夕焼けの再接触
翌日、放課後。
空は昨日より薄い橙で、風だけが少し強かった。
研究会の五人は、旧校舎一階の準備室に集まっていた。
机の上には、真木のノート、東貴の包帯交換用テープ、明日香が持ってきたメモ、豪のスポーツドリンクが並ぶ。
そのうち二人は、この時間帯は本来、弓道場と柔道場にいるはずだった。
東貴がサポーター越しの右手を見る。
「この手じゃ弓つかめないし、俺がいないと怪異が見えないからな、今日解決しちゃおうぜ」
豪が顎を上げる。
「柔道も今日は休んできた。だってよ、俺がいなかったらどうすんだよ。引っ張り返す係、いねえだろ」
言いながら、指先がスポーツドリンクのラベルをいじっていて、本人は気づいていないふりをしていた。
「最終確認」
真木がノートを開く。
「確認は二つだけ。ひとつ、16時40分に現象が再発するか。ふたつ、再発したときに“終わる条件”を掴む」
「終了条件って?」
明日香が聞く。
「昨日は東貴の接触で時間が動いた。偶然か条件成立か、切り分ける」
豪が手を挙げる。
「質問。俺の役割は?」
「パニック係」
東貴が即答した。
「違う! 重要ポジションっぽく言ってくれ!」
真木が小さく笑う。
「豪は安全確認と退路確保。いちばん大事」
「……それなら任せろ」
豪は咳払いをして背筋を伸ばした。
ちょっと嬉しそうだった。
レナは窓の外を見たまま言う。
「16時35分に移動。屋上到着後は、各自の位置を固定して」
「了解」
四人の声が重なる。
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16時39分。
屋上の鉄扉の前で、全員が一度だけ呼吸を合わせた。
東貴の右手には、包帯の代わりに薄い黒のサポーター。
布越しでも、熱が残っているのがわかるらしい。
「来る」
東貴が短く言った。
「時間ぴったり」
真木がスマホ画面を見せる。
16:40:13。
明日香が扉を押す。
昨日よりゆっくり、慎重に。
ギィ――。
音は、今度は途中で消えなかった。
だが屋上へ一歩出た瞬間、空気の密度が変わる。
遠くの部活の声が、薄い膜を一枚挟んだみたいに遠ざかる。
風の音が、耳の奥で水中音みたいにくぐもった。
「音、完全には消えてない。昨日より薄い」
真木が呟く。
豪がフェンスから距離を取りながら叫ぶ。
「弱くても嫌なもんは嫌だ!」
「位置、そのまま」
レナの一声で、全員が止まる。
東貴は西側を見つめる。
夕焼けの縁、昨日と同じ位置。
光が瞬くたび、粒子のようなノイズがちらつく。
「いる。昨日より薄い」
明日香も目を凝らす。
確かに、落ちる少女の輪郭が、半透明のフィルムみたいに揺れていた。
「また落ちてる……」
真木が録音アプリを起動する。
波形は細く乱れ、昨日のような完全フラットにはならない。
時計も進んでいる。16:40:21。
「時計は止まってない。完全停止じゃない。昨日の続きだ」
真木はスマホを見比べながら言う。
「接触条件が残ってるなら、今しかない。東貴、昨日と同じ接触はできる?」
東貴は右手を握って開き、短くうなずいた。
「やる」
「待って、東貴」
明日香が声を張る。
「昨日と違う。なんか、落ち方が変」
明日香は自分の言葉を探すみたいに、息を継いだ。
「うまく言えないけど、近づきすぎないで」
返事はない。東貴の視線は、夕焼けの一点に縫い止められていた。
視線の先で、少女は同じ姿勢のまま落ち続けている。落下は静止して見えるのに、輪郭の端だけが、やけに速く揺れていた。
「東貴!」
明日香が呼ぶより早く、東貴はフェンスへ手をかけた。
身を乗り出し、右手を伸ばす。
薄いノイズの層を、掴み取るみたいに。
指先が、何かに触れた。
冷たい。
次の瞬間、東貴のサポーターの下で黒が脈打つ。
同時に、空の少女の輪郭が一気に濃くなり、顔だけがはっきりとこちらを向いた。
――引かれる。
見えない腕力が、東貴の右腕ごと前へ持っていく。
少女は「落ちている」のに、触れた瞬間だけ、加速が現実の重さで襲ってきた。
「っ……!」
東貴の足が浮き、上体がフェンスの外へ滑る。
「東貴!」
明日香が伸ばした手は届かない。
豪が吠えた。
「離せ! ッ……こっちだ!!」
豪が東貴の背中を両腕で抱え、全体重で後ろへ引き倒す。
床に膝がぶつかる鈍い痛みが、遅れて屋上に戻ってきた。
東貴は息を吐き、指を開いた。
掴んだ感触は、もうない。
少女の輪郭もまた薄くなって、夕焼けの縁へ溶け戻る。
真木が唇を噛んだ。
「……加速。見かけと違う」
声が、わずかに震えている。
「そのまま引き込まれたら、終わってた」
明日香は東貴の右腕を見つめたまま、早口で言う。
「最初の接触のときは、ここまでグイって来なかった。引っ張りはあったけど、“重さ”まではなかった感じ」
「今回は、向こうの落ち方が、こっちにまで出てきてる」
豪は肩で息をして、強がり笑いを作る。
「だから言っただろ。俺、護衛だから」
言いながら手が震えているのを、本人だけが気づいていないふりをした。
レナは息を整えてから言った。
「……次は、ちゃんと準備してからにしよう。みんなで、落ちないやり方で」
明日香はフェンスへ駆け寄りそうになって、足を止めた。
昨日の静寂が戻る気配はない。現象はまだそこにある。薄く、しつこく、終わりきらないまま。
「……今日は、撤退」
レナが言った。声は冷静だが、判断は迷いの跡を残していた。
「やり方を変える。いまは、情報が足りない」
豪がうなずき、東貴の肩を叩く。
「無茶すんな。次は、引っ張られても落ちないように準備してから挑戦しよう」
東貴は短く息を吐いた。
「……ああ」
真木がノートを胸に抱え直す。
「今日のログで、条件が一つ分かった。触れた瞬間、落下の“重さ”がこっちに出る」
明日香はメモを握りしめた。
「なら次は、引っ張られるって前提で準備しよう」
自分にしか聞こえない声で、言い聞かせるように続けた。
「助ける。次はちゃんと準備してから」
夕焼けの縁で、少女はまた薄く落ち続けている。
五人は鉄扉を閉め、屋上を後にした。
耳の奥に残るのは、終わりきらない違和感だけだった。




