第36話 変わらぬ微笑み
長期休暇が明け、学院に日常が戻ってきた。
廊下には生徒たちの声が満ち、訓練場からは魔法の弾ける音が絶えず響いている。表向きは、何ひとつ変わらない光景だった。
変化があったとすれば、二つ。
ひとつは、学長でありヴァルシア王国の王子でもあるストライト・ウィリアム様が、魔王討伐へと発たれたことだ。中庭で行われた出発式には、生徒のほとんどが集まった。数名のライトサイドも同行するという。
魔王の復活。あの魔族も、次期魔王決定戦がどうと口にしていた。それがどれほどの意味を持つのか、俺にはまだ測りきれない。それでも――あの方なら大丈夫だろうと、なぜかそう思えてしまう。
そして、もうひとつ。
エリックとソフィアが、いつの間にか恋人同士になっていた。
休暇明けに本人から報告された時は、しばらく理解が追いつかなかった。だが、今となっては素直に嬉しい。どういう経緯でそうなったのかは気になるところだが――まあ、あの二人らしいと言えば、らしい。
自分の周りで、誰かが幸せになっていく。それが、こんなにも悪くないものだとは思わなかった。
――――――
昼。食堂の列に並び、盆を手に取っていた時だった。
「セオン」
振り返ると、リンが立っていた。
選抜戦以来、まともに言葉を交わしていなかった。廊下ですれ違うことはあっても、どちらからともなく、それだけで終わっていた。だから、声をかけられたこと自体に、少し面食らった。
「リンか。どうした」
「一緒にご飯、食べよう」
思わず、聞き返しそうになった。
「悪い、リン。いつも一緒に食べてる二人が――」
言いながら、視線を奥の席へ向ける。エリックとソフィアが、何がおかしいのか、身を寄せ合って笑っていた。エリックが何か言い、ソフィアが肩を揺らして笑い返す。
……あそこに、割って入る気にはなれなかった。
視線を、リンに戻す。
「いや、食べよう」
そう言うと、リンは口の端をわずかに上げた。
歩き出す。リンは黙って、半歩後ろをついてきた。
――――――
昼休みが終わりに近づいていた。
教室では、生徒たちが取り留めのない話に興じている。エリックとソフィアも、いつもと変わらない調子で言葉を交わしていた。
セオンは一人、午後の授業の準備のために廊下を歩いていた。
窓の外は、よく晴れていた―。
【ドゴォォォンッッ――!!!】
轟音が、学院そのものを揺らした。
足元から突き上げるような衝撃。窓ガラスが一斉に鳴り、廊下の端で誰かが尻餅をつく。天井から、白い埃がぱらぱらと落ちてきた。
「……!?」
「な、なんだ今の!」
「一体、何事だ!」
教員たちの怒声と、生徒たちのざわめきが同時に上がる。
廊下の奥から、白い煙が這うように流れ込んできた。焦げた匂いが、鼻の奥を刺す。
「火事か?」
「外だ、外から音が――」
誰も、状況を把握できていなかった。誰もが、まだ「事故」の可能性を疑っていた。
煙の中に、人影が浮かんだ。
「あ……先生ですか?こっちは無事――」
一人の生徒が、そちらへ歩み寄る。
「な、なんだ、おまっ――」
【スパッ――】
言葉が、途中で途切れた。
その生徒の首が、床に落ちて転がった。
数瞬、誰も声を上げなかった。倒れた体から、赤いものが広がっていく。それを見ていながら、誰も、理解が追いつかなかった。
「は……?」
「う、うわぁぁぁーー!!!」
そこから先は、堰を切ったようだった。
「キャァァ――!」
「来るな、来るなぁ!!」
至る所から悲鳴が上がる。廊下を、教室を、中庭を――逃げ惑う生徒たちの背中に、次々と刃が突き立てられていく。
さっきまで昼食の話をしていた声が、断末魔に変わっていく。
血が、床を染めていく。
「はははっ……ようやく、ミッションスタートだ」
煙の向こうで、誰かが笑っていた。
――――――
「襲撃だぁーー!!!」
ハレス先生の声が、校舎中に響き渡った。
(襲撃――どこから入った。結界は、警備は――)
思考を巡らせながら、俺は駆け出していた。
(考えるのは後だ。まず、止める)
――――――
「クソッ……よりによって、こんな時にッ……!」
ハレスは拳を握りしめた。腕に魔力が纏わりつき、皮膚が岩の質感へと変わっていく。
その背後で、空気が動いた。
【シュパッ――】
反射的に、首を捻る。頬を掠めた刃が、髪を一房だけ持っていった。
「――ッ!」
振り向きざま、拳を叩き込む。
だが、相手は魔力を纏わせた腕一本で、それを受け止めた。岩の拳と、細い腕。受け止めた側が、びくともしない。
「へぇ……やるじゃん。さすが名門の教員サマだ」
軽薄な声だった。少年とも青年ともつかない、若い男。血に濡れた短剣を、面倒くさそうに指で回している。
「お前が首謀者か。どこから入った。数は」
「まぁまぁ、そんな一気に聞かないでくれよ。俺はバカだからさ、あんたらみたいに学校で勉強してこれてないのよ」
「答えろ……ッ!」
ハレスの魔力が、爆発的に膨れ上がった。
生徒が死んでいる。今この瞬間も。守るべき者たちが、目の前で。
「はっ。言わねぇよ」
男は、心底楽しそうに笑った。
「どうせいずれ知ることになる。それに――知ったところで、もう手遅れだ。この学院はな」
――――――
「一体、何が……」
エリックとソフィアは、避難区画の一室に身を寄せていた。
「襲撃ね。何者かは分からないけど」
ソフィアが、扉に耳を当てたまま言う。
「襲撃……でも、どうやって。ここは王国でも屈指の防衛区画だ」
「今は考えても仕方ないわ。とにかく、この学院を守らなきゃ。セオンも心配だし……」
「彼なら大丈夫だろ。もう、心配する必要がないくらい強い」
「……それもそうね」
ソフィアが、小さく笑った。
エリックは、扉の隙間から外を窺いながら、静かに口を開いた。
「カルザスさんが言っていたのは、こういうことだったのか」
「……エリック?」
「学長が不在の間、何かあれば――候補生の一人である僕が、この学院を守らなきゃいけない」
そう言って、エリックは立ち上がった。
「ソフィア、僕は魔導具保管室に行くよ」
「ちょっと、なんで魔導具保管室なの?あそこには常時、警備兵が――」
「だからだよ」
エリックは、振り返らずに答えた。
「学院の魔導具は、有事の際の切り札だ。襲撃者が本気で学院を落としに来てるなら、真っ先に押さえに行く。警備兵が何人いようと、あの規模の相手には保たない」
「……」
「ソフィアはここに残ってて。僕は候補生として、行かなきゃいけない」
「ダメよ、私も行く!」
「ダメだ」
初めて、エリックの声が強くなった。
「ソフィア。君は確かに強い。でも――今、外にいる連中は、そういう相手じゃない」
「そんなの分からないわ!それに、二人の方が守れる範囲だって広がる。私だって候補生に届きそうだった。足手まといにはならない!」
エリックは、しばらく黙っていた。
そして――ゆっくりと、息を吐いた。
「……はぁ。仕方ないな」
その横顔を、ソフィアは見ていなかった。
「わかったよ。行こう」
――――――
校舎の外では、既に戦いが始まっていた。
教員たちが前線を張り、上級生が生徒たちを避難させ、そこかしこで魔法が炸裂している。悲鳴と怒号と、焼け焦げた匂い。
二人はその只中を駆け抜けた。
「あそこだ」
長い回廊の突き当たり。重厚な扉の前に、一人の警備騎士が立っていた。
「君たち、何をしに来た!」
「襲撃者が狙うとすれば、ここだと思って来ました」
エリックが答える。
「ここは我々が守る。君たちは安全な場所へ行きなさい!」
「私たちは戦えます!」
ソフィアが、一歩前に出た。
「そのために、この学院に来たんです」
「そうは言っても、この状況だ。命の保証など――」
「構いません」
ソフィアの声には、迷いがなかった。
「私たちは、この国を守る、セイクリッド学院の生――」
言葉が、そこで止まった。
胸の下――みぞおちのあたりから、一本の腕が生えていた。
それは、ソフィアの体を貫き、そのまま前にいた警備騎士の胸までを、まとめて突き通していた。
「あ……え……」
ソフィアは、自分の体から突き出た腕を、ただ見つめていた。
痛みは、まだ来ていなかった。何が起きたのかも、分からなかった。
「が……ぐはっ……」
警備騎士が、血を吐き出す。
震える指が、ソフィアの肩越しに、その先にいる人物を差した。
「貴様……なぜ――」
言い終わる前だった。
貫いた腕から冷気が奔り、警備騎士の体が、内側から一瞬で凍りついた。
音もなく、白い彫像に変わる。
腕が、引き抜かれた。
支えを失ったソフィアの体が、ゆっくりと膝から崩れ落ちる。
床に伏せたまま、ソフィアは動けなかった。
貫かれた瞬間、本当は分かっていた。
分かっていて――分かりたくなかった。
だって、出会った時から、ずっと。
ずっと、騙されていたことになる。
震える唇が、それでも、その名前を形にした。
「―ェ…エリック……なんで……」
血に濡れた腕を、エリックは静かに下ろした。
その指先から、氷の粒がぱらぱらと落ちていく。
「ごめんね、ソフィア」
いつもと、何ひとつ変わらない声だった。
「全ては――組織のために」
ソフィアの視界が、端から白く濁っていく。
遠くで、まだ悲鳴が聞こえていた。
エリックは、倒れたソフィアの横を通り過ぎ、扉へと歩いていった。血の跡が、床に点々と続いていく。
凍りついた警備騎士の懐を探り、鍵を抜き取る。彫像に変わった体が、触れた拍子に、乾いた音を立てて傾いだ。
鍵穴に差し込み、回す。重い錠の外れる音が、静かな回廊に響いた。
扉の取っ手に手をかけたところで、エリックは足を止めた。
「ああ、それと」
振り返る。
「僕に恋愛を教えてくれて、ありがとう」
霞んでいく視界の中、見上げた先で、エリックは――
いつものように、優しく微笑んでいた。




