5. 氷の騎士の想い人
テラスを渡る夜風が、テーブルの上のオイルランプの炎をかすかに揺らしていた。
ヴィクターは赤ワインのグラスを指先で転がしながら、向かいに座る青年の顔をそれとなく窺っていた。
先ほど遠くの王宮を見つめていたときの、あのやわらかな横顔はもうどこにもない。
そこにあるのは、いつもの涼やかで、人の踏み込む隙を与えない、整いすぎた顔だった。
まるで、ほんのわずかに解けかけた湖面が、夜風に触れて再び薄く凍りついてしまったかのように。
「それで、ジェフリー殿。先日の王宮でのひとときは、実りあるものでしたかな」
ヴィクターは、他愛のない世間話でもするような調子で切り出した。
「ええ。手入れの行き届いた、素晴らしい庭園でしたよ」
ジェフリーは視線を伏せ、社交の場で見せる滑らかな笑みを浮かべる。
ヴィクターは目を細めた。
獲物の足跡を辿る狩人のように、話の向きを三人の王女たちへと変えていく。
「次女のミエ姫殿下は、社交界でも一、二を争うほど教養が高く、諸外国の情勢にも通じておられるとか。貴殿のような騎士とも、さぞ話が弾んだのでは」
「ええ。よく学ばれているご様子でした。誇り高く、聡明な方です」
熱のない、通り一遍の褒め言葉だった。
「では、三女のマリサ姫殿下はいかがです。王宮の宴では、来賓への細やかな気配りが評判だと聞きます。貴殿のためにも、心を尽くしておもてなしなさったのでは」
「とても優雅な方でした。我が国の貴族たちが見れば、誰もが褒めそやすでしょうね」
やはり響かない。言葉の端に、かすかな退屈ささえにじんでいる。
ヴィクターは諦めず、最後に末の姫の名を出した。
「四女のリカ姫殿下は、まだ初々しさの残る愛らしい方だ。自ら厨房に立って、貴殿に焼き菓子を振る舞われたと聞きましたが」
「心のこもった、温かいおもてなしでしたよ」
最後まで、答えは淀みなく、隙もなかった。
まるで任務の報告書でも読み上げているかのようだった。
ヴィクターは内心で首を傾げた。
どの姫の話を振っても、この青年は柳の枝のようにするりと受け流してしまう。
あれほど柔らかな目で王宮を見つめていた男が、この国の誇る三人の姫の誰にも心を動かされていない。
(となれば……やはり、城の侍女か。いや、庭番の娘ということもあるか)
ヴィクターはそれ以上の詮索をひとまず脇に置き、本題へと舵を切った。
二人がこの国へ足を踏み入れた、本当の目的へ。
「……まあ、姫君たちのお話は、このくらいにしておきましょう。我々の本題――あの秘薬についてです」
声を潜め、テーブル越しに身を乗り出す。
ジェフリーの青い瞳に、わずかに光が戻った。
「龍の涙。かつて恐ろしく残忍だったドラゴンが、誰かの深い慈しみに触れたとき、ただ一度だけこぼしたという伝説の雫。それが稀な薬草なのか、幻の果実なのか、古い調合薬なのか……いまだ、誰にも分かっておりません」
「ええ。ですが、この国にその手がかりがある」
ジェフリーの静かな声に、ヴィクターは重々しく頷いた。
「左様です。その手がかりにつながる記録が、この国のどこかに残っている。……その噂の出どころが、名だたる学者でも賢者でもなく、先月我が国で死罪を言い渡された大泥棒の口だったというのですから、世の中というのは皮肉なものですな」
死罪を待つ罪人の戯言など、普段なら誰も耳を貸さない。
だが、その盗賊が隠し持っていた品の中に、無視できない一本の巻物があった。
古びた羊皮紙には、王家に関わるものと見られる紋章や署名が残されていた。ところが、広げてみれば、その大部分は空白だった。
盗賊は、それが龍の涙にまつわる古い追補の記録であり、エステリア王宮にはさらに別の手がかりが眠っているのだと、繰り返し口にしていたという。
出立の前、ジェフリーもその巻物を目にしていた。ほとんど何も記されていない羊皮紙の、妙に重たい手触りを、今も覚えている。
「盗品を持っていると公にすれば、外交の問題になりかねません。ですから貴殿は、ただの商人の後輩としてこの国へ入り、王宮の内側から龍の涙の手がかりを探る……それが、当初の筋書きでした」
ヴィクターはワインをひと口含み、にやりと口の端を吊り上げた。
「幸いにも、あの王宮には、誰の目にも図抜けて博識な、実に都合のいい方がいらっしゃる。あの太った長女――アヤ姫ですな」
打算を隠そうともしない、軽い口ぶりだった。
「あの容姿では、誰にも顧みられずに生きてこられたのでしょう。図書館にこもって、知識ばかりを蓄えてきた、哀れな姫君だ。貴殿のような美貌の騎士が少しばかり甘い言葉を囁き、女性として丁重に扱って差し上げれば、舞い上がって王宮の奥のことなど、あっさりとお話しくださるだろう――そう踏んでおりました。ところが、あの日の夜会での機転を見るに、どうやら見た目に反して、恐ろしく手強い」
ヴィクターは腕を組み、次の手を楽しげに練るような顔になった。
「ですからジェフリー殿、ここは少し搦め手を使って、あの姫の情につけ込むような――」
「お言葉ですが」
低く、静かな声が、商人の言葉を断ち切った。
怒鳴り声ではない。
乱暴な物言いでもない。
礼を失わない、穏やかな響きのはずだった。
それなのに、その声に込められた重さに、ヴィクターは続く言葉を喉の奥で詰まらせた。
「……ジェフリー殿?」
瞬きをして顔を上げ、ヴィクターは息をのんだ。
ジェフリーの顔から、いつもの仮面が消えていた。
凍てついた湖のように澄んだ瞳の奥で、何かが静かに燃えている。
声を荒らげることも、眉をひそめることもない。唇には、薄い笑みさえ浮かんでいる。
それなのに、その眼差しは、鞘から抜かれた剣の切っ先のように、まっすぐヴィクターの眉間へ向けられていた。
テーブルの上で、ジェフリーの白い指先が、ゆっくりと握り込まれていく。
関節のあたりが、わずかに白くなった。
「……私の言葉に、何かお気に障るところでもありましたかな」
ヴィクターの額に、じわりと冷たい汗がにじんだ。
長いつき合いの中で、この青年が声を荒らげるところを、ヴィクターは一度も見たことがない。
理不尽な噂を立てられたときでさえ、ただ黙って背を向けた男だ。
その男が今、礼儀正しさの薄い皮一枚で、何かを必死に押しとどめている。
ジェフリーは、一語ずつ確かめるように、ゆっくりと口を開いた。
その声は、どこまでも丁寧で、静かだった。
「ええ。少しばかり、聞き捨てならない言葉がございましたので」
夜風が淡い金の髪を揺らし、整った顔立ちに冷たい影を落とした。
「アヤ様が重ねてこられた学びは、誰かを欺くためのものでも、憐れみを受けるためのものでもありません。あの方の知恵を、そのような安い策略の道具のように語るのは、お控えいただけますか」
敬語は、少しも崩れていない。
だが、その一語一語には、引く気のない重さがあった。
「……それから、あの方の信頼を利用するような真似も、おやめください」
ヴィクターの表情から、先ほどまでの軽さが消えていく。
「探索の手順も含め、今後あの方への接し方は、すべて私に任せていただけますか」
問いの形をしていながら、答えは一つしか許されていなかった。
ヴィクターは、喉を小さく鳴らしたまま動けなかった。
頭の中で組み立てていた推測が、音を立てて崩れていく。
三人の美しい姫でもない。
可憐な侍女でもない。
(まさか……この男が、ここまで庇い立てしているのは……あの、あひるの姫君だというのか)
夜風が吹き抜け、ランプの炎が揺れた。
二人の影が、石床の上に長く伸びる。
ジェフリーはヴィクターから静かに視線を外した。
胸の奥で波立っていたものを静かに鎮めるように、ジェフリーはひとつ息を吐き、もう一度、夜の底に白く浮かぶ王宮を見つめた。




