第14話 自由曲と曽我の梅
春久が自宅に戻ると時計の針は既に19時を回っていたが、共働きである両親は未だに帰ってきていない。恐らく今日も遅くなるのだろう。
いつもの様に風呂の給湯ボタンを押し、同じくいつもの様に洗濯物を入れ、畳み始める。夕食は母が朝の内に仕込んでくれていたモノを温めるだけで良い筈だ。
姉の大学受験の年からこのリズムの生活を繰り返してきたわけだから、かれこれ1年以上、ほぼ毎日この流れで夜を迎えている。考えてみれば去年は自分も高校受験であったにも関わらず同じ生活をしていたわけだから、自分の親もいい加減なものだと春久は1人苦笑いを浮かべる。
風呂から上がり、自分の部屋でくつろいでいるとスマホが2件のメールの着信を告げているのに気が付いた。
ディスプレイには“和泉一祈”と“能見由香”の文字。急ぎ内容を確認する。
“一祈だよ。
声楽部見学の時、伴奏ありがとう。
助かったよ“
一祈らしいお礼のメールだ。
“おう”
春久は少し考えたの後、その2文字の言葉だけを返信する。やはり、何気ないメールが出来るようになるまでの道のりは遠いらしい。
続けて能見のメールを確認する。
“由香です
さっきは送ってくれてありがとう。
楽譜をメールで送ろうとしたんだけど、スマホだとPDFが上手く送れません。
別所君がパソコンを持っていれば、そちらに送ります。
なのでPCのアドレスも教えてくださいな♪
部活、がんばろうね!!”
はじめて能美からメールを受け取り、少し照れている自分が可笑しかった。急ぎ、PCを立ち上げアドレスと悩んだ挙句の「ありがとう」だけを返信すると、直ぐに添付ファイルと動画サイトのURLがいくつか送られてきた。おそらく添付は楽譜。動画サイトはその曲が聴けるという事なのだろう。
とりあえず送られてきた楽譜をプリントアウトし急ぎ目を通す。自由曲も課題曲と同様に春久の知らない曲だった。
曲名は「キミノミタソラ」作曲者の名前は不明となっていた。しかし、それ以上に奇妙なのは楽曲に作詞者名と歌詞がない事だった。能美が原紙と言っていた限り、何かのミスとは考えづらい。
曲のメロディーラインは譜面を見る限り、半音階進行で完全なバラードだ。リズムは緩やかだが、転調して迎える大サビの部分があるなど、どちらかと言えば、現代的な曲で合唱向きではない様にも思える。
「とりあえず、一度聞いていてみるか」
ヘッドフォンを填め能美から送られてきたURLをクリックし動画で改めて曲を確認していく。
そこには1人のアコースティクギターを抱えた女性歌手。聞こえてくる歌声はやはりバラードだ。テロップで映し出される詩の内容は1人の女性の恋を歌った内容。やはりソロで歌うべき歌に思える。
合唱になれば印象が変わるのかと思い、リストに出てきた同じ曲でサムネイルの画像が合唱であるものをクリックする。伴奏はピアノのみ。しかし、合唱が始まり、テロップに歌詞映し出されれると、その内容に春久は言葉を失った。先程の女性が歌っていたものとまるで歌詞が違う。おかげで曲の印象もまるで別物だった。
今回の歌詞は未来への向けての葛藤や不安、そして希望を歌った内容の歌詞で全体的には卒業式に歌われるような楽曲の仕上がりとなっている。
何かの間違いかと思い、他の「キミノミタソラ」がソロや合唱で歌われている動画を次々に再生をする。するとおかしな事に曲そのものは全て同じなのだが、同じ歌詞のものは1つとして無い。
急ぎPCを使いこの曲について検索し分かった事、それはこの曲自体が14.5年ほど前に突如、ネットに投稿された楽曲であり、投稿した人物は“この曲を聴いた人それぞれが、それぞれの空の下、それぞれの想いを歌って欲しい”とのコメントだけを残しているだけで、著作権等を一切放棄し、そのまま音信普通となってしまっているという事だった。
つまりは、歌いたいと思った人が、この曲に自由に歌詞をつけて歌って欲しい。そうこの曲を作った人間は言ったらしいのだ。
そんなミステリアスな謂れもあり、この曲は一時期、話題を呼び何人かの歌手が自ら詩を作り、それを音源化、そしてリリースしていたらしい。当然、合唱コンクール等でも過去に数校が自由曲に選定し、自ら歌詞をつけ参加した事もあったという記録も出てきた。
井土ヶ谷部長が言っていたチャレンジしたい事がこれならば、確かに面白い取組だ。春久は椅子に腰掛けながら、改めて譜面を見つめる。正直、譜面を見つめた所で、今、知った情報以外の何が判るという訳では無かったが、曲を作った人物はどんな想いを宿したのだろうかと考えていた。
瞳を閉じて思いに耽る。全体的には穏かなメロディーライン。女性的な曲。かなり漠然としているが、それが春久のイメージだった。
ふと、まだ詩の見えないこの楽曲を一祈と能美の二人が歌っている姿が思い浮かぶ。
刹那――
ミシリと壁が軋む。同時に背後に視線、全身に鳥肌が立つ。
「誰だ!?」
思わず叫び後ろを振り向く。
「誰だとは随分な挨拶ね。実の親の顔も忘れたの?」
呆れ顔でそこに立っていたのは、春久の母、冬美子だった。
「なんだ、母さんか……びっくりした」
春久は大きく息をつく。
「なんだはコッチよ。いくら呼んでも降りてこない。それどころか返事もしないから、親に隠れて向かいの一祈ちゃんとイチャついてるのかと思って期待したのに、覗いて見ればボーっとしてるだけ。これが青春を謳歌すべき年頃の息子だと思うと情け無くなるわ」
イチャつくとか期待するとかともかく、それを覗き見るとは凡そ親のやる事とは思えない。
「つっこみ所が多すぎて何にも言う気になれないけど、いつ帰って来たのさ」
春久は椅子に腰掛けたまま後ろに反るようにして母親を覗き込む。
「少し前よ、秋彦くんが今日は遅くなるから先に1人で夕食を食べてろだってさ。やんなっちゃう! 一人でご飯食べるの寂しいから、春久を何度も呼んだのにさぁ」
一応、もういい歳なのだが、こういう事を一祈の前でも平気で話してしまうのがこの母だ。
「親父が遅くなるのは仕方ないだろ。仕事なんだから、でも俺もご飯は食べちゃったからなぁ」
言い出したら聞かないタイプの母だから、お茶でも啜りながら母の夕食に付き合う事になるのは目に見えていたが、一応、抵抗だけはしておく。
「あのねぇ、ご飯は何を食べるかではなく誰と食べたかが大事なの」
流石、教育者。それなりに含蓄のある言葉だ。
「ハイハイ分かったよ。コレ片付けたら直ぐにリビングに行くから」
「ハイは一回って……ねぇ春久、ソレ譜面よね? アナタにしては珍しいモノ持ってるじゃない!!」
母はそう言いつつ、春久が持っていたA4用紙をヒョイとつまみ上げる。
――沈黙
母がこめかみに左手の人差し指を当て譜面を眺め出す。
こういう時の母に声を掛けてはいけない事くらい、15年近く息子を続けていれば春久も理解していた。
「また懐かしい曲を引っぱりだして来たわねぇ。この曲をアンタが弾くつもりなら荷が重いわよ」
音楽の事となると寛容さに欠けてしまうのもこの母の特徴だ。
「弾かないよ。一祈たちが歌うんだよ」
「一祈ちゃんたちが歌う?」
母が怪訝な顔を見せた。
「一祈、八千代部の声楽部に入ったんだ。で、大会の自由曲にそれをチョイスしたんだよ。俺も陸上部と兼任で声楽部の庶務を手伝う事になってさ。で、演奏したり、歌ったりはしないけど、一応、部員だから譜面だけは眺めておこうと思ってさ」
春久は今日の経緯をかいつまんで説明した。
「誰がチョイスしたのかは知らないけど、チャレンジャーね。間違いなく難曲よ」
譜面を持ちながらの腕組み。昔、ピアノ教室でよく見た立ち振る舞いだ。
「さっきネットで調べたよ。詩が自由につけられるんでしょ? 聴いた曲の感じからすると、大サビはあるけど、半音階進行の分かりやすいバラードだから、上手い下手がハッキリと出るし、詩を作るとなると楽曲の理解が明確になるから確かに合唱向きじゃないよね」
春久は素直に感想を述べた。
「相変わらず小生意気な事に理屈だけはソコソコねぇ、まぁ、あなたたちが楽しみながら思い出を作るのであれば、それもアリ……か」
ため息をする様をするような意味ありげな母の感想。
「いや、楽しむのもあるだろうけど、この曲で全国大会出場を狙うって能美が言ってたし、結構真剣なんだよ」
春久も軽くノビをしつつ、それに答える。途端に母の表情が厳しいものとなった。
「甘いわね。心意気は買うけど、安易に考え過ぎよ。楽しむための選曲としてはありだけど、全国を目指すのなら別の曲でないと厳しいと思うわ」
母の言葉は事実上、選曲の否定に等しい。
「どうしてさ!? 理由を聞かせてよ」
音大のピアノ科を出た人間の意見は是非聞いてみたい。
「それ位自分たちで考えなさい。それが音楽の本質であり、学ぶと言う事よ」
にべも無い。
「それより春久、さっき能美とか言ったわよね? それって元時堂の由香ちゃんの事よね? あの子この前ばったりと街で会ったの“おば様ご無沙汰してます”って上品な挨拶してくれてねえ。とんでもない位キレイなのに嫌味の無い良い娘よねぇ。また同じ学校なの? スゴイ縁ね。保育園のチューリップ組からずっと一緒でしょ? 話からすると一祈ちゃんに加えて、由香ちゃんも声楽部なのよね。両手に花じゃない。他に千代川中の娘とかはいないの?」
なんで母親とは、この手の話となると饒舌且つ早口となるのだろう。
しかも流石は教育者、無駄に記憶力が良い。ちなみに元時堂とは能美家の屋号だ。
「……いないよ」
春久の返答が少しだけ遅れる。腰掛けていた椅子の背もたれが少しだけ軋み、乾いた音を奏でた。
「嘘ね。春久は嘘をつくとすぐにわかる」
母の反応は早い。
「ホントに千代川中出身者はいないよ」
一応、事実であるし抗議をする。
「つまりは千川中出身じゃないカワイイ娘、しかも私が知っている娘がいるという事か……ピアノ教室の生徒ね。誰?」
母親とは記憶力だけでなく変に勘まで良いから厄介だ。
「むっちゃんだよ、反町睦美さん。母さんのピアノ教室に通っていた、おでこ全開のおさげ頭でちんちくりんな感じの……いつもぶかぶかの服を着ていた女の子」
春久は母の方を向きつつ、両手で拳を作りソレを頭に当ててお下げを真似た。
「それはあの子がお姉さんか誰かの大人っぽい服を借りて、おめかしして教室に来ていていたのよ。背伸びしていて可愛い行動じゃない!」
なるほどそういう行動なのか。母の説明で漸く合点がいく。
「その反町さんが一つ上の先輩で声楽部なんだ。鴨南中出身みたいだね。すごく見た目が変わっていて気が付かなかったよ」
「その言い方あんた、なんかやらかしたんでしょ?」
鋭すぎる。
「そんなヘマはしてないよ」
ウソである事は多分0.1秒でバレている。
「澄まし顔で誤魔化すのは秋彦くんに似たのね。まぁ、いいわ、いずれ分かるから。高校受験の前までピアノ教室に通ってくれた娘だからねぇ。私も反町さんにはかなり思い入れがあるわ。情熱的な演奏が出来る娘よ。そのうえ努力も積み重ねる事が出来る。アンタは知らないかもしれないけど、ピアノの上達と供にあの娘、どんどんキレイになっていったのよ」
話からすると母のピアノ教室には2年ほど前まで通っていたという事になる。それならばむこうが馴染み深く感じていも不思議では無い。あの怒り様も少しだけ理解が出来た。
「まぁ、そんなんで陸上やりながら、色々と知り合いも多い声楽部の庶務もする事になったんだよ。女子ばかりだし、迷惑だけは掛けたくないからさ……色々と……ね」
春久は椅子から立ち上がり、大きく伸びをする。
「まぁ、せいぜい足掻きなさいよ」
「うん」
励ましに対しての返答。視線の端で捉えた母は不思議と笑っていた。
「母さんお風呂に入ってきなよ。ご飯温めておくからさ」
春久はポツリと呟く。
「じゃあ、そうしようかしら。ついでにレンジの横の棚に水色の瓶があるから出しておいてくれる?」
母は欠伸をしつつ春久の部屋のドアに手を掛ける。
「出すのは構わないけど、何の瓶?」
春久は尋ねた。
「梅酒よ。曽我の梅。おばあちゃんが送ってきてくれたのよ」
振り向きつつの母の声。
「それならグラスも出しておくよ。いつもので良いでしょ?」
確か20年ほど前に箱根の彫刻の森で買ったと言う母愛用のグラスだ。
「あれま! 気が利く様になったわねぇ。こりゃ、その内ホントに部屋を下手に覗けなくなりそうねぇ」
背を向けたまま伸びをして見せる母の冗談はいつもにましてタチが悪い。




