四話
ザッ、ザッ、と乾いた砂利を踏みしめる音が荒野に響く。
背後からは、まだデントの凄惨な絶叫と、馬車が横転して暴れる馬の狂乱した気配が遠く聞こえていた。けれど、私は一度たりとも振り返らなかった。
(あぁ……本当に、痛くない……)
手帳を開き、デントの名前と症状が書かれたページに走る太い打ち消し線を指先でなぞる。
みぞおちを焼くようだった激痛は、嘘みたいに綺麗さっぱり消え去っていた。長年、身体の奥底に重く溜まり続けていた濁った魔力が抜け、冷え切っていた手足に温かな血が巡っていくのがわかる。
これが、本来の私の身体だ。誰の痛みも背負っていない、私だけの身体。
胸のすくような解放感に、私は小さく息を吐いた。
……けれど、肉体的な痛みが消えたからといって、すべてが解決したわけではなかった。
(寒……い……)
身に着けているのは、ドレスを剥ぎ取られた後に投げつけられた粗末な薄布一枚。
日が傾きかけた辺境の風は冷たく刃のように肌を削り、連日の心身の疲弊と空腹が一気に押し寄せてくる。傷の痛みはなくなっても、長年削られ続けてきた体力そのものが戻ったわけではない。
視界がふらりと大きく揺れた。
膝からガクガクと力が抜け、私は乾いた大地に崩れ落ちそうになる。
(ダメ……こんなところで倒れたら、凍え死んじゃう……)
必死に手帳を胸に抱きしめ、地を這うようにして前へ進もうとした、その時——。
タッタッタッ、と地響きを立てて近づいてくる力強い馬蹄の音が聞こえた。
(……追手……!?)
身体が恐怖で強張る。王都の騎士たちが、私を完全に始末するために戻ってきたのだろうか。逃げなきゃいけないのに、指一つ満足に動かない。
視界の端に映ったのは、一頭の漆黒の軍馬と、そこに跨る大きな影。
ザッと砂煙を上げて馬が止まり、重厚な金属音が響く。
「——おい! 大丈夫か!?」
頭上から降ってきたのは、私を罵倒したデントたちの冷酷な声とはまるで違う、低く深く、けれど切迫した温かみのある声だった。
影の主が馬から跳び下り、地を蹴って私のもとへと駆け寄ってくる。
かすむ視界を何とか持ち上げると、そこにいたのは一人の騎士だった。
銀色に輝く甲冑の上に、深緑の外套を羽織った男。夜空のような深い藍色の髪に、まっすぐで力強い金色の瞳。鋼のように引き締まった体躯からは圧倒的な強者の威圧感が漂っているのに、その表情は酷く歪んでいた。
「返事をしろ! しっかりするんだ!」
「あ……っ……」
伸ばされた大きな手が、私の華奢な肩を優しく支える。
叩きのめされるのではないかと身をすくめた私に対し、その手は恐ろしいほど慎重で、まるで壊れ物を扱うかのように繊細だった。
「このような荒野に、薄着の少女がなぜ……くそっ、全身が凍りついているじゃないか」
騎士は即座に自分の深緑の外套を脱ぎ捨てると、それを私の身体にすっぽりと覆いかぶせた。
上質なウールと、男の人らしい体温が残るぬくもりが、冷え切った身体を優しく包み込む。
さらに彼は手慣れた動作で馬の鞍から分厚い毛布を取り出し、私を隙間なく包み込んでくれた。
「あ……ありが……とう、ござい……」
「喋らなくていい。いま温かい湯を用意する。俺は辺境騎士団長、ルーク・フォン・ヴァイスハイトだ。怪しい者ではない、安心しろ」
ルークと名乗った騎士団長は、私の顔を覗き込み、そして、毛布の隙間から覗く私の手に視線を止めた。
その手が、ぴくりと跳ねる。
「……これは……」
私の手の甲や手首には、無数の痛々しい「痕」が残っていた。
長年、致命傷や呪いを引き受け続けた肉体には、皮膚の変色や小さな酷使の痕跡が、まるで古い火傷の痕のように刻み込まれてしまっていたのだ。
王都の誰もが「気味が悪い」「落ちこぼれのくせに」と蔑み、見ようともしなかった痕跡。
ルーク様は、その痕跡をじっと見つめた後、私のか細い手首や、骨が浮き出るほど痩せこけた肩口に視線を移した。
彼の金色の瞳に、激しい感情の揺らぎが走る。それは恐怖でも気味悪がりでもなく——痛切な憤りと、深い痛惜だった。
「……こんな薄着で国外へ放り出され、手の甲には凄惨な拷問か怪我の痕……身体も酷く削られている。君は……今まで、どれほど酷い目に遭わされてきたんだ……っ」
彼の声が、かすかに震えていた。
ぎゅっと握り締められた彼の拳が、静かな怒りに打ち震えている。
「……え……?」
私は呆然とルーク様を見つめた。
誰も私の傷なんて心配してくれなかった。誰も私のごつごつした手を「美しい」とも「可哀想」だとも言ってくれなかった。落ちこぼれだと罵られ、使い潰され、手袋で隠せと冷遇されてきたのに。
見ず知らずの辺境の騎士様が、私の痕を見て、まるで自分のことのように心を痛めている。
「もう大丈夫だ。俺が来たからには、誰一人として君を傷つけさせない」
ルーク様は静かに、けれど揺るぎない意思を込めてそう呟くと、毛布ごと私を軽々と横抱きに腕の中へ腕へと拾い上げた。
包み込まれるような強さと温もり。
「……ルーク……様……」
「ああ。少し眠るといい、少女よ。君を守るのが、俺たち辺境騎士団の役目だ」
耳元で響く優しい声を聞きながら、私は張り詰めていた心の糸がふっと解けていくのを感じた。
手帳をしっかりと胸に抱いたまま、私は生まれて初めて、誰かの腕の中で安心して瞼を閉じたのだった。




