右手の黒い痕
保健室の窓は閉まっているのに、白いカーテンだけがわずかに揺れていた。
五味しずかは、東貴の右手を診察台のライトの下へ引き寄せる。
「痛みは?」
「ない。……いや、ある」
東貴は眉を寄せた。
「触られてる感覚だけ、遅れてくる」
明日香が身を乗り出す。
「遅れてくるって、どういうこと?」
東貴は左手で右手首をつまみ、間を置いて言った。
「今つまんだ感覚が、あとから来る。半拍くらい」
豪が青い顔で一歩下がる。
「半拍ってなんだよ、怖い言い方すんな……」
「正確に言うと、体感で0.3秒くらい」
真木がノートを開き、ペン先を走らせた。
「遅延が一定なら、記録できる」
「記録してどうするのよ」
明日香が言う。
「あとで変化を見るため。比較対象がないと、勘になるから」
真木は顔を上げ、ほんの少しだけ肩をすくめた。
「勘も大事だけど、今日は数字も欲しい」
レナは診察台のそばで、黙って東貴の手を見ていた。
その視線は、黒い汚れの輪郭より、もう少し奥の何かを見ているようだった。
ふと明日香と目が合うと、小さく笑って「大丈夫」と口だけで伝える。
五味がアルコール綿を取り出し、黒い部分を丁寧に拭う。
白い綿は、少しも汚れない。
もう一枚、もう一枚。
結果は同じだった。
「やっぱり表面じゃないわね」
五味は綿をゴミ箱に捨て、手袋を外した。
「皮膚の下に、色が沈んでる」
豪が喉を鳴らす。
「それ、取れるんすか……?」
五味は東貴の手を見たまま、さらりと言った。
「一生このままかもね」
「えぇっ!?」
豪の悲鳴が、保健室の天井で跳ねる。
五味はそれ以上答えず、代わりに東貴へライトを近づけた。
黒は指の節に沿って細く枝分かれし、血管の地図みたいに広がっている。
「今日は固定。無理に剥がさない。温めない。こすらない」
五味は包帯を手に取りながら言う。
「いい? 焦ると、余計に深くなることがある」
「深くなるって、どこまで?」
明日香が息を呑む。
「聞かないほうが楽な範囲」
五味は東貴の手に包帯を巻いた。
「それより、あなたたち。屋上で何を見たの?」
明日香が口を開く。
「女の子が、落ち続けてて――」
「見えたのは全員?」
「俺は見えてない!」
豪が即答した。
「いや、見えない方がよかったまである!」
「私も、輪郭までは見えなかった」
真木が続ける。
「はっきり同じ子を見てたのは、東貴と明日香だけ」
明日香が五味を見る。
「なんで二人だけ見えたの? 目がいいとか、そういう話だけじゃない気がする」
東貴も短く言う。
「俺は先に見つけた。でも、明日香も見えた」
五味はカルテの端を指でとんとん叩いた。
「いい質問」
「答え、知ってるんですか?」
豪が身を乗り出す。
五味はすぐには頷かない。
「ヒントだけ。見えるかどうかは、条件で変わる」
「見えた時点で、安全圏じゃないこともある」
明日香が息を呑む。
「見えた人が、巻き込まれやすいってこと?」
「そこから先は、自分たちで確かめなさい」
真木がノートを見ながら続ける。
「明日香と東貴は、あの子そのものを見てた。私は輪郭が無理だったけど、時計も録音アプリも、ちゃんと止まってた。豪のほうは、見え方が歪んでた」
「確認って言うなよ! 腰抜けたんだぞ俺!」
「それも観測結果」
真木は悪びれずに言って、すぐ豪に視線を戻した。
「でも、無理して前に出たのは助かった。状況把握が早くなったから」
豪は一瞬ぽかんとし、耳まで赤くなる。
「え、あ、そ、そう? まあな。そういう役回りだしな、俺は」
「単純」
東貴がぼそっと言う。
「うるせぇ!」
短い言い合いのあと、保健室の空気は少しだけ緩んだ。
だが、五味の次の一言で、また張りつめる。
「屋上はしばらく立ち入り禁止。鍵は私が預かる」
「えっ」
明日香が顔を上げる。
「でも、あのメモの続き、追わないと」
「追うなら、順番を守りなさい」
五味の声は柔らかいのに、逃げ道がない。
「一つを終わらせないまま次へ行くと、痛い目じゃ済まない」
真木のペン先が止まった。
「……今の言い方だと、順序があるってこと?」
五味は小さく笑う。
「質問はいいわね。答えは、まだ」
真木は一拍置いて、言葉を選ぶみたいに続けた。
「もう一つ。先生、どうしてそこまで分かるんですか」
「この手の“怪異”に、慣れてる言い方に聞こえる」
五味は真木を見た。視線だけで、温度が下がる。
「理由を知りたい?」
五味は答えを渡さないまま、視線を外した。
「今は必要ない。……必要になったら、勝手に分かるわ」
それだけ言って、カルテを閉じた。
「ケチ」
明日香が小声で言う。
「長生きしたいなら、ケチな大人の言うことを聞くこと」
五味は診察台のライトを落とし、白衣の胸元で手を止めた。
「今日は解散。東貴は明日も来る。朝いちで」
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夕方の廊下は、窓ガラスに夜の色を貼りつけはじめていた。
五人は保健室を出て、旧校舎の階段前で立ち止まる。
明日香が胸ポケットから、あのメモを取り出した。
何度触っても、紙のざらつきだけが妙に冷たい。
「ねえ、裏の文字」
明日香がメモをひっくり返す。
『 壱 屋上に 』は、まだそこにあった。
だが、字の端が少し滲み、墨を水で薄めたように輪郭がぼけている。
真木が身を寄せる。
「薄くなってる」
明日香がメモの行を指で叩いた。
「ねえ、これ『屋上の壱』って呼ばない? 壱の行が屋上だし、これまでの一件と同じで、現場名つけてたじゃん」
真木がうなずく。
「うん。ログも会話も、それで統一しよう。『壱 屋上に』だと、口走りにくい」
「え、マジで?」
豪も覗き込み、すぐ肩をすくめた。
「ほらな、反応が消えるってこういう――」
言い終わる前に、廊下の突き当たりで扉が閉まる音がした。
金属がぶつかる、乾いた一発。
全員がそちらを見る。
誰もいない。
東貴が目を細める。
「今、向こうの掲示板。紙が一枚、めくれた」
「風じゃない?」
明日香が言う。
「窓、閉まってる」
真木が先に歩き出す。
「行こう。確認だけ」
「確認だけ、な?」
豪は何度も同じことを言いながら、結局ついていく。
掲示板の前には、学年別のクラス一覧が貼られていた。
その右端に、画鋲だけが一本、余っている。
明日香は眉をひそめた。
「ここ、もともと何か貼ってなかった?」
「昨日の帰りに見たときは、端まで紙があった」
真木が即答する。
「白地に、黒枠。縦長のプリント」
豪が慌てて言う。
「え、でも今ないし! 見間違いってことあるだろ!」
「ある」
真木はうなずいた。
「だから明日、同じ時刻で再確認する」
東貴が掲示板の下を見て、しゃがみ込む。
床に、紙片が一つ落ちていた。
拾い上げると、切れ端には印刷の一部だけが残っている。
――組
それだけだった。
「……“組”だけ?」
明日香が息を止める。
次の瞬間、廊下の電灯が一斉に明滅した。
白、暗、白、暗。
最後に戻った光の中で、東貴の包帯の下が、じわりと熱を帯びる。
「っ、熱い」
東貴が右手を押さえる。
包帯の隙間から、黒い筋がほんの少しだけ先へ伸びた。
レナが即座に言う。
「……だめ、今日はここで終わりにしよう。これ以上は危ない」
明日香は紙片とメモを見比べ、唇を噛んだ。
追いたい。けれど、止まるべきだという感覚も、今ははっきりあった。
「……わかった。明日、準備してから動こう」
真木が小さくうなずく。
「うん。それがいい」
豪は胸を撫で下ろしながら、しかし最後だけ強がった。
「別にビビって引くわけじゃないからな。戦略的撤退だからな」
「はいはい」
明日香が笑う。
五人は踵を返し、階段を下りる。
背後の掲示板には、A組からD組までの紙だけが、何事もなかった顔で並んでいた。
ただ、余った画鋲が一本だけ、夕方の光を鈍く返していた。




