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天空の処刑台

五人は、さきほど走り抜けてきた呼吸の乱れをまだ肩にのせたまま、その鉄扉の前に立っていた。

メモを握った明日香の背中に、東貴と真木、豪とレナの視線が重なる。


「――開けるよ!」


明日香が、屋上の鉄扉に手をかける。

夕方の湿った冷気が、扉の隙間から細く漏れていた。


「待て、明日香。順番に――」

東貴が止めるより先に、蝶番が軋んだ。


ギィ、と鳴ったはずの音が、途中で切れた。


次の瞬間、世界から音が消えた。


カラスの羽ばたきも。

風がフェンスを鳴らすざらついた音も。

下のグラウンドで響いていたはずの掛け声も。

誰かが無造作に、巨大なスイッチを落としたみたいに、すべてが途絶えていた。


「……え?」

明日香の口が動く。だが、声は聞こえない。


豪が耳を押さえて口をぱくぱくさせる。

真木は無言でスマホを引き抜き、録音アプリを起動した。


表示された波形は、水平な一本線のまま、ぴくりとも揺れない。


「音、拾えてない。……こんなの、ありえない」

真木はそう言って、画面の右上を見つめた。

「時刻、十六時四十分十三秒……固定」


彼女の声はいつも通り平坦なのに、最後の一音だけ、わずかに震えていた。


「固定って、どういう意味?」

明日香が顔を寄せる。


「見て。これ、一秒も進んでない」


真木は指先で画面をタップする。

録音時間のカウンタも、16:40:13の表示も、凍りついたまま動かない。


「……冗談、だよな」

豪が笑おうとして失敗した。喉だけがひくつく。


レナは扉の脇に立ったまま、屋上の奥を見ていた。

夕焼け色の光が、彼女の横顔を薄く切り取っている。


「前に出すぎないで。……お願い」

レナは小さく言って、フェンスの方へ顎を向けた。


豪が半歩ずつ近づく。

真木にいいところを見せたいのか、肩をいからせている。


「だ、大丈夫だって。高いのは見慣れてるし――」


言いかけて、豪の膝が折れた。


「う、うそだろ……!」


フェンスの向こうで、地面が遠ざかっていた。

校舎も、木々も、道路も、すべてが縦に引き伸ばされ、底の見えない井戸みたいに沈んでいる。

校庭の白線は糸のように細く、車は豆粒より小さい。


豪の腕に鳥肌がぶわっと立った。

歯が合わず、肩が小刻みに震える。


「ご、ごめん、これ無理、無理だって……!」

腰が抜けたまま後ずさろうとして、尻もちをつく。


真木が視線だけを向ける。

「豪、大丈夫? ……いや、その感じだと大丈夫じゃないか」


「冷たいとかの問題じゃ――いや、冷たい! すごく冷たい!」


そのやりとりを横目に、東貴はフェンス越しの空間を凝視していた。


「……いる」


「何が?」

明日香が東貴の袖を掴む。


「西側、太陽の反射の縁。ノイズみたいに点滅してる」


東貴の目だけが、夕焼けの揺らぎの中に異物を追っていた。

赤い空の薄膜に、白い影が何度も現れては消える。

人影――少女だ。

制服の裾を翻し、こちらへ落ちてくる。

だが地面には届かない。

同じ高さで、同じ姿勢で、永遠に落ち続けている。


明日香の背中に冷たい汗が走る。

「見える。ほんとに、いる……!」


豪は、尻もちをついたまま首だけ巡らせた。

「……高いのとは、別だ。何がってわかんねえけど、胃のあたりがおかしい」


少女の指先が、フェンスのこちら側へ一瞬だけ滑り込んだ。


東貴は迷わなかった。


フェンスに片手をかけ、身を乗り出し、右手を伸ばす。

空を掴むような無謀な動きに、明日香が息を呑む。


「東貴!」


次の刹那、東貴の指が何かを掴んだ。

空気の中にあるはずのない、細い手首の感触。

骨ばった冷たさが、右手に食い込む。


触れた瞬間、わずかな牽引が右腕を引いた。だが、それはまだ「重さ」になる前の、薄い引き込みだった。


少女の顔が、夕焼けの中でこちらを向いた。


止まっていた一秒が、そこで決壊した。


轟音。


風が一気に吹き戻す。

カラスがけたたましく鳴き散らし、グラウンドの掛け声が雪崩れ込み、鉄扉が背後で激しく打ち鳴った。

豪の悲鳴と明日香の叫びが重なって、屋上全体が爆ぜる。


真木のスマホが震え、時計表示が跳ぶ。

16:41。


波形は一気に乱高下し、録音ランプが赤く点滅した。


「動いた……」

真木が画面を見たまま呟く。


東貴はフェンスから身を引いた。

掴んでいたはずの少女は、もういない。

ただ、右手だけが不自然に固まっていた。


「手、見せて!」

明日香が駆け寄る。


東貴の右手の甲から指先にかけて、炭を擦りつけたような黒い汚れがこびりついていた。

拭っても、爪で引っかいても、色は皮膚の奥に沈んだまま動かない。


豪が青ざめた顔でのぞき込み、すぐに目を逸らす。

「それ、インクとかじゃないよな……」


「いや、違う」

真木は短く答え、東貴の手を観察した。

「境目がぼけてる。表面についたっていうより、染み込んでる感じ」


レナが一歩前に出る。

「……っ、保健室に行こう。東貴くん、すぐに」

「明日香ちゃんも、部長の指示には従ってね」


そのとき、屋上の入口で足音が止まった。


白衣の裾が、夕焼けの風にひるがえる。


「――騒がしいと思ったら、やっぱりあなたたち」


鏡高学園の美人保健医、五味しずかが、無表情のまま立っていた。

生徒たちのあいだで「氷の女王」と呼ばれる彼女は、めったに笑顔を見せない。

彼女の目は東貴の右手に落ち、そのままレナへ移る。


「触ったのね」


誰も答えない。


五味は肩をすくめ、軽く首を傾げた。


「いい? 応急処置はする。でも、勘違いしないこと」

「代わりのパーツなんて、存在しない」


五味は東貴だけを見据えた。

「穴を埋める“代わり”まで、軽々しく引き受けないこと。……名前が何であれ」


レナのまつげが、わずかに揺れた。

東貴は右手を握りしめる。


五味は(きびす)を返し、扉へ向かう。


「来なさい。手遅れになる前に」


夕日が彼女の背中を赤く縁取り、白衣の影を長く引いた。

五人は言葉を失ったまま、その後を追う。


屋上には、さっきまで確かにあったはずの静寂だけが、形をなくして残っていた。


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