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7. 龍の涙

※一部欠落していた部分を追記しました

重厚なオーク材の机の上に、一通の手紙が置かれていた。


真紅の蝋印には、ハルセリン家を象徴する猛禽の紋章が刻まれている。窓の外では、北国サルヴィアの冷たい夜風がガラスを打ち、凍てついた月光が、部屋の隅々に鋭い影を落としていた。


サルヴィア侯爵にして、この国の財務を預かる大臣、ガレル・ハルセリンは、ゆっくりと椅子に背を預けた。

白いものの混じった金の髪を撫で上げる。

鋭い青い瞳の奥に計算高い光を宿したまま、ペーパーナイフを封に差し入れ、滑らせるように切り開いた。

中から現れたのは、丹念に漉かれた上質な便箋だった。

国境を越え、遠く南の豊かな王国――エステリアへ潜り込んでいる商人、ヴィクター・レノックスからの密書である。


『……我が君、ガレル様。御子息ジェフリー様のご様子について、ご報告申し上げます』


ガレルは薄い唇をわずかに歪め、文字を目で追った。

報告は、彼が描いた計画が順調に進んでいることを告げていた。

だが同時に、予想していなかった小さな歪みについても記されていた。


『……計画の初期段階において、想定外の事態が生じております。ジェフリー様は、エステリア王家の長女、アヤ王女に、ただならぬ関心を寄せておられるご様子です。周知の通り、あの方の容姿は社交界の基準から外れた豊満なものであり、本来であれば御子息の目に留まるはずもない御方です。しかしジェフリー様は、彼女の知性に深く心を動かされ、あろうことか、彼女を軽んじた者に対して、静かながら凄まじい怒りを見せられました』


ガレルの眉間が、わずかに寄った。

他人を寄せつけぬ刃として育て上げた、自慢の息子。

そのジェフリーが、周囲から軽んじられる王女へ、これほどまでの反応を見せるというのか。


『……ですが、これは我が方にとって好機とも申せましょう。王家は龍の涙の探索に協力する姿勢を示しております。アヤ姫の知恵を鍵とすれば、封印の地へ至る手がかりを得られる可能性は高い。御子息を動かしつつ、探索を滞りなく進めるべく、引き続き注視いたします』


便箋から手を離すと、ガレルは静かに息を吐いた。

部屋には、暖炉の薪が爆ぜる乾いた音だけが響いている。


ガレルは、ただ欲深いだけの権力者ではなかった。

侯爵という地位に驕ることなく、サルヴィアの政の均衡を裏から操り、幾重もの思惑を張り巡らせてきた男だった。

彼が龍の涙を求めるのは、サルヴィアの医療と産業を大きく前へ進めるための、長年の悲願だった。

そのために、騎士団にいた息子を呼び戻し、この南の国へ送り込んだのだ。


(ジェフリーよ……お前は、私の血を引く完璧な剣だ。女ごときに絆され、その切れ味を鈍らせることなど、許されるはずもない)


だが、ガレルはその歪みを、すぐに切り捨てはしなかった。

人の感情というものは、時として、もっとも強い鎖になる。

あの冷え切った息子が、特定の相手へ執着を見せているのなら、それは利用できる。

アヤという知恵者を通じて龍の涙の秘密へ近づき、探索を成し遂げる。

それだけの話だった。


ガレルは冷ややかな笑みを浮かべると、使い込んだ万年筆を手に取り、返信のためにインクを吸い上げた。

窓の外で、夜風がまたひとつ、ガラスを打った。



********



重い木製の扉が外の物音を断ち切り、エステリア国王の執務室は深い静寂に沈んでいた。


窓際に置かれた革張りのソファ。

レグナードとアヤは、そこに向かい合って腰を下ろしていた。

卓上の燭台で揺れる蝋燭の炎が、二人の横顔を淡く照らしている。


「アヤ。先日の晩餐の席で、そなたが言っていたことだが」


レグナードは娘へ静かな視線を向けた。


「なぜ、ハルセリン卿が龍の涙を探すことを、そこまで恐れる。あれほどの才覚を持つ男だ。我が国にとっても、あの男の知恵と力は大きな益になるはずだが」


アヤは膝の上で指先を重ね、しばらく俯いていた。

やがて、意を決したように顔を上げる。


「お父様……わたくしが恐れているのは、龍の涙という美しい名前の裏に、何か別の意味が隠されているのではないか、ということなのです」


アヤは一度、ゆっくりと息を整えた。


「一般には、龍の涙は、恐ろしいドラゴンが深い慈しみに触れたとき、ただ一度こぼした奇跡の雫だと言われています。けれど……以前、禁書庫で古い文献を見つけたことがございます」


レグナードは黙ったまま、娘の言葉を待った。


「その文献は、長い年月の中で失われた部分が多く、すべてを読むことはできませんでした」


アヤは記憶を辿るように視線を落とした。


「ですが、そこには……わたくしたちが知っている龍の涙の伝承とは、少し違うことが書かれていたのです」


「どのように違う?」


レグナードの問いに、アヤは少しだけ唇を引き結んだ。


「断片的な記述でした。ですから、わたくしの読み違いである可能性もございます。ただ――」


膝の上で重ねた指先に、わずかに力がこもる。


「そこには、涙はドラゴンから流れたものではない、とありました。ドラゴンを封じた者が、自らの命を捧げ、その亡骸が朽ちずに残ったもの。それが龍の涙であり、人の身体から病を遠ざける力を持つのだ、と」


レグナードは何も言わなかった。

アヤは記憶の中に残る古びた文字を追うように、ゆっくりと言葉を続ける。


「そして最後に、ひとつだけ――どうしても忘れられない一文がございました」


「何と?」


「『涙を求める者は、封じられしものに近づく』」


静かな執務室に、その言葉だけが落ちた。


「その先は破れていて、読むことができませんでした」


アヤは小さく息を吐いた。


「何を意味しているのか、わたくしにも分かりません。誰かが書き残した作り話かもしれませんし、そもそも正しく読み取れているのかさえ……。それでも、あの一文だけが、どうしても頭から離れないのです」


レグナードはしばらく娘を見つめたあと、静かに首を横へ振った。


「アヤ。それは古い神話の域を出ない話だ。現に、この世のどこにもドラゴンなどおらぬ。古文書の一節を真に受けて、そこまで怯える必要はない」


もっともな言葉だった。

アヤ自身、確かな証と呼べるものは何ひとつ持っていない。

それでも、黒い瞳に宿った光は消えなかった。


「お父様。おとぎ話には、昔の人々が見た何かの記憶が残されていることがございます。年月を重ねるうちに形を変え、事実とは異なる物語になってしまったとしても、その始まりに何もなかったとは限りません」


アヤは一度言葉を切った。


「龍の涙そのものは幻だと言われながら、そのありかへつながる書物がこの国に眠っているという話だけは、いつまでも消えずに残っています。もし……もしジェフリー様が、その真相に近づいてしまったら……」


声が、そこで途切れた。

洗濯場で一度だけ重なった青い瞳。そして、自分をまっすぐに見つめながら、「お知恵をお借りしたい」と告げた声。

なぜだろう。あの人が、何も知らないまま危険な場所へ足を踏み入れていく姿を思い浮かべると、胸の奥がかすかに痛んだ。

アヤは唇を結び、父をまっすぐに見つめた。

蝋燭の炎が、静かに揺れている。


娘の瞳に宿る切実な色を見据えながら、レグナードは何も答えなかった。

アヤの言葉を、ただのおとぎ話として退けたばかりだった。

だが王である彼は、龍の涙にまつわる伝承のすべてを、ただの昔話だと考えているわけではなかった。

王家には、代々の国王だけに伝えられてきた秘密がある。アヤにも、王妃ヴァレリアにも明かしていないものだ。

龍の涙にまつわる国宝。そして、それを巡って長い年月の中に生じた、ある問題。

歴代の王たちは密かにその解決を試みてきたが、いまだ果たされてはいなかった。

そこへ現れたのが、遠い北の国から龍の涙を求めてやってきた、一人の騎士だった。

ジェフリー・ハルセリン。

彼が本気で龍の涙を探すというのなら、長く動かなかった何かが、再び動き出すかもしれない。

レグナードは目の前の娘を見つめた。


(だが、あの男一人に、すべてを委ねるわけにはいかん)


相手は他国の人間だ。どれほど誠実に見えようと、一国の王として無条件に信用することはできない。

ならば、傍らにこの国の人間を置く必要がある。

アヤならば、古い書物にも通じ、細かな違和感を見落とさない。ジェフリーが何か不審な動きを見せれば、それに気づく可能性も高い。

そして――。

レグナードの脳裏に、先日の茶会の光景が浮かんだ。

三人の妹たちが華やかに話す中、あの冷ややかな青年の視線が、いつの間にかアヤへ戻っていたことを、父は見逃していなかった。

それが何を意味するのかまでは、まだ分からない。

だが少なくとも、ジェフリーがアヤの言葉を軽んじていないことだけは確かだった。

ならば二人を共に動かすことにも、意味はある。


アヤの知識と観察眼。

ジェフリーの武力と行動力。


互いに持たないものを補うことができれば、これまで誰にも届かなかった答えに近づけるかもしれない。

それに、目の前の娘自身が、これほどまでに彼の身を案じている。

レグナードは重々しく息を吐いた。


「アヤ。そなたの恐れも、分からぬではない」


静かな声が、執務室に響いた。


「だが、もし龍の涙が本当に存在し、我が国がそれを管理することができれば、エステリアは他国に対して大きな力を持つことができる。今は諸国との均衡が保たれているが、それがいつまでも続くとは限らぬ。国と民を守るために使える力があるのなら、王である私が、それをみすみす見過ごすわけにはいかん」


アヤは黙って父の言葉を聞いていた。

胸の内に、静かな波が立った。


(――いいえ、お父様。それは違います)


もし龍の涙が、本当に人を病から救う力を持つものなら。

それは一つの国が囲い込み、力として抱えるためだけのものではないはずだ。

国境の向こうにも、同じように病に苦しみ、助けを待っている人がいる。

けれど、アヤはその思いをすぐには口にしなかった。

父がこの国と民を守ろうとしていることも、分かっていたからだ。

どちらか一方だけを、簡単に正しいとは言えなかった。

アヤは膝の上で組んだ手へ視線を落とした。

しばらくして、レグナードが再び口を開く。

先ほどまでより、わずかに穏やかな声だった。


「それに――そなたが、それほどまでにハルセリン卿の身を案じるのであれば」


アヤが、はっと顔を上げる。

レグナードは娘をまっすぐに見据えた。


「その知恵をもって、龍の涙を求めるあの男を支えよ」


アヤの瞳が、わずかに見開かれた。

止めてほしいと願った。危険な場所へ向かわせないでほしいと、そう父に頼んだはずだった。

それなのに返ってきた言葉は、まるで正反対の方向へ彼女を押し出していく。


「そして――傍らで、守り抜け」


アヤはすぐには答えられなかった。

卓上で揺れる蝋燭の炎が、その黒い瞳の中に小さく映っている。

やがて、膝の上で固く組んでいた指を一度ほどき、もう一度ゆっくりと組み直した。


「……はい、お父様」


小さな返事だった。

アヤはそのまま、揺れる灯を見つめていた。

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