8. あひるの姫と氷の騎士の思惑
あの夜、国王の執務室で交わされた密やかな問答の重みが、アヤの胸の奥で静かに澱のように沈んでいた。
陽光が差し込む厨房で、アヤは妹と並び立ちながら、あの夜父から告げられた言葉の真意を反芻するように粉の感触を確かめていた。
最初はおぼつかない手つきでボウルを抱えていたリカだったが、今では見違えるほど手際がよくなっていた。
修行の初日は、目を覆いたくなるような失敗の連続だった。
ある時は蜂蜜と激辛のスパイシーシロップの壺を取り違えてしまい、焼き上がった生地はふっくらと膨らむどころか、辛味と塩気を多く含んだ乾燥パンのように硬く、噛み締めるたびに強烈な刺激が広がる代物になってしまった。
またある時は膨らまし粉の分量を誤って、生地が横にだらしなく広がり、不格好な石版のような塊を生み出してしまった。
鉄板の温度調整を誤って真っ黒な炭の塊を作り上げたことも一度や二度ではない。だが、失敗するたびにアヤの穏やかな手ほどきを受け、リカは少しずつ配合の妙を身体で覚えていった。
今や、蜂蜜の壺を取り違えることもなく、適切な量の膨らまし粉で、ふっくらとした美しい生地をまとめ上げられるようになっていた。
「お姉様、見て。うまく割れたわ」
日中の明るい光の中で、オーブンから取り出したばかりのスコーンを手に取り、リカが嬉しそうな声を上げた。
香ばしい焼き色のついた生地をそっと二つに割ると、中から湯気がふわりと立ち上る。出来栄えを見てもらおうと、リカは何度もその名を呼んだ。
だが、アヤの意識は遠くを彷徨っていたように、どこか心ここに在らずという表情で立ち尽くしていた。
「……アヤ姉様?」
二度、三度と名前を呼ばれ、アヤはハッと微睡みから覚めるように瞬きをした。そして、リカが差し出したスコーンに目をやり、その見事な焼き上がりを認めて驚嘆の息を漏らした。
「まあ……。こんなに綺麗に割れるなんて、本当に見違えたわね」
リカは誇らしげに鼻を鳴らし、すっかり得意顔になった。
「これならもう、お茶の時間だけじゃなくて、夕飯の席にもわたしの作ったスコーンを皆に出して自慢できるわね!」
しかし、その言葉にアヤの眉間がわずかに寄った。
このところ、昼の軽い食事には毎日のようにこのスコーンが並んでいる。王宮の舌の肥えた面々は、そろそろ食べ飽きてきているころだった。
そこに加えて夕食の席にまで甘い焼き菓子を持ち出そうものなら、連日のお茶菓子攻勢に我慢の限界を迎えていたマリサが、鋭い嫌味をリカに浴びせかけるのは目に見えている。
つい先日も、同じスコーンが三日続いただけで、マリサは冷ややかに「いつまでこんな庶民的な粉の塊を見せつけるの?」と言い放ち、リカと激しい言い合いになったばかりだった。
「リカ。夕食の席にスコーンはあまり相応しいとは言えないわ」
アヤは優しく諭すように首を横に振った。
「パンの代わりにはならないのかしら」と首をかしげる妹に、アヤは微笑んで答えた。
「夕食に出す甘いものは、食後のデザート以外であれば、例えばニンジンのグラッセが良いわね」
その言葉を聞いた瞬間、リカの好奇心に火がついた。
「じゃあ、今すぐそのニンジンのグラッセとやらの作り方を教えて! わたし、作ってみる!」
リカが意気揚々と厨房の棚を探し始めようとしたその背後で、連日の特訓のせいで煤けた鍋や焦げ付いた鉄板を山のように抱えさせられている料理人たちが、青い顔をしてハラハラと見守っていた。
厨房の重い扉がひそやかに開いたのは、そのときだった。
アヤ付きの侍女が、少し息を弾ませて立っている。
「アヤ様。……ただいま、ジェフリー様がお見えになりました」
約束の一週間には、まだ二日あった。
アヤとリカは互いに顔を見合わせ、その早すぎる訪れに息を呑んだ。
「どうしよう! スコーンはこれを出しても恥ずかしくないかしら……?」
不揃いな形を気にして慌てるリカに、見かねた料理長が穏やかに笑い、焼き上がりを華やかに見せる飾りつけのこつを、手早く教えはじめる。
アヤは侍女に目を向け、客人に温かいお茶を用意すること、リカの手伝いをしてやることを、静かに頼んだ。
それから、ひとつ息を吐き、エプロンを外して身なりを整える。
ひんやりとした石造りの廊下を抜け、静まり返った応接室の扉を開けると、そこに彼の姿があった。
窓からの光を背に、長身の騎士が静かに立っている。
アヤの姿を認めた瞬間、その青い瞳が、わずかにやわらいだ。凍っていた水面に、春の光が一筋差したようだった。
「先触れもなく訪れました非礼を、どうかお許しください、アヤ様。どうしても、お渡ししたいものがあったのです」
涼やかで気品に満ちた声が部屋の空気を優しく震わせた。
アヤもまた、彼を見つめ返しながら、心の準備をするように息を整えた。あの夜、執務室で父から告げられた言葉が脳裏をよぎる。
――彼を案じるのなら、その知恵をもって龍の涙を探す彼の支えとなり、傍らで守り抜けと。
父は、ジェフリーの傍らにアヤを置くことで、その知恵を国のために役立てようとしている。
だが、アヤが望んでいるのは、そういうことではなかった。
龍の涙へ近づくために、彼を支えたいのではない。
むしろ、その先に何が待っているのかも分からない道から、彼を遠ざけたかった。
父の命じるまま探索を助けるのではなく、できることなら、その手を取って引き返させたい。
********
その日の朝のことだった。
ジェフリーは、ホテルの近くの通りを歩いていた。
数日後に控えた、エステリアの初夏の花祭り。王都の街並みは、その準備にどこか浮き立っている。窓辺の鉢を整える者、軒先に紐を渡す者、祭りに使う布や木箱を運ぶ者。通りのあちこちで槌音や呼び声が重なり、まだ花で彩られる前の街には、祭りを待つ気配だけがひと足先に満ちていた。
ふと足が止まった。
通りの角の小さな屋台が、あふれるほどの満開の花に囲まれている。その真ん中で、一人の男が頭を抱えて立ち尽くしていた。
店主の男に事情を聞けば、祭りの本番に合わせて花を調達したつもりが、昨日の季節外れの暑さにあおられ、つぼみだったはずの花が一斉に開いてしまったというのだ。
今年初めて花祭りで露店を出す彼は、花の仕入れの塩梅が分からず、高騰する時期を避けて早めに注文したことがあだになってしまった。
このままでは祭りの日を迎える前に花が傷んでしまい、すべて廃棄するしかないと男は途方に暮れていた。
その様子を黙って見過ごすことができず、ジェフリーは店主からその花を一括して買い取ることにした。
しかし、露店を丸ごと囲むほどの膨大な量の花を、自分の部屋に置く場所などない。
ふと脳裏に浮かんだのは、城で暮らす四人の王女たちの顔だった。今まさに美しく咲き誇っているこの時季こそ、贈り物としては最もふさわしいと店主も太鼓判を押した。
「姫様方が少しでも長くこの花々を愛でられるように、どうぞ、早めに届けてあげてください」
その言葉に従い、ジェフリーは先日購入した品々と共に、大量の花を乗せた馬車を伴って王城へとやってきた。表向きの理由は、先日のもてなしと、持ち帰らせてもらった蜂蜜のスコーンへの礼だった。
胸の内ポケットでは、あの小さな包みが、今日も変わらずに重みを伝えていた。
応接室に通されたジェフリーを待っていたのは、思いがけない静けさだった。
次女のミエは、有力な貴族の夫人に招かれた茶会へ出かけている。三女のマリサは、花祭りのパレードで身にまとうドレスを誂えに出かけていた。国王夫妻もまた、朝から公務で城を空けているという。
アヤは、申し訳なさそうに眉を寄せて頭を下げた。
「わざわざお越しいただいたのに……あいにく父も母も、ミエもマリサも城を空けておりまして。お迎えできるのが、わたくしとリカだけで、本当に申し訳ありません」
するとジェフリーは、静かに首を横に振った。
「いいえ、お気になさらないでください」
口にしたのは、それだけだった。
けれど、ほかの姫君たちがいないと聞いたとき、胸の奥のどこかが、かすかに軽くなったのを、ジェフリー自身も感じていた。
なぜ、と考えるより先に、目の前のアヤが顔を上げる。
ジェフリーは、穏やかな笑みでそれを受け止めた。
アヤのほうもまた、この静けさを、別の意味でありがたいと思っていた。
妹たちの目がないところでなら、聞けるかもしれない。この人が、龍の涙に何を求め、何のために探しているのかを。
そこへ、ティーワゴンを押したリカが、意気揚々と姿を現した。
皿の上には、今度こそ本当に自分の手で生地から焼き上げたスコーンが並んでいる。不揃いな形を隠すように、ふわふわの白いクリームと、色鮮やかな果実のソースが添えられて、見違えるほど華やかな一皿になっていた。
「ジェフリー様のために、わたしがお作りしたのです!」
胸を張るリカを見て、ジェフリーは、ちらりと隣のアヤの顔をうかがった。
アヤの目が、満足そうに、あたたかく細められている。
それだけで十分だった。
ジェフリーは、リカに向かって穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございます。このように素晴らしいお茶とお菓子をご用意いただけるなんて、光栄です」
丁寧な礼を向けられたリカは、みるみる頬を赤くして、その場で飛び跳ねたいのを必死にこらえていた。
「こんなに良いお天気ですし、よろしければ、庭のテラスでお茶にいたしませんか」
アヤの提案に、リカの目がさらに輝いた。
先日は「なんでわたしが、召使みたいな真似をしなきゃいけないのよ」と言い放っていた妹が、今日は自分の手でこのティーワゴンを押し、ジェフリーの隣を歩いて庭へ出たくてたまらない、という顔をしている。
だが、その望みは、あっけなく打ち砕かれた。
「リカ様。お部屋で、家庭教師の先生がお待ちです」
どこからともなく現れたリカ付きの侍女が、まるで見計らったかのように告げた。
授業のことなど、すっかり頭から抜け落ちていたのだろう。リカの顔から、さっと血の気が引いた。どうにかして抜け出す口実はないかと、必死に頭をめぐらせているのが、見ているだけで分かる。
しかし、美しい騎士を目の前にしては、気の利いた言い訳など一つも浮かんでこないらしかった。
アヤはそっとリカの肩に手を添えた。
「先生のお許しが出たら、自習ということにして、お茶の席にいらっしゃい。ワゴンはほかの者に任せて、まずは先生のところへ行って、事情をお話ししなさい」
やさしいけれど、逃げ道のない言葉だった。
リカは名残惜しそうに何度も振り返りながら、半泣きの顔で授業へ戻っていった。
あの厳しい家庭教師が、どれほど美しい客人が来ていようと、王の命でもない限り自習など許すはずがない。
そのことを、アヤは誰よりもよく知っていた。
足音が遠ざかり、応接室に静けさが戻る。
ジェフリーは、窓からの光の中に立つアヤを見た。
二人きりになったことに気づくと、胸の奥がわずかに騒いだ。それを表に出さないよう、ジェフリーはそっと表情を整えた。
アヤもまた、静かに彼を見つめ返していた。
胸の中には、父の言葉と、禁書庫で読んだあの頁の一文が、重く横たわっている。
――涙を求める者は、封じられしものに近づく。
この人は、なぜそこまでして、龍の涙を探そうとするのだろう。
それを、ジェフリー自身の口から聞きたかった。




