第31話 来訪者
10日間の長期休暇が始まった。
候補生となった一年生たちは、それぞれの過ごし方でその時間を使っていた。エリックは、より複雑な氷の技を磨くための特訓に。シャルマは、覚醒したばかりのスキルを、少しずつ体に馴染ませていくことに。
リンもまた、この休暇の間、変わらず稽古を続けているという話だった。
俺も、変わらなかった。
休みのたびに、バルスケの森へと足を運ぶ。今の実力では、まだ足りない。リンとの一戦で、その差を痛いほど思い知った。自分の力とスキル、その両方について、もっと理解を深める必要がある。
『シェーー!!』
「また、ヴェノムスパイダーか……」
動きが素早く、糸を張って攻撃してくる厄介な相手だ。さっさと片付けるか。
「『火炎の嵐』!」
炎の嵐が全方位に広がり、糸を焼き尽くす。焼け落ちたヴェノムスパイダーが、地面で悲鳴を上げた。
「シェァーー!」
「『火炎の球』!」
飛びかかってきた個体を横へ躱し、落ちた瞬間を狙って炎の球を叩き込む。命中した炎は、正確にその体を焼き尽くした。
「よし。いつも通り――『悪魔の炎』」
死体を灰にして、戦闘の中で負った小さな傷を確認し、またスキルを発動した。
「『癒し』」
両手を光らせ、傷口にかざす。淡い光が包み込むと、傷は瞬く間に塞がっていった。魔力量に恵まれている分、この程度の魔法を使っても、切れる心配はない。
息を整え、次の獲物を探して歩き出そうとした、その時だった。
ふと、違和感を覚えた。
いつの間にか、森が静まり返っている。あれほどうるさかった虫の声も、鳥のさえずりも――何一つ、聞こえない。
まるで、この森に棲む全てのものが、息を潜めているかのようだった。
気のせいか。そう思い直した、次の瞬間だった。
背筋を、冷たいものが駆け抜けた。
「なんだ……この魔力は」
全身の血が、瞬時に冷えていくような感覚。
分かる。今まで潜り抜けてきた、どんな修羅場とも違う。これは――紛れもない、格上だ。
『フフフ……なるほど。ここ最近、私が飼い慣らしていた魔物たちが、跡形もなく消えていると思ったら――』
声が、森全体に反響していた。どこから聞こえているのかすら、掴めない。
『まさか、一人の人間が、これほどの惨状を引き起こしていたとは。面白い。だが――【次は、貴様が死ぬ番だ】』
木々の間から、それは歩み出てきた。
人型で、燃えるような赤い髪。こめかみからは、二本の鋭い角が突き出ている。冷酷な笑みを浮かべたその目は、獲物を見定める捕食者のそれだった。
間違いない――魔族だ。それも、恐らく上位クラスの。
これまで狩ってきた魔物たちとは、明確に一線を画す何か。本能が、そう告げていた。
(俺が狩っていた魔物は……こいつが飼っていたものだったのか)
なら、こうして姿を現したのも当然だ。縄張りを荒らされて、様子を見に来た。ただ、それだけの話。
指先に、力を込める。震えを、悟られるわけにはいかない。
「フハハッ、何を怯えているんだ?あれほど私のペットたちを蹂躙しておいて、今更死ぬのが怖いのか?」
魔族は、呆れたように言い放った。
「やはり、人間というのは自分勝手だ」
その言葉は、耳を通り過ぎるだけだった。今は、それどころではない。
(どうする)
逃げるか。いや、魔族の速度は桁違いだ。背を向けた瞬間に、追いつかれる。
近くの冒険者に助けを求めるか。それも駄目だ。被害が、無関係な者にまで広がるだけだ。
――なら、戦う以外に、選択肢はない。
そう結論づけた瞬間、不思議と呼吸が落ち着いた。
迷いが消えたからか。それとも――どこかで、望んでいたのか。
緊張を押し殺しながら、魔族と目を合わせる。
「なんだ、その目つきは。……気色悪い」
「そうか。俺から見れば、お前の方がよっぽど気色悪いけどな」
「ほう、言うじゃないか。よほど早く死にたいらしい」
「死ぬつもりはない」
(――いい機会だ。相手にとって、不足はない)
【スキル】は、使わない。
奪った力に頼っている限り、俺自身は強くならない。リンに届かなかったのも、結局はそこだ。
これだけの相手と、自分の力だけでどこまでやれるか。それを確かめるには、これ以上の機会はない。
「何を言っているのか理解できないが……まあいい。始めよう」
心臓が、激しく鼓動していた。額から、汗が一筋流れ落ちる。
(やるしかない)
腰の短剣に、手をかける。魔力を纏わせ、地を蹴った。
「『疾風加速』!」
風を纏い、瞬時に間合いを詰める。切っ先を、魔族の喉元へ――
「――遅い」
その一言と共に、腕一本で、あっさりと弾かれた。
「くっ……!」
弾かれた反動のまま、後方へ距離を取らされる。
(今の一撃を、片手で……)
近接戦闘は、通用しない。相手の実力を、嫌でも思い知らされる。
『……そちらから来ないのなら』
沈黙の中、魔族が微笑みながら、一歩踏み出した。それだけで、どす黒い魔力が溢れ出し、空間そのものが塗り替えられたかのような威圧感が広がる。
「出てくるがいい。『破滅の蔓』」
地面が、不気味に揺れた。先端の鋭い、黒く禍々しい蔓が二本、地中から飛び出してくる。まるで意思を持った触手のように蠢いていた。
「では見せてもらおう。貴様のその自信の、根拠を」
(来る……!)
蔓が、生き物のように襲いかかってくる。
「『火炎の球』!」
即座に放った火球が、蔓に命中する。轟音と共に爆発し、蔓が燃え上がった。だが、魔族の笑みは、微塵も揺るがない。
「なかなかの威力だ。だが――蔓は、これだけだと思ったか?」
(――!?)
背後に、もう二本。今にも突き刺さる距離まで、迫っていた。
「『風の刃』!」
数少ない風魔法の一つを放ち、蔓を斬り裂く。鋭い刃が、間一髪でそれを断ち切った。
息を整える暇もなく、次の一手を練る。魔族の冷たい視線が、じわりと重くのしかかってきた。
『さあ、来い』
魔族は、一歩も動かない。ただ、待ち構えている。その姿には、圧倒的な余裕があった。
「『火炎の嵐』!」
炎の嵐が、魔族を包み込む。
(これに――風を、乗せる)
選抜戦で、リンを本気にさせた、あの一手。炎と風、二つの魔力を練り合わせていく。
「――『炎激竜巻嵐』!!」
炎の嵐が、竜巻となって渦を巻いた。轟音と共に、熱と衝撃が周囲を薙ぎ払う。
しばらくして、炎が消えた。静寂が、かえって不安を煽る。
(――手応えは、あった)
だが、煙が晴れていくにつれ、浮かび上がってきたのは――
無傷の魔族が、呆れたような顔で立っていた。服には焦げ跡一つなく、平然とこちらを見つめている。
「なんだと……」
「はぁ――貴様、今のが本気か?」
魔族は、服の埃を払いながら、冷淡に言った。
「俺の、全力だ」
声が、僅かに震えているのが分かった。
「ふん。あの程度の魔法で、あの威力とはな。少しは見所があるかと思ったが――期待外れだったな」
「貴様は、ただ魔力を込めただけだ。力の本質は、何も変わっていない。つまらん。つまらなすぎる」
「正直、がっかりだ」
その言葉の一つ一つが、思っていた以上に、重くのしかかった。
(――ここで、終われない)
震える手を握りしめる。焦りで、思考がうまくまとまらない。それでも、まだやれることがあるはずだ。
――その隙を、逃してはくれなかった。
《グザッッ……!!》
気づいた時には、黒い蔓が肩を貫いていた。
「グッ……!?」
信じられない痛みが、全身を駆け巡る。
「私のことを、気色悪いと言ったな」
魔族が、冷たく囁いた。その目には、明確な狂気が宿っている。
「その礼だ。急所は外して、一本ずつ、じわじわと苦しめてから殺してやる」
「次は――右肩だ」
《グサッ……!!》
再び、蔓が貫く。息が詰まる。
「どうだ。痛いか。苦しいか」
答えなかった。
三本目の蔓が、太腿を突いた。
《グザッ……!!》
膝が落ちる。視界が、赤く滲んだ。
それでも、声は上げなかった。
――上げ方を、忘れていた。
あの教室でも、そうだった。殴られても、蹴られても、指を折られても。声を上げれば、余計に長引くと知っていたから。
そうだ。あの日も、俺は――ただ、痛みに耐えていた。
殺される寸前、前世の記憶を取り戻し、誓ったはずだった。村と、母を脅かすものは、全て消し去ると。
この世界は、弱者を踏みにじる。生存競争が、当たり前の世界だ。
それなのに――自分の力だけで、上位の魔族に勝とうなど。
(浅はかだった)
(【スキル】がバレたくないだけで、これも――俺の力だ)
出し惜しみをしている場合ではない。俺は、マルコたちを殺したあの瞬間から――既に、普通の人間ではなくなっているんだ。
『そろそろ、腹を狙うとしよう。あの世で、殺された私のペットたちが、歓迎してくれるだろうよ』
魔族の声が、狂気を孕んで響く。
恐怖は、消えない。それでも――今は、深く考えるべきではない。
まずは、その不気味な笑みを――絶望の色に、変えてやる。




