↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

42/44

42. それぞれの夕暮れ

エステリアの王都の正門をくぐったとき、ディーターの馬は、もう首を上げていられなかった。


夜明け前に浅瀬を発ってから、替え馬もなしに、ここまで駆けとおしてきたのだ。馬の首すじには、乾いた汗が白い塩になってこびりつき、鼻息のたびに、泡のまじった唾が口の端からこぼれた。ディーターは、大通りの手前で鞍を下りると、手綱を引いて歩きだした。自分の脚も、地面を踏むたびに、膝の奥でがくがくと笑った。


大通りには、まだ花祭りの名残があった。軒先に吊るされた花飾りは、どれも色が抜けて、乾いた花びらが風に吹かれて石畳を転がっていく。荷車の車輪の音。物売りの呼び声。焼いた肉の匂い。ダリアの痩せた麦畑を離れて、まだ一日も経っていないはずなのに、ここでは誰もが腹を満たした顔で歩いていた。


その通りのつきあたりに、エステリアの王宮が、白い壁をそびえさせていた。


正門の両脇に、門衛が二人、槍を立てて控えていた。


ディーターは、門の手前で、一度だけ足を止めた。


二人とも、深い青の外套を肩にかけている。胸当てに打ちだされた紋は、白金の花と王冠に、交差した二本の剣だった。


浅瀬で割った封蝋と、同じ紋だった。昼前に、街道の木立の陰から見送った、あの隊列の外套とも。


ディーターは、外套の上から、胸の内側を手のひらで押さえた。油紙の包みの、角の固さが、そこにあった。


「サルヴィアの黒騎士、ディーター・ブラントです。陛下に、お取り次ぎを願いたい」


門衛のひとりが、ディーターの黒い外套に目を走らせた。泥にまみれた裾。くたびれきった馬。ひと晩じゅう風を受けて、ひび割れた頬。


「書状か」


「はい」


「ならば、こちらで預かる。陛下には、しかるべき者からお渡しする」


門衛は、手袋の手を差しだした。


ディーターは、その手を見た。手袋の甲にも、同じ紋が縫いとってあった。


「陛下に、じかにお渡しするよう、言いつかっています」


「誰にだ」


「上の者にです」


門衛の顔から、愛想が消えた。もうひとりの門衛が、槍を握りなおして、こちらへ半歩寄ってくる。


「ここをどこだと思っている。他国の騎士が、陛下にじかに会わせろと言って、はいそうですかと通れる門ではない。書状を預けるか、帰るか、どちらかにしろ」


ディーターは、どちらもしなかった。


黙って一礼すると、馬を引いて、門の脇の、石畳の端まで下がった。門衛たちの槍の届かないところ。それでいて、門を出入りする者の目には、いやでも入るところだった。


そこに、腰を下ろした。


手綱は、手首に一巻きして握ったままにした。馬は、主が座りこんだのを見ると、自分も首を垂れて、石畳の目地に生えた草を、ゆっくりと食みはじめた。


門衛たちが、顔を見あわせるのが分かった。ひとりが何か言いかけ、もうひとりがそれを手で制した。黒騎士の外套を着た男を、王宮の門前で手荒に追いたてれば、それはそれで面倒なことになる。そう踏んだのだろう。


ディーターの耳の奥に、ゆうべ、浅瀬の闇の中で聞いたグスタフの声がよみがえっていた。


――会うまで、門の前を動くな。黒騎士の外套を着た男がひとり、いつまでも門の前に座りこんでりゃ、そのうち、誰かが様子を見に出てくる。


乱暴な理屈だと、あのときも思った。


ディーターは、膝を抱えて、門の向こうを見ていた。


待つのには、慣れていた。


盗賊の一味の、ほんの子どもだったころ、ディーターは、いつも見張り役だった。藪の中で、岩の陰で、半日でも一日でも身じろぎひとつせずに、街道の先を見ていた。動けば見つかる。見つかれば殴られる。腹が鳴っても、虫に刺されても、ただ待った。


あのころは、何を待っているのかも知らなかった。


今は、知っている。


日が、王宮の白い壁の上を、ゆっくりと西へ渡っていった。門の前を、何台もの馬車が出入りした。そのたびに、窓の中から、着飾った顔がこちらをのぞいた。物珍しそうな目。汚いものでも見るような目。ディーターは、そのどれにも顔を上げなかった。


門衛が、一度だけ交代した。新しく来た門衛も、同じ青い外套を着ていた。前の門衛が、ディーターのほうを顎で示して、何か耳打ちしている。新しい門衛は、肩をすくめて、笑った。


壁の影が、石畳の上をじりじりと伸びてきて、ディーターの膝を越え、馬の蹄まで呑みこんだころだった。


門の内側から、ひとりの男が歩いてきた。


供をひとり連れていた。五十に届くかどうかという年ごろで、仕立てのいい濃い色の上着を着ている。剣は下げていなかった。それなのに、歩き方には、長く剣を下げて歩いてきた者の重さがあった。


門衛たちが、槍を立てなおして、背筋を伸ばした。


男は、門をくぐろうとして、ディーターに気づいた。足が止まった。


男は、門衛に何かを尋ねた。門衛が答えるあいだ、男の目は、ディーターの黒い外套から離れなかった。


やがて男は、供をその場に残して、ひとりでディーターの前まで歩いてきた。


「サルヴィアの黒騎士だな」


ディーターは、立ちあがった。手綱を握ったまま、軽く頭を下げる。


「はい」


「昼過ぎから、ここに座りこんでいると聞いた。陛下にしか書状を渡さぬ、と言っているそうだな」


「はい」


「私が、陛下にお届けしよう。それなら、文句はあるまい」


ディーターは、男の顔を見た。


誰なのかは、分からなかった。


ただ、門衛たちが、この男の前では槍を立てなおした。青い外套の、あの紋をつけた男たちが。


ディーターは、首を横に振った。


「お気持ちはありがたいですが、陛下にしか渡せません」


男の供が、後ろで、息をのむ気配がした。


男は、すぐには何も言わなかった。ディーターの目を、まっすぐに見ていた。ディーターも、目をそらさなかった。陽に焼けた、目立たない顔。ほかの黒騎士たちに比べれば、背もいくらか足りない。それでも、その目だけは、ここまで来て一歩も引くつもりがないと言っていた。


先に目を離したのは、男のほうだった。


男の視線が、ディーターの胸もとへ落ちた。外套の上から、ずっと手のひらを当てているところへ。


「……分かった」


男は、短く言った。


「ならば、ここにいろ。どこへも動くな」


男は、門衛にも供にも何も言わずに踵を返すと、今来た道を、王宮の奥へ戻っていった。大股の、急ぎ足だった。


供の男が、慌ててそのあとを追っていく。


ディーターは、立ったまま、その背中を見送った。


門衛たちが、ディーターのほうを、さっきまでとは違う目で見ていた。



********



川べりの野営地では、大鍋が、ことことと鳴りはじめていた。


キリアンが見回りのついでに仕掛けておいた罠に、今朝、野兎が二羽かかっていた。その二羽が、今、焚き火から少し離れた平らな岩の上に、並べて横たえられている。


一羽の前には、エミールがしゃがみこんでいた。


今朝、ノアの肘をまともに受けた鼻の頭が、まだうっすらと赤い。エミールは、小刀を握ったまま、兎の後ろ脚を片手で押さえ、どこから刃を入れたものかと、さっきから同じところを見つめていた。


「エミール。そいつは、おまえがやれ」


そう言いつけたのは、マティアスだった。


鹿のときも、そうだった。手慣れた者がやれば早く済む仕事ほど、マティアスは、わざと新人にやらせる。早く済ませることより、新人の手に、仕事を覚えこませることのほうが大事だと、あの人は思っている。


もう一羽の前には、別の黒騎士がしゃがんでいた。


ルーカス・ホルストだった。


サルヴィアの北の、牧場の生まれだと聞いている。日に焼けた首すじに、麦わら色の短い髪がかかっていた。口数は、キリアンといい勝負だった。大きな手の甲には、古い引っかき傷が、白い筋になっていくつも残っている。騎士団の鷹舎で、長く鷹を扱っていたころについた爪の跡だと、前に誰かが言っていた。


ルーカスの小刀が、兎の後ろ脚の内側に、すっと入った。


それきりだった。刃は、ほとんど動いていないように見えた。それなのに、ルーカスの指が皮の端をつまんで引くと、毛皮は、まるで脱がされる靴下のように、するすると肉から離れていった。白い膜に覆われた肉には、刃の跡ひとつ、ついていない。


エミールは、思わず手を止めて、見入っていた。


見入ったまま、自分の兎に刃を入れた。


刃の先が、皮の下の肉にまで、ざくりと食いこんだ。


「刃を立てるな」


ルーカスが、自分の兎から目を上げずに言った。


「皮と肉のあいだには、薄い膜がある。そこに、指を入れろ。刃は、膜を切るときだけでいい。あとは、指で剥がす」


エミールは、言われたとおりに、切れ目から指を差しいれた。ぬるりとした、温かい感触があった。皮の裏の膜に指先を沿わせて、ゆっくりと押しひろげていく。思っていたよりも、ずっと簡単に、皮が浮いた。


「……あ」


エミールが、声をもらした。


ルーカスは、それには何も言わなかった。自分の兎の腹を開いて、手早く中を始末すると、肉を水桶にくぐらせて、もう立ちあがっていた。


マティアスが、焚き火のそばで、腕を組んだまま、口の端をわずかに持ちあげていた。



そこへ、水を張った桶が、エミールの足もとに置かれた。


エミールが顔を上げると、マノンが立っていた。


淡い金の三つ編みを肩の前に垂らして、両手に、乾いた布を何枚か抱えている。桶の水は、川から汲んだばかりなのだろう。夕方の光を映して、桶のふちで小さく揺れていた。


「……手を、洗うのに」


マノンは、それだけ言うと、布をエミールの横の岩の上に置いた。


「おっ、助かる」


エミールは、血のついた手を、桶の水に浸した。水が、たちまち薄く濁った。


「ありがとな、マノン」


マノンの指が、布の端をつまんだまま、止まった。


名前を呼ばれたのは、初めてだった。


エミールのほうは、何も気づいていなかった。また兎のほうへ向きなおって、ルーカスに言われたとおり、皮と肉のあいだに指を沿わせている。さっきより、ずっと手つきがよくなっていた。


マノンは、少しのあいだ、その手を見ていた。


兎の皮を剥ぐ手。今朝は、ノアを抱きかかえて、天幕の中で笑っていた手。


昨日の昼、マノンは、丸太の囲いのそばで、柵の中の男に手首をつかまれた。洞窟の穴倉で、マノンたちを見張っていた男のひとりだった。声も出せずに立ちすくんでいたマノンのもとへ、真っ先に駆けつけてきたのが、エミールだった。柵のすき間から男の喉もとへ剣を突きつけ、手を放させると、マノンの肩を抱くようにして、柵の前から遠ざけてくれた。


あのとき、肩に置かれていたのが、この手だった。


つかむのでも、押さえつけるのでもなかった。穴倉から助けだされてこのかた、男の人の手が近くに来るだけで身体がこわばったのに、あの手にだけは、こわばらなかった。


マノンは、自分の肩に、そっと指先を触れた。触れたことに気づいて、慌ててその手を下ろした。


鍋のほうから、リーナの呼ぶ声がした。マノンは、はっとしたように顔を上げて、そちらへ戻っていった。


エミールは、兎の皮を、ようやく脚の先まで剥がしおえたところだった。満足そうに、その毛皮を持ちあげて眺めている。


背中のほうで、三つ編みが揺れて遠ざかっていったことには、少しも気づいていなかった。



野兎のシチューは、西の空が赤く染まりはじめたころに煮えあがった。


ノアは、大好物のシチューの器を抱えて、いちばん大きな肉のかけらを最後までとっておくのだと言いはり、その肉を、とうとう器ごとひっくり返しそうになって、リーナに叱られていた。


丸太の囲いのほうからは、昼過ぎから、ずっと男たちの声が聞こえていた。


ゆうべ、イェンスが宿へ駆けつけてから、囲いの三十人は、鎮め草を飲んでいない。あの草の効き目は、一日ほどしかもたない。昼を過ぎるころから、柵の中の男たちは、ひとり、またひとりと目を覚ましたように身を起こし、柵をつかんでは揺すり、見張りの黒騎士に向かって悪態をつくようになっていた。


今朝、野営地に戻ってきたイェンスは、宿でひと晩じゅう手当てを続けていたとは思えない手つきで、薬の木箱を開け、草を量り、煎じた。帳面に、ひとつずつ数字を書きつけながら。


夕餉を配りおえると、イェンスは、煎じた茶の鍋を提げて、囲いの中へ入っていった。


ひとりずつに杯を渡し、飲みほすのを見届けて、次へ移る。三十人分、それを繰りかえす。


囲いの外では、ルーカスが、柵にもたれるでもなく、立っていた。


ルーカスの目は、イェンスの手もとではなく、杯を受けとる男たちの喉を見ていた。


牧場では、苦い薬を嫌う獣が、よくいた。羊も、馬も、山羊も。口に流しこんでやると、おとなしく飲んだような顔をする。そうして、人が背を向けたとたんに、頬にためておいた薬を、地面へ吐きだす。


飲んだ獣は、喉が動く。


飲まない獣は、動かない。


三十人のうち、二十九人の喉が、杯を傾けたあとに、ごくりと動いた。


ひとりだけ、動かなかった。


柵のいちばん奥の、川べりに近いあたりに座っていた男だった。黄ばんだ歯をのぞかせて、杯を返すときには、イェンスに向かって、にやりと笑ってさえみせた。


イェンスが次の男へ移ると、その男は、大きなあくびをしてみせながら、地面に腹ばいになった。顔を、柵の根もとのほうへ向けて。


それきり、動かなくなった。


半刻ほどすると、囲いの中は、嘘のようにおとなしくなった。悪態は、ひとつも聞こえなくなった。男たちは、思い思いの格好で地面に身を横たえ、とろりとした目で、篝火の明かりをぼんやりと眺めている。


見張りが交代する刻限になった。


ユーリが、囲いの入り口から、ルーカスのほうへ歩いてくる。足音を聞いて、ルーカスは、柵の奥のほうへ目をやった。


腹ばいになっていた男の、まぶたの奥で、目が動いた。


ユーリの足音を追って、右から左へ。ユーリが入り口を離れ、ルーカスがそこへ立つまでのあいだ、男の目は、ずっと二人の足もとを追っていた。ほかの二十九人は、誰ひとり、そちらを見てもいなかった。


ルーカスは、その目に見覚えがあった。


羊の囲いのまわりをうろつく狼が、眠ったふりをして伏せているときの目だった。耳と目だけが、起きている。どこから柵を越えれば、どの羊に届くのか。それを、じっと量っている目だった。


そういえば、あの男の目は、夕方にも動いていた。


マノンが、水を張った桶を提げて、エミールのところへ歩いていったとき。囲いのほかの男たちが、鍋の匂いのほうばかりを見ていたあいだ、あの男だけは、三つ編みの背中を、柵の奥から、ずっと目で追っていた。


ルーカスは、見張りの位置についたまま、しばらく動かなかった。


男がもう一度目を閉じるのを待ってから、柵の外側を、ゆっくりと回った。男が顔を向けていた、柵の根もとのあたりまで。


篝火の明かりが、そこまでは、ほとんど届いていなかった。


ルーカスは、しゃがみこんだ。


丸太と丸太の継ぎめの下の土が、そこだけ、黒く湿っていた。柵の内側から外側へ、細い筋になって、何かが流れだした跡があった。


ルーカスは、指先で、その土に触れた。鼻先へ持っていく。


苦い、青くさい匂いがした。


鎮め草の匂いだった。


ルーカスは、立ちあがりかけて、手を止めた。


すぐ脇の杭に、手をかけてみる。


杭が、ほんのわずかに、揺れた。


ほかの杭は、どれも、びくともしない。この一本だけが、根もとの土をえぐられたように、指の幅ほど遊んでいた。柵の内側から、少しずつ、少しずつ、揺すってゆるめた跡だった。


柵を破ろうとする獣は、いつも、同じところを試す。


ルーカスは、杭の根もとに、川原から拾ってきた石を、音を立てないように、ひとつずつ詰めていった。杭を縛った縄の結び目を、あらためて締めなおす。それがすむと、何事もなかったように、見張りの位置に戻った。



焚き火のそばで、イェンスは帳面をつけていた。その隣で、マティアスが、シチューの残りを鍋の底からさらっている。


ルーカスは、二人の前まで来ると、ぶっきらぼうに言った。


「いちばん奥の、川べりのやつ。あいつは、飲んでません」


イェンスのペンが、止まった。


「口にためて、あとで柵の根もとに吐いてました。土から、鎮め草の匂いがします。それと、杭を一本、内側からゆるめてました。そっちは、締めなおしておきました」


マティアスが、匙を鍋に置いた。


「よく、気づいたな」


ルーカスは、少し考えるように、囲いのほうへ目をやった。


「杯を返したあと、あいつだけ、喉が一度も動かなかった。飲みこんでないってことです。牧場の羊が、苦い薬を嫌がるときと同じだ」


ルーカスは、短く息をついて、言葉を足した。


「それに、あいつだけ、目が違う。ほかのやつらは、茶が効いて、何を見てるのか分からない目になってる。あいつは、見張りが交代するとき、ずっと二人の足もとを目で追ってた。夕方には、女たちのほうも。……狼が、寝たふりをして柵の外にいるときの目です」


それきり、ルーカスは口を閉じた。言うべきことは言った、という顔だった。


イェンスは、帳面に目を落とした。今夜の欄に、三十人分の数字が、きちんと並んでいる。三十杯、煎じて、三十杯、飲ませた。そう書いてある。


その数字のひとつが、嘘だった。


イェンスの指が、帳面のふちを、白くなるほど押さえていた。


マティアスは、その指をちらりと見たが、何も言わなかった。かわりに、ルーカスのほうへ向きなおった。


「明日から、あいつにだけは、目の前で飲みこませて、口の中まで確かめろ。それと、見張りの者に、あいつから目を離すなと伝えておけ。……ご苦労だった、ルーカス」


ルーカスは、うなずいて、見張りの位置に戻っていった。


マティアスは、囲いの奥の暗がりを、しばらく見ていた。


柵のいちばん奥で、男は、さっきと同じ格好で、腹ばいになったまま動かなかった。篝火の明かりは、その背中を、ぼんやりと赤く照らしているだけだった。



********



エステリアの王都では、日が、王宮の西の塔の向こうへ沈もうとしていた。


その王宮の正門の前で、ディーターは、まだ同じ場所にいた。


日が落ちきる少し前、門の内側から、別の男が出てきた。


さっきの男ではなかった。銀糸の縫いとりのある長衣を着た、痩せた年寄りだった。門衛たちが、さっきよりもさらに深く頭を下げた。


年寄りは、まっすぐにディーターの前まで来た。


「サルヴィアの黒騎士殿。陛下が、お呼びです」


ディーターは、すぐには動かなかった。


「失礼ですが……あなたは、近衛の方ですか」


年寄りは、一瞬、目をしばたたいた。その目が、門衛たちの青い外套の上を、ちらりとかすめた。何かを察したように、その口もとが、わずかに引きしまった。


「大法官の、オズワルド・ベルクールと申します。近衛の者ではありません。……馬は、厩舎の者に預けなさい。よく世話をさせます」


ディーターは、そこでようやく、手首に巻いていた手綱をほどいた。


馬の鼻づらに、一度だけ手のひらを当てる。馬は、目を細めて、主の手に、温かい息を吹きかけた。



国王の執務室は、広かった。


壁一面の書棚と、書類の積まれた大きな机。窓際には、革張りのソファが、低い卓をはさんで向かいあわせに置かれていた。窓の外では、王都の屋根が、夕焼けの名残に染まっていた。机の向こうに座っていた男が、ディーターが入ってくるのを見て、ペンを置いた。


エステリア国王、レグナード・ソヴェールだった。


その傍らに立っている男を見て、ディーターは、足を止めそうになった。


門の前で、書状を預かろうと言った、あの男だった。


「そなたが、門の前から一歩も動かぬという黒騎士か」


王の声に、ディーターは、机の前に片膝をついた。


「サルヴィアの黒騎士、ディーター・ブラントです」


「顔を上げよ。……ローレンスから聞いた。私にしか書状を渡さぬと言って、軍務卿(ぐんむきょう)の申し出さえ、はねつけたそうだな」


軍務卿。


ディーターは、傍らの男を見上げた。男は、表情を変えなかった。ただ、ほんのわずかに、顎を引いてみせただけだった。


エステリアの軍のすべてを預かる男。その男の前で、近衛の門衛たちが、槍を立てなおしていたのだ。


ディーターは、もう一度、頭を下げた。


「ご無礼を、いたしました」


「無礼なものか」


王は、短く言った。


「先に来たサルヴィアの騎士も、門番が預かると申し出たのを、頑として断ったそうだ。必ず陛下の御手に直接、とアヤに言いつかったと言ってな。……他国の騎士が、二人そろって、エステリアの王宮の者に書状を預けようとしない。それほどのものを運んできたのだということくらいは、私にも分かる」


ディーターは、膝をついたまま、顔を上げた。


「それで、その書状とは」


ディーターは、外套の内側に手を入れた。胸の上で、ひと晩じゅう、手のひらで押さえつづけてきた包みを取りだす。油紙の包みは、汗と体温を吸って、しっとりと温かかった。


包みを開いて、中のものをひとつずつ机の上に並べた。


封蝋を割られた書状。


炭で走り書きをした、紙切れ。


手のひらほどの、鉄の札。


「ゆうべ、ダリアから王都へ向かう街道の浅瀬で、ひとりの男を取り押さえました。その男が、この書状と札を持っていました」


ディーターは、浅瀬で起きたことを順に話した。グスタフの言いつけで、灯りを持った男を待ち伏せたこと。男が、海辺の近衛の砦の隊長から、王宮の近衛の団長に、じかに書状を渡すよう言いつかっていたこと。


「男は、渡す相手の名前を、ロラン様、と言いました」


部屋の中の空気が、止まった。


王は、書状を手に取った。


――爪痕の巣、黒い鴉に荒らさる。

――雛は、みな籠の中。

――薔薇は、まだ眠っている。


宛名は、ただ、団長殿、とだけあった。


「爪痕というのは、ダリアの海辺の崖にある洞窟のことです。ドラゴンの爪あと、と呼ばれています。賊のねぐらがあって、俺たちが、その洞窟を押さえました。黒い鴉は、黒騎士のことだろうと。籠は、捕らえた賊を入れてある、野営地の囲いのことだと思います」


ディーターは、そこで言葉を切った。


「薔薇のことは、分かりません」


王の指が、書状の最後の一行の上で、止まっていた。


ずいぶん長いあいだ、王はその一行から目を離さなかった。


やがて、王は書状を机に戻すと、鉄の札を手に取った。札の表に打ちだされた、白金の花と王冠と、交差した二本の剣。夜でも、王宮の近衛の詰め所を通ることのできる札だった。


王は、何も言わずに、その札を、傍らの男の前へ差しだした。


ローレンスは、札を受けとった。打ちだされた紋を、親指の腹でなぞる。札の裏を返し、そこに刻まれた詰め所の印を確かめる。王宮の近衛の詰め所で、夜番の者に持たせる札に、間違いなかった。


ディーターの目の前で、軍務卿の顔から、血の気が引いていった。


「……ステファン・ベック殿が、アヤ殿下の書状を届けてくださった日のことです」


ローレンスの声は、かすれていた。


「事が事だけに、近衛の騎士団長が、自ら隊を率いると申し出てくれた。身内の恥は、身内の手でそそぐべきだと。……私は、それを頼もしいと思いました。ロランとは、若いころから、同じ釜の飯を食ってきた仲です。あの男がそう言うのならと、私が、送りだしました」


誰も、何も言わなかった。


ディーターは、ひとつ、言わなければならないことを思いだした。


「今日の昼前、王都へ向かう途中の街道で、近衛の隊列とすれちがいました。麦を積んだ荷馬車を、何台も連れていました」


ディーターは、膝の上で、拳を握った。


「その隊列の中ほどに、うちのステファンがいました。いちばん立派な身なりをした騎士と、馬を並べて、笑っていました」


ローレンスが、目を閉じた。


王は、机の上の紙切れを手に取った。


炭の走り書きは、たった一行だった。


――近衛を信じるな。


「これを書いたのは」


「同じ探索隊の黒騎士、グスタフ・レンツが、陛下にひと言添えたいと言って、ヨハン・リースに書かせました。ヨハンも、同じ隊の黒騎士です。今は浅瀬に残って、取り押さえた男を見張っています。日が傾いたら、男を連れて王都へ向かう手筈です。……グスタフは、近衛の隊列を探しに行きました。迎えに来たという顔で隊列に混ざって、ステファンのそばにつくと言って」


「ひとりでか」


「はい」


王は、紙切れを、ゆっくりと机に置いた。


窓の外で、最後の夕焼けが、屋根の向こうへ沈んでいった。執務室の中が、少しずつ暗くなっていく。オズワルドが、黙って燭台に火を移した。


その灯りの中で、王は、新しい紙を引きよせた。


ペンを取る。ためらいのない手だった。


「ローレンス」


「……は」


「近衛は使うな。そなたの騎兵から、荷を持たずに走れる者を選べ。夜明けとともに、ダリアへ発て」


ローレンスが、顔を上げた。


「陛下、それは」


「そなたが送りだしたのなら、そなたが連れもどせ」


王のペンが、紙の上を走っていた。


「これを、アヤに届けよ」


書きおえた紙を、王は、灯りにかざした。インクが乾くのを待つあいだ、その文面を、ローレンスにも、ディーターにも見えるように、机の上に置いた。


――近衛騎士団長ロラン・ベルニエを、捕らえよ。

――この書状が第一王女アヤ・ソヴェールの手に渡ったときより、一日のあいだ、次のことを許す。

――ダリアにおける調べと、物と人の差しおさえ。サルヴィアの黒騎士は、アヤの命によって動くかぎり、エステリアの兵と同じく扱う。

――ダリアにおける裁きは、アヤ・ソヴェールに預ける。

――一日を過ぎてのちのことは、軍務卿ローレンス・エヴァレットが引きつぎ、エステリアの法に照らして裁く。


最後に、もう一行あった。


――あまり、無茶はせぬように。


ローレンスが、その一行を見て、何か言いたげに王の顔をうかがった。


王は、その目に応えなかった。


国王の印章を取って、溶かした蝋の上に、ぐっと押しつけた。


ディーターは、机の上の、その紙を見ていた。


この紙があれば、ダリアで、黒騎士が剣を抜ける。近衛を相手にしても。領主の館の扉を開けさせることも。


浅瀬から、ここまで走ってきた道のりが、ようやく、ひとつの形になった気がした。


「ディーター・ブラント」


王に名を呼ばれて、ディーターは、背筋を伸ばした。


「明日の夜明け、ローレンスに同行してくれ。グスタフやヨハンと別れた浅瀬も、近衛の隊列とすれちがった場所も、正確に知っているのはそなただけだ」


「はい」


「それまでは、食べて、眠れ」


ディーターは、口を開きかけた。


王が、先に言った。


「そなたの顔を見れば分かる。ゆうべから、ろくに眠っておらんのだろう」


ディーターは、言いかけた言葉を、そのまま飲みこんだ。


深く、頭を下げた。


オズワルドに連れられて執務室を出るとき、ディーターは、一度だけ振りかえった。


王は、机の上の書状を、もう一度、手に取っていた。


その指が、最後の一行の上で、また止まっていた。



********



近衛の隊列が、街道脇の草地に野営の火を焚いたのは、日がすっかり暮れてからのことだった。


荷馬車を円く並べ、その内側に、いくつもの焚き火が起こされる。青い外套の騎兵たちは、慣れた手つきで馬から鞍を下ろし、鍋を火にかけ、見張りの順を決めていった。よく鍛えられた隊だった。誰も無駄口をたたかず、誰も怠けていなかった。


グスタフは、その手際を、黒馬の背にブラシをかけながら眺めていた。


ブラシを動かす手の下で、黒馬の背の毛並みが、焚き火の明かりにつやつやと光る。その光を見つめるうちに、グスタフの目の奥に、昼過ぎの街道がよみがえってきた。


この隊列に混ざったのは、昼過ぎのことだった。


浅瀬から王都へ向かう街道の先に、土ぼこりが立っているのを見つけたとき、グスタフは、馬の脚をゆるめて、いかにも探しものを見つけたという顔をつくった。隊列の先頭に向かって、大きく手を振った。


近衛の騎兵たちが、警戒して槍を構えるより早く、隊列の中ほどから、黒い外套の男が飛びだしてきた。


――グスタフさん!


ステファンだった。


旅の疲れなど、どこかへ置いてきたような顔をしていた。ダリアに残った者たちを置いて王都へ走った、その役目を、立派に果たした者の顔だった。


迎えに来たんだ、とグスタフは言った。隊長の言いつけで、と。


ステファンは、疑いもしなかった。それどころか、うれしそうに振りかえって、隣の騎士に、グスタフを紹介した。


――こちらは、エステリアの近衛騎士団長、ロラン・ベルニエ殿です。


グスタフは、そのとき自分がどんな顔をしていたのか、覚えていない。


覚えているのは、差しだされた手袋の手を、握りかえしたことだけだった。その手は、乾いていて、温かかった。


団長殿。


浅瀬で割った書状の、宛名の男だった。


海辺の砦から、黒騎士の動きを知らせる書状を受けとるはずだった男。


ロランという名を、グスタフは、その前にも一度聞いていた。白い茶を飲まされたガルドが、雇い主の名として吐きだした名だった。エステリアの兵を名乗り、ダリアの女たちを連れていった者たちの、その先にいる誰か。それが、この男なのかもしれない。


その男が、ステファンと馬を並べて、穏やかに笑っていた。


黒馬が、ぶるっと身ぶるいをした。


グスタフは、自分のブラシが、いつのまにか黒馬の背の上で止まっていたことに気づいた。止まっていた手を、また動かしはじめる。


焚き火の向こうへ、目をやった。


ロランは、近衛の騎兵たちに囲まれて、火のそばに腰を下ろしていた。若い騎兵のひとりが、何か話しかけている。ロランは、うなずきながら、その騎兵の肩を叩いていた。騎兵は、頬を紅潮させて、何度も頭を下げていた。


部下に慕われている男だった。昼のあいだ、ずっと見ていたから分かる。この男は、馬の扱いの下手な若い騎兵に、自分の馬の手綱を取らせて教え、荷馬車の車輪がぬかるみにはまれば、自分も降りて車輪を押した。


だからこそ、グスタフは、誰にも言えなかった。


この隊列の中の、誰がロランの手の者で、誰がそうでないのか。分からない。ロランを慕っている若い騎兵が、何も知らないまま、グスタフのひと言をロランへ運んでいくかもしれない。


ひとりに言えば、それで終わる。


それでも、ステファンにだけは、今夜のうちに言わなければならなかった。


このままなら、明日もあの男の隣を歩く。何かを尋ねられれば、知っていることを、何ひとつ疑わずに答えてしまう。


隣で、ステファンが、自分の黒馬の脚を、藁の束でこすっていた。


「グスタフさん、こいつ、だいぶ脚にきてるんです。王都まで、ずいぶん無理をさせましたから」


ステファンは、黒馬の膝のあたりを、手のひらでいたわるようになでていた。


グスタフは、ブラシを持つ手を止めなかった。


「ステファン。そのまま、馬の脚を見てろ」


ステファンの手が、一瞬だけ、止まった。


「顔を上げるな。手も止めるな。俺が何を言っても、馬の脚を見てろ。いいな」


ステファンは、答えなかった。藁の束が、また黒馬の脚の上を動きはじめた。さっきより、少しだけぎこちない動きだった。


グスタフは、ブラシの音にまぎらせて、話した。


ゆうべの浅瀬のこと。灯りを持った男。近衛の紋の封蝋。


――爪痕の巣、黒い鴉に荒らさる。雛は、みな籠の中。薔薇は、まだ眠っている。


宛名は、団長殿。


男は、王宮の近衛の団長に、じかに渡せと言われていた。


ロラン様に、じかに、と。


藁の束が、止まった。


「手を止めるな」


藁の束が、また動きはじめた。黒馬の脚の、同じところばかりを、何度も、何度もこすっていた。


ステファンの顔が、焚き火の明かりの届かない陰の中で、白くなっていくのが分かった。


「……俺は」


ステファンの声が、ほとんど息だけになっていた。


「俺は、あの人に、話しました。王宮で、初めて会ったときに。ダリアに、誰が残っているのか。野営地に、賊が三十人、囲いに入れてあることも。……あの人は、責任をもって、引き取らせていただくと」


「知ってる。おまえは、悪くねえ」


グスタフは、ブラシを持ちかえた。


「おまえは、陛下に書状を届けた。それが、おまえの役目だった。役目は、ちゃんと果たした。……で、ここからが、おまえの新しい役目だ」


ステファンが、息をのむ気配がした。


「明日も、今日と同じ顔で、あの男の隣を歩け。笑えと言われたら笑え。もう話しちまったことを、今さら隠すそぶりは見せるな。急に口が重くなりゃ、それだけで怪しまれる」


グスタフは、ブラシを持つ手に力をこめた。


「ただし、これから先に、おまえが新しく知ったことや、隊列の中で起きたことは、あの男には話すな。何かあったら、まず俺に知らせろ。あの男に何か聞かれても、知らない、聞いていないで通せ」


「……できるでしょうか」


「できる。おまえは、王都まで、ひとりで走りきった」


グスタフは、そこで初めて、ちらりとステファンの横顔を見た。


「それに、ひとりじゃねえ。今夜からは、俺がいる」


ステファンは、しばらく黙っていた。


やがて、藁の束を置いた。黒馬の首に、額を押しあてる。黒馬が、主の頭に、ぶるると温かい鼻息を吹きかけた。


ステファンは、顔を上げた。


焚き火の向こうに、ロランがいた。若い騎兵たちの話に耳を傾けながら、穏やかな顔で、炎を見つめている。膝の上に置いた手袋の手が、何かを数えるように、指を一本ずつ、ゆっくりと折っていた。


ステファンは、その指を見ていた。


王宮で初めて会ったときから、何度も目にしていたはずの仕草だった。


ステファンの顔から、すっと表情が消えた。


グスタフは、何も言わずに、黒馬の背にブラシをかけつづけた。


王都へ向かう道のどこかで、ヨハンは、縛った男を連れて、ゆっくりと歩いているはずだった。明日、この隊列は、その道を下っていく。


ヨハンなら、青い外套の列が見えた時点で、林の奥へ身を隠す。分かっていても、グスタフのブラシは、黒馬の同じところを、いつまでも往復していた。



********



ドラゴンの爪あとの崖は、海に向かって、大きな獣の爪で引き裂いたように、ぐるりと弧を描いてえぐれていた。


キリアンとテオが身を潜めているのは、その弧の、付け根のあたりだった。崖の縁から少し内側に下がった、背の低い茨の茂みの奥。洞窟の口へ下りていく荷車の道と、その先の、洞窟の暗い入り口とが、茂みの隙間から、斜めに見下ろせる場所だった。


昼過ぎに、アルベルトが一度だけ顔を出した。納屋の荷車の釘の跡を追ってきたら、ここに着いたのだと言った。キリアンが、昼のうちに見たことを手短に話すと、アルベルトは、それを炭で紙切れに書きつけて、来た道を、来たときと同じように音もなく戻っていった。


あれから、もうずいぶん時がたっていた。


日は、海の上に傾いていた。崖の下から吹きあげてくる風が、潮の匂いと一緒に、ごうっという低いうなりを運んでくる。洞窟の底で、波が岩を打つ音だった。


荷車の道を、また車輪の音が上ってきた。


テオが、茂みの中で、わずかに身を固くした。キリアンは、目だけでそれを制した。


荷車は、三台だった。昼に来たのと同じ、館の納屋の荷車だった。一台に二人ずつ、男たちがついている。荷台には、油布をかけた木箱が、ぎっしりと積まれていた。


男たちは、洞窟の入り口の前で荷車を止めると、木箱をひとつずつ肩に担いで、暗がりの中へ運びこんでいった。しばらくすると、洞窟の奥から、太い縄の軋む音と、滑車の回る音が聞こえてきた。


キリアンは、隣のテオを横目で見た。


テオは、茂みの隙間に目を寄せたまま、ぴくりとも動いていなかった。唇だけが、ほんのかすかに動いている。声には出さずに、何かを数えているのだ。


荷車の数。木箱の数。男たちの数。木箱を担ぐときに、どの男が、どの肩を使ったか。


――テオを連れていけ。


今朝、野営地を発つ前に、マティアス副隊長はそう言った。


囲いの三十人を抑えるには、腕の立つ者を野営地に残しておきたい。それは、キリアンにも分かった。それでも、崖の見張りに新人を連れていくというのは、いささか乱暴に思えた。


副隊長は、キリアンの顔を見て、こう付けくわえた。


――あいつは、目がいい。それに、見たものを、自分の都合で読みかえない。見たまま、持って帰ってくる。


ダリアに着いてまもなく、賊を押さえにかかった日に、隊長がテオをセドリックと組ませた。その日から、テオは、セドリックについて斥候の手ほどきを受けていた。野営地にいるあいだも、ふだんは、まわりの見回りを受けもっている。いつだったか、ノアに食べられる草と毒の草の見分け方を教えていたことがあったが、あの草も、見回りの途中で、テオがひとつずつ摘んできたものだった。


キリアンは、黙ってテオを連れてきた。


今なら、副隊長の言った意味が分かった。


テオは、今運びこまれている木箱の中身を、これまでと同じものだとは決めつけなかった。剣だとも、麦だとも言わない。ただ、木箱がひとつ持ちあげられるたびに、それを担いだ男の膝が、どれほど沈むかを見ていた。


ふいに、テオの目が、崖の上のほうへ動いた。


キリアンも、その目の先を追った。


崖の縁の、林の切れめから、男が二人、姿を現していた。


荷を運ぶ男たちとは、身なりが違った。手には、荷のかわりに、太い樫の杖を握っている。腰には、短い刀を下げていた。二人は、崖の縁に沿って、ゆっくりと歩きはじめた。ときどき足を止めては、海のほうと、陸のほうとを、かわるがわる見わたしている。


昼には、いなかった男たちだった。


見張りだ。


男たちは、崖の縁を、こちらへ向かって歩いてくる。茨の茂みまで、もう三十歩もなかった。


キリアンは、テオの肩に、そっと手を置いた。


テオが、キリアンを見た。キリアンは、崖の縁の、さらに先を、目で示した。


茨の茂みのすぐ脇から、崖の岩肌が、海へ向かって落ちこんでいる。その岩肌の、人の背丈ほど下に、一枚の岩が、棚のように突きだしていた。上からは、崖の縁に隠れて見えない。下からは、波しぶきに煙って見えない。そういう岩棚だった。


テオの顔に、一瞬だけ、ためらいの色が走った。


キリアンは、先に動いた。


茂みの奥から、腹ばいのまま崖の縁へにじりより、身体を返して、岩肌に足を下ろす。足先で岩の割れめを探りあて、指を岩のくぼみにかける。サルヴィアの東の、石切り場の村で育った。切りだした石の壁を、まだ子どもだったころから、遊び場がわりに登りおりしてきた。足をかける場所は、目で探すより先に、爪先が見つけた。


岩棚に降りたつと、キリアンは、上を見上げた。


テオの靴が、崖の縁から、おそるおそる下りてくるところだった。


キリアンは、その靴の先を、岩の割れめへ導いてやった。ここだ、と、足首を軽く叩いて教える。テオの足が、割れめをつかんだ。次の足も。テオの身体が、岩肌に張りつくようにして、ゆっくりと下りてくる。


最後のひと足で、テオが岩棚に降りたったとき、頭の上で、足音がした。


二人は、岩肌に背中を押しつけた。


足音は、茨の茂みのあたりで止まった。杖の先が、茂みをがさがさとかきわける音がする。男のひとりが、何か言った。もうひとりが、短く笑った。


崖の縁から、小石がひとつ、ぱらぱらと転がり落ちてきた。小石は、二人の目の前をかすめて、はるか下の、白い波の中へ吸いこまれていった。


足音は、やがて、また歩きだした。崖の縁に沿って、遠ざかっていく。


テオが、止めていた息を、細く吐いた。その指が、岩のくぼみを、白くなるほど握りしめていた。


キリアンは、何も言わなかった。ただ、テオの肩を、一度だけ軽く叩いた。


岩棚からは、洞窟の入り口が、さっきよりも近くに見えた。荷車の道も、崖の上の林の切れめも。崖の縁を行き来する見張りの姿だけが、ここからは見えない。見えないかわりに、向こうからも見えない。


日が、海に沈もうとしていた。


洞窟の前では、男たちが、空になった荷車の向きを変えていた。今夜のうちに、また次の荷を運んでくるのだろう。月が消えるまでに、残りを全部。


テオが、ささやいた。


「木箱は、昼からで、三十二。今の荷車の分で、四十四です。荷を運ぶ男は、昼の四人と、今の六人。昼の四人のうち、ふたりが、今の六人の中にもいました」


キリアンは、テオの横顔を見た。


テオは、もう洞窟のほうへ目を戻していた。


崖の上の林の奥で、松明の火が、ひとつ、揺れていた。荷車の道とは違う、林の中の細い道を、こちらへ下りてくる。


テオの唇が、また、声に出さずに動きはじめていた。


そのとき、二人の背後の岩肌で、小石がひとつ、かすかに鳴った。


テオの肩が跳ねた。キリアンは、振りかえりもせずに、テオの腕を押さえた。


崖の縁から、黒い影が、音もなく岩棚へ降りてきた。


セドリックだった。


夕方の報告のあと、隊長に言いつけられて、宿から崖の様子を見に来たのだという。キリアンにさえ、近づいてくる足音は聞こえなかった。テオは、自分の師匠の顔を見て、ようやく止めていた息を吐いた。


セドリックは、岩棚に身を伏せると、松明の揺れる林の道へ目をやった。


「……もう少し、ここで見ていく」



********



アヤの指が、テッサの髪の中を、ゆっくりと通っていった。


櫛の歯が、濡れた髪を、根もとから毛先まで、少しずつほどいていく。ひと筋とかしては、乾いた布で水気を吸わせ、また次のひと筋。窓から差しこむ夕暮れの光が、髪の先で、小さな雫を光らせていた。


洗いたての髪からは、花の匂いがした。


テッサは、椅子の上で、背筋をまっすぐに伸ばしたまま、身じろぎもしなかった。動いたら、この時間が、どこかへ逃げていってしまいそうな気がしたのだ。


今日一日のことを、テッサは、まだ半分くらい、夢だと思っていた。


はじまりは、昼に、奥様の着替えを手伝ったときのことだった。


アルベルトさんが町で買ってきたという、真新しいブラウスと、淡い青のスカート。その背中の小さなボタンを、テッサは、ひとつずつ、指先でとめていった。奥様の背中は、ボタンをとめる指が触れるたびに、くすぐったそうに小さく揺れた。


着替えがすむと、奥様は、テッサのほうへ向きなおって、尋ねた。


――テッサは、ほかに、どんなお洋服を持っているの?


テッサは、自分の前掛けを見下ろした。


服は、二つしか持っていなかった。今着ているものと、それとまるきり同じ形の、もう一枚。一枚を洗っているあいだは、もう一枚を着る。それで、困ったことはなかった。


そう話すと、奥様は、しばらく黙ってテッサを見ていた。


やがて、奥様は言った。


――今夜は、皆でお食事をするのでしょう。せっかくだから、新しいお洋服を用意しましょう。


テッサは、首を横に振った。そんなことをしてもらう理由が、どこにもなかった。


奥様は、テッサの両手を取った。


――テッサは、わたくしのために麦のお粥を作ってくれて、冷たい飲みものを作ってくれて、着替えまで手伝ってくれたでしょう。だから、これは、そのお礼。心づけのようなものよ。


心づけというものなら、テッサも知っていた。


宿に泊まる旅の人が、ときどき、テッサの手のひらに銅貨をのせてくれることがある。水差しを運んだとき。靴の泥を落としたとき。部屋の灯りをともしたとき。


それでも、服を二着も、寝るときに着る服まで、靴までも買ってくれる心づけは、知らなかった。


テッサが困った顔をしていると、奥様は、少しだけ声を落として、こう言った。


――それにね、これは、わたくしが、そうしたいの。


隣の部屋から戻ってきた旦那様に、奥様がそのことを話すと、旦那様は、ほとんど迷いもせずに、すぐに用意させる、と言った。


そうして、日が西へ傾きはじめたころ、崖のほうから戻ってきたカスパーさんに連れられて、テッサは、町へ出かけたのだった。



お使いのほかで、町を歩くのは、生まれて初めてだった。


お使いのときは、いつも走っていた。館まで。宿まで。言いつけられた荷物や手紙を胸に抱えて、誰の顔も見ずに、ただ走った。道の両側に何があるのかなんて、考えたこともなかった。


カスパーさんは、走らなかった。


大きな身体で、テッサの歩幅に合わせて、ゆっくりと歩いた。ときどき道ばたの店の前で立ちどまっては、あれは何の店だろう、と首をかしげ、テッサが答えると、へえ、と感心したようにうなずいた。テッサのほうが、町のことを、カスパーさんよりもずっとよく知っていた。そのことが、なんだか不思議で、少しだけ得意だった。


最初に入ったのは、坂の途中の、軒先に色とりどりの布を吊るした服屋だった。


店の女の人が、テッサの身体に、何着もの服をあてがってくれた。袖の長さを見て、裾の丈を見て、これは大きい、これは小さい、と首をかしげる。そのあいだ、テッサは、両腕を横に広げたまま、案山子のように立っていた。


服屋を出るとき、カスパーさんの両腕には、紙の包みが三つも抱えられていた。


ふだん着る服が、ひとつ。今夜の食事のときに着る服が、ひとつ。寝るときに着る服が、ひとつ。


テッサは、その包みを見上げながら、どうしたものかと考えた。


テッサの身体は、ひとつしかない。いっぺんに、三つの服は着られない。


そう言うと、カスパーさんは、声を上げて笑った。


――旦那様が、そうしろって言ったんだ。三つ全部、テッサのぶんだ。


靴屋では、靴を二足、買ってもらった。ふだん履く、丈夫な革の靴。それと、今夜の服に合わせた、小さな飾りのついた靴。


新しい靴に足を入れると、つま先が、どこにも当たらなかった。


ずっと履いてきた靴は、もうとっくに小さくなっていて、歩くたびにつま先が痛んだ。昼には、とうとう底が割れてしまって、奥様が布でくるんで、紐で縛ってくれていた。その古い靴を、テッサは、紙に包んでもらって、胸に抱えて帰った。



靴屋を出ると、カスパーさんは、通りの角の、小さなお菓子屋に入っていった。


ガラスの蓋のついた箱の中に、砂糖をまぶした丸い焼き菓子や、蜂蜜で固めた木の実が、行儀よく並んでいた。カスパーさんは、その中から、薄紅色の砂糖菓子をひと包み買うと、テッサの手の上にのせた。


――これは、俺から。


テッサは、目をまるくして、カスパーさんを見上げた。


――今朝、俺たちの部屋の毛布を、一緒にたたんでくれただろ。あのお礼だ。


どんなに働いても、こんなふうにお礼をもらったことはなかった。


ときどき、旅の人がくれる銅貨は、テッサの手のひらにのったと思ったら、すぐに女将さんの手のひらへ移っていった。子どもがお金を持っていても、ろくなことに使わないから。女将さんは、いつもそう言った。


テッサがそのことを話すと、カスパーさんは、少しだけ、怖い顔をした。


カスパーさんは、道ばたで立ちどまると、テッサの前にしゃがみこんだ。大きな身体が、テッサと同じ高さになった。


――それは、もう、女将さんに取られない。


――でも……。


――取らせない。約束する。


カスパーさんの目は、少しも笑っていなかった。テッサは、手の中の砂糖菓子の包みを、ぎゅっと握りしめた。



お菓子屋の帰りに、カスパーさんは、通りの奥の、テッサが一度も入ったことのない店の扉を開けた。


たくさん歩いて、喉が渇いただろう、と言って。


店の中は、花でいっぱいだった。窓辺にも、卓の上にも、壁の棚にも、小さな花瓶が並んでいて、どの花瓶にも、色とりどりの花が挿してあった。白い卓布のかかった卓に、着飾った女の人たちが座って、小さな杯を傾けていた。


テッサは、入り口で足がすくんだ。


自分のような子どもが入っていい店では、どう見てもなかった。


カスパーさんは、かまわずに、窓際の卓の椅子を引いた。テッサが座るのを待ってから、自分も向かいに腰を下ろした。椅子が、カスパーさんの身体の下で、ぎしりと鳴った。


店の人が、品書きの板を持ってきた。


テッサは、字が読めなかった。板の上に並んだ文字を、ただ見つめていると、店の人が、ふっと笑って、テッサの顔をのぞきこんだ。


――お嬢さんには、これがおすすめよ。


そうして運ばれてきたのは、背の高い杯だった。


杯の中には、淡い紅色の飲みものが満ちていた。そのふちに、黄色い杏の切れ端と、赤い桜桃と、緑の葉が一枚、まるで花かごのように盛りつけてあった。杯の外側には、細かな水の粒が、びっしりと浮いていた。


テッサは、その杯を、しばらく両手で包んだまま、動けなかった。


この店で、テッサは、何もしなくてよかった。水差しを運ばなくても、杯を下げなくても、誰にも叱られなかった。お客様のために働くのではなく、テッサが、お客様だった。


ひと口、飲んだ。


冷たくて、甘かった。舌の上で、果物の匂いが、いくつも重なってほどけていった。


テッサは、宿のニーナ姉さんのことを思いだした。


ニーナ姉さんは、ときどき、お客様が飲み残した杯を、女将さんの見ていないところで、こっそりテッサに差しだしてくれた。杯の底に、指一本ぶんだけ残った、ぬるくなった果物の汁。テッサは、それを、誰にも見つからないように、ひと息で飲みほした。


あれも、甘かった。


それでも、自分のためだけに注がれた、ひと杯ぜんぶの飲みものは、これが初めてだった。


「……おいしい」


テッサが言うと、向かいのカスパーさんが、顔じゅうで笑った。大きな手で、自分の杯を持ちあげて、テッサの杯のふちに、こつんと当てた。



宿に戻ると、アルベルトさんが、廊下でテッサを待っていた。


――テッサに、おみやげだ。


差しだされたのは、細長い紙の包みだった。中から出てきたのは、淡い橙色のリボンだった。光にかざすと、細い銀の糸が一本、縁に沿って織りこまれていて、ちらちらと光った。


――選んだのは、俺じゃない。ニーナさんだ。わざわざ店まで一緒に来てくれてさ、テッサの髪には、この色がいちばん似合うって。


テッサは、リボンを握ったまま、階段の手すりから、階下をのぞいた。


帳場の向こうで、ニーナ姉さんが、お客様の杯に、酒を注いでいた。


ニーナ姉さんは、テッサに気づいた。


ニーナ姉さんの目が、テッサを見る前に、一度だけ、食堂の奥の、女将さんがいつも座っている椅子のほうへ動いた。椅子は、空だった。


ニーナ姉さんは、酒の瓶を持っていないほうの手を、胸の前で、ほんの少しだけ上げた。指先だけで、テッサに向かって、ひらひらと振った。


すぐに、お客様のほうへ向きなおって、何事もなかったように笑っていた。



夕餉の前に、テッサは、奥様と一緒に、湯をつかった。


奥様の部屋の奥には、湯をつかうための小さな部屋があって、木の湯舟が据えてあった。台所で沸かした湯を、カスパーさんとアルベルトさんが、桶でいくつも運びあげてくれた。湯気が、小さな部屋いっぱいに、白く立ちこめた。


テッサは、湯で身体を洗ったことがなかった。


いつもは、裏の井戸の水を桶に汲んで、布を浸して身体を拭いた。冬には、指が真っ赤になって、感覚がなくなった。


湯舟のふちに立ったまま、テッサは、なかなか足を入れられなかった。湯気の立つ水というのは、火にかけた鍋の中のもののような気がした。


奥様が、先に湯舟に入って、テッサに手を差しのべた。


おそるおそる、つま先を沈めた。


温かかった。湯の温かさが、つま先から、ふくらはぎへ、膝へと、ゆっくりと上ってきた。テッサは、思わず、ほうっと息をもらした。奥様が、くすりと笑った。


奥様は、小さな石鹸を、手のひらで泡立てると、まずテッサの背中や腕をやさしく洗ってくれた。それから、もう一度泡を立てて、今度は髪を洗ってくれた。指の腹で、地肌をやさしくこするように。泡が、髪のあいだから額へ、すべり落ちてくる。目をつむると、花の匂いがした。


――カモミールというお花の匂いよ。


奥様が、教えてくれた。


――よく眠れるように、って、わたくしの侍女が、旅の荷に入れてくれたの。


カモミール。テッサは、その名前を、口の中で何度も繰りかえした。忘れないように。



湯から上がると、奥様は、テッサに、今夜の服を着せてくれた。


夕餉を食べるために、服を着がえる。そんなことがあるのを、テッサは知らなかった。宿のお客様は、旅の服のまま食堂に下りてきて、旅の服のまま、酒を飲んで、部屋へ上がっていった。


奥様も、アルベルトさんが買ってきた中から、白地に淡い青の小花を散らした服を選んで着がえていた。


テッサの服は、熟れた杏のような、あたたかな橙色をしていた。


胸もとに、小さな白い花の刺繍が並んでいて、袖口には、細いレースがついていた。スカートは、くるりと回ると、ふわりと広がった。


まるで、おとぎ話のお姫さまの服だった。


そうして、今、テッサは奥様に髪をとかしてもらっている。


櫛が、最後のひと筋をとかしおえた。


奥様は、テッサの髪を、両手で、ていねいに集めはじめた。頭の後ろで、ひとつにまとめ、くるりとねじって、高いところで結いあげる。細い指が、髪のあいだを行き来するたびに、首すじが、少しだけくすぐったかった。


最後に、奥様は、あの橙色のリボンを、結いあげた髪の根もとに巻いた。


「さあ、できたわ」


奥様が、テッサの肩に両手を置いて、壁の鏡のほうへ、向きを変えさせた。


鏡の向こうに、女の子がひとり、立っていた。


杏の色の服を着て、髪を高く結いあげて、橙色のリボンを結んだ女の子だった。洗いたての頬が、ほんのりと赤い。その子は、目をまるくして、口を少し開けたまま、こちらを見ていた。


テッサは、右手を持ちあげてみた。


鏡の中の女の子も、同じように、右手を持ちあげた。


テッサは、そこでようやく、それが自分なのだと分かった。


鏡の中で、奥様が、テッサの後ろに立って、うれしそうに目を細めていた。



********



鏡の前で、テッサは、まだ自分の右手を持ちあげたり下ろしたりしていた。


アヤは、その後ろ姿を見ていた。


今朝、女将がテッサを引きとりに来たとき、カスパーは、テッサの前にしゃがみこんで、今夜は一緒に晩飯を食べられる、と言ったのだそうだ。それを聞いたテッサが、どんな顔をしたのか。昼に、アヤの手を両手で包んだまま、うれしそうに話してくれた顔を見れば、聞かなくても分かった。


一緒に晩飯を食べる。


あの子にとっては、それだけで、もう十分すぎるほどのことなのだ。


だから、アヤは、もう少しだけ欲を出した。


せっかくなら、ちゃんとした晩餐にしましょう、と言いだしたのは、アヤだった。名目は、奥方の快気祝い。病みあがりの妻が床を離れたのを祝って、夫が護衛の者たちをねぎらう。サルヴィアの商人なら、少しも不自然なことではない。


ただ、宿の台所に、何人分もの料理を作らせるわけにはいかなかった。ゆうべのことがあってから、一行の口に入るものは、必ず黒騎士が台所に立って見届けている。皿の数が増えれば、見届ける目が足りなくなる。


それなら、町で、できあがった料理を買ってくればいい。


ジェフリーとアルベルトが、町のあちこちの宿や料理屋を回って、料理を買いあつめに出ていた。カスパーは宿に残って、宿の物置から卓と椅子を借りだし、二階の黒騎士たちの部屋へ運びあげている。さっき、廊下で卓の脚が壁にぶつかる音と、カスパーの小さな悲鳴が聞こえた。卓布と、燭台もいくつか。部屋が少しでも明るくなるように、と、アヤが頼んだのだった。


いつも何かに怯えているあの子に、一度でいいから、何も怯えなくていい夜をあげたかった。


それが、いちばんの理由だった。


いちばんではない理由も、アヤには、あった。


ゆうべの白い茶は、テッサの手で、アヤの杯に運ばれてきた。テッサ自身は、何も知らなかった。それでも、知っている者は知っている。テッサの作った飲みものに、誰かが葉を落とし、テッサがそれを運び、商人の奥方が倒れた。そのことは、どこかの耳を通って、いずれガストンのもとへ届くかもしれない。


もし届けば、ガストンは、テッサがどちらの側にいるのかを、確かめようとするだろう。


それなら、隠さないほうがいい。


着飾らせて、黒騎士の部屋の卓に座らせて、宿じゅうの耳に聞こえるように、にぎやかに食べさせる。この子は、もう商人の夫婦の庇護の下にある。そう、はっきりと見せておく。そうすれば、あの子に手を出すことは、サルヴィアの商人を、ひいては、あの館が抱えこもうとしている商いそのものを、敵に回すことになる。


それでもなお、ガストンの側が何かを仕かけてくるのなら。


仕かけてくるのなら、テッサをこちらの手もとに置いて、宿にいる黒騎士の皆が目を光らせている今夜のほうが、ずっといい。


そして、ガストンの側は、きっと何かを仕かけてくる。


アヤには、そう思える理由があった。



昼に、着替えを手伝ってもらっていたときのことだった。


アヤは、背中のボタンを、テッサの小さな指にとめてもらいながら、何の気なしに尋ねたのだった。


「テッサの、お父さまとお母さまは?」


ボタンをとめる指が、止まった。


ほんのひと呼吸ぶんだけだった。指はすぐに、次のボタンへ動いていった。


「……もう、いません」


テッサの声は、平らだった。もう何度も、誰かに聞かれては答えてきた、というような声だった。


「とうちゃんは、わたしが小さいときに、海で死にました。お仕事で」


海で。


アヤは、背中を向けたまま、窓の外へ目をやった。


ダリアの町は、海に近い。それでも、ダリアには、港がなかった。王宮の図書館で、エステリアの地図を何度も見てきたアヤには、それが分かっていた。この辺りの海岸は、どこもかしこも、高い崖が海へ切りたっている。舟を寄せる浜もなければ、港を築けるような入り江もない。だから、ダリアには、漁をして暮らす者がいない。海の近くに住みながら、ダリアの民は、海とは縁のない暮らしをしてきたのだ。


その土地で、仕事をしていて、海で死ぬ。


「お父さまは、どんなお仕事をなさっていたの?」


「殿様のお屋敷で、下働きをしていました」


テッサは、次のボタンをとめながら言った。


「殿様のおつかいで出かけて、それで、海で……」


殿様。


アヤは、それが誰のことなのかを、考えた。


ヴァルモントの館の主は、臥せっているルシアンの父君だ。ただ、父君が床についてからは、跡を継ぐルシアンのことを、村の者が殿様と呼ぶこともあるのかもしれない。テッサが小さかったころの殿様が、父君のことなのか、ルシアンのことなのか。


テッサには、その違いは分からないだろう。村の者にとっては、どちらも、館の殿様なのだ。


「お母さまは?」


「かあちゃんは、とうちゃんが死んで、すぐあとに……」


テッサの指が、また止まった。


「海に、とびこんだって」


アヤは、息を止めた。


二人とも、海で。


父親は、港もない土地で、おつかいの途中に海で死んだ。母親は、そのあとまもなく、自分から海に身を投げた。


本当に、そうだったのかもしれない。おつかいの途中で、何かの拍子に足をすべらせたのかもしれない。母親は、悲しみに耐えきれなかったのかもしれない。人の心が、どれほどの重さで折れてしまうものなのかを、アヤは、外から量ることはできなかった。


それでも。


海に縁のない土地で、館のおつかいに出た夫が、海で死ぬ。そのあとまもなく、妻もまた、同じ海で死ぬ。


事故と、悲しみからの身投げとが、たまたま続いただけなのかもしれない。ただ、二つの死が、そろって海に行きつくことが、アヤには、どうしても引っかかった。まるで、誰かが、二人の死に場所をあらかじめ決めておいたかのように。


「そのあと、お屋敷の殿様が、とうちゃんがお屋敷で働いていたからって、わたしを、この宿の女将さんに預けてくださったんです」


テッサは、最後のボタンをとめおえた。


「奥様、お洋服の、準備ができました」


「……ありがとう、テッサ」


アヤは、振りかえった。


テッサは、アヤのほうを見ていなかった。


足もとに、目を落としていた。右足の靴を脱いで、その靴の底の端を、親指で、ぐいぐいと押しこんでいる。すりきれた革の靴だった。つま先には、もう穴があきかけていた。


「靴が、どうかしたの?」


テッサが、はっと顔を上げた。


靴を、背中に隠しかけて、やめた。何か言おうとして、口をつぐむ。その顔が、困ったようにゆがんだ。


「靴が壊れてしまったのなら、新しいものを買いましょう」


アヤがそう言うと、テッサは、首を横に振った。


「こわれてるんじゃ、ないんです」


テッサは、靴を胸に抱えた。


アヤは、それ以上は尋ねなかった。言いたくないことなら、言わなくていい。そう思って、黙って待った。


テッサは、靴を抱えたまま、長いあいだ黙っていた。


奥様に嘘をついているような気がする。テッサの顔には、そう書いてあった。


やがて、テッサは、ほとんど聞きとれないほどの声で言った。


「……これは、かあちゃんが、ぜったいに、誰にも見せちゃいけないものだって」


テッサは、ぽつりぽつりと話しはじめた。


母親が、死ぬ少し前に、テッサにひとつのものを預けたこと。誰にも見せるな。誰にも渡すな。そう、何度も言い聞かせたこと。


宿に引きとられたとき、女将は、テッサの持ちものを、ひとつ残らず取りあげた。母親の形見の、小さな銀の耳飾りも。父親が使っていた革の小袋も。


それでも、母親から預かったものだけは、取られずにすんだ。テッサは、それを、肌着の内側に縫いつけて、隠していたのだ。


ところが、ある晩、宿の食堂で、酔ったお客様に、腕をつかまれて、膝の上へ引きよせられたことがあった。


そのとき、テッサが何よりも怖かったのは、肌着の内側のものに、気づかれることだった。


テッサは泣きながら逃げだして、あとで、女将にひどく叱られた。


――心づけをはずんでくださるお客様なんだよ。次からは、おとなしくしておいで。


それを聞いて、テッサは、肌着に縫いつけておくのをやめた。考えて、考えて、靴の底の、革と革のあいだに小刀で切れ目を入れ、その奥へ押しこんだ。靴の底なら、誰も見ない。誰も触らない。


テッサが話しおえたとき、アヤは、自分の指先が冷たくなっていることに気づいた。


幼い子どもが、客に手荒に扱われて、怯えて逃げた。それを、金のために、おとなしくしていろと叱る。


あの女将が、この子を、ふだんどんなふうに扱ってきたのか。家畜の桶からこぼれたものしか食べさせてもらえない、と聞いたときにも、胸が冷えた。今度のは、それよりも、ずっと深いところまで冷えた。


アヤは、テッサの胸の中の靴を見た。


切れ目の奥に、何かを、長いあいだ押しこみつづけてきたのだろう。靴の底の革は、端のほうから、薄くめくれかけていた。こんな靴では、歩くたびに、足の裏に固いものが当たるに違いない。


せめて、もう少し楽に歩けるようにしてあげたい。


そう思って、アヤが口を開きかけたときだった。


テッサの指の下で、ぱきり、と乾いた音がした。


靴の底が、割れた。


長いあいだ、切れ目を押しひろげては、ものを押しこみ、また押しひろげてきたせいだろう。くたびれきった革は、テッサの親指の力に、とうとう耐えられなかったのだ。割れめは、靴の底の端から、真ん中まで、ひと息に走った。


あ、とテッサが声をあげたときには、もう遅かった。


割れた靴の底から、何かが、ぽろりとこぼれ落ちた。


床の上で、小さな音がした。金物の音だった。


アヤは、身をかがめて、それを拾いあげた。


銅貨ほどの大きさの、薄い銀の板だった。長いあいだ靴の底で押しつぶされていたせいか、表面は黒ずみ、細かな傷がいくつも走っていた。


指の腹で、黒ずみをそっとぬぐう。


花と、王冠が、浮かびあがった。


エステリアの、王家の紋だった。


アヤは、銀の板を裏返した。裏には、数字が刻まれていた。何かを数えるための番号のようだった。


銀の板の、片方の縁は、なめらかに丸く削られていた。もう片方の縁は、波のような形に、ぎざぎざと割れていた。もとは一枚だった銀の板を、わざと、波の形に割ったのだ。


この形の片割れが、どこかに、もうひとつある。


割符。


アヤの頭に、その言葉が浮かんだ。


二つに割って、それぞれが一枚ずつ持ち、合わせたときに、切れめがぴたりと合えば、本物だと分かる。


でも、何の割符なのだろう。


エステリアの王家の紋を刻んだ割符が、なぜ、ダリアの宿の、使い走りの女の子の、靴の底に。


ふと気づくと、テッサが、アヤを見上げていた。


両手で、割れた靴を胸に抱えたまま。その目が、アヤの指先の、銀の板から離れなかった。母親との約束を破ってしまった。誰にも見せてはいけないものを、見られてしまった。しかも、それが、今は人の手の中にある。


アヤは、テッサの前に膝をついた。


「テッサ。これは、お母さまの、大切な形見なのね」


テッサは、こくりとうなずいた。


「必ず、あとで返します。だから、少しのあいだだけ、わたくしに貸してくれないかしら」


テッサは、すぐには答えなかった。


割れた靴と、アヤの顔とを、何度も見比べた。


やがて、テッサは、小さな声で言った。


「……どうぞ。お貸しします」


アヤは、銀の板を、ハンカチの間に挟んで、胸もとの奥にしまった。


扉の外には、耳がある。


このことは、宿の誰にも聞かせてはいけない。ジェフリー様にだけ、あとで、そっと伝えなければ。


結局、料理を買いに出る前のジェフリーには、テッサの両親のことだけを伝えた。


銀の板のことは、言わなかった。


見せなければ伝わらないものを、あわただしく出ていく人に、扉の陰で押しつけるわけにはいかなかった。


晩餐が終わって、二人きりになってからでいい。


胸もとには、ハンカチに包んだ銀の板が、今もある。


「奥様。……わたし、変じゃないですか」


鏡の中で、テッサがこちらを見ていた。


結いあげた髪の根もとで、橙色のリボンが揺れている。


アヤは、胸もとに置いていた手を下ろした。


「とても、きれいよ」


テッサの頬が、また少し赤くなった。



********



夕暮れの坂道を、ジェフリーは、両腕に料理の包みを抱えて上っていた。


焼いた鶏の脚を山と盛った籠。香草を詰めて焼いた魚。まだ湯気の立つ、豆と腸詰めの煮こみの壺。甘い焼き菓子の包み。どれも、町の別々の宿や料理屋で、すでにできあがっていたものを少しずつ買いあつめてきた。ひとつの店に何人分もの料理をあらかじめ注文すれば、どこから食事を仕入れるのか、それだけ早く知られることになる。


隣を歩くアルベルトも、ジェフリーに負けないほどの荷を抱えていた。


坂の上に、白猫の月亭の屋根が見えてきた。


宿を出る前に、アヤが、ささやき声で話してくれたことが、ジェフリーの頭から離れなかった。


テッサの父親は、館の下働きで、殿様のおつかいの途中、海で死んだ。母親は、そのあとまもなく、海に身を投げた。港もない、漁をする者もいない、崖ばかりの土地で、二人とも。


館の、おつかい。


ジェフリーの頭には、夕方の報告でカスパーが話した、岬の先の薪の山が浮かんでいた。月が消える晩に、沖から見えるように火を入れる。そして、ドラゴンの爪あとの、海の底まで下りていく滑車。


館の者が、海へ用を言いつけられる。その用とは、何だったのか。


「そういえば、隊長」


アルベルトが、包みを抱えなおしながら言った。


「今朝、ニーナさんに聞いた話なんですけどね。テッサの両親って、もう二人とも死んじゃってて、身寄りがないもんだから、あの女将に引きとられたらしいですよ」


「そうらしいな」


アルベルトが、足を止めかけた。


「え。隊長、もう知ってたんですか」


「妻が、テッサから聞いたそうだ。宿を出る前に、話してくれた」


「あー、なるほど」


アルベルトは、少しのあいだ黙って歩いた。いつもの軽い口調が、ほんの少しだけ重くなった。


「でも、あの女将は、なかなかひどいやつですよ。ニーナさんの話じゃ、テッサが引きとられてきたとき、あの子の手もとにあった金目のものは、全部、女将が取りあげたらしいです。親の形見まで。それに、泊まり客がときどきテッサにくれる心づけも、片っぱしから取りあげてるとか」


アルベルトは、そこで、声をひそめた。


「ニーナさん、それを話すとき、ずっと店の外ばっかり気にしてました。……あの人、見てるだけで、何もしてやれなかったって。客の飲み残しを、女将の見てないところで、こっそり飲ませてやるくらいしかできなかったって。そう言ってました」


ジェフリーは、黙って坂を上った。


おおかたは、想像していたとおりの話だった。それでも、人の口から聞かされると、腹の底に、重く濁ったものが沈んでいった。


今日、テッサのために買いそろえた服も、靴も、明日の晩を過ぎて、テッサが女将のもとへ戻されれば、どうなるのか。考えるまでもなかった。


明日の晩までに、手を打たなければならない。


女将とテッサとのあいだの雇いの約束を、こちらで買いとって、断ち切らせるか。それとも、旅の商人の夫婦が、身寄りのない子を奉公人として預かるという形で、筋を通すか。三十セラを、もう一度積むことになっても、かまわなかった。


ジェフリーが、そこまで考えたときだった。


「隊長。この町でも、だいぶ目立っちゃってますね」


アルベルトが、すれちがっていく若い女たちのほうへ、ちらりと目をやった。


女たちは、すれちがいざまにジェフリーの顔を見上げ、過ぎていってから、何度も振りかえっては、互いの肘をつつきあっていた。


さっきもそうだった、とアルベルトは言った。焼いた鶏を受けとりに寄った料理屋で、包みを差しだしてきた店の娘は、受けとろうと手を伸ばしたアルベルトを素通りして、うしろに立っていたジェフリーの腕の中へ、まっすぐに包みを押しこんできたのだ。


あとで娘に、目が悪いもので、手が見えなかったのだと言いわけをされても、信じる者はいないだろう。


「町へ出るついでに、どこにどんな耳があるか見てこようって話でしたけど。こう、どこへ行っても隊長ばっかり見られてたら、見つかるはずの耳まで、恥ずかしがって隠れちゃいますよ」


ジェフリーは、前を向いたまま答えた。


「そうだな。おまえひとりでは荷が持ちきれないと思ってついてきたが、やはり俺は、宿に残るべきだった。次からは、そうしよう」


「んー」


アルベルトは、腕の中の包みを見下ろして、わざとらしく首をかしげた。


「やっぱり、荷物は一緒に持ってほしいんで、隊長がついてきてくれたほうがありがたいです。耳が多少隠れるくらいは、目をつぶりましょう」


ジェフリーは、何も言わなかった。


かわりに、アルベルトの腕の中から包みをひとつ取りあげて、自分の荷の上に重ねた。


アルベルトは、軽くなった腕を見下ろして、にやりと笑った。


夕陽が、坂道の石畳を、赤く長く染めていた。



********



黒騎士たちの部屋の扉を開けると、中は、すっかり様変わりしていた。


カスパーが運びあげた卓が、部屋の真ん中に据えられ、真っ白な卓布がかけられていた。その上に、燭台がいくつも並んでいる。まだ火は入っていない。燭台のあいだには、小さな花瓶が置かれ、野の花が、ひと束ずつ挿してあった。


その花瓶を、卓の上に並べていた女が、顔を上げた。


ニーナだった。


料理を受けとりに宿を出る前に、アルベルトが、晩餐の支度に手を貸してほしいと、ニーナに頼んでおいたのだった。客がつくまでの宵の口なら、と、ニーナは笑って引きうけたのだという。


「おかえりなさいませ」


ニーナの声が、部屋の中に、ふわりと広がった。


蜂蜜色の髪を、今夜はゆるくひとつにまとめ、襟もとには、細い銀の鎖が光っている。卓のそばで、スカートの裾を軽くつまんで膝を折るその仕草は、町の宿の女というより、どこかの館の奥方のようだった。この町でいちばんの宿の、いちばんの女というのは、こういうものなのだろう。声ひとつにも、指先の動きひとつにも、品と、それと同じくらいの艶とがあった。


ジェフリーは、その仕草に、ひとかけらも目を留めなかった。


卓のそばまで歩いていくと、抱えていた料理の包みを、ひとつずつ卓布の上に下ろした。


「すまないが、これを皿に移しておいてもらえるだろうか」


淡々とした声だった。


ニーナは、そんなジェフリーの顔を見上げて、とびきりの笑みを浮かべた。品のいい、それでいて、たいていの男なら思わず足を止めてしまうような笑みだった。


「もちろんでございます。どうぞ、おまかせくださいませ」


ジェフリーは、アルベルトの腕から、残りの包みを受けとって、卓の上に並べた。


「頼む」


それだけ言うと、ニーナからは、もう視線を外していた。


部下の黒騎士に、見張りの順を言いつけるときと、少しも変わらない顔だった。


アルベルトは、外套の留め金を外しながら、その横顔を眺めていた。


この町でいちばんの女が、あの顔で笑いかけてきたのだ。並の男なら、とっくに耳まで赤くしている。


それなのに、この人の顔色は、ひとつも変わらない。アルベルトは、ほんの少しだけ、ニーナに同情した。


アルベルトは、脱いだ外套を、壁の釘にかけた。


やがて、窓の外の空が、茜色から、少しずつ青みを帯びていった。ニーナが、燭台のひとつひとつに、火を移しおえたころだった。


部屋の扉が、外から開いた。


セドリックだった。


夕方の報告のあと、ジェフリーが、ドラゴンの爪あとの様子を見てこいと送りだしていた。


黒い騎士服の肩にも、膝にも、乾いた土と、細かな草の葉がこびりついていた。暮れていく道を、馬を休ませもせずに走ってきたのだろう。息は乱れていないのに、額の生えぎわが、汗で濡れていた。


セドリックの目が、部屋の中をひと巡りして、ジェフリーを見つけた。


「隊長」


言いかけて、セドリックは口をつぐんだ。


卓のそばに、ニーナがいた。皿を並べる手を止めて、こちらを見ている。宿の者の耳に入れていい話ではなかった。


セドリックは、ジェフリーにだけ聞こえるように言った。


「……廊下で、少し、よろしいですか」


ジェフリーは、黙ってうなずいた。


セドリックのあとについて、廊下へ出る。うしろ手に、扉を閉めた。


廊下には、誰の姿もなかった。それでも、ここは、この宿の廊下だった。どの扉の向こうに、どの壁の向こうに、誰の耳が貼りついているか分からない。


セドリックは、ジェフリーのすぐそばまで身を寄せた。ほとんど息だけの声で言う。


「川べりから、崖へ放った鳥が、歌いました」


ジェフリーは、表情を変えなかった。


黒騎士のあいだでだけ通じる、隠語だった。この宿の廊下で、ありのままを口にするわけにはいかない。川べりの野営地から、ドラゴンの爪あとへ出した見張りが、知らせをよこしたのだ。


「鳥は、何と歌った」


セドリックは、さらに声を落とした。


「暗闇に、人と、餌が、入っていった、と」


廊下の突きあたりの窓の向こうで、海の上の空に、薄い茜色が、まだひと筋だけ残っていた。


部屋の中から、ニーナが皿を並べる、かちゃりという音が聞こえた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。