二話
瞼を開くと、使い古された木造の天井が視界に飛び込んできた。
教会の一角にある、聖女たちの共同大部屋。
あちこちから「痛たた……」「一体何が起きたの?」という声が聞こえ、その騒々しさに引きずられるようにして意識が覚醒していく。
(……体が、重い……)
みぞおちの奥が焼きごてを当てられたように熱く、指先は氷のように冷たい。全身の関節が悲鳴を上げていた。
これが、あの猛毒の呪いを引き受けた『代償』だ。
私——クロエ・サクリファイスは、重い体を何とか起こすと、周囲の聖女たちに悟られないよう、敷布の下から一冊の古びた手帳を取り出した。使い込んだ革の表紙。母親から譲り受けた、私にとって一番大切な診療録だ。
痛む指先で最新のページを開くと、そこには歪な文字が残っていた。
『セレスト騎士団カルテ:第一王子レオナルド殿下/猛毒の呪い』
ちゃんと記録されている。
傷の性質や引き受けた日時を正確に記しておくこと。それが、私にこの力を与えた母親の教えだった。
「ねえ、聞いた? レオナルド殿下を救ったのはセシリア司教様なんですって!」
「まあ! さすがはセシリア様だわ。あの禍々しい呪いまで祓ってしまうなんて……!」
「倒れていた私たちを運び込んでくれた騎士様たちも、口々にセシリア様を称えていたわよ」
大部屋の隅で囁き合う聖女たちの声が耳に届く。
昨日、私と一緒に倒れた同僚たちは、後から駆けつけた者たちに運ばれてここで目を覚ましたらしい。そして、世間では「セシリア司教が王子の呪いを完全に浄化して回復させた」ということになっているようだった。
(……うん、それでいい)
私は小さく息を吐き、手帳を胸元に抱きしめた。
私は祝福の力を持たない『落ちこぼれ聖女』だ。私が手をつないで呪いを引き受けたなんて言ったところで、誰も信じないだろうし、不気味がられるのが目に見えている。功績なんてセシリア司教にあげてしまえばいい。ただ私は、静かに任期を終えられればそれで十分だった。
そのとき——バタン、と大部屋の扉が重々しい音を立てて開いた。
「皆様、気分はいかがですか?」
透き通るような澄んだ声。現れたのは、光り輝く金髪を整え、隙のない聖衣に身を包んだセシリア司教だった。
聖女たちが一斉に姿勢を正し、礼を捧げる。セシリア司教は優雅に微笑みながら部屋を見渡し、ゆっくりとした足取りで歩き出した。
そして、彼女が足を止めたのは——私のベッドの前だった。
「クロエ。気分はどうかしら?」
「あ……はい、お気遣いありがとうございます、セシリア様」
「顔色が悪いようだけれど、動けるかしら? ……レオナルド殿下がお呼びです。私と一緒に来なさい」
「え……? 殿下が、私を……?」
思わず聞き返すと、セシリア司教の瞳の奥が一瞬だけ冷たく光った。だが、彼女はすぐに完璧な笑みを張り直し、「ええ、大至急よ」とだけ告げた。
王宮の一室へと連行された私は、豪華絢爛な応接間に通された。
ふかふかの絨毯の上に立たされ、居心地の悪さに身を縮めていると、部屋の奥の重厚な扉が開く。
「待たせたな」
姿を現したのは、第一王子レオナルド殿下だった。
昨日の瀕死の重傷が嘘のように、その肌には血色が戻り、堂々とした立ち姿を見せている。眩しいほどの黄金の髪に、鮮烈な青い瞳。まさに物語に出てくる王子様そのものの容姿だ。
「……殿下、こちらが召し出しましたクロエにございます」
セシリア司教が恭しく頭を下げる。私も慌てて深々と膝を折った。
すると、レオナルド殿下は私に歩み寄り、その前にしゃがみ込むと、私の手をとっと取った。
「顔を上げてくれ、聖女クロエ」
「は、はい……」
恐る恐る顔を上げると、殿下の青い瞳が間近で私を見つめていた。その瞳には、熱熱とした情熱が宿っている。
「昨日の混乱の中……意識が遠のく私に手を差し伸べ、温もりを与えてくれたのはお前だな? 霞む視界の中で見えた、その儚くも美しい面影……忘れようはずもない」
「え……?」
「一目惚れ、というものを初めて知った。命の危機から脱した瞬間、私の心を満たしたのは、お前への情熱だったのだ!」
堂々と告げられた言葉に、私はフリーズした。
確かに昨日、私は殿下の手を握って呪いを引き受けた。だが、それは単なる治療のプロセスであって、決してそんなロマンチックなものではない。
チラリとセシリア司教を見ると、彼女の顔は般若のように引きつっていた。セシリア司教は殿下の英雄になりたかったはずだ。それが、殿下の関心が自分ではなく落ちこぼれの私に向いてしまったのだから、激怒するのも無理はない。
「殿下、ですが彼女は教会でも評判の落ちこぼれで——」
「黙りたまえ、セシリア司教!」
レオナルド殿下はセシリア司教の言葉を途中で遮ると、私の手を強く握り直した。
「今夜、私の全快を祝う晩餐会が開かれる。クロエ、お前も私のパートナーとして参加してもらう! 最高のドレスを用意させよう!」
「え!? い、いえ、私のような者がそのような席に……!」
「断ることは許さん。さあ、侍女たちよ! クロエを美しく着飾るのだ!」
殿下の強い一言で、私は拒否する間もなく侍女たちに別室へと連れ去られてしまった。
着替えのために用意された姿見の前で、私はされるがままになっていた。
脱ぎ捨てられた私の質素な聖衣は、部屋の隅の椅子に置かれている。
侍女たちが私の肌を磨き、香水を吹きかけ、美しい水色のシルクドレスを着せ付けていく。まるで夢の中にいるような感覚だった。ずっと教会の下働き同然に扱われてきた私が、こんな煌びやかなドレスを着せられるなんて。
胸の奥が少しだけ高鳴るのを抑えられなかった。もしかして、私の今までの苦労が報われるのだろうか。殿下は、私の存在を認めてくれたのだろうか——。
そんな浅はかな期待は、突如として破られた。
バンッ! と激しい音を立てて着替え室の扉が開いた。
現れたのは、セシリア司教だった。その手には——私の脱いだ聖衣のポケットから抜き取られた、あの古びた手帳が握られていた。
「見つけましたわ……! この悪魔の道具を!」
セシリア司教の叫び声に、侍女たちが怯えて後退る。私は顔から血の気が引くのを感じた。
「セシリア司教様! 返してください、それは私の大切な——!」
「黙りなさい、異教徒!」
セシリア司教は手帳を高く掲げ、後ろから入ってきたレオナルド殿下と護衛の騎士たちに見せつけた。
「殿下! ご覧ください! この女が隠し持っていたこの気味の悪い手帳を!」
「……それは何だ、セシリア司教?」
レオナルド殿下が怪訝な顔で尋ねる。セシリア司教は口元を歪め、勝ち誇った笑みを浮かべた。
「これは呪いの記録帳です! 恐ろしいことに、ここには過去にセレスト騎士団で重症を負った騎士たちの名前や、負傷した部位、病名が細かく記されています! そして最後のページには……本日、殿下が受けられた『猛毒の呪い』のことまで!」
騒然とする室内。殿下が鋭い視線を私に向けた。
「どういうことだ、クロエ? なぜお前がそんなものを……」
「違います! それはただの診療録です! 昔から、私が引き受けた……治療した傷を記録しているだけで——」
「嘘をおつきなさい!」
セシリア司教の鋭い一喝が私の言葉を遮った。
「皆様もご存知の通り、クロエには神の『祝福』の力が一切ありません! 祝福を持たない者が、どうやって騎士たちの致命傷や殿下の呪いを癒せるというのですか!? 答えは一つ……彼女は祝福によって治癒していたのではなく、異教の邪術を用いて呪いを振り撒き、騎士たちを痛めつけていたのです!」
「な……っ!?」
「彼女が近づいた者は皆、不吉な目にあっている! 殿下、この女は聖女の皮をかぶった悪魔……異教徒の刺客です! 殿下に一目惚れされたふりをして近づき、王国を内側から崩壊させようとしていたのですわ!」
セシリア司教の出鱈目な言いがかりに、場の空気が一変した。
騎士たちが一斉に剣の柄に手をかける。
「殿下、信じてください! 私は決してそんな恐ろしいことは……! 傷を治すために、ただ——」
「黙れ!!」
地を這うような低い声。
声の主は、レオナルド殿下だった。
さっきまで私に熱烈な視線を向けていたはずの青い瞳は、いまや氷のように冷たく、激しい汚物を見るような蔑みに満ちていた。
「……私の目を誤魔化せると思ったか、醜悪な邪術師め」
「殿、下……?」
「一目惚れなど撤回する。思い返せば、お前が私の手を握った瞬間、悪寒が走ったのだ。あれは私にさらなる呪いをかけようとしていた証拠! セシリア司教の神聖な祝福がなければ、私は命を落とすところだったのだぞ!」
違う。そうじゃない。
あのとき殿下を救ったのは私の『肩代わり』で、セシリア司教の祝福は呪いに弾かれたのに。
本当のどす黒い呪いは、いまも私の体の中で動くたびに激痛を立てているのに。
「助けてあげたのに……」
ぽつりと漏れ出た私の言葉に、殿下は怒りを露わにして吐き捨てた。
「ふん、言い訳は見苦しい! 祝福の力を持たぬ落ちこぼれが、聖女を騙り、邪術で王国を脅かすとは万死に値する! だが……我が慈悲により、命だけは助けてやる」
殿下は冷酷に言い放った。
「クロエ・サクリファイス! 聖女の資格を剥奪し、本日をもって我が国から追放する! 二度とこの国の土を踏むな!」
「殿下! その不吉な手帳は焼却処分にいたしましょう!」
「いや待て、セシリア。そのような邪物、下手に燃やせばどんな呪いが振り撒かれるか分からん。その女に持たせて国外へ放り出せ。関わるのも穢らわしい」
殿下は手にしていた手帳を、ゴミでも捨てるかのように私に向かって投げつけた。
ぺシャリ、と音を立てて床に落ちる手帳。
「連れて行け!」
「はっ!」
騎士たちに両腕を強く掴まれ、強引に立ち上がらされる。
美しい水色のドレスは皺になり、私の心は冷たく冷え切っていくのが分かった。
セシリア司教は扇子の影で嘲笑い、レオナルド殿下は不快そうに顔を背けている。
誰も、私の言葉を聞こうとはしなかった。
誰も、私が命を削って背負ってきた激痛を知ろうともしなかった。
(……ああ、そう。そうなのね)
引きずられていく最中、私は床に落ちた手帳を何とか拾い上げ、胸に抱きしめた。
悔しさと虚しさが体を駆け巡り、やがてそれは、冷たく澄み渡った『諦め』へと変わっていく。
私の言葉を信じず、落ちこぼれと蔑み、私の痛みを踏みにじった人たち。
……なら、もういい。
(母様……言いつけを守れなくて、ごめんなさい)
私は心の中で、静かに、けれど固く決意した。
(私、もう……『肩代わり』なんて、してあげない)
掴まれた腕の痛みに耐えながら、私は胸の中の手帳を強く握りしめた。
国境の外へ放り出されたら、すぐにやろう。
今まで私が背負ってきたすべての傷、病、そしてあの猛毒の呪い——。
ぜんぶまとめて、あいつらに『返却』してやるんだから。




