第43話 魔人
中庭のあちこちに、砕けた岩が転がっていた。
どれも、ついさっきまでハレスの体を覆っていたものだ。4メートル近い岩の巨人は、もう見る影もない。
雷に打たれるたびに装甲が剥がれ、剥がれた端から次の雷が叩き込まれた。削られ、焼かれ、また削られて、残ったのは胸と腕にかろうじて張りついた岩の欠片だけだった。
「はぁ……はぁ……」
ハレスは、片膝をついていた。
息を吸うたびに、肺が焼けるように痛む。皮膚の下を這い回る雷が、筋肉を内側から痙攣させる。拳を握ろうとしても、指が思うように閉じなかった。
その正面で、ガネンが剣を振った。刀身についた血が、石畳に弧を描いて散る。
「なかなかやるじゃん。こんなに手こずったの、久しぶりだよ」
息ひとつ乱れていない。焦げているのは、服の袖くらいのものだった。
「ハレス……!」
少し離れた場所で、アレクが叫んだ。だが、駆け寄ることはできない。目の前では侵入者が2人、隙を窺っている。
ロザリナも同じだった。アレクと背中合わせに杖を構え、別の敵と渡り合っている。
誰も、手を貸せない。
「じゃ、これでおしまいね」
ガネンが剣を振り上げた。
ハレスは、左腕を掲げた。
刃が、腕に食い込む。岩の欠片が砕け、その下の肉に届いた。血が噴き出す。だが、そこで止まった。
張り詰めた筋肉が、刃を噛んでいた。
「……へぇ。まだ抗うの?」
「当然だ」
それ以上、ハレスは何も言わなかった。
この中庭で、何人の教え子が倒れたか。その顔を、ハレスは一人残らず見ていた。膝をついたままでも前を向く理由は、それだけで十分だった。
ガネンは、小さくため息をついた。
「そっか。じゃあ、仕方ないね」
剣を引き抜くと同時に、ハレスの腹を蹴り飛ばす。ハレスの体が、石畳を転がった。
ガネンの周囲で、空気が弾け始めた。
ぱち、ぱち、と。最初は小さな音だった。それが幾重にも重なり、やがて低い唸りに変わっていく。足元の砂利が震え、細かな石が宙に浮いた。剣身を這う紫電が、目を焼くほどの光を放ち始める。
さっきまでの雷とは、明らかに違った。
全てを一点に集めている。確実に、終わらせるつもりだ。
(まずい……)
この男をここで止められなければ、中庭が落ちる。中庭が落ちれば、校舎に残っている生徒たちにまで、この雷が届く。
立ち上がろうとした。膝が、言うことを聞かなかった。
――――――――
アレクは、目の前の侵入者の剣を短剣で弾きながら、ハレスの方へ視線を走らせた。
あの雷が放たれたら、ハレスは死ぬ。
左手が、上着のポケットに伸びていた。指先に、硬く冷たい感触が触れる。
ずっと、迷っていた。さっきも一度、使おうとして、やめた。
あれは、まだ未完成だ。人の体で試したことは、一度もない。
それでも――
「ハレス、受け取れぇ!!」
アレクは、ポケットから取り出したものを、力の限り投げた。
赤紫の光を帯びた小さな石が、宙を裂いて飛んでいく。
ハレスが、顔を上げた。
視界の端に、その光が映る。考えるより先に、体が動いていた。動かないはずの膝で地を蹴り、這うようにして手を伸ばす。
「させるかよ!」
ガネンが、溜めていた雷ごと剣を振り下ろした。
放つには、まだ早かった。狙いがわずかに逸れ、雷光はハレスの背を掠めて、石畳を抉って弾けた。
それでも、指が届いた。
掌の中に、石があった。
「……ん?」
ガネンが、動きを止めた。
ハレスの手の中で、赤紫の光が脈打っている。ゆっくりと、心臓の鼓動に合わせるように。見ているだけで、胃の底がざわついた。
「それを使うんだ、ハレス!!」
アレクの声が飛んだ。
ガネンの顔から、笑みが消えた。
何なのかは分からない。だが、使わせてはいけないものだということだけは、分かった。
「クソがッ!!」
雷を纏った剣が、一直線にハレスへ向かう。
ハレスは、石を握り潰した。
パリン、と。乾いた音がした。
剣が届く寸前だった。ハレスを中心に、目に見えない何かが爆ぜた。ガネンの体が弾き飛ばされ、衝撃は波となって広がり、周囲の瓦礫を吹き散らし、戦っていた侵入者たちの足元までを揺らした。
ハレスの周りに、黒い靄が立ち込めていた。
靄は、ゆっくりとハレスの体へ吸い込まれていく。皮膚から、口から、目から。
「ぐ……ぐ、ああ、あああああああああッ!!!」
叫び声が、中庭を震わせた。
頭の中に、何かが流れ込んでくる。熱い。冷たい。重い。どれでもあって、どれでもない。自分のものではない魔力が、血管の一本一本に割り込んでくる。思考が、端から削り取られていく。
腕が、自分の意思と関係なく動いた。何かを壊したい。その衝動だけが、腹の底から湧き上がってくる。
胸と腕に残っていた岩の欠片が、音を立てて崩れ落ちた。
露わになった肌は、赤黒く変色していた。血管が黒い筋となって浮き上がり、指の先が鉤爪のように伸びていく。
こめかみに、激痛が走った。
骨を割って、角が突き出してくる。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ァァァーーーッ!!!」
もはや、人の声ではなかった。
「おいおい……なんだよ、その姿……」
瓦礫の中から身を起こしたガネンが、呟いた。
「持ちこたえるんだ、ハレス……!」
アレクが、祈るように叫ぶ。
その声は、届いていた。遠くで、誰かが自分の名前を呼んでいる。
(呑まれる……)
自分が、薄れていく。名前が。記憶が。自分がここで何をしていたのかさえ、霞んでいく。
その中で、消えないものがあった。
校舎の窓。中庭の噴水。朝の訓練場に響く、生徒たちの声。
教壇から見下ろした、いくつもの顔。
今日、この中庭で倒れていった顔。
(……この学院だけは)
(この学院だけは、渡さん)
(俺の全てを、懸けてでも――!!)
ハレスは、吠えた。
中庭の空気が、爆ぜた。立ち込めていた黒い靄が、一斉に吹き飛ぶ。
そこに、ハレスが立っていた。
荒い呼吸。赤黒い肌。こめかみから伸びた、2本の角。
だが、その目には、ハレスがいた。
「……なんだよ、それ」
ガネンが、剣を握り直した。
「まるで――魔人じゃねぇか」
――――――――
「おお……!制御しおったか、ハレスのやつ!」
アレクが、拳を握った。
ハレスは、自分の手を見下ろしていた。
溢れてくる。底の見えない魔力が、体の内側から湧き続けている。だが、それは自分の知っている魔力ではなかった。重く、濁っていて、どこか冷たい。
考えていられたのは、そこまでだった。
ガネンが、既に踏み込んでいた。雷を纏った剣が、首筋へ振り下ろされる。
刃が、止まった。
肌に触れたところで、それ以上、1ミリも進まない。
「なっ……」
ガネンの目が、見開かれた。
「悪いな」
ハレスは、ゆっくりと顔を上げた。
「俺はもう、人間ではないらしい。……対等な勝負とは、言えんな」
拳を、振るった。
魔法も、技も、何もない。握った拳を、まっすぐ突き出しただけだった。
ガネンは咄嗟に、剣と雷を盾にしていた。防御は、間に合っていた。
それでも、体が浮いた。
「ガハッ――!!」
ガネンは中庭を横切るように吹き飛び、石壁を突き破って、その向こうへ消えた。
遅れて、壁の崩れる音が響いた。
――――――――
「……完全に、自我を保っとる」
アレクが、額の汗を拭った。
「アレク!」
背中合わせのまま、ロザリナが声を荒げた。
「あの魔石は、一体なんなの!」
「魔人化石じゃ」
アレクは、目の前の敵から目を離さずに答えた。
「魔族の魔力を、人の体に無理やり流し込む。……呑まれれば、二度と戻れん」
「そんなものを……!」
「分かっとる。だから、ずっと使えんかった」
短剣を握る手に、力がこもる。
「正直、呑まれると思っとった。……あいつの意地に、賭けるしかなかったんじゃ」
「……他に、代償は」
アレクは、すぐには答えなかった。
「ある。効果が切れた時に、な」
それ以上は、言わなかった。
ロザリナが問い詰めようとした時には、侵入者たちが一斉に踏み込んできていた。
「キリがないわね……!」
水の膜で剣を受け流す。だが、倒しても倒しても、瓦礫の陰から新たな敵が湧いてくる。2人とも、とうに限界は超えていた。
「……こっちも未完成だが、ハレスのやつが成功したんじゃ。わしらにも、できるじゃろ」
ロザリナの顔が、引きつった。
「まさか、私たちもあの魔人化石を!?絶対に嫌よ!」
「違うわい!お前さんもわしも、昔に戻りたいと言ってたじゃろうが!」
アレクがポケットから取り出したのは、淡い金色の光を帯びた石だった。2つ。
「一時的に、体を全盛期に戻す魔石じゃ!」
「……そんなものがあるなら、早く言いなさいよ!」
侵入者たちが、剣を振りかぶる。
アレクは片方をロザリナへ放り、もう片方を握った。2人は、同時にそれを砕いた。
金色の光が、2人を包み込む。振り下ろされた剣が、光に触れた端から弾かれた。
光が収まる。
そこに立っていたのは、見知らぬ2人だった。
曲がっていた背は伸び、刻まれていた皺は跡形もない。ロザリナの髪から白いものが抜け落ち、艶やかな栗色が肩の下まで流れていた。アレクは長身に分厚い筋肉を纏い、握った拳を開いたり閉じたりしている。
「……クックック」
アレクが、肩を震わせた。
「しゃあああッ!!全盛期の俺だァーー!!」
声まで、若返っていた。
「なんて素晴らしい体なの……!全部が軽いわ!」
「わ、若返ったぞ……!?」
「ガネンさんは!?さっき、壁の向こうに――」
うろたえる侵入者たちに、考える暇は与えられなかった。
「話してる暇、ねぇぞ!!剣なんていらねぇ!」
アレクが短剣を放り捨てた時には、もうその体は侵入者の懐にあった。
「『重圧拳』!!」
拳がめり込んだ侵入者の体が、真下の石畳へ叩きつけられる。殴り飛ばされたのではない。上から、何倍もの重さで押し潰されていた。石畳が陥没し、蜘蛛の巣状に罅が走る。
斬りかかってきた残る2人の足元から、水が噴き上がった。
「『激流の槍』」
水の槍が2人を貫き、1人を吹き飛ばす。膝をついたもう1人の頭上に、アレクの踵が落ちた。
「……おい、ロザリナ。今のは俺の獲物じゃったろうが」
「あら。口調、戻ってるわよ」
「……うるせぇ」
――――――――
石壁の穴の向こうで、瓦礫が崩れた。
「クソ……クソが……」
ガネンが、這うようにして姿を現した。額から血を流し、脇腹を押さえている。さっきの一撃が、まだ抜けていない。
視線の先で、仲間たちが地面に転がっていた。
「さっきまで雑魚だった連中が……魔石ひとつで、形勢逆転ってか……」
吐き捨てて、剣を握り直す。
中庭の中央に、ハレスが立っていた。
「……ヴゥ……ア……」
喉の奥から漏れる声は、さっきよりも濁っていた。赤黒い肌の下で、黒い血管がひくひくと脈打っている。それでも、その目はまっすぐにガネンを捉えていた。
長くは、もたない。見ている誰の目にも、それは明らかだった。
「『迅雷纏』――『雷電装』」
ガネンの全身に雷が走った。剣身に紫電が重なり、刃そのものが光の塊と化す。
2人の間の空気が、張り詰めた。
どちらも、もう笑っていなかった。
動いたのは、同時だった。
ガネンの姿が、雷光となって消える。右。左。背後。中庭を縦横に跳び回りながら、あらゆる角度から斬りかかる。
ハレスは、その全てに反応した。
右からの一撃を腕で弾き、背後からの斬撃を振り向きざまに受け止め、返す拳で雷光を叩き落とす。ついさっきまで、目で追うことすらできなかった速さだった。
ガネンも、退かなかった。
距離を取れば、その間に詰められる。ならば、張りついて斬り続けるしかない。弾かれた勢いを殺さず、そのまま次の一撃へ繋げる。
その一撃が、ハレスの肩を裂いた。
赤黒い皮膚が割れ、黒い血が噴き出す。
「……斬れるじゃねぇか」
ガネンの口元が、吊り上がった。
ハレスは、傷を見もしなかった。裂けた肩のまま、一歩、踏み込む。
剣と拳がぶつかるたび、雷光が弾け、衝撃が石畳を割る。攻めていたはずのガネンの足が、一撃ごとに後ろへずれていく。いつの間にか、その剣は斬るためではなく、受けるために振るわれていた。
「くっ……!」
「ヴォォォ……!!」
ハレスの拳が、剣を叩いた。
ガネンの腕が、跳ね上がる。体勢が、崩れた。
ハレスは、右の拳を引いた。
赤黒い魔力が、その拳に渦を巻いて集まっていく。足元の石畳が、重みに耐えかねて沈み込んだ。
「『魔人の鉄槌』――!!」
避ける時間は、なかった。
ガネンは、崩れた体勢のまま剣を掲げた。雷の刃が、拳を受け止める。
一瞬だけ、拮抗した。
剣が、砕けた。
拳が、ガネンの胸を捉えた。
音が、遅れて届いた。
衝撃が中庭を突き抜け、周囲の瓦礫が一斉に宙へ舞い上がる。戦っていた侵入者たちが、手を止めて振り返った。アレクも、ロザリナも、その一撃から目を離せなかった。
ガネンの体は、地面を何度も跳ねて、ようやく止まった。
白目を剥いていた。折れた剣の柄が、指の間から転がり落ちる。
(クソ……が……)
視界が、暗くなっていく。
(あいつらが……来ていれば……)
――――――――
中庭が、しんと静まった。
ハレスは、拳を下ろしたまま立っていた。荒い呼吸が、白く煙る。赤黒い肌の下で、まだ魔力が脈打っていた。
校舎の奥から聞こえていた戦いの音も、いつの間にかまばらになっている。
自分の手を、見下ろした。
爪の伸びた、人のものではない手だった。
この力が、いつまでも続くとは思えなかった。切れた時に何が待っているのかも、分からない。
それでも、顔を上げる。
まだ、守るべき者がいる。
ハレスは、校舎の方へと目を向けた。




