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エピローグ:残灯

旧校舎の廊下は、昼間より細く感じた。

窓の外はすでに夜で、ガラス越しに自分たちの顔だけが浮いている。


五人は一階の準備室に入り、レナが鍵を下ろした。

カチャリ、という音が、やけにはっきりした。


「……お疲れさま」

豪が言って、すぐに言い直す。

「お疲れさま、です」


「お疲れさま」

明日香が笑って返す。

笑いの端が、まだ少しだけ硬い。


机の上には、いつもの並び。

真木のノート、明日香のメモ、東貴の右手に巻いたサポーターの端。

豪が置いたペットボトルが、蛍光灯の白さを受けて透明に見えた。


「糖分、まだいる?」

豪が聞く。


「いまはいい」

真木は首を振って、ノートを開いた。

「帰る前に、屋上の件だけ。箇条書きでいい」


「了解」

明日香が椅子を引き、背筋を伸ばす。

「……正直、腰抜かしそうだった。でも、やった」


東貴は右手の甲を見た。

黒い痕は、昨日より薄い。

それでも、皮膚の下に墨が残っているみたいに沈んでいる。


「壱」

真木が鉛筆を走らせながら言う。

「現象は、落下の反復。東貴の接触で時間が再開。今日は、少女が消えて、膜が薄くなった。メモは壱が消えて弐が出た」


「つまり閉じた」

豪が早口で言って、自分で頷く。

「閉じたんだよな。俺たち、勝ったんだよな」


「勝ち負けじゃない気もするけど」

明日香が呟く。

「でも、一件終わった、は合ってるよね」


レナが湯呑みに麦茶を注ぎながら、小さくうなずいた。

「うん。少なくとも、いまは」

湯呑みは、まだ彼女の手元にあった。


真木の鉛筆が止まる。

「次は図書室。準備は来週に回す。今日は脳みそ、冷ます」


「賛成」

東貴が短く言った。


明日香はメモを裏返し、消えたはずの行を指でなぞった。

紙はただの紙で、灰色の文字はもうない。


「あの子……屋上にいた子」

明日香が言葉を選ぶ。

「どこに、行ったと思う?」


沈黙が、一瞬だけ部室の空気を厚くした。


「分からない」

真木が正直に言う。

「観測できない。だから、記録に書けない」


豪が腕を組んで、肩をすくめる。

「成仏とか、そういうんじゃないの? 漫画だと」


「漫画じゃない」

東貴が吐き捨てるように言って、すぐ息を整える。

「……でも、俺も知らない。いなくなった、だけだ」


豪が喉を鳴らす。

「言いづらいんだけどさ。屋上、最後。なんか……喋ってたくね?」


東貴がうなずく。

「俺も聞いた。欠片だけ。意味までは分からない」


真木が鉛筆の先を机で軽く叩いた。

「私もダメ。録音は回してたけど、人の声としては拾えてない」


レナが湯呑みを両手で持ち直す。

「私も聞こえなかった。……東貴と豪だけ?」


豪が笑おうとして、頬が引きつる。

「だからヤバくね? 今まで部で突っ込んだ怪異、喋んなかっただろ」


レナが湯呑みの縁だけ見つめた。

「……私が知ってるだけだと、いなかった」


真木が一拍置く。

「私たちの経験でも初めて。……たぶん」


東貴が短く言う。

「気持ち悪いのは、そこ」


言い切ったあと、誰もすぐには笑えなかった。


誰かが「そういえば」と続けかけて、言葉が途中で溶けた。

蛍光灯の下で、五人だけが呼吸している。


レナが湯呑みを机に置いた。

その瞬間、閉め切った部屋のはずなのに、床を這うような風が足首を撫でた。


五人の視線が、同じ高さの空気を探る。


「……今、風?」

明日香が窓に目をやる。


「窓も扉も、さっきから締まってっしょ!?」

豪の声が上ずる。


真木が窓枠と扉の枠に順に指を這わせる。

「閉まってる。扉も窓も。隙間風の筋も、いまは見えない」


もう一度。


机の上のメモ用紙が一枚、端から滑り落ちた。

落ちる途中で、一枚の紙にしては、妙に長く見えた。


ぱた、と床に着く音だけが、一拍遅れて耳の奥に落ちた。


レナの指は、湯呑みから離れている。

誰も、紙に触れていない。


豪の腕に、鳥肌が立った。


「ちょ、待て。意味わかんねえ」

豪が笑おうとして、笑えない。


東貴は扉側を見た。

ガラス越しの廊下は暗く、人影はない。


「……上」

東貴が言う。

「屋上、ここじゃない。階的には、上だ」


「地理の話?」

明日香が聞き返す。


「ただの位置の話」

東貴はそれ以上続けない。


真木がスマホを取り出し、すぐに画面を伏せた。

「録音、回してない。ログ、ない」


レナが鍵を握りしめる。

「今日は、ここまで。本当に」


「ねえ」

明日香が立ち上がりかけて、言葉を飲み込み、また飲み直す。

「閉じたって……どこまで、閉じたの?」


誰も、すぐには答えなかった。


豪が喉を鳴らす。

「……次、図書室行けば、わかんのか?」


「わかるとは限らない」

真木が静かに言う。

「でも、行くしかない」


五人は準備室を出た。

廊下の灯りは、足元だけを淡く照らしている。


明日香が、ふと立ち止まる。

旧校舎の窓の列の向こう、もう使われていない教室の扉の隙間が、細い闇を覗かせていた。


「いま、灯り、あった?」


東貴が振り返る。

豪が首を振る。

真木は目を細める。

レナは、答えないまま明日香の袖を軽く引いた。


「帰ろ」


五人の足音が重なり、別れて、また重なる。

鉄の階段の下では、風だけが通り過ぎた。


準備室に残された蛍光灯は、しばらくそのまま白かった。

床に落ちたメモ用紙は、誰もいないあいだ、角だけを少し持ち上げたまま、やがてぴたりと伏せ直した。


第1章(学園七不思議・壱)、ここまで読んでくださりありがとうございます。


屋上の一件が「終わった」ように見えても、部室の空気はすぐには晴れませんでした。東貴だけが聞いた声、閉め切ったはずの部屋の風、消えきらない手のあと——「閉じた」の境界が、五人にも読者にもまだ半透明なまま残る終わり方にしたかったです。


次は図書室。メモの「弐」が、どんな扉を開けるか、第2章で踏み込みます。よければブックマークや評価で応援いただけると、執筆の励みになります。

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