第37話 与えられた名前
――やっと。やっと、ここまで来られた。
重い扉が、軋みながら開いていく。
薄暗い保管室の中、整然と並べられた台座の上で、無数の魔導具が静かに眠っていた。触れずとも伝わってくる濃密な魔力が、肌をぴりぴりと刺す。王国が長い年月をかけて集め、守り続けてきた切り札たち。
エリックは、そのうちの一つを手に取った。ひやりとした感触が、手袋越しに伝わってくる。
これが、ケルスト王国を――セヴァリスを、より強くする。
僕の任務は、この魔導具と共にケルスト王国へ転移すること。
それだけだ。
それだけで、この数ヶ月の学院生活も、終わる。
ずっと、騙してきた。この日のために。何ひとつ悟られることなく、やり遂げた。
言うことなど、何もない。あの日――この任務を任された、あの日から。
――――――――
ケルスト王国、地下。
陽の差さない収容区画の廊下に、鉄格子を叩く音が響いた。
「おい、出ろ。仕事だ。」
看守の声に、鉄格子の奥で人影が動いた。
薄い布一枚を纏っただけの体は、骨が浮くほど痩せていた。伸びきった白髪が、汚れた顔にかかっている。
緩慢に、顔が上がる。
名前を呼ばれた覚えは、一度もなかった。
物心ついた頃には、すでにこの地下にいた。母の顔も、父の顔も知らない。自分がどこで生まれたのかさえ、教えられたことはなかった。
最初に覚えたのは、自分の名前ではない。鉄格子の軋む音と、怒鳴り声だった。
「立て。」
「歩け。」
「食わせてもらえるだけ、ありがたいと思え。」
それが、世界のすべてだった。
「おい。」
「お前。」
「そこのガキ。」
それで、十分だった。誰も、それ以上を必要としなかった。
一度だけ、逃げようとしたことがある。夜番の隙をついて、地下の通路を抜け出そうとした。だが、すぐに見つかった。その夜、何も言われないまま床に蹴り倒され、あばらが軋む音を聞いた。
「二度と、余計なことを考えるな。」
それだけを言われた。
それ以来、考えることをやめた。生きるために必要なことだけを、覚えていった。
命令には逆らわない。感情は見せない。人は信用しない。
与えられた役目を、完璧にこなす。それだけが、この地下で生き延びる術だった。
鉄格子の鍵が開き、看守に腕を掴まれる。抵抗はしなかった。抵抗する意味が、分からなかった。
連れて行かれた先は、これまで足を踏み入れたことのない部屋だった。
「貴様には――対ヴァルシア王国殲滅組織、セヴァリスに加入してもらう。」
看守の男が、感情のない声で告げた。
「セヴァリス……?」
掠れた声が、喉から漏れた。
その名を聞いても、恐怖は湧かなかった。もう、何を言われても驚かない――そのはずだった。
「聞いたことくらいはあるだろう。ヴァルシア王国に恨みを持ち、ケルスト王国に忠誠を誓った者たちの集まりだ。表には決して出てこない。だが――王国を内側から食い破るだけの力を持っている。」
男の声は、淡々としていながら、どこか重かった。
「そこに、お前も入ってもらう。そして――ヴァルシア王国の要、セイクリッド学院に、スパイとして潜入してもらう。」
「スパイ……!?そんなの、すぐにバレますよ!」
思わず、声を上げていた。この地下に来て以来、久しく感じていなかった感覚だった。
「心配するな。」
男は、眉ひとつ動かさなかった。
「お前は、もう一人のエリック・フロストフォードになる。ヴァルシア王国の辺境の村で生まれ、流行り病で親を亡くし、魔法の才だけを頼りに生きてきた――なんの後ろ盾もない、平民のエリック・フロストフォードとしてな。」
「平民の、エリック・フロストフォード……。」
その名を、口の中で転がしてみる。
エリック。
生まれて初めて――呼ぶための、名前があった。
物心ついてから今日まで、自分がただ「そこにいる誰か」でしかなかったことに、疑問すら持ったことがなかった。名前とは、他の誰かが持っているものだと、そう思って生きてきた。
それが今、目の前に差し出されている。
たとえ偽りでも。たとえ、任務のための仮初めの器でしかなくても。
――名前を、持っていいのか。
その響きは、あまりにも――良すぎた。
物心ついた頃から、奴隷同然に扱われてきた。名前で呼ばれることすら、稀だった。
たとえ偽りでも。たとえスパイとしてでも。
人として、生きられるのなら。
「いいか、エリック。」
その名を呼ばれた瞬間、体の奥で、何かが小さく揺れた。
「お前の任務は、完全に学院の生徒になりきることだ。普通に勉強しろ。普通に訓練しろ。普通に飯を食え。恋愛の一つや二つ、したって構わん。」
男は、そこで一度、言葉を切った。
「ただし――情だけは湧かすな。」
その目は、まだ檻の外から見るような目をしていた。
「お前の周りにいる連中は、全員が敵だ。笑いかけてくる奴も、手を差し伸べてくる奴も、例外なくな。それを一秒たりとも忘れるな。」
「……。」
「そして、セヴァリスが学院へ転移できる場所を作れ。同時に、情報を集めて報告しろ。絶好の機会が訪れるまで、じっと待つんだ。」
男が、身を屈めた。
「この計画は、お前一人にかかっている。」
「僕に……。」
その重さに、言葉が続かなかった。
失敗して帰ることは、許されない。それが何を意味するかは、聞かずとも分かっていた。
だから――絶対に、成功させるしかない。
セヴァリス。僕は、この組織の一員となり、この任務を背負った。
「頼んだぞ。」
背後から、低い声がかかった。
振り返った先の暗がりに、誰かが立っていた。顔は見えない。それでも――その一言が纏っていた圧だけは、骨の髄まで沁みた。
――――――――
それからの日々は、ただ準備に費やされた。
まずは一年、ヴァルシア王国で「もう一人のエリック」として過ごした。村での暮らし、訛り、立ち居振る舞い。すべてを、身体に馴染ませた。
鏡の前で、何度も名乗る練習をした。
「エリック・フロストフォードです。」
最初は、他人の名前を語っているような、ひどい違和感があった。それが、いつからか――自分自身の名前のように、すんなりと口から出るようになっていった。
さらに一年後、セイクリッド学院の入学試験を受けた。
もちろん、合格した。合格しないという選択肢など、最初から存在しない。
学院生活は――悪くなかった。
自分と似た何かを抱えた人間に出会い、友と呼べる関係を築くこともできた。恋というものを、初めて知った。
だが、それも全て、任務の内側にあるものに過ぎなかった。
そのはずだった。
そして――ライトサイド候補選抜戦。
候補生になれば、専用の部屋と魔導具が与えられる。それを知った時、これしかないと思った。
学院内に、誰も立ち入らない、自分だけの空間。それが、どうしても必要だった。
だからこそ、候補生の座を勝ち取った瞬間、思わず笑みが零れた。
――これで、実行できる。
そして何より、新たなる魔王の誕生によって、ストライトが学院を離れた。これ以上の好機は、二度と訪れない。
――――――――
特別室の床に、大きな魔法陣を描いていく。慎重に、一画たりとも歪めることなく。
傍らには、転移石。ケルスト王国において、セヴァリスのみが使用を許された魔法石だ。極めて貴重で、一度使えばそれきり。失敗は、許されない。
この石に転移を望めば、対となる魔法陣のある場所へと繋がる。逆もまた然り。
――僕は、それを、候補生として与えられた部屋に隠し持っていた。
魔法石に向かって、低く囁く。
「準備は整いました。ストライトは不在です。決行してください。」
石が、微かに脈打った。
計画は、幾度も練り上げてきた。誰がどこを襲い、誰がどこを抑えるか。全ては、この日のために。
そして僕は、魔導具保管室の中身を、すべてケルスト王国へ持ち帰る。
(無駄な殺しは、したくないしね……。)
候補生として支給された、氷魔法を強化する手袋を嵌める。
保管された魔導具の固定具を、丁寧に凍らせ、砕いていく。一つ、また一つと、袋へ収めていった。
作業だった。ただの、作業だ。
こうしている今も、外では、共に過ごしてきた生徒や教員が戦い、倒れている。
そのことに、何も感じない。
感じるべきではない。そう教え込まれてきた。
情を殺せと、教えられてきた。何十回も、何百回も、自分にそう言い聞かせてきた。それが、生き延びるための唯一の方法だったから。
なのに――どうしてか、あの二人の顔だけは、消えてくれなかった。
セオンと、ソフィア。
「少しの間だったけど、楽しかったなー……。」
口をついて出た言葉に、自分でも驚いた。
その時だった。
「何をしてる。」
背後から、声がした。
振り返った先――保管室の入り口には、リン・レステニアが立っていた。
その表情には、怒りと、それ以上に深い悲しみが滲んでいた。




