三話
ガタゴトと激しく揺れる無骨な馬車の荷台で、私は膝を抱えていた。
王宮で着せられた華やかなドレスは脱がされ、身に着けているのは薄手で粗末な布切れ一枚。冷たい風が隙間から吹き込み、肌を容赦なく刺す。
だが、肌を刺す寒さなど、体の奥底で渦巻く痛みに比べれば大したことはなかった。
みぞおちを焼くような猛毒の灼熱感。節々に走る針で突かれたような激痛。それ以外にも、過去に引き受けてきた数々の「傷」や「病」の残滓が、重く重く私を蝕んでいる。
(……ここが、国の端っこ……)
やがて馬車が止まり、荒々しく扉が開け放たれた。
目の前に広がるのは、見渡す限りの荒野と、どこか殺伐とした空気が漂う辺境の景色だった。
「降りろ、異教徒」
冷淡な声とともに、私を荷台から引きずり下ろす腕。
その男の顔を見上げた瞬間、私の胸がキュッと締め付けられた。
「……デント様……?」
鋼鉄の鎧に身を包み、私を冷たい眼差しで見下ろしている男。
——デント・ヴェスター。
セレスト騎士団に所属する騎士であり、そして私にとって、とても思い出深い人物だった。
デント様は私の言葉に眉をひそめ、不快そうに唾を吐き捨てた。
「気安く名を呼ぶな、忌々しい邪術師が」
「デント様……どうして、そんな……」
彼の突き放すような態度に、視界が歪みそうになる。
私の脳裏に、数ヶ月前の出来事が鮮明に蘇っていた。
***
あの頃のデント様は、いま目の前にいる人物とはまるで違っていた。
魔物との凄惨な戦いにより、デント様は全身の骨を砕かれ、不治の怪我を負った。
『二度と剣は握れない。一生、まともに歩くことすら不可能だ』
医術師も他の聖女たちも口を揃えてそう匙を投げ、彼は打ち捨てられたように教会の病室に横たわっていた。
絶望し、生きる気力を失っていたデント様。
そんな彼を私は放っておけず、毎日付きっきりで介助をした。
食事を運び、体を拭き、他愛のない話をした。
『クロエ……すまないな、こんな役立たずの世話ばかりさせて』
『そんなこと言わないでください。デント様の手は、たくさんの人を守ってきた温かい手です』
『ありがとう、クロエ。お前だけだ……俺を人間扱いしてくれるのは』
最初は遠慮がちだった彼も、次第に笑いかけてくれるようになった。
会話を重ねるごとに、私は彼に温かな情を抱いていった。この人に、もう一度大好きな剣を持たせてあげたい。もう一度、あの晴れやかな笑顔を取り戻してほしい——と。
だから私は、禁忌を侵した。
『肩代わり』の力は、私自身の命を削るリスクがある。母様からも「みだりに使ってはいけない」と強く言われていた。
けれど、夜深い病室で、私はそっと横たわるデント様の手を握りしめたのだ。
——彼の砕けた骨を、裂けた筋を、すべて私の体に引き引き受けた。
翌朝、奇跡的に痛みが消え、元通り動くようになった自分の体にデント様は歓喜した。
『傷が治った! 奇跡だ! 神が俺を見捨てなかったんだ!』
狂喜乱舞する彼を、私は体の激痛に耐えながら、ベッドの影で静かに微笑んで見送った。
自分がやったのだとは言わなかった。彼が幸せなら、それでよかったから。
***
「……デント様。私です、クロエです。覚えていませんか? あの病室で、一緒に……」
「黙れ!」
手甲で頬を強く殴り飛ばされ、紡ぎ出した言葉が断ち切られる、
硬い地面に倒れ込み、唇の端から鉄の味が広がる。
「あの忌々しい過去を口にするな! 俺が奇跡的に全快したのは神の祝福だ! お前のような邪術師の介助など、一生の不覚……思い出すだけでも吐き気がする!」
デント様は冷酷な足取りで近づくと、地面に伏せる私の髪を掴み、無理やり顔を上げさせた。
そこにあったのは、かつて病室で見せた優しい笑顔ではなく、己の地位を守るために哀れな追放者を蔑む、身勝手な男の醜悪な顔だった。
「セシリア司教様からすべて聞いたぞ。お前は気味の悪い手帳を持ち歩き、陰で騎士たちに呪いを撒き散らしていたそうだな。俺の怪我だって、元はと言えばお前がかけた呪いのせいだったんじゃないのか!?」
「違っ……違います……! 私は、デント様の傷を……!」
「言い訳は見苦しい! 殿下の寛大なご慈悲により命だけは助かったのだ、この辺境の地で野垂れ死にするがいい!」
デント様は私を蹴り飛ばすと、二度と振り返ることもなく、馬車へと乗り込んだ。
ガラガラと音を立てて走り去っていく馬車。
荒野の冷たい風が、残された私を通り抜けていく。
頬の痛み。全身を苛む激痛。
そして何より——信じていた人に裏切られ、踏みにじられた心の痛みが、私の全身を支配していた。
「……ふふ」
乾いた笑いが、唇から漏れた。
何が「神の祝福」よ。
何が「邪術師」よ。
あの時、私が命を削ってあなたの激痛を引き受けなければ、あなたは今でもベッドの上で絶望していたのに。
私の犠牲の上に成り立っていた健康を「神の奇跡」と信じ込み、助けた私を足蹴にするなんて。
「……もう、バカみたい」
私は震える手で、胸元に抱きしめていた古びた手帳——『カルテ』を開いた。
ページをめくる。
そこには、私がこれまで血を吐くような思いで肩代わりしてきた、無数の名前と症状が記されていた。
『第一王子レオナルド殿下:猛毒の呪い』
『セレスト騎士団員デント・ヴェスター:全身骨折および筋断裂』
……その他、私をあざ笑い、追い詰めた数多の騎士たちの記録。
母様。ごめんなさい。
私はやっぱり、あの人たちを許せそうにありません。
私は手帳を両手で強く掲げ、天を仰いだ。
体の中に残るわずかな力を振り絞り、静かに、けれど力強く言霊を紡ぐ。
「——刻まれし苦痛の記録、契約の鎖をここに断たん」
手帳から、禍々しくも美しい紫紺の光が溢れ出す。
私の声が、荒野の風に乗って低く響き渡る。
「我の手を離れ、因果の理に従い……元の主へと『還り給え』!!」
パァンッ!! と弾けるような音とともに、手帳が眩い光を放った。
次の瞬間——
私を蝕んでいた全身の激痛が嘘のようにスッと消え去っていった。
身体が驚くほど軽くなり、冷え切っていた指先に温かな血が巡っていく。白皙の肌を取り戻し、私はゆっくりと立ち上がった。
そして——遠ざかっていたデントの馬車が、突如として激しく横転した。
「ガハッ……!? あ、熱い、毒が……ぐあああああああっ!?」
馬車の残骸から、デントの悲痛な絶叫が響き渡る。
彼は地面を転がり回り、自分の全身を掻きむしっていた。
「ぎゃあああああっ! 骨が! 痛い、痛い痛い痛い痛いっ!! 助けてくれえええっ!!」
メリメリと骨が軋む不気味な音が、遠くここまで届いてくる。
かつて彼が負い、私が代わりに背負ってあげていた『全身骨折』が、一気に彼の肉体へと巻き戻ったのだ。
転がり回って苦しむデントを、私は冷ややかな瞳で見下ろした。
「……さようなら、デント様。私が貰い受けた『傷』、ちゃんとお返ししますね」
私は手帳をパタンと閉じ、胸に抱いた。
二度と振り返ることなく、私は晴れやかな足取りで、新しい人生を歩み出すために歩き始めた。




