32.海賊島の女神ニナ
時は少し遡り、海軍騎士たちが見張り当番以外、みな寝静まった夜半のこと。
トットは見張りの目をかいくぐって調査船に積まれている救命用のボートを盗み、海に浮かべた。
(漕ぐのは……これがオールか。しょぼいけどまあ、一晩くらい保つだろ)
船体側面についた縄ばしごを下ろして、海面に近づく。
ボートに足をかけて勢いよく乗り込むと、しぶきが立ってボートはぐらりと揺れながら、進みはじめる。
大きな調査船の影がだんだん遠くなる。
縄ばしごは下りたままなので、トットが自分で船を下りたことは明日の朝にはすぐ明らかになるだろう。
怒られるだろうなぁ、と思いながら、闇夜に沈んでいく船を見送った。
トットの手元にはこれまた盗んできた羅針盤が握られている。
夜の海は真っ暗で何も見えないので、トットは羅針盤を頼りに船をひたすら漕いだ。
そうして彼が向かうのは、海に浮かぶとある小島だ。
(船から見たらすぐ近くに見えたけど、ボートじゃやっぱりちょっと遠いな)
海は凪いでいて、漕げば漕ぐほどボートが素直に進んでくれるのが救いだ。
何時間もオールを動かして腕が痛くなってきた頃、やっとボートが小島の岸に向かう波に乗った。
あとはもう漕ぐのをやめて、砂浜に乗り上げるのを待つだけだ。
ザラザラとボートの底が砂に擦れる音がしはじめたところで、トットはボートを降りた。
靴が濡れるのも構わず、波打ち際をパシャパシャと鳴らしながら歩く。
「着いた……“海賊島”……」
東の空は、もう白く明るみはじめている。
海軍の増援として調査船に乗りはじめて以来、トットは捕らえた海賊たちの尋問役を積極的に買って出た。
ニナを探すための情報を集めるためだ。
海賊に“女神様”の話をすると、皆いい反応をした。
トットの予想は合っていたらしく、ハウスで口酸っぱく言われてきたマザーの教えを海賊たちはありがたがる。
特に年を取った海賊は、女神様の教えを知るトットにまるで昔からの仲間のように打ち解けて、何でも話した。
それを上官に伝えて信頼を勝ち取り、海賊への尋問の時間を増やす。
あらゆる海賊に話を聞いて、トットは一つの噂に辿りついた。
――海賊島には、女神様の代弁者が暮らしている。
ボートを砂浜に置いて、トットは島の中心部に向かって歩き出した。
砂浜を抜けると、その先には青々と木々が茂る森が続いている。
島は中心部に向かって小高い丘のようになっており、草を踏み締めただけの細い獣道は歩きにくかった。
坂道を滑り落ちないように注意しながら、トットはなんとか森を抜ける。
島の中心にあったのは、小さな教会だった。
白壁の建物に扉はなく、中の様子が外からもよく見える。
長椅子が並ぶ礼拝堂の奥には、ハウスにあったのと同じ型の女神像が、美しいまま悠然と立っていた。
「これが、女神様――」
トットは引き寄せられるように、教会に足を踏み入れる。
早朝だというのに、女神像の前でひざまづいて祈る女の姿があった。
白いワンピースに身を包んだ、華奢な背中。
深青色の髪を二つ結んだその後ろ姿に、トットは喉を詰まらせながら声をかけた。
「ニナ…………?」
名前を呼ばれて、女は振り返る。
その穏やかな瞳がトットのことを見て――そして、大きく見開かれる。
ニナは弾かれたように立ち上がり、トットに駆け寄ってその体に飛びついた。
「トット……! 本当にトットなの!? 信じられない、また会えるなんて……!!」
幻か何かではないかと疑ったのだろう。ニナはトットの体や頬をペタペタと触り、存在を確かめる。
トットはくすぐったく容赦ないその手つきに苦笑しながらも、ニナの体を抱きしめ返した。
「久しぶり。探しにくるのが遅くなって、ごめん」
「ううん。来てくれてありがとう。……でも、どうやってここがわかったの?」
「海賊たちに聞き込みして。俺、騎士になったんだよ」
その言葉を聞いて、ニナは体を離してトットの服装をまじまじ見た。
大陸軍の騎士服ではなく、着慣れない海軍の制服なのが惜しいが、トットは胸を張ってみせた。
「みんなを探すのに一番都合がよかったからさ。アシュリーもカストルも元気だよ」
「そっか……よかった」
ほっと息をついて、ニナは昔と変わらない顔で笑った。
それを見てトットの胸にはなんとも言えない懐かしさと切なさが込み上げてきた。
「ニナは? ずっとここで暮らしてるのか?」
「うん……マザーと一緒だったんだけどね。マザーは、少し前に死んじゃった」
ニナの笑顔に強がりが混ざる。トットは言葉を詰まらせた。
ここに来たら、マザーにも会えるかと思っていた。
ハウスが燃やされたあの日のことも聞けて、女神様とやらのことも話せて、いろんな誤解が解けるのではないかと期待していた。
でもそれは、もう永遠に叶わないらしい。
「……そうか。マザーは、もういないのか」
「でもね、最後まで私たちのこと気にかけてたわ。みんな無事に暮らしているだろうか、って」
ニナが作り笑いを浮かべるのを、トットはやるせない気持ちで見つめた。
マザーを亡くして、一人でこんな海の上の辺境の地で。海賊たちに囲まれて、ニナはどんな思いで過ごしていたのだろう。
心配のあまり、トットの声は震えてしまった。
「一人で、寂しかっただろ。食事や風呂はどうしてるんだ? 海賊たちに、何か嫌なことされてないか?」
おろおろと尋ねるトットを見て、ニナはトットの心境を知ってか知らずか、くすくす笑う。
「もう、そんなに心配症だったっけ? 大丈夫よ。それに……」
ニナは振り返り、礼拝堂の中心に立つ女神像に視線を向ける。
「トットも、もう知ってるんでしょう? 女神様のためだから、私はつらくないの」
「女神様――……」
本当に、ニナは女神を信仰しているのだ。マザーと同じで。
トットは近くの長椅子に腰掛け、ニナと同じく女神像を見上げながら尋ねた。
「教えてくれないか? お前に……それからマザーの身に、これまで何があったのか」




