6. 王女姉妹の表と裏
ジェフリーが王宮を辞したその夜。
エステリア王宮の広い食堂には、銀器の触れ合うかすかな音と、燭台の柔らかな光が揺れていた。
長いテーブルを囲むのは、国王と王妃、そして四人の王女たち。
晩餐の席についたレグナードは、手元のワイングラスを置き、静かに口を開いた。
「今日はジェフリー殿が来訪し、賑やかな茶会を楽しんだようだな」
その言葉を待っていたとばかりに、次女のミエが背筋を伸ばした。
「ええ、お父様! ジェフリー様は、わたくしの領地経営のお話に大変感銘を受けておられましたわ。諸外国との交易についての見解も、深く頷きながら熱心に聞いてくださったのです。やはり、知性ある殿方とは会話が弾みますわね」
三女のマリサも、負けじと甘い微笑みを浮かべて口を挟んだ。
「まあ、ミエ姉様ったら。ジェフリー様がいちばん熱心に耳を傾けていらしたのは、わたくしが手入れを差配している庭園のハーブやバラのお話ですわ。あのような高潔な騎士様にこそ、安らぎと美しさが必要なのです。わたくしの美意識を、とても優雅に褒めてくださいましたもの」
二人が我先にと手柄を語る中、テーブルの端で、末っ子のリカだけが唇を固く結んでいた。
普段なら誰よりも騒がしい十四歳の少女が黙り込んでいるのに気づき、王妃ヴァレリアが優しく声をかける。
「リカ、あなたはどうでしたの? ジェフリー殿とどんなお話をなさったの?」
リカはフォークで、皿の上の仔羊のローストを苛立たしげにつついた。
「……別に。わたしには、お姉様たちみたいな教養も、自慢できるお庭の話もないもの。ジェフリー様には、厨房で作るお菓子の話しかできなかったわ。……これじゃあ、わたしがただの食いしん坊で、意地汚い姫だって思われちゃったに決まってる!」
悔しさに耐えかねたように叫ぶと、リカはフォークを皿に置いた。
「わたし、お姉様たちよりも絶対に綺麗になってみせる! だからもう太りたくないの! 今夜から何も食べないわ!」
育ち盛りの十四歳には、あまりに無茶な宣言だった。
レグナードが眉をひそめ、厳格な父親の声で諭す。
「リカ。一国の王女たる者が、そのような短慮で身体を壊し、周りに余計な心配をかけるものではない」
叱られたリカは唇を尖らせ、そっぽを向いた。
張り詰めた空気をほどくように、それまで黙って聞いていたアヤが、穏やかに声をかける。
「リカ。ジェフリー様はね、あなたが一生懸命に淹れたお茶を、とてもおいしそうに召し上がっていらしたわ。それに、あなたが手渡したスコーンを、何より嬉しそうに持ち帰られたのよ」
「……だって、あれはアヤ姉様が焼いたスコーンじゃない!」
図星を指された気まずさから、リカは思わず声を荒らげた。
アヤは怒る様子もなく、微笑んだまま続ける。
「ええ。でも今日、あの方には『リカが焼いたお菓子』としてお渡ししたのでしょう? ジェフリー様がお父様と約束された再訪の日は、七日後よ。もしそれまでに、あなたがわたくしの教える通りに蜂蜜のスコーンを焼けるようになったら……ジェフリー様は、どれほどお喜びになるかしら。今度こそ本当に、あなたの焼いたお菓子を召し上がっていただけるのよ」
リカの瞳が揺れた。
「でも、もしあなたが何も食べずに寝込んでしまったら、お菓子を焼くことも、七日後にジェフリー様のお顔を見ることもできなくなってしまうわ。……それは、とても寂しいことではなくて?」
リカは赤くなった顔を伏せ、テーブルクロスの端を指先でいじった。
やがて、悔しそうな小さな声が落ちる。
「……アヤ姉様。わたしにも、あのスコーンの作り方、教えてくれる?」
「ええ、もちろんよ。明日の朝から、一緒に厨房に立ちましょうね」
リカはどこか照れくさそうにフォークを握り直し、ようやく料理を口へ運んだ。
そのやり取りを、レグナードはワイングラス越しにじっと見つめていた。
燭台の光を受け、深い赤の酒がグラスの中でかすかに揺れる。
世間はアヤを「あひるの姫」と嘲笑う。
三人の妹たちが羽を広げる白鳥なら、アヤは泥にまみれたあひるの子だと、誰もが陰口を叩く。
だが父親の目から見れば、四人の娘の中で誰よりも深く、聡明な心を持っているのは、紛れもなくこの長女だった。
人の嫌がることは決して口にせず、見返りも求めない。
周りが笑っていられるなら、自分はどうなっても構わないと、本気で思っているような娘だった。
昔からそうだった。
初めて授かった子の愛らしさに、ヴァレリアはアヤをこれ以上ないほど可愛がった。
欲しがるものは何でも与え、料理も菓子も山のように用意させた。幼いアヤは母が喜ぶことが嬉しくて、出されたものを残さず平らげた。
毎日のように厨房へ顔を出しては、その日の料理の何がおいしかったかを料理人たちへ伝えて回るような子どもだった。
自分の言葉で、料理人たちの顔に誇らしげな笑みが浮かぶ。
幼いアヤは、それを見るのが好きだった。
やがてミエが生まれ、マリサが生まれた。
アヤは小さな母親のように妹たちの世話を焼いた。
だが、召使いたちが自然とアヤの周りに集まって笑い合うのを見て、幼いミエは取り残されたような寂しさから、姉に当たるようになった。
わがまま盛りのマリサは、大人たちの目を独り占めしようとアヤを押しのけた。
アヤは、妹たちの寂しさを察していた。
だから何も言い返さなかった。
争いを避けるために、少しずつ一歩退き、自分の気配を薄くすることを覚えていった。
レグナードには、今も忘れられない光景がある。
アヤが十を少し過ぎたころの夕餉だった。
その日のアヤは珍しく食が進まず、皿の上には菓子が半分ほど残っていた。
それに気づいたヴァレリアの手が止まり、不安そうに娘の顔を覗き込んだ。
「アヤ、どこか具合が悪いの?」
アヤは母の顔を見上げた。
そして何も言わず、もう一度フォークを取った。
最後の一口まで食べ終えてから、にっこりと笑う。
「とてもおいしいです、お母様」
ヴァレリアはほっと息をつき、娘の頭を撫でた。
あのとき、あの子は少しも空腹ではなかったはずだ。
レグナードがそれに気づいたのは、ずいぶん後になってからだった。
容姿を気にする年頃になっても、アヤは母の前で同じように笑い続けた。
そうして、あの子は「あひるの姫」になった。
どこへ行っても、冷笑と嘲りの視線がついてまわった。
それでもアヤが、誰かを恨む言葉を口にしたことは一度もない。
人は誰しも心に不安を抱えていて、自分より劣ると決めつけた誰かを見下すことで、少しでも安心したいのだろう。
自分が笑われることで誰かの心が落ち着き、争いが鎮まるのなら、それでいい。
あの子はきっと、そんなふうに考えているのだろうと、レグナードは思っていた。
だが、あの子も聖人ではない。
王宮図書館の灯りが、夜更けまで消えない日があることをレグナードは知っていた。
一度だけ、扉の隙間から、積み上げた本に埋もれるようにして頁をめくる娘の背中を見たことがある。
声はかけられなかった。
あの子はあそこで、外見では測れない、自分だけの何かを一冊ずつ積み上げていたのだろう。
そうしてアヤは、多くの学問を身につけ、人の痛みにもよく目を向ける女性に育った。
だからこそ、その真価を分かる者が、この国にはなかなか現れなかった。
あの子に釣り合う相手がいるとすれば、世の移ろいを見尽くした老賢者くらいのものだろう。
アヤなら、不満ひとつ言わずに嫁ぐに違いない。
だが父親として、そんな縁談を年頃の娘に押しつけることはできなかった。
かといって、あの子の深さも分からず、その優しさを都合よく食い潰すような男に嫁がせるなど、断じて許せない。
だからレグナードは、長女の縁談をあえて棚上げにし、手元に置いておくしかなかったのだ。
そこへ現れたのが、ジェフリー・ハルセリンだった。
北の経済大国サルヴィアから訪れた、財務大臣の息子。
気品と武勇を備えながら、必要以上に人と馴れ合おうとはしない、不思議なほど静かな青年。
何よりレグナードの心を揺さぶったのは、あの冷ややかな青年が、美しい妹たちには目もくれず、ただアヤの姿を静かに目で追っていたことだった。
妹たちの話を聞いているときも。
誰にも気づかれぬよう、リカの手もとを支えていたときも。
ジェフリーの視線は、いつの間にかアヤへ戻っていた。
(あの男ならば……)
レグナードは、グラスの向こうに座る長女を見つめた。
(世間の呼び名ではなく、アヤ自身を見てくれるかもしれん)
まだ、分からない。
確信を得るには、もう一手が要る。
彼が求める伝説の万能薬、龍の涙。
もしジェフリーが本当にそれを見つけ出せたなら。
そして、それでもなおアヤを望むのであれば――。
そのときこそ、父として考えればいい。
国宝の謎が解け、秘薬のありかが明らかになれば、この国にとっても計り知れない利益となる。
王としても、見過ごす理由はなかった。
「――陛下?」
我に返ると、隣に座るヴァレリアが心配そうに覗き込んでいた。
「陛下、アヤが呼んでおりますよ」
視線を移す。
アヤが静かにこちらを見つめていた。
その黒い瞳はいつも通り穏やかでありながら、今夜はどこか深い影をたたえている。
「どうした、アヤ」
威厳を取り戻して問いかける父に、アヤは静かに、けれど迷いのない声で尋ねた。
「お父様。七日後にジェフリー様が再び登城されましたら……あの方に、龍の涙を探すことをお許しになるおつもりですか?」
レグナードはわずかに眉を動かし、娘の意図を探るように見据えた。
「今はまだ、そなたに詳しく話す段階ではない。……何か、気になることでもあるのか?」
アヤはテーブルの上で指を静かに組んだ。
まっすぐに父の瞳を見つめ返す。
白い横顔に、これまで見せたことのない悲痛な影が差していた。
「もし、ジェフリー様が龍の涙を探したいとおっしゃるのでしたら……」
一度だけ、声が止まった。
それでもアヤは目を逸らさなかった。
「どうか、お父様の手で、あの方を止めていただきたいのです」




