幕間 公爵家の暗雲と、変態騎士の嗅覚
陽光が優しく降り注ぎ、一頭の白馬と小さな少年がリンゴを分け合う温かな厩舎──その穏やかな時間とは対照的に、公爵家別邸の重厚な応接室には、淀んだ暗雲が立ち込めていた。
「あの忌々しいガキ……!毒も効かぬ、嫌がらせも効かぬ!馬と戯れてばかりで一向に弱らんではないか!」
豪奢なソファに深々と腰掛け、扇子を握りつぶさんばかりに激昂しているのは、エリスの継母・マリアンヌであった。
その傍らで、薄汚い笑みを浮かべながら揉み手をしているのは、悪徳老執事のバルトである。
「奥様、お気を鎮めください。あのアホ馬が余計な真似をして料理長から食事を掠め取っているようですが……所詮は動物の浅知恵。それも今日まででございます」
「どういう意味だ、バルト?」
マリアンヌが鋭い視線を向けると、バルトは懐から一瓶の妖しく光る紫色の薬品を取り出した。
「次の満月の夜……当家が主催する公爵家大夜会が催されます。王都より多くの貴族が集う華やかな場で、あの忌々しいエリス様に事故を起こしていただくのです」
「ほほぅ、事故か?」
「左様でございます。夜会の最中、人目のつかない庭園の池へエリス様を誘導し、この麻痺毒を仕込んだ子供用の果実ジュースをお飲ませする。幼い身で足元が狂い、そのまま池へと落ちた……という筋書きでございます。誰もが見ていぬ暗闇での事故による溺死。これなら我らに疑いがかかることもございません」
バルトの言葉に、マリアンヌの真っ赤な唇が歪んだ。
「ほほう、完璧な計画ではないか。あのガキさえ消えれば、公爵家の全財産は私の実子へと転がり込む……ふふ、ふはははっ!」
高笑いが室内に響き渡ったその時だった。
カツン、と重厚な革靴の音が廊下に響き、応接室の扉が遠慮もなくノックなしで開かれた。
「やあやあ、景気のいい高笑いですね、マリアンヌ様」
姿を現したのは、洗練された騎士服に身を包んだ男──先日、シュンの前脚蹴りによって厩舎から吹き飛ばされたはずの、変態騎士ジェラルドであった。
「ジェラルド卿……!? 無礼ですよ、ノックくらいおしなさい!」
「これは失礼。ですがね。非常に興味深いお話が聞こえてしまいましてね」
ジェラルドはすっと目を細めると、蛇のような執念深い笑みを浮かべた。その視線は、マリアンヌたちではなく、窓の外──遠くに見える厩舎の方角へと向けられている。
「エリス様を消す、結構ではありませんか。しかし、私の目的はあのガキの命などではない」
「……何だと?」
「あの一頭の白馬『シュン』ですよ。私に屈辱を味わわせた、あの美しくも気高い白馬。夜会の混乱に乗じてエリス様を始末なさるなら、私にあのアホ馬を奪う許可をいただきたい」
ジェラルドの瞳には、狂気にも似た執着の火が灯っていた。
「私のコレクションに加え、徹底的に仕込み、この手で屈服させて見せますよ。……フフ、あの美しい白馬が私に怯え、跪く姿を想像するだけで……ゾクゾクと震えが止まらん……!」
「ひっ……相変わらず気持ちの悪い男……」
マリアンヌはドン引きしながらも、鼻で笑って扇子をパチンと閉じた。
「良いでしょう。エリスさえ消えれば、あの馬がどうなろうと知ったことではありません。好きになさるといいわ」
「感謝いたします、奥様。ククク……次の満月の夜会、実に楽しみだ!」
暗闇の中で交わされる、三人の悪意に満ちた密談。エリスを狙う暗殺計画。そして、シュンを狙う狂気の執着。
──『満月の夜』
それは奇しくも、シュンが人間に戻ってしまう特別な夜でもあった。
歪で忍び寄る破滅の足音には、まだ誰も気づいてはいなかった。




