰を下ろした。
「ケッハッハッ!! 悪くねぇ、悪くねぇ!! クソ親父さまさまだなぁ!!!」
その様子を遠目から見ていた俺は、すこぶる機嫌が悪かった。
「やっぱり実物は鮮明だな。想像してた百倍以上に、苛立たせてくれるぜ」
「見てて不愉快ね」
(マジでやめろっ! 声を落とせって!!)
奴がご機嫌で笑い飛ばしているあいだに、俺たちは食券を受け取り、できる限り遠くて、かつ視界に入りにくい席をなんとか確保した。あいつが食堂の中心に陣取っている以上、ここがほぼ最適解だ。
――だが結局のところ、座席の距離なんて意味がなかったと、すぐに思い知ることになる。
「あぁ、そうだ。この中にぃ~? 俺のクソ親父をぶん殴った奴がいるらしぃなぁ!?」
食堂中に響くような声でそう叫び、俺をご指名した。
「うわっ、やべぇ……キンパツ、バレねぇようにトイレ行ってこいって!!」
「はぁ……もう遅いわよ」
泥女の呆れ声が後ろから聞こえ、その直後にたらし野郎の情けない悲鳴も続く。
だが、この件にこいつらを巻き込むわけにはいかない。
俺は一歩ずつ、床を踏みしめるようにして、ジェイクのもとへ向かった。
そして、ふんぞり返るその男と真正面から向き合う。
近くで見ると、あのクソデブの息子とは思えないくらい整った顔立ちをしていた。
だが、いくら外見が良かろうと中身がこれじゃあ意味がない。こみ上げる苛立ちを押し込み、できるだけ平静を装って口を開く。
「よぉ、呼んだか?」
「テメェか……なるほどな。この俺を前にしてヘコヘコしねぇ奴は久しぶりだ。嫌いじゃねぇぜ? テメェみてぇなの」
「生憎だが、お前の片思いだ。要件は何だ?」
「クソ親父の件だ。テメェがぶん殴ったせいで、すっかり引きこもりになっちまってなぁ。おかげで手回しが遅れて、この俺が監獄に入るハメになった。……どうしてくれんだ?」
「俺にあたるのは“お門違い”ってやつだ。お前が罪を犯して、その罰として監獄に収監された。ただそれだけだろ」
ジェイクは一瞬きょとんとした顔をしたかと思うと――腹の底から笑い出した。
「ケッハッハッハ!!! おいおい、お前、笑いのセンスあるよ」
「何がおかしいんだ?」
握りこぶしが今にも弾け飛びそうになる。
それでも必死にこらえ、奴の言葉の続きを待った。
「この俺が? 何の罪を犯したって言うんだよ」
涙を浮かべてニタニタ笑う、このクズに、俺ははっきりと言い放つ。
「お前に踏みにじられて、命を絶った女性がいる。
その仇を取ろうとして、我を失った親父がいる」
「あのな……バカなお前に教えといてやるよ。
あの女がこの俺と楽しめたこと、それは光栄ってやつだ。
市民ごときが、三大貴族の俺と対等に交われるなんて、滅多にねぇ機会だ。褒められることはあっても、罪だの罰だの……言われる筋合いねぇだろ?」
その言葉が、頭に血が上るなんて生易しい表現では済まされないほどの怒りを呼び起こした。視界の端が赤く染まりそうになるのを、必死に押しとどめる。拳に力が入りすぎて、軋む音が聞こえそうなくらいだ。それでも――殴らない。ただ、ジェイクを睨みつけることしかできなかった。
そんな俺の態度が気に障ったのか、笑っていたジェイクの顔から、ふっと笑みが消える。
「おいおいおいおい、テメェさぁ? 見つめるのは勝手だけどよぉ」
そう言って、ジェイクは目の前の机を蹴り飛ばした。
高級肉と酒が床にぶちまけられ、周囲の空気が一瞬で凍りつく。
ジェイクはゆっくりと立ち上がり、俺をまっすぐに睨み据えた。
「市民ごときが、貴族を見下してんじゃねぇよ」
身長はほぼ同じ。完全に視線の高さが揃う。
この視線だけは、絶対に逸らさないと心に決める。
実際にはほんの数秒。けれど、体感では何分にも感じられる沈黙のにらみ合いを先に切ったのは――ジェイクのほうだった。
「いいねぇ。どいつもこいつも物足りねぇと思ってたからよ……気に入ったぜ?」
「どんだけ気に入られようが、俺はてめぇとつるむ気はない」
「悲しいこと言うなよ。友好の証に呼んでみろって――“ジェイク様”ってな」
「ッ……!?」
確かに、こいつは自分の名前を口にした。
だが――警報は鳴らない。近くに控えている刑務官も、一切動かない。
この監獄では、自分こそがルールだと。
ジェイクは、その事実をたった一言で見せつけてきたのだ。
「従うのも、逆らうのも自由だ。
だが……この俺を退屈させんなよ、キンパツ君?」
どうせ知っているはずの俺の本名は、あえて口にしない。
――まだ簡単には終わらせる気はない、という宣告のように思えた。




