第28話 黒と白
国府津駅行きの送迎バス待合所は意外な程に空いていた。
老夫婦が1組に子供を2人連れた女性が1名、それにサラリーマンらしきスーツを着た細身の男性が1名と春久たちを入れても10名にも満たない人数だ。
「能美の家だと下曽我駅が一番近いよな」
「うん」
能美の短い返答。
「ごめんね。色々」
「気にするな。能美とは保育園のチューリップ組の時からの長い付き合いだからな」
「うん」
また、短い肯定の言葉。
「身体は大丈夫か?」
「もう、大丈夫」
「本当か?」
「本当よ」
「途中で調子が悪くなったりしたらすぐに言えよ。俺、そういうのに鈍くて気付く事出来ないと思うからさ。バスも酔ったりしないか? 席は前のほうが・・・・・・」
春久が矢継ぎ早に言葉を並べると能美が不意に笑い出した。
「ごめんね、急に笑っちゃって、あんまりにもこの前、一祈ちゃんが言ってた通りだから・・・・・・」
よほど可笑しいのか能美はまだ肩を揺らしている。
「和泉の事だから、また捻くれてるだの、めんどくさがりだのって言ってたんだろ?」
照れ隠し半分の返答。
多分、春久のいないところでの噂話の類だろう。
「ううん、違う。別所君はいつも難しい顔してるけど、凄く心配性だって言ってたんだよ」
「和泉、そんな事言ってたのか?」
取り様によっては馬鹿にされている取れなくも無いが、一祈がそのような少女で無いのは春久が誰よりも知っている。
「いつも、いつも“色酔い”の『薬飲んだか?』って心配して聞いてくるって言ってたよ」
一祈が自身の体質について自分以外の誰かに話している。その事実が驚きだった。そして、それ以上にその事に不愉快になっている自分に戸惑いを感じた。
「別所くん、“なんでオマエが知ってるんだ!”って顔に書いてある。一祈ちゃん、私には小学校4年生の時に教えてくれたんだよ。自分の体質の事」
そして、そんな気持ちを見透かした能見の言葉。
一祈には一祈の付き合いが、そして世界がある。それは分かっている。だが、それでも返せる言葉がなかった。
「多分、別所君が思っている以上に一祈ちゃんと私、仲良しだよ。だから別所君には秘密のナイショ話もたくさんしているんだよ。女の子って、怖いでしょ?」
聞き流してねとばかりに笑う能美。体調の崩していた女の子に逆に気を使われてしまった。
「怖すぎるな。気心の知れた和泉や、付き合いの長い能美ですら怖く感じるんだから、世の女性は、さぞ恐ろしいんだろうな」
春久は何とか嘯いて見せる。それが精一杯の見栄だった。
「怖いよー女の子は。だから別所君も気をつけるように!」
そう言いながら能美は悪戯っぽい笑顔を見せた。
その言葉に春久が笑う事で返答すると、タイミングを計ったように緑を基調とした派手なカラーリングの送迎バスが姿を現した。ディーゼルの匂いを少し残しながらゆっくりと止まるバス。
「体調はもう大丈夫だから、席は後ろの方が良いかな」
バスのタラップに足を架けながら、そう話す能美。
「ディーゼルだぞ?」
「ディーゼルでもビーグルでも大丈夫!」
「ビーグルは犬だろ? 比較するにしたらガソリンとか、水素燃料とかだろ、普通。 それを犬って」
「そう言う切り返しするから、一祈ちゃんに叱られるんだよ。別所くんは・・・・・・」
そんな会話をする2人をすり抜けていく子供たち。
「ボク、一番後ろがいい!!」
「はしゃいじゃダメ! そこのおじさんの迷惑でしょ。パパの車じゃないんだからぁ」
はしゃぐ弟を姉が宥めているのだろう。
母親らしき人物が申し訳無さそうに頭を下げて通り過ぎる。春久もなんとか苦笑いでそれに応じる。
「おじさんだって」
能美がまた肩を揺らして笑っていた。意外に笑い上戸なのは知っていたが、涙を浮かべるほどの事なのだろうか。
「俺、まだ15歳だぜ」
「昔からおじさんクサイからな、別所君」
笑いを抑えながら後方2列目窓側の席に腰を降ろす能美。春久もその隣にゆっくりと座る。
刹那
隣で何かが浮き上がる感覚。
慌てて横を見つめる。だが、そこに特に変わった様子はなく、ただ、能美由香が笑顔を浮かべて春久を見つめていた。
「どうしたの?」
あまりにも近い顔の距離。
「いや・・・・・・なんでもないよ」
そして、今更ながらに感じる女性の線の細さ。
春久は極力不自然にならないように、重心を通路側に置き、肘掛で頬杖をついた。
***********************************
国府津駅は東海道線で初めて駅弁の販売を始めた駅であったり、城山三〇氏の著書『祖にして野だが卑〇はない』で国鉄元総裁石田○助氏と供にその装丁を飾っていたりと、その道の人にとっては、それなりに知られた駅だ。
そして、その国府津駅は御殿場線というローカルな鉄道の始発駅でもある。
今どき3両編という御殿場線の中央の車輌に乗り込むと、面白い事に送迎バスに乗っていた全員が同車輌に乗り合わせていた。偶然とは言え面白い。
「運が良かったね。あと7分で出発だよ」
独り言のようにつぶやく能美。
都心の人が聞くと驚くかもしれないが、御殿場線はおよそ30分に1本しか走っていないため、バスや東海道線の乗り合わせのタイミングが悪いと、20~30分は平気で待ちぼうけを食らう。
そのため、7分程度の待ち時間はタイミングはかなりいい部類になる。
「下曽我駅からは歩きでも平気か? なんなら、タクシーで・・・」
そう真顔で話しかける春久に、目の前の少女は少し困ったような表情をしていた。
「別所君って、私の事を箸よりも重い物を持った事がないお嬢様とでも思ってない? 私、これでも結構力持ちだし、運動神経もいい方なんだよ」
春久の問いに対して、軽く拗ねてみせる能美。その表情を見る限り、確かに体調には問題がないようにも見える。
「そう言えば、能美は和泉と違って運動神経いいもんな。昔から足も早かったし」
「そうだよ。小学校3年生、4年生って連続で運動会のリレー選手に一緒に選ばれたでしょ?」
「そういや確かに一緒に選ばれたな」
春久は拳ふたつ分くらいの間隔を空けた隣に座る能美に笑いかける。
「思い出してくれた? 4年生の時なんて、私が2組の唐沢さんに抜かれたのを、次の別所君が抜き返してくれたじゃん。一祈ちゃんなんて組が違うのに別所君の応援しちゃったから、応援団の子に怒られて・・・・・・」
「そういや、そんな事あったな」
春久は少しとぼけ気味に答えたものの、実はその時の情景を明確に覚えていた。そして、自分が中学の時に陸上を選んだ根っこがソレにある事もなんとなく自覚をしていた。
「いまだに、唐沢さんに言われるんだよ。せっかく抜いたのにって・・・・・・」
「唐沢って、あの中学の時、女子バスケ部で部長やってた唐沢だよな。アイツどこの高校に行ったんだ?」
いつも汗まみれになりながら、大きな声を出している運動神経の良い子。それが春久の唐沢に対するイメージの全てだった。
「別所君、それ本気で言ってる?」
能美の少し冷めたような声。
「えっ?」
「・・・・・・唐沢真里菜ちゃん、千代川中から八千代部に進んだ7人の内の1人だよ。受験前にも顔合わせしたでしょ?」
言われて漸く思い出す。1年にも満たない前の話。
「そういや唐沢も八千代部だったな」
今更ながらに痛感する自分の他者へ対する無関心さ。
「少しヒドイと思う。この前、元・千代川女子でお昼食べた時も、唐沢さん“別所くんは陸上を続けた方が良い”って真剣な顔で言ってくれてたのに・・・・・・」
知らない所での知らない会話。
そんな中でも自分を気にかけてくれる人がいるのが驚きだった。
もしかしたら、そう言ったモノも一祈の言う何気ない会話であり、そんな中から人の事を知ろうとしているからこそ、女の子たちは魅力的で怖いのかもしれない。
「今更だけど俺って無神経だよな」
春久はそう言葉を続けるしかなかった。
「ごめん。責めるつもりじゃなかったんだけど・・・・・・嫌な言い方だったよね」
「いや、どう考えても俺がいけない」
春久がそう言葉を並べると、御殿場線がゆっくりと動き出した。
それから下曽我駅に到着する4分弱の間、春久は電車の外を流れて行く、まだ蕾も膨らんでいない梅林を眺めて、今の会話を一祈が聞いていたら何と言うのだろうかと考えていた。
***********************************
下曽我駅の西側から小さなロータリーを抜け、小川沿いの道を歩いて行くと小田原球場に出ることが出来る。
そこから、更に酒匂堰沿いに南下して行くと左手に竹林に囲まれた豪奢な家がポツンと見えてくる。そこが“元時堂”こと能美家だ。
現在の位置からすると、あと15分もすれば、その能美家に到着する事が出来る。
川沿いの道を歩いて行くと、最近あまり見なくなっていた白鷺が一羽、飛んでいる姿が目に止まった。
「白鷺・・・・・」
駅を降りてからはじめて聞く能美の声。
「久しぶりに見たな」
春久が空を見上げつつ、軽く肩を回すと、能美の鞄に付いていたアクセサリーが揺れて、軽い金属音を立てた。
「私、偉そうな事言いながら、別所君にバックをずっと持って貰ってるよね。自分で持つよ」
能美は照れたような微笑を浮かべ右手を春久に差し出してきた。
「いや、この位構わない。俺も持っている事忘れてたよ。女子は色々と大変だよな出かけるにしてもさ」
春久はそう返したものの、何が色々なのかは判らない。ただ、それよりも能美が久々に口を開いてくれた事にホッとしている自分が何となく嫌だった。
「そんな事より能美、今日ありがとな。ミラーボールが落ちてきた時、能美が叫んでくれなければ、もっとヤバイ事になっていたと思う」
それは雰囲気を変えるために搾り出した言葉だった。だが事実、あの時の状況を思い出す限り、あの瞬間に能美が知らせてくれなければ、一祈に害があった可能性は否定できない。
「えっ・・・・・・別所くん、アレが聞こえたの!?」
立ち止まり、驚きの声をあげる能美。
「そりゃあ、アレだけの大きな声なら聞こえるさ」
「なぜ?」
「なぜと言われてもな・・・・・・」
少し会話がかみ合わない気もしたが、“ハルくん”という懐かしい名で呼ばれた春久にもテレがあり、それ以上の言葉は続けることが出来なかった。
能美の視線に押され、立ち止まった春久の耳に届く砂をかむ音。
音の先に視線を向けると、10mほど後ろに不自然に立ち止まるサラリーマンの姿。見覚えがある。送迎バスにもいた男だ。
春久の脳裏を一瞬何かがよぎる。
「取り敢えず、帰ろうぜ」
何とかそう言葉を出せた春久は能美より半歩遅れる形で歩み出す。
送迎バス・御殿場線・小田原球場までの道。
偶然が三回重なる確立は12.5%。ミステリー小説ではよく見かける数値だ。前提条件が2択でない事を考えると数値はさらに低いものとなるはず。つまり、これは偶然と考えるには出来すぎている。
つけられているのでは?
気持ちの悪い嫌がらせの数々、カミソリが仕込まれた写真、そして今日の停電。
何者?
目的は?
様々な思いが春久の脳裏を駆け巡る。
このまま能美を家に送るという事は、彼女の家を後ろの男に教えるという事になる。だが、同時に偶然が重なったと言う可能性も現時点では否定できない。
自問自答をくり返す。
「能美、球場脇にある公園で少し話さないか?」
それは春久にとってひとつの賭けだった。
こんな状況じゃなければ、絶対に言い出せなかった言葉。
「えっ!? ・・・・・・うん」
能美は静かに頷いてくれた。おそらくは、彼女はまだこの状況には気が付いていないだろう。
男は相変わらず距離を保ちながらゆっくりと後ろを歩いている。
警戒をしつつ、公園入口の自動販売機で足柄茶のペットボトルを2本買う。
これで公園にまであの男が姿を現せば、4回偶然が重なったという事になる。確立としては16分の1で6.25%。しかも、それはかなり高く見積もっての数値だ。
球場の脇の遊歩道を抜け公園の中へと入って行く。後ろを歩く男も公園の中にまで入ってきた。
春久は唾をひとつ飲み込んだ。
「あの池の前にベンチあるんだ。あそこなら景色もいいし、ゆっくりお話も出来ると思うな」
そう伏目がちにつぶやいた能美が指差す先には、池に面した石畳の上に2脚の鉄製のベンチ、そして、それと斜に向きあう形で芝生の上にも木製のベンチが1脚置かれている。
公園内には、親子連れに、ボール遊びをする子供たち、池の鯉に餌をあげている高齢者夫婦など人の姿も多く見られる。
見通しもよく、人目にも付きやすい場所。これなら男も下手な動きはできないハズだ。
“人目に付く所でやり過ごす” それが春久の考えだった。
「ここ、一祈ちゃんとも来た事あるんだよ」
そう言いながら公園の一番奥にある木製のベンチにゆっくり腰をおろす能美。春久が隣に座ると能美の肩が少し震えたように見えた。
「お茶だけど・・・・・」
「ありがと。実は少し喉が渇いてたんだ」
春久は能美に先程買ったペットボトルを差し出しつつ、男の様子を横目で伺う。男は春久たちの右斜め前方10mほど先にある鉄製のベンチ腰を降ろしていた。
これで確率は32分の1、小数点で表すと3.125%。事象としては、まず起き得ないと考えてよいパーセンテージ。
偶然じゃない。
それには確信が持てた。
しかし、正直な所、相手がベンチにまで座るとは想定していなかった。春久は自身の鼓動が早くなるのが分かった。
“何のつもりだ”
“能美に近寄るな”
そう男に詰寄り伝えたところで、言いがかりと返答されればそれまで。後ろを歩いただけで害は受けていないのも紛れもない事実だ。しかし、ここまでくれば、能美をつけている事も断言が出来る。
「・・・・・ょ君、・・・・・・別所君?」
肩を突付かれて初めて、能美が自分を呼んでいる事に気がつく。能美はその黒い瞳を大きくして不思議そうな表情を浮かべている。
「どうかしたの?」
「いや、特にどうもしないよ」
何とか動揺を押し込め、平静を装う。
「別所君、それで、さっきの話なんだけど」
「さっきのって、ミラーボールが落ちた時の話しか?」
能美の言葉に対し、そう返えしたものの、気持ちの大半は男の方に集中していた。
「うん、別所君、あのとき私の声が聞こ・・・・・・」
能美が真剣な眼差しで、春久を見つめたその瞬間、石畳に何かが落ちる音。
プラスチックか合成樹脂かは分からないが、そんな物が奏でる乾いた音だ。
音の方角に目を向けると例の男が歩み寄ってくる姿。
その足元には三角形の鞘らしき物体。
少し前の乾いた音、それは男が鞘を投げ捨てた時の音なのだろう。
男の手には大きな刃物。
「能美、逃げろ!」
春久は無意識の内に能美の姿を男から隠すように前に進み出ていた。
「えっ!!! ・・・・・・なん・・・・・・なの!? この人」
能美も男の存在に気がついたらしく、震えながら驚きの声をあげた。
「いいから、逃げろ!」
大きな声でもう一度そう告げる。
公園にいた他の人たちも春久の大声で異変に気がついたのか、皆が悲鳴をあげて逃げ出し始めた。
男はフラフラと歩きながらも、既に石畳を越えて、芝生の中までに入ってきている。その距離およそ7m。
春久は自分の膝が震えているのが分かった。背中には暑さではかかない種の汗が滴りはじめている。
「別所君も一緒に逃げよ・・・・・・ねっ?」
そう言いながら震える手で袖をつかむ能美。
「先に逃げてくれ」
出来たら逃げ出したかった。
自分の足なら革靴を履いた男になど絶対に追いつかれない自信もある。
だが、それが元で奴の狂気が、子供を抱えながら逃げだし始めている親子に、歩行器のお婆さんを気遣っている腰の曲がったお爺さんに、そして、それを助けようとしている勇気ある8歳くらいの男の子に移ったらどうする。
公園に引き込んだのは間違いなく自分だ。
そして何より、後ろで震えている能美由香も足元はデッキシューズ。それに加え、今の状況下でまともに走れるとは思えない。男に追いつかれる可能性は十分にありえる。
“俺が守る”
その思いだけが、春久をその場に踏み留まらせた。
男の肩がカタカタと震えている。
怒りによる震え。そんな種の震えに見えた。
「イヤ・・・・・・」
能美は尚も春久の袖を引く。
「やめろ・・・・・・離れてクレ・・・ドけ・・・」
男が意味の分からない声をあげはじめた。
おそらくは、春久に対し能美から離れろとでも言っているのだろう。
袖を掴む能美の手が震えているのがわかった。
「ヤ・・・・・・どケ・・・・・・に・・・・・・れ」
呻く様な声は、もはや何を言っているか判別できない。だが狂気じみたその視線が能美に向かっているのは明らかだ。
覚悟―――
春久は袖を掴んでいた能美の手をそっと振り払い、大きく息を吸い込んだ。
腰を屈め、膝に爪を立てて震えを押さえ込む。そして集中力を上げながら、足先が地面を噛む様に力を込める。
「能美、走れっ!」
その言葉と供に春久は全力で地面を蹴った―――
その走りは、スターティングブロックがあった訳でも、また、スパイクを履いていた訳でもなかった。
それでも蹴り足に伝わってきた感触と、その衝撃を受け止めた軸足の振動が教えてくれる。
今の出足が最高であった事を。
それが、春久の集中力を更に引き上げた。
男との距離が一気に詰まる。
不思議と刃物への怖さは消え失せていた。
刹那―――
身体が一瞬だけ重くなる感覚。
それはカラオケボックスでミラーボールが落ちてきた時と同じ感覚だった。
男の動きがゆっくりに見えた。
右手には、鈍い光を放つナイフ。刃先はこちらを向いている。男の口元は歪み、涎のようなものが流れ出ている。眼鏡の奥にある瞳には意思を越えた狂気のようなギラつき。
そして、それらを冷静に観察する余裕がある不思議な感覚。
振り下ろされようとする男の右腕。
春久はその動きより早く、自身の瞬発力と全体重を乗せた左肩を男の鳩尾辺りに叩き込む。
重く身体に響いた衝撃と供に、後方でナイフが芝生に沈む音がした。.
――― 奇襲、そして体当たり。
それが成功したのを確信した時、遠くからサイレンの音。
即座に体勢を直し、反撃に備え視線を前に向けると、例の男も身を起こそうとしていた。
背筋を冷たい何かが走る。
もう一度、懐に・・・・・・もっと速く、鋭く。
春久がそう考え、身を再度屈めた次の瞬間、例の男にオレンジ色のツナギを着た男性が飛び掛る姿が見えた。次いで、すぐさま濃紺のTシャツを着た別の男性が飛び掛り、例の男の手を逆手に絞り上げる。
「それ以上、動くんじゃねぇ。腕が逝っちまうぞ!! 」
そう叫びながら男の腕を逆手に巻き上げている男性の背には「小田原消防署」の文字。
状況は飲み込めない。
だが、ひとつだけ分かっているのは、例の男がもう身動きが取れないという事。
春久は肩で息をしていた。
いつの間にか強く握っていた拳の先がジリジリと痛む。
全身から流れ続ける汗。
“守れた”
その安堵は去来したものの、身体が、気持ちが、そして心が緊張する事を解いてくれない。
ふと見つめた芝生の上には男が握っていたナイフ。刃渡りは8センチ近くある。こんな物で刺されていたら、能美は無事では済まなかっただろう。今さら二の腕に鳥肌が立つ。
「・・・・・・!!!」
鳥肌で漸く我に返った春久は慌てて辺りを見回し、能美の姿を探す。
すると、すぐ後ろに腰がくだけた状態で倒れこんでいる彼女の姿。その様子は数時間前にカラオケボックスで見たままの風景。
「能美!!!!!」
慌てて、立膝をつき、能美の肩に触れる。
―――汗
その汗もカラオケボックスでのモノと同質に思えた。
「ホッとしたら腰が・・・・・・抜けちゃっ・・・・・・た」
言い繕っている。そうとしか見えなかった。
「安心しろ。もう大丈夫だからな。能美も、和泉も、声学部も」
こんな時にもありきたりの事しか言えない自分に苛立ちを感じた。
「ありがと・・・・・・命の恩人だね。別所君は怪我ない?」
苦しそうに息を切らしながらも、春久の身を案じる事の出来る能美の強さ。
「俺はこの通り大丈夫だ。それより、おまえは大丈夫なのか!? 」
「ホントに別所君は心配性だなぁ・・・・・・大丈夫だよ・・・・・・でも、少しだけしんどいかな・・・・・・嫌だなぁ、私の身体」
そう言いながら、伏せていた顔を上げる能美。同時に垂れていた長い黒髪が揺れ、痛そうに閉じていた瞳がゆっくりと開いていく。
白
そこにあったものは“白”
――― 白い瞳
能美由香。彼女を象徴するような、その深く黒の瞳。その瞳が白に染まっていた。
「・・・・・・」
驚きを抑える事が出来ているかは春久にも判断出来なかった。
ただ、言葉を何も掛ける事が出来なかった代わりに春久は能美の手を強く握った。
一瞬、驚いたような様な表情を見せる能美。そして、そのまま倒れる様に春久の胸に身体を預けてくる。
「・・・・・・もう少しだけ、このままでいい? 今だけ・・・・・き……ゆる・・・・・・ね」
最後の方は良く聞き取れなかったが、能美由香はそう静かに告げると、その白く染まった瞳をゆっくりと閉じていった。
額に汗を浮かべながら、瞳を閉じて、ゆっくり深い呼吸を続ける能美。事の終着を見て安心感を得たように脱力する彼女の姿。
春久はその姿を見つめながら、喩えようのない不安感に襲われていた。




