第二章「目醒め」 4/5
つい先ほど、この私に説教をかましてきた男は、目の前のガラスを蹴破り、そのまま下へと落下していった。
私はあいつのことが嫌いだ。
何の苦労も知らずに、適当に生きてきたような顔をしているくせに、自分の気に入らない相手にはすぐ手を上げる。ガサツで、野蛮で、騎士団とはいちばん縁遠いタイプ……私の父親にそっくりだった。あいつを見ていると、嫌でもあの悲劇を思い出してしまう。だから……嫌いなのかもしれない。
そんな奴に何を言われようが、私の“執念”は揺らがない――はずだった。
だけど……クレリア隊長の名を出された瞬間、ほんの一瞬だけ、私の中で何かがぐらついた。もし今、クレリア隊長がこの隣に立っていて、下で起こっている光景を一緒に見ていたとしたら。
私は、まっすぐにその目を見て正しいと言い切れるだろうか――。
……言えない気がした。
それでも私は、もう戻れない。
ここまできて、立ち止まることも引き返すこともできない。
だから私はただ通常通り、戦闘訓練を監視するだけだ。
* * *
その標的は、上から見ていたときよりも、はるかに巨大に感じられた。それが、目の前に立ったときの第一印象だった。
(……こいつを倒すには、やっぱりアレを使うしかねぇな)
俺は熊型想喰から視線を外し、覚醒想具へと目をやる。
最初に腕を通した囚人は、思いっきり感電して腕をただれさせた。
あれを見たあとで、次に自分から腕を入れてみようなんて物好きは――普通いない。
――俺を除いて、な。
俺は一目散に覚醒想具へ駆け寄り、その穴に右腕を突っ込んだ。
瞬間、視界がぐらりと揺れる。
骨の髄まで響くような圧が全身を走り、身体の芯がきしんだ。
(……くっそ、が……! けど、まだ耐えられる!)
腕はがっちり固定され、逃げることも身をかわすこともできない。
それでも、俺は振り絞るような声で叫んだ。
「たらし野郎ッ!! それに泥女ッ!! 俺に時間をくれッ!!」
この想具が、俺を想弾師にしてくれるまでどれくらいの時間を要するのか。
そんなもの、神のみぞ知る事実。
なら、できる限り長く時間を稼いでもらうしかない。
「だぁあクソッ! やってやらぁッ!!」
「……人使いが荒いわね、アンタ」
一人は自分の両頬を叩き、無理やり気合を入れ直す。
もう一人は、ふっと息を吐き、覚悟を決めるように髪をかき上げた。
そのとき――腕を通している想具から、じわじわと光が漏れ始める。
(来たか……!)
俺を想弾師に変える前兆なのだろう。
だが、その光が同時に、よだれを垂らして獲物を探す想喰の注意まで引き寄せてしまう。
「野郎ッ――!」
このままじゃ、何も為し得ずに食い殺される。
だが、それを相棒たちが許さなかった。
まず動いたのは、たらし野郎だ。
壁に立てかけられていた剣型の訓練用想具を手に取り――斬りかかるのかと思いきや、そいつはその場からぶん投げた。
間合いに飛び込む度胸はないらしい。
けれど、それで問題ない。今の俺には、十分すぎるほど助かる。
腹部に直撃した一撃で、熊型想喰はわずかに体勢を崩す。
だが、すぐに顔を歪め、屈辱を晴らす相手を決めたように、たらし野郎を追いかけ始めた。
たらし野郎は必死に逃げる。その足は、正直言って俺以上に速かった。
「あああああッ!! 誰か助けてくれぇえええええッ!!!!!」
情けない悲鳴を上げているところだけが玉に瑕だが、それでも俺は、その必死な背中をちゃんと目に焼き付けた。
だが、好事魔多しというやつだ。
たらし野郎が逃げ込んだ先で、別方向から逃げてきた囚人と真正面からぶつかった。その相手は、あのとき俺がボコボコにしてやった窃盗犯だった。
「どわあぁッ!?」
「あぶねぇだろッ、こっち来んじゃねぇ!!」
たらし野郎は盛大に転び、窃盗犯は暴言を吐き捨てて距離を取る。
(ふざけやがって……その“返し”は、別の機会にとっておいてやる)
「……あぁ、オレ……終わ――」
熊型想喰の牙が、たらし野郎の首筋に迫った時——その巨体の半分にも満たない女が全身をぶつけて、牙の軌道をほんのわずかにずらした。
――泥女だ。
彼女の勇気ある一撃のおかげで、たらし野郎の命はギリギリのところでつながった。
「あっぶねぇッ!! マジで死んだかと思ったッ!!」
「いいから早く立ちなさいってのッ!!」
「こ、腰が引けちまってんだよッ!!」
たらし野郎は情けないことを言いながらも、生きたい一心で四つん這いになって逃げる。だが、今度はターゲットが完全に泥女へと移った。
もう少しで口に入りかけたご馳走を、お預けされたのだ。怒り狂うのも無理はない。熊型想喰は咆哮を上げ、泥女めがけて突進していく。
残念ながら、泥女はたらし野郎ほど足が速くない。
あと少しで追いつかれるだろう。
動けない俺はただただ、アイツの無事を祈ることしかできなかった。
鋭い爪が獲物の顔面を切り裂こうと振りかぶられた、その瞬間――
「くらいなさいッ!!」
泥女は、訓練用の備品の中に紛れ込んでいた煙幕想具を、その顔面めがけて叩きつけた。
ボンッ、と濃い煙が立ちこめ、熊型想喰と泥女を覆いつくす。
俺からも煙幕の中を確認できないくらいの煙の濃さだった。
心臓が嫌な音を立てて脈打つ。
だが、煙の中から泥女が飛び出してきたのを見て、ようやく息がつけた。
煙幕なんて持っている素振りは一切見せていなかったのに……。
その手癖の悪さが泥女というあだ名に恥じないと、妙に納得してしまう。
熊型想喰は視界を奪われた煙の中で、獲物の気配を必死に探している。
(よし……これで時間はだいぶ稼げる――)
そう思った矢先、俺の腕が熱を帯び始めた。
光が強くなり、耳をつんざくような電子音が鳴り響く。
同時にバチバチと電流が走り、全身が焼けつくような痛みに包まれる。
さっき腕を焼かれた囚人の姿が、嫌でも脳裏をよぎる。
それでも俺は弱気な感情を振り払い、歯を食いしばる。
だが、ここでさらに最悪の障害が重なる。
熊型想喰は、煙の中で限られた情報を必死に拾い集めている。
そんな中で――もし、煙の向こうから強烈な光と音が生まれたとしたら。
そこに“何か”があると分かっている以上、向かってくるに決まっている。
案の定、熊型想喰は煙を切り裂く勢いで、まっすぐこちらに突進してきた。
(……上等だ。ここまでお膳立てしてもらったんだ。後は――俺が決着をつける番だろ)
「まずい、あっちに行っちまったッ!」
「キンパツッ!!」
二人の叫びが聞こえる。
ものすごい速度で熊型想喰が迫ってくる。心臓の鼓動が耳のすぐ横で鳴っているみたいにうるさく響いた。
そして俺は――奴の“縄張り”に完全に踏み込まれたのを感じた。
死が、すぐそこまで来ている。
その瞬間、ウィンと交わした“力”に関する会話が走馬灯みたいに脳裏を駆け巡った。
――そうだ、最初から分かってたろ。
あのとき二階から飛び降りた時点で、俺の原動力なんて決まってんだよ。
熊型想喰が跳び上がる。
鋭い爪が俺の喉元をかっさらおうと振り下ろされる、その一瞬に――
痺れを切らした俺は、心の底から怒鳴った。
「いいからさっさと……目醒めやがれッ!!!」
視界が、白一色に塗りつぶされる。
直後、俺の右腕を絡め取っていた枷が粉々に砕け散り、それと同時に――熊型想喰は目に見えない衝撃波に吹き飛ばされ、すさまじい勢いで壁へと叩きつけられた。
訓練場にいる全員の視線が、一斉に俺のほうへ向く。
俺の右手には、いつの間にか一本の剣が握られていた。
風の加護を放つ“守護”の剣が――俺の想いに応えるように。
「はぁ……はぁ……」
やってやったぞ。ざまぁみやがれ――と口に出して笑ってやりたかったが、そんな余裕は一切なかった。
全身から力が抜け、立っているのもままならない。
俺はその場にずるりと倒れ込んだ。
周囲の囚人たちはようやく危機から解放されたと悟ったのか、ほっとしたような歓声を上げる。そんな中、真っ先に駆け寄ってきたのは、あの二人だった。
「……無事のようね」
「マジで死んだかと思ったわ……よくやったぞ、キンパツ!!」
冷静さを保ちながらも心配そうに覗き込んでくる泥女と、滝のような汗をかきながら全力でねぎらってくるたらし野郎。
その声を、別の音がかき消した。
ガルルァ…………
熊型想喰が、ゆっくりと立ち上がったのだ。
「嘘だろ……まだ生きてんのかよ……」
「勘弁してよ……」
「……しぶてぇ熊公だな……もう一回、おねんねさせてやる……よッ……!」
俺は右手の剣を握り直そうとした。だが――とうに身体は限界を超えていた。
腕にまったく力が入らない。
そのまま地面に崩れ落ちる。
「動けッ……この野郎ッ!」
根性で身体を動かそうとするが、指一本すら言うことを聞かない。
視界の端から、じわじわと黒が滲んでくる。
泥女も、たらし野郎も、震える膝を必死に押さえつけながら熊型想喰を睨みつける。だが、三人の手札はとうに尽きていた。
突如、上空から垂直に何かが降ってきた。
それは、水で形作られた十字槍だった。
天啓の一撃のように、凪いだ静けさと共に落ちてきたそれは、熊型想喰の頭頂部を貫き、その巨体を一瞬で沈黙させた。
泥女とたらし野郎は突然現れたその人物に目を丸くし、口をぱくぱくさせる。
白いロングコートの隊服。
長くて美しい茶髪。
整った横顔。
俺は知っている。この姿を、何度も見てきた。
「来るのがおせぇよ……けど、助かったぜ――クレリア」
そう言葉を残し、続きを聞く前に俺の視界は真っ暗になった。
最後に耳に届いたのは、柔らかな声だった。
「よく頑張りましたね。被害を少しでも抑えられたのは、貴方たちのおかげです。
騎士団として――心の底から感謝申し上げます」
こうして、波乱万丈すぎる戦闘訓練は一人の隊長によって幕を下ろしたのだった。




