9. 交差する二人の想い
初夏の柔らかな陽射しが、中庭のテラスに穏やかな陰影を落としていた。
卓上には、末娘の手による愛らしいあしらいのデザートと、湯気をゆるやかに揺らす紅茶が並んでいる。
アヤは色彩豊かな皿から顔を上げ、向かいに座る青年へ微笑みかけた。
「ジェフリー様。先ほどは可愛らしいお菓子と、それから、あふれるばかりの素晴らしいお花をありがとうございました」
ジェフリーは、淡い金髪をかすかに揺らして首を横に振った。
「いいえ。先日の素敵なおもてなしと、あの蜂蜜のスコーンへのお礼です。お気に召していただけたなら何よりです」
「それにしても、お茶会のお礼にしては、あまりにもたくさんのお花でしたわ」
アヤは思い出したように、くすりと笑った。
「城へ届けられたあの量を四人で分けても、一人であれほどのお花をいただいたことなんてございませんもの」
その笑みに誘われるように、ジェフリーの端正な唇にもかすかな笑みが浮かんだ。
「……実を言いますと、あれほどの花を買ったのは、今朝、街の露店で途方に暮れていた店主に出会ったのがきっかけなのです」
「まあ……露店の方を?」
「ええ。花祭りに合わせて売るため、まだ蕾のものを大量に仕入れていたそうです。ところが、ここ数日の気候の変化で、祭りを待たずに一斉に花が開いてしまったらしく」
ジェフリーは少し困ったように笑った。
「このままでは祭りの日までもたない。仕入れた花をすべて無駄にするしかないと、ずいぶん途方に暮れておられまして。それで、まとめて買い取ったのです」
アヤは驚いたように目を瞬かせた。
それから、ふわりと表情を和らげる。
「それは、とても良いことをなさいましたね」
「そうでしょうか」
「ええ。お店の方も、きっと救われたことでしょう。それにお花たちも、誰にも見てもらえず萎れてしまうより、こうしてたくさんの方に愛でてもらえたほうが、きっと嬉しいでしょうから」
ジェフリーは何も答えず、しばらくアヤを見つめた。
困っている露店商のことだけでなく、行き場を失いかけた花にまで思いを寄せる。
そんな彼女らしい言葉が、妙に嬉しかった。
やがてジェフリーはティーカップへ手を伸ばした。
「今日のデザートも素晴らしいですが……先日のお茶席でいただいた、アヤ様お手製の蜂蜜のスコーンは格別でした。あの味は、今でも忘れられません」
アヤの黒い瞳に、茶目っ気のある光が浮かぶ。
「ジェフリー様は、本当になんでもお見通しなのですね」
ふふ、と小さく笑ったあと、アヤはさりげなく周囲へ視線を巡らせた。
そして、控えていた侍女たちへ目だけで合図を送る。
侍女たちは一礼すると、二人の声が届かぬほど離れた場所へ静かに退いていった。
穏やかだったジェフリーの表情が、わずかに引き締まる。
アヤはまっすぐに彼を見た。
「……人払いをいたしました。遠回しな言葉は省かせていただきますね。嘘の通じないジェフリー様には、直接お尋ねしたほうがよさそうですから」
青い瞳が、かすかに揺れた。
「……何でしょうか、アヤ様」
「あなたがこの国へいらした、本当の目的についてです」
アヤは一度、言葉を切った。
「ジェフリー様は、なぜ『龍の涙』を求めていらっしゃるのですか?」
初夏の風が、二人の間を通り抜けた。
ジェフリーは一瞬だけ息を止める。
だが、アヤの黒い瞳から逃れることなく、やがて静かに息を吐いた。
「……分かりました」
青い瞳が、まっすぐにアヤへ向けられる。
「あなたにだけは、包み隠さずお話しいたします」
ジェフリーはゆっくりと語り始めた。
「私の故郷サルヴィアでは、毎年、厳しい冬が訪れると、高熱を伴う病が流行します」
アヤの表情が曇った。
「冬に……?」
「はい。寒さが深まるにつれて病に倒れる者が増え、冬を越すことのできない者も少なくありません」
ジェフリーの声音は静かだった。
「父は財務大臣として、この病を国が抱える大きな問題の一つと考えています。治療法を求め、長年にわたって私財と国の資金を投じてきました。『龍の涙』についてもそうです。伝説に語られるほどの薬効が本当にあるのなら、何としてでも見つけ出したいと」
ジェフリーは静かに続けた。
「その探索の先頭に立つよう命じられ、私は騎士団から呼び戻されました。そしてエステリア王へ協力を求めるため、この国へ来たのです」
そこまでなら、国から与えられた任務の話だった。
けれど、ジェフリーはそこで視線を伏せた。
「……ですが、私自身にも、龍の涙を見つけたい理由があります」
「ジェフリー様にも?」
「はい」
わずかな沈黙のあと、ジェフリーは口を開いた。
「私の母は、私が幼い頃……その病で亡くなりました」
アヤが小さく息を呑んだ。
「お母様が……」
「冬のことでした」
ジェフリーは目を伏せたまま続ける。
「日に日に熱が高くなっていく母を前に、幼かった私には何もできませんでした。ただ、弱っていく姿を見ていることしかできなかった」
ソーサーへ添えられた指先に、わずかに力がこもる。
「冬が来るたび、今も同じ思いをしている者たちがいます。親を失う子もいれば、子を失う親もいる」
青い瞳が、静かにアヤへ戻った。
「だから、もう二度と、あのような悲劇を繰り返したくない。龍の涙に彼らを救う力があるのなら……私は、どうしても見つけたいのです」
アヤは何も言えなかった。
本当なら、ここで告げるつもりだった。
――龍の涙を探すのは、おやめください。
そのために人払いまでしたのだ。
王家に残された記録を調べれば調べるほど、龍の涙の伝承の先には恐ろしい何かが待ち受けているように思えてならない。
それでもなお探索を続ければ、ジェフリー自身が危険に晒されるかもしれない。
だから、止めるつもりだった。
「……今頃、サルヴィアでは」
ジェフリーがぽつりと言った。
「ようやく長い冬が終わり、雪の合間から緑の芽が顔を出し始めている頃でしょう」
その青い瞳は、遠く離れた故郷を見つめているようだった。
「あちらの民にとって春を迎えるということは、ただ季節が変わるというだけではありません」
ジェフリーは静かに微笑んだ。
「今年も冬を生き抜くことができた。そのことに、ようやく安堵できる季節なのです」
アヤは黙って、その横顔を見つめていた。
「けれど春が来れば、今度は次の冬に備えなければならない。短い夏の間に作物を育て、秋に無事な収穫を迎えられたときが、サルヴィアの民にとって一年で最も喜ばしいときです」
ジェフリーはふと、目の前に広がる庭へ視線を向けた。
エステリアでは、五月に入ればすでに初夏である。
青々と茂った木々の下では色とりどりの花が咲き、風が通り抜けるたび、濃くなり始めた緑の葉がさらさらと揺れていた。
「故郷では、次の冬を越すために皆が懸命に暮らしているというのに……私はこんなにも緑にあふれた豊かな国で、王都の高級ホテルに滞在しています」
ジェフリーはわずかに目を伏せた。
「そのことが、どうしても後ろめたいのです」
「……ジェフリー様」
「私は安宿でも構わないのです。野宿だって、騎士団にいた頃はいくらでも経験しました。ですが父は、『エステリア王宮へ赴く者が、みすぼらしい宿に泊まっていてはサルヴィアの面目に関わる』と譲りませんでした」
ジェフリーは少し困ったように笑った。
「滞在費が国費から出ていると思うと、どうにも落ち着かなくて。ですから、せめて日々の食事くらいは自分の給料で賄おうと、今朝も外へ出ていたのです。あの露店を見つけたのも、その途中でした」
そして、何か大切なことを思い出したように付け加える。
「もちろん、あの花も自分の給料で買ったものです。国費は一銭も使っていません」
「…………」
「……アヤ様?」
そこでようやく、ジェフリーは気づいた。
アヤがひどく悲しそうな顔で、自分を見つめていた。
「申し訳ありません、アヤ様」
ジェフリーは慌てて頭を下げた。
「こんな暗い話を長々と……。あなたを悲しませるつもりではなかったのです」
アヤはゆっくりと首を横に振った。
「いいえ……謝らないでください」
黒い瞳が、静かに揺れる。
「ずいぶんと、お一人で多くのものを背負ってこられたのですね」
そして、少しだけ間を置いた。
「龍の涙を求める理由も……よく分かりました」
それきり、アヤは黙り込んだ。
膝の上で重ねた指先が、ほんのわずかに強く握られる。
探すのをやめてほしい。
先ほどまで、そう告げるつもりだった。
けれど今、その言葉を口にすれば、その先には何があるのだろう。
凍てつく冬。
高熱に苦しむ人々。
そして、病に倒れた母の傍らで、何もできずにいた幼いジェフリー。
そこまで思い描いてしまったアヤの唇から、「諦めてください」という言葉が出てくることはなかった。
ただ、胸の奥がひどく重かった。
龍の涙を探す理由を知ることができたのだから、本来ならこれでよかったはずなのに。
なぜか、知る前よりも心が沈んでいる。
アヤはその理由を深く考えることなく、そっと目を伏せた。
二人の間に、静かな沈黙が落ちた。
ジェフリーはそんなアヤを見つめ、ふと上着の内ポケットへ手を伸ばす。
指先に触れたのは、包装紙に包まれた小さな革張りの手帳だった。
ほんの少し迷って――。
ジェフリーは、そっと手を離した。
今ではない。
「……アヤ様」
「はい」
「もしよろしければ……今度の花祭りに、私と一緒に行ってくださいませんか?」
アヤがぱちりと瞬きをした。
「花祭りに……わたくしと?」
「はい」
思いもよらない誘いだった。
けれど、アヤはすぐにその理由に思い至った。
きっと、あまりにも暗い顔をしてしまったからだ。
ジェフリーは優しい人だから、自分を気遣ってくれているのだろう。
アヤは申し訳なさそうに微笑んだ。
「お気遣いいただき、ありがとうございます」
「いえ、私は――」
「ですが、ジェフリー様」
アヤは穏やかに首を横に振った。
「わたくしよりも、ジェフリー様が本当にお誘いしたい方とご一緒になってください。花祭りはとても素晴らしいお祭りですから、大切な方と過ごされたほうが、きっと素敵な思い出になりますわ」
ジェフリーは黙った。
誘いたい相手と行け、と言われた。
自分は、その誘いたい相手を誘っている。
それなのに、その本人から別の女性を誘うよう勧められている。
そこでようやく、ジェフリーは理解した。
――断られたのだ。
これまで女性から誘いを受けることは数え切れないほどあった。
だが、自分から女性を誘った経験などほとんどない。
ましてや、自ら誘った相手に断られるという経験など、ジェフリーの人生には存在しなかった。
「……違います」
思わず、声が強くなる。
アヤが目を丸くした。
「え?」
「社交辞令でお誘いしているのではありません」
ジェフリーは今度こそ誤解の余地など残さぬよう、まっすぐにアヤを見つめた。
「私は、本当にあなたと花祭りに行きたいのです」
これなら伝わったはずだ。
アヤはきょとんとした顔で、ジェフリーを見つめ返した。
やがて――。
「ああ……」
何かに気づいたように、小さくうなずく。
ジェフリーの胸に、かすかな安堵が生まれた。
ようやく伝わった。
「龍の涙について、もっと詳しくお話しになりたいのですね」
「…………」
「そういうことでしたら、分かりましたわ。わたくしも城の蔵書から、もう少し情報を集めておきますね」
ジェフリーは言葉を失った。
なぜ、そうなるのだろう。
「いえ、そういう意味ではなく……」
「ふふ、分かっていますわ」
――分かっていない。
まったく分かっていない。
「お城の中では、誰がどこで耳を立てているか分かりませんものね。表立って聞けないこともあるでしょう。でも花祭りの賑わいに紛れてしまえば、その喧騒に隠れてゆっくりお話しできますもの」
「アヤ様、私は――」
そのときだった。
遠くから、バタバタと威勢のいい足音が聞こえてきた。
二人がそちらへ顔を向ける。
家庭教師による厳しい授業をどうにか終えた末娘リカが、テラスへ向かって一直線に駆けてくるところだった。
「ジェフリー様ーっ!アヤ姉様ーっ!」
明るい声が中庭いっぱいに響き渡る。
アヤが微笑む。
その隣でジェフリーは、開きかけた口を静かに閉じた。
――なぜ俺の想いは、こうもあなたに伝わらないのだろうか。




