夕焼けの網
翌日、16時39分。
屋上の鉄扉の前で、五人は一度だけ視線を交わした。
豪がロープを両手で掲げる。
「二カ所に張った。昨日より固い。引かれても、戻す」
真木が結び目を覗き込み、指で引っ張って確認した。
「ほどけない。たぶん」
言い切らないのが、彼女なりの誠実さだった。
「たぶんじゃ怖い!」
豪が叫ぶ。
「大丈夫」
レナが言って、豪の肩に軽く手を置く。
「豪が結んだんだから」
豪が一瞬固まってから、変な笑いを漏らした。
「……はい」
東貴は右手を開いて閉じ、黒い痕の熱が来ないのを確かめる。
「行く」
16:40:13。
扉が開き、屋上に薄い膜が降りる。
音が完全に消えるほどではない。
それでも、空気は昨日より冷たく、遠くの声が水の底みたいに遠い。
西側。夕焼けの縁。
落ち続ける少女は、まだいた。
「薄い」
東貴が言う。
「だから急ぐ。でも、飛び込まない」
真木が言って、録音を回す。
波形は細く震え、時計は進む。
「合図は私」
レナの声が、いつもより少しだけ硬い。
「東貴、近づいて。豪、支えて。明日香、メモを見て」
明日香は胸ポケットのメモを握りしめ、うなずいた。
指先が冷える。紙のざらつきだけが、妙に生きている。
豪と明日香がロープを保持し、レナは鉄扉側の支点を押さえる。
東貴がフェンスへ身を寄せる。
「今」
レナが言った。
東貴が右手を伸ばす。
指先だけで、触れる。
掴むのではなく、引っかける。
冷たい。
――引かれる。
だが、昨日のように体ごと持っていかれない。
ロープが張り、豪が踏ん張り、レナが支点を押さえ、明日香が必死に保持する。
「来い!」
東貴が歯を食いしばった。
空の輪郭が一瞬だけ濃くなり、少女がこちらを向く。
彼女は落ちているのに、触れた瞬間だけ、世界の重さで引く。
黒い痕が跳ねる熱が、サポーターの下で脈打った。
「っ……!」
東貴の肩が引かれる。
豪が吠えた。
「耐えろ! 俺がいる!!」
レナが短く言う。
「東貴、今。抜いて」
東貴は引かれる力に逆らい、右腕を“引く”。
腕力ではない。体幹で、重心で、引き寄せる。
その瞬間、少女の落下が止まったように見えた。
口元が動いた。「あ……が……」と、途切れ途切れに。
東貴と豪だけが、それを聞き取れた。フェンス際の彼と、すぐ後ろでロープを踏ん張っていた彼にだけ、声にならない欠片が届いたらしい。明日香たちには、唇が震えたのと同じにしか見えなかった。
少女の像が、夕焼けの粒子にほどける。
糸が切れるみたいに、上から下へ消えていく。
膜が破れたみたいに音が戻る。
風。カラス。グラウンドのホイッスル。遠くの笑い声。
日常が、遅れなく耳に落ちてきた。
真木がスマホを見つめる。
「……波形も時計も、普通に戻った」
時計は16:41を示している。
東貴がフェンスから離れる。
右手の黒い汚れは残っているが、今日の熱は、引いていくのが分かった。
「止まった?」
明日香が聞く。
「止まった」
東貴が答える。
豪が膝に手をつき、息を吐く。
「勝った……。今日の俺、完全にMVPだろ」
真木が小さくうなずく。
「うん。今日は」
「また“今日は”って言った!」
豪が叫ぶ。
笑いが、小さく広がる。
その中心で、明日香はメモを取り出した。
表の文字。
〈 学 園 七 不 思 議 〉が、昨日よりくっきりしている。
ゆっくり裏返す。
そこにあったはずの『 壱 屋上に 』は、きれいに消えていた。
代わりに、薄い灰色の文字が、紙の繊維から浮かび上がる。
『 弐 図書室に 』
「……出た」
明日香の声が、やっと震える。
真木がメモを受け取り、短くうなずいた。
「一件閉じると次が開く。ルール、確定」
言い切ったあとで、小さく息を吐く。
「……少なくとも、いまは」
レナはその文字を見つめ、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
それから顔を上げ、ふだんのトーンで言う。
「部室で、今日のことだけ軽くまとめてから帰りましょう」
そして付け足すみたいに、少しだけ笑った。
「寄り道はしないで。……ね?」
「はーい」
明日香が返事をする。
豪が恐る恐る手を挙げる。
「えっと、つまり次は図書室ってことだよな?」
「そうなるね」
真木が答える。
豪は数秒固まってから、天を仰いだ。
「図書室なら平和だろ。な? 本しかないし」
東貴が乾いた声で返す。
「この学校でその発言、いちばん危ない」
明日香が笑って、メモを胸にしまう。
「次の舞台へ。今度は、もっと準備して行こう」
夕焼けの色は、もう夜に溶けかけていた。
五人は扉を閉め、屋上を後にする。
鉄扉の向こうに残ったのは、風と、誰もいない空だけだった。




