第42話 本気同士
学院の至るところから、黒い煙が上がっていた。
崩れた回廊。砕けた窓。中庭の噴水は半ば瓦礫に埋もれ、石畳には焦げ跡と血の跡が点々と続いている。ほんの少し前まで、生徒たちが笑いながら行き交っていた場所だった。
その一角、魔導具保管室へと続く長い回廊の突き当たり。
重厚な扉はとうに吹き飛び、その手前に広がる石床の上で、冷気と熱気がせめぎ合っていた。扉の脇では、白く凍りついた警備騎士が、何かを指差した姿のまま立ち尽くしている。
「氷矢」
エリックの指先から、氷の槍が三本、立て続けに放たれた。
床を蹴って一本目を躱し、二本目を短剣で弾く。三本目は間に合わない。身を捻った肩口を冷たいものが掠め、制服ごと皮膚を裂いていった。
構わず、踏み込む。
「疾風加速!」
風を纏って間合いを潰し、短剣を突き出す。エリックは氷の剣でそれを受け止め、擦れ合った刃の間で火花が散った。
近い。すぐ目の前に、見慣れた顔がある。
笑っていた。心の底から、楽しそうに。
「いいね、セオン君。選抜戦の時より、ずっと速い」
答えずに、左手へ炎を集める。至近距離から叩き込もうとした瞬間、エリックの足元から氷がせり上がり、俺の体を押し返した。
距離が開く。また、振り出しだ。
さっきから、この繰り返しだった。エリックは決して自分から間合いを詰めてこない。氷が最も活きる距離を保ったまま、じわじわと削るつもりなのだろう。分かっていても、踏み込むたびに押し戻される。互いに決め手を欠いたまま、周りだけが壊れていく。壁は焦げ、柱は抉れ、床のあちこちから氷が槍のように突き出していた。
決め手が、ないわけじゃない。
ただ、今は――使えなかった。
突き出した氷の向こうには、倒れたまま動かない体がある。
戦っている間も、視界の端から外れなかった。
まだ、確かめていない。遠目には倒れているだけに見える。気を失っているだけかもしれない。魔力を感じ取れないのは、この冷気のせいかもしれない。
そう思いたかった。
「火炎の嵐!!」
両手から、炎を解き放つ。
狙ったのはエリックではなく、その手前の床だった。炎の渦が突き出した氷を次々と呑み込み、白い蒸気が爆ぜるように膨れ上がる。
「おっと」
視界を奪われたエリックが、一歩、二歩と退く気配がした。
その隙に、駆けた。
「ソフィア……!」
膝をつき、その体を抱き起こす。
軽かった。
腕の中のソフィアは、どこにも力が入っていなかった。首が支えを失い、後ろへ傾ぐ。慌てて添えた指先に触れた肌は、ひどく冷たかった。
エリックの氷のせいではない。それとは違う冷たさだと、分かってしまった。
「ソフィア。……おい、ソフィア」
呼んでも、返事はない。閉じかけた瞼の隙間から、焦点の合わない瞳が覗いている。胸元の制服は、乾きかけた血で黒く固まっていた。
昼に、見たばかりだった。
食堂の奥の席で、エリックと身を寄せ合って笑っていた。何がおかしいのか、肩を揺らして。あそこに割って入る気にはなれなくて、俺はリンと別の席へ行った。
あれが、最後だった。
あの時、声をかけていれば。一緒に座っていれば。何も変わらなかったと、頭では分かっている。それでも、考えずにはいられなかった。
――また、か。
ふいに、そう思った。
焼け跡の前に立ち尽くした、あの日と同じだった。涙の一滴も出ないまま、また俺のそばにいた人が消えたのだと、それだけをぼんやりと理解していた、あの日と。
この世界に生まれ直して、村のみんながいて、母さんがいて。学院に来て、ようやく友達と呼べる相手ができた。
それでも、また。
ソフィアを抱く腕に、力がこもった。
蒸気が、晴れていく。
その向こうに、エリックが立っていた。
攻撃は、してこなかった。蒸気が晴れるまでの数秒、エリックはただそこに立って、こちらを見ていた。いや、俺ではない。その視線は、俺の腕の中に落ちていた。
「彼女は、もう死んでるよ」
いつもの声だった。
言い終えるのと同時に、氷の槍が放たれる。
ソフィアを抱えたまま、右手の短剣を振り上げた。刃が氷を捉え、甲高い音と共に砕け散る。飛び散った破片が、頬を掠めた。
ソフィアの体を、そっと床に横たえる。開いたままの瞼に指を添えて、静かに閉じた。
それから、立ち上がった。
「なんでなんだ、エリック」
声が、自分でも驚くほど掠れていた。
「何があった。ソフィアは、お前の――」
「全ては、組織のためさ」
エリックは、あっさりと言った。
その手に、冷気が集まっていく。空気中の水分が凍りつき、軋むような音を立てながら、巨大な氷塊がいくつも形を成していった。
「氷塊砲」
岩ほどもある氷の塊が、一斉に降り注ぐ。
「火炎の球!」
一発、二発、三発。炎弾を連射し、迫る氷塊を片端から撃ち落とす。砕けた氷が蒸気に変わり、爆ぜた炎が天井を焦がした。撃ち漏らした一つがすぐ脇の柱に直撃し、石柱を半ばから抉り取っていく。
息が上がる。それでも、視線だけは外さなかった。
その時、壁際で何かが動く気配がした。
リンだった。
壁に背を預け、床に座り込んでいる。脇腹を押さえた指の隙間から、今も血が流れ続けていた。顔からは、血の気がすっかり引いている。
それでも、その手は剣の柄を離していなかった。
「リン。今のうちに、ここから離れろ」
リンが、目を見開いた。だがすぐに、表情が引き締まる。
「……できるわけない。ボクは、まだ戦える」
「その体で戦えるわけないだろ!」
思わず、声が荒くなった。リンの肩が、小さく揺れる。
息を吐いて、言い直した。
「……逃げろ、って意味じゃない。先生を呼んできてくれ。この状況を、誰かに伝えなきゃいけない」
「別に、僕は二人を殺したいわけじゃないんだけどな」
エリックが、肩を竦めた。
「目的さえ果たせれば、それでいい。邪魔をしないなら、二人とも逃げればいい。追いかけたりしないよ」
そこで、少しだけ首を傾げる。
「ただ、仲間を呼びに行くっていうなら、話は別だけど。――まぁ、一応、友達だしね」
リンの顔が、歪んだ。
「貴様らの、好きにはさせない……」
剣を支えに、立ち上がろうとする。膝が震え、壁についた手が血で滑る。それでも、立とうとする。
「ボクは……この学院の生徒だ……!」
「リン」
エリックから目を離さないまま、言った。
「頼む。先生を呼んできてくれ」
「そんな……セオン、今のエリックは、君が敵う相手じゃ――」
「行ってくれ」
それ以上は、言わなかった。
リンは、しばらく黙っていた。俺の横顔を、じっと見つめている気配があった。何を読み取ったのかは、分からない。
「……わかった」
やがて、小さく頷く。
「セオン。それまで、耐えてね」
「ああ」
リンが、壁伝いに歩き出す。一歩進むごとに、床へ血が落ちた。
エリックの手が、その背中へ向けて持ち上がる。
俺は半歩、横へ動いた。リンとエリックの間に、自分の体を差し込むように。
エリックの手が、止まった。
しばらく、そのまま睨み合う。
「……まぁ、いいか」
エリックが、手を下ろした。
「どうせ、先生たちは今、外で手一杯だ。こっちまで来られるような状況じゃない」
リンの足音が、回廊の向こうへ遠ざかっていく。
それが完全に聞こえなくなってから、エリックが口を開いた。
「セオン君も、それは分かってるんだろう?分かってて、行かせた」
穏やかな、いつもの口調だった。
「リンさんを生かすため。あの傷じゃ、ここにいても足手まといになるだけだしね。さすがだよ」
――ここから先は、誰にも見られるわけにはいかない。
その言葉は、喉の奥で飲み込んだ。
「エリック……」
「……?」
「お前と、ちゃんと話がしたい」
エリックの笑みが、わずかに固まった。
「……話?」
すぐに、笑い声が漏れる。
「セオン君に話すことなんて、ないよ。今まで君と一緒にいたエリック・フロストフォードは、全部偽物だった。それが全てさ」
「ああ。だから、本当のお前が知りたい」
エリックが、黙った。
回廊に、氷の軋む音だけが響く。
「……本当の僕?」
やがて、ぽつりと言った。
「知らないよ、そんなの。物心ついた時には、もう地下の牢屋にいた。親の顔も知らない。名前も、なかった」
笑ったまま、続ける。
「エリックって名前だって、この任務のために与えられただけのものだよ」
言い終えて、首を傾げた。
「で?それを知って、どうするの?同情する?自分より酷い生まれの奴がいたんだって、安心する?」
「しないよ」
即座に、答えていた。
「……ただ、やっぱりお前とは、どこか似てるって思った」
エリックの顔から、笑みが消えた。
初めて見る表情だった。出会ってから今日まで、この男が笑っていない顔を、俺は一度も見たことがなかった。ソフィアを貫いた時でさえ、きっと笑っていたはずなのに。
「……は?」
低い声だった。
「似てる?今、似てるって言った?」
一歩、踏み出してくる。
「君は村で、親に愛されて育ったんだろう。みんなに大事にされて、送り出されて、この学院に来た。それと僕を――一緒にしないでくれよ」
「今の話じゃない」
首を振った。
「もっと、前の話だ」
大切な人を、ひとり、またひとりと失った。最後に残った人の手で、首を絞められた。抵抗する理由すら、もう見つけられなかった。
そんな人生が、確かにあった。
エリックは知らない。知るはずもない。それでも、地下で名前もなく生きてきた少年の話を聞いた時、俺の中で何かが重なった。
エリックは、しばらく俺の顔を見ていた。何かを探るように。あるいは、理解できないものを前にしたように。
「……は、はは」
乾いた笑いが零れた。
「なんだよ、それ。全然、意味が分からないよ」
笑みが、戻ってくる。いつもの顔に。
「でも――やっぱり、セオン君は面白いね」
ほんの少しだけ、声が柔らかくなった気がした。
「そういうところが好きだから、君に近づいたんだ」
胸の奥が、軋んだ。
全部嘘だったと、エリックは言った。なのに、今の言葉だけは、嘘に聞こえなかった。
「……エリック」
短剣を、握り直す。
「俺には、目的がある」
「へぇ。聞かせてよ」
「村のみんなと、幸せに暮らすことだ」
エリックが、目を細めた。
「いい夢だね。本当に、いい夢だと思うよ」
それから、静かに告げる。
「でも、ここで僕の邪魔をするなら――その夢は、一生叶わなくなる」
「お前が今やってることは、その夢を壊すものだ」
学院をこんなふうに壊して、人を殺して。その先に、あの村の穏やかな日々があるとは思えなかった。
「だから、止めなきゃいけない」
「……残念だよ」
エリックが、小さく息を吐いた。
「セオン君なら、賢い方を選んでくれると思ってたのに」
その手に、氷の剣が形を成していく。手袋が、淡い光を帯びた。
同時に、足元から白い霧が這い出してきた。床を、壁を、天井を舐めるように広がり、回廊の温度が見る間に下がっていく。吐く息が、白く濁った。
「凍霧」
霧の中に、エリックの輪郭が溶けていく。
息を吸うたび、肺の奥が刺すように痛んだ。指先の感覚が、少しずつ鈍っていく。長引けば、先に体の方が動かなくなる。
「エリック」
霧の向こうへ、声を投げた。
「似てるって言ったのは、昔の話だけじゃない。今も、だ」
「……どういうことだい?」
「力を隠してた、ってところだよ」
短い沈黙。それから、くすくすと笑う声がした。
「力を隠してた?君が?何のために?……脅しのつもりなら、効かないよ」
答えなかった。
代わりに、意識の底へ手を伸ばす。
──────────────────────
【スキル:魔法奪取】
■奪取リスト
・悪魔の炎
・炎の矢
・癒し
・水の盾
・魔法罠
■使用:悪魔の炎
──────────────────────
右手を、霧の向こうへ向けた。
「『悪魔の炎』」
紫黒の炎が、掌から溢れ出す。
白い霧に、火が移った。
溶けたのではない。蒸発したのでもない。霧そのものが、燃えていた。紫黒の炎は白い帳を端から舐め取り、焼け落ちる紙のように、回廊を覆っていた霧を喰らい尽くしていく。
「――っ!?」
霧が焼け落ちた先で、エリックが目を見開いていた。
「氷の壁三重!!」
三枚の氷壁が、エリックの前に立ち上がる。リンの奥義すら受け止めた、魔導具で強化された壁だ。
炎が、一枚目に届いた。
氷が、燃え上がる。水に還ることもなく、紫黒の炎に包まれたそばから黒ずみ、崩れ、焼け落ちていく。一枚目は、瞬く間だった。
二枚目。炎の勢いが、わずかに鈍る。それでも、焼き抜いた。
三枚目で、目に見えて炎が痩せた。壁の表面にしがみつき、じりじりと焼き進む。ようやく穴が穿たれた時には、掌から放った時の半分ほどにまで、炎は細っていた。
その時には、エリックはもう横へ跳んでいた。
痩せ細った残り火が、その脇をすり抜けて、背後の石壁にぶつかる。石の表面が黒く焼け爛れ、ぼろぼろと剥がれ落ちたところで、炎はようやく尽きた。
右の掌が、焼けるように熱い。魔力の底を、ごっそりと持っていかれた感覚があった。
三枚で、ここまで削られるのか。あと二枚も重ねられていたら、届かなかっただろう。
それに、次はすぐには撃てない。あの魔族との戦いでもそうだった。間を置かずに放った二発目には、一発目ほどの勢いがなかった。
エリックが、床に手をついて着地する。
その制服の裾に、小さな紫黒の火が灯っていた。
エリックは裾を大きく振り、冷気を浴びせかけた。消えない。火は布に食い込んだまま、じわりと這い上がってくる。
エリックの動きが、止まった。
火より上の布を掴み、迷わず引き千切る。
床に落ちた布切れは、紫黒の炎の中で縮れ、黒く焦げ、最後にはひとつまみの灰になって崩れた。
エリックは、それをしばらく見下ろしていた。
「……セオン君」
顔を上げる。
「一体、どういうことだい」
声は、落ち着いていた。だが、その目はもう笑っていなかった。
「君は、いつから力を隠していた?校長の鑑定では、何の魔法も持っていなかったはずだ。僕は、それをちゃんと確かめてたんだけどな」
「いろいろとあってな」
エリックは、何も言わなかった。
ただ、俺の顔を見た。焼け落ちた氷壁の残骸を見た。それから、俺の右手を。
ゆっくりと、確かめるように。
背筋が、冷えた。
一人称が変わった、ただそれだけで、俺の異変を嗅ぎ取った男だ。今の一撃の、何もかもを見られている。
悟られるわけにはいかない。
まだ熱の引かない右手を、握り潰すように固めた。
エリックの視線が、ふいに逸れた。回廊の奥、リンが去っていった方へ。
「……ああ」
小さく、声が漏れる。
「そういうことか。リンさんを行かせたのは、それもあったんだね」
答えなかった。答える必要も、なかった。
エリックの肩が、小さく震えた。震えは、すぐに笑いに変わる。
「はは……ははははっ!」
腹を抱えるようにして、エリックが笑った。凍てついた回廊に、その声だけが響き渡る。
「いいね。いいよ、セオン君」
笑いながら、氷の剣を構え直す。
「君も、本気で殺り合う気になってくれたんだね」
リンを行かせた時点で、決めていた。
ここから生きて出られるのは、どちらか一人だけだと。
「……ああ」




