41. ダリアの耳
王都へ続く街道を、一頭の馬が駆けていた。
夜が明ける前に浅瀬を発ってから、ディーターは、ほとんど足を止めていなかった。駆けさせては並足に落として息を入れさせ、小川に行きあえば水を飲ませて、また駆けさせる。替え馬のないディーターには、この一頭が潰れたら、それで終わりだった。胸の内側、外套のいちばん奥には、油紙にくるんだ書状と、ヨハンの書いた紙切れと、近衛の鉄の札がおさまっている。馬の背が跳ねるたびに、その硬い角が肋骨に当たった。そのたびに、ディーターは、手のひらで胸の上をひと押しした。まだ、ある。落としていない。
日が高くなったころ、街道の先に、土ぼこりが立っていた。
ひとつやふたつの馬が立てる埃ではなかった。荷馬車の車輪が、何台ぶんも、ゆっくりと地面を噛んでいる音がする。そのまわりを、規則正しい蹄の音が囲んでいた。
ディーターは、馬の首を、街道脇の雑木林へ向けた。
木立の奥深くまで馬を引きこみ、鼻づらに手を当てて、いななかないようにおさえる。自分は、低い枝の陰に身を沈めた。盗賊の子だったころ、追っ手をやり過ごすたびにそうしていた。そのころ覚えた身の隠し方は、黒騎士になった今でも、身体が先に思いだす。
土ぼこりの中から、隊列が姿を現した。
先頭に、深い青の外套をなびかせた騎兵が二列。その胸当てには、白金の花と王冠と、交差した二本の剣。浅瀬で見た封蝋と、同じ紋だった。そのあとに、麦の袋を山と積んだ荷馬車が、何台も続いている。
近衛だ。
ディーターの喉が、ごくりと鳴った。
隊列の中ほどに、ひときわ目立つ一騎がいた。磨きあげた白銀の胸当てに、ほかの騎兵よりもいっそう深い青の外套。背筋をまっすぐに伸ばし、まわりの騎兵たちが、その馬の歩みに合わせて進んでいる。この隊列を率いている男なのだろう。
その男と轡を並べて、黒い馬が一頭、歩いていた。
黒い外套。替え馬の手綱を、もう片方の手に握っている。見なれた背中の丸め方。
ステファンだった。
ディーターは、思わず枝を握りしめた。
ステファンは、隣の男に何か話しかけられて、うなずいていた。笑っている。旅の疲れを忘れたような、安心しきった顔だった。隣の男も、穏やかな顔でうなずきかえしている。まるで、遠くから来た客人を、ねぎらってでもいるように。
声をかけたかった。
木立から飛びだして、ステファンの名を呼んで、その腕をつかんで、ここから引きはがしたかった。
それをすれば、何もかもが終わる。
ステファンの隣にいる男が誰なのか、ディーターは知らない。ただ、あの紋の外套を着た騎兵が、何十人もいる。そのど真ん中で、黒騎士がひとり、近衛の書状を盗み読んだことを白状するようなものだった。
ディーターは、枝を握った手から、ゆっくりと力を抜いた。
隊列は、ディーターの潜む木立の前を、何事もなく通りすぎていった。麦の袋を積んだ荷馬車の車輪が、重たげにきしむ。その音が、ステファンの背中と一緒に、少しずつ遠ざかっていく。
隊列は、この道を、浅瀬のほうへ下っていく。
近衛の隊列を探すと言っていたグスタフさんなら、きっと、どこかで行き会える。
ディーターは、土ぼこりが街道の向こうへ消えるのを待ってから、木立を出た。馬の首を、王都のほうへ向けなおす。
胸の上を、もう一度、手のひらで押さえた。
まだ、ある。
********
白猫の月亭の廊下で、アルベルトがイェンスに呼びとめられたのは、日が昇りきる少し前のことだった。
「アルベルト。隊長から、頼みたいことがあるそうだ」
イェンスの目の下に、ひと晩ぶんの影がくっきりと落ちている。その手に、たたんだ布の束を抱えていた。
野営地にいったん戻ることを、隊長に報告した帰りだった
広げてみせられたそれを見て、アルベルトは、思わず口をつぐんだ。
生成りのブラウスと、焦げ茶の胴着。どちらも、前から真っすぐに切り裂かれていた。胴着の紐は断ち切られ、ブラウスの赤い小花の刺繍が、切り口のところで途切れている。
野営地の幌馬車で、アヤ様が、リーナたちと夜なべして縫いあげた服だった。
「奥様に、着るものが要る。これと同じくらいの大きさのものを、見繕ってきてほしいと。……それと」
イェンスは、少しだけ言いにくそうに、声を落とした。
「下に着けるものも、ひと揃い」
アルベルトは、布の束を受けとりながら、天井を仰いだ。
「……俺が?」
「おまえなら、店で事情をうまく話して、要るものを見繕ってくるだろう、と。隊長が」
隊長にそう言われては、断る理由がなかった。
アルベルトは、布の束を小脇に抱えなおした。そうして、あらためてイェンスの顔を見た。
ひと晩じゅう、あの部屋で、ひとりで手当てを続けていた男の顔だった。頬から血の気が引いて、唇の色まで薄くなっている。目の下の影は、ランタンの煤を指でなすりつけたように濃かった。
「おまえ、ひと晩、一睡もしてないだろ」
アルベルトは、廊下の奥の、黒騎士たちの部屋を顎で示した。
「俺たちの部屋の寝台、ひとつ空いてる。カスパーが、どこでも寝られるって床に転がってたからな。少し横になってけよ。昼まで眠ったって、誰も文句は言わない」
イェンスは、首を横に振った。
「野営地に戻る」
「今からか?」
「戻って、やることがある」
イェンスは、腰に下げた革の帳面に、そっと手を当てた。
「囲いの三十人に飲ませる鎮め草は、ゆうべ、ここへ駆けつける前に飲ませたきりだ。あの草の効き目は、一日ほどしかもたない。今夜の分は、私が量って煎じる。……量を誤れば、人の心を鈍らせすぎる。ほかの者には、任せられない。……それに、今は、薬の箱を自分の目の届かないところに置いたままでは、眠れそうにない」
アルベルトは、口を開きかけて、閉じた。
鎮め草が効いているから、あの三十人は、丸太の柵の中でおとなしくしている。その効き目が今夜で切れたら、柵の中の男たちは、一斉に目を覚ます。今の人数では、手に余る。
それに、とアルベルトは思った。
ゆうべ、葉一枚の量が、この男の帳面の外で狂った。そのことを、誰よりも重く受けとめているのは、この男自身なのだ。
「……奥方は、もう大丈夫なのか」
「峠は越えた。昼を過ぎるころには、起きあがれるようになるはずだ。痛みがぶり返すことは、まずない。……もし、また震えが来たり、息が浅くなったりしたら、すぐに野営地へ知らせてくれ」
イェンスはそう言ってから、少しだけ迷うように付けくわえた。
「それと……奥方が目を覚ましたら、ゆうべのことは、あまり詳しく話さないでさしあげてくれ。手当てのためだったとはいえ、ご自分の身に何があったか、すべて知る必要はない」
アルベルトは、しばらく黙ってイェンスを見ていた。
この男が、あの扉の向こうで何を見て、何を聞いたのか。それを、この男は、ひとつも口にしようとしない。
「分かった」
アルベルトは、イェンスの肩を、拳で軽く小突いた。
「帰りは、遠回りしてけよ。隊長の言いつけだ。それと、馬の上で寝るな。落ちても、俺は拾いに行けないからな」
イェンスの口もとが、ほんの少しだけゆるんだ。
「おまえこそ、店で妙なものを選ぶなよ」
イェンスは、薬の袋を肩にかけなおすと、階段を下りていった。その背中が、階下の薄暗がりに消えるまで、アルベルトは廊下に立って見送っていた。
ダリアの町の服屋は、宿から坂を下ったところにあった。
軒先に、色とりどりの布を吊るした小さな店だった。扉を押すと、上に下げた鈴が、からんと鳴った。
店の中には、店の者らしい若い女と、女の客がひとりいた。
「いらっしゃいませ。少しだけ、お待ちいただけます?」
店の女にそう言われて、アルベルトは、軽く会釈を返した。
店の奥に、布張りの長椅子が置いてあった。アルベルトはそこに腰を下ろして、店の中を見まわした。棚という棚に、巻いた布が色ごとに並んでいる。壁には、仕立てあがったばかりらしい服が、何着も吊るしてあった。痩せた麦畑ばかりのこの町で、ここだけは、ずいぶんと色があふれていた。
少し離れた帳台のほうから、女たちの話し声が聞こえてくる。
「じゃあ、これは三日後までに仕上げておくわね。いちばんに回すから、安心して」
「ありがとう、メル。いつも助かるわ」
「いいのよ。あなたは、うちのお得意さんだもの」
メル。
アルベルトは、その名前を、胸の内で一度だけ繰りかえした。
ゆうべ、宿の部屋の扉の外には、耳がついていた。この町で、誰がどこにつながっているのかは分からない。覚えておいて、損になる名前はなかった。
「お待たせしました、お客さま」
客の相手を終えたメルが、こちらへ声をかけてきた。アルベルトは立ちあがり、帳台の前まで歩いていった。
「何をお探しですか?」
アルベルトは、小脇に抱えていた布の束を、帳台の上に広げた。
「この服と、だいたい同じくらいの大きさのやつを、いくつか見繕ってもらいたくてね」
メルは、切り裂かれたブラウスに指先で触れた。布の手ざわりを確かめるように、袖口から肩まで、ゆっくりとなでていく。その指が、途中でふと止まった。
「まあ。もしかして、奥さまのお召しもの? 宿にお泊まりの」
アルベルトは、愛想のいい笑みを、顔に貼りつけたままでいた。
こちらは、まだ何も言っていない。宿の名も、奥方のことも。
それなのに、この店の女は宿に泊まっている奥方の服だと、すぐに言いあてた。
やっぱり、町にも、耳はある。
「いやあ、隊長の……まあ、俺の雇い主ですね。その奥方のなんですよ」
アルベルトは、困ったように頭をかいてみせた。
「ゆうべ、急に具合を悪くされましてね。手当てに来た医者が、脱がせるより切ったほうが早いって、この始末で。このままじゃ、奥方が寝台から出られないもんで、俺が使いっ走りってわけです」
宿の食堂で見せた芝居から、はみださないことだけを話した。
メルは、ふうん、と聞きながら、ブラウスの肩幅や袖の長さを、手のひらで測っていた。
「この大きさなら、出来あいのものがいくつかありますよ。こんなにいい生地じゃないけれど、風通しがよくて、これからの季節にはぴったりのもの。何着かお持ちしましょうか」
「助かるよ。頼めるかな」
アルベルトは、少しだけ声をひそめた。
「それと……下に着けるものも、ひと揃い。いや、医者が全部切っちまったもんでね」
メルが、ぷっと吹きだした。
「はいはい。お兄さんが選ぶより、わたしが選んだほうがよさそうね」
「ぜひ、そうしてください」
アルベルトが大げさに両手を挙げてみせると、メルは、くすくすと肩を揺らした。
「それから、こちらの服。縫えば、直せますけど。どうなさいます?」
アルベルトは、少し考えた。
ダリアに、あと何日いるのかは分からない。直すのに何日もかかるのなら、今日は出来あいのものだけ買って帰るほうがいい。
「何日もかかるようなら――」
「一日で直せますよ」
「え。そんなに早く?」
「ええ。うちには、腕のいいお針子がいますから。いちばんに回して仕上げます」
アルベルトは、笑顔のまま、メルの顔を見た。
いちばんに回す。
ついさっき、前の客にも、同じことを言っていなかったか。
この服を、手もとに置いておきたいのかもしれない。宿に泊まっている、サルヴィアの商人の奥方の服を。縫い目のひとつ、布の織り目のひとつから、何かを読みとろうとして。
断ろうか、と、一瞬思った。
ゆうべ、宿の部屋で隊長は言った。泳がせる、と。
相手がこちらを探ろうとしているのなら、探らせておけばいい。その手がどこへ伸びていくのか、見ていればいい。
「それじゃあ、そっちもお願いしようかな。明日の、いつごろ取りに来ればいい?」
メルは、切り裂かれた服を、あらためて丁寧にたたみなおしながら言った。
「宿まで、お届けしますよ。お泊まりは、白猫の月亭でしょう?」
まるで、探りを入れるような言い方だった。ただ、その顔には、聞くまでもなくもう知っている、と書いてあった。
アルベルトは、あえて、話を合わせた。
「そう、白猫の月亭で合ってる。届けてくれるなら、ナナ・ハルセリン宛てで頼むよ」
メルは、にっこりと笑った。
「では、出来あいのお洋服を見繕ってまいりますね。そちらにおかけになって、お待ちください」
メルは、たたんだ服を抱えて、店の奥へ消えていった。
アルベルトは、長椅子へ戻ろうとして、足を止めた。
長椅子には、もう、先客が座っていた。
さっきまでメルと話していた、女の客だった。
蜂蜜を溶かしたような色の髪を、ゆるく肩に流している。襟もとの大きく開いた服から、白い首筋がのぞいていた。女は、長椅子の端に寄って座りなおすと、空いたところを、指先で軽く叩いた。
「お兄さん、白猫の月亭にお泊まりの方なのね」
アルベルトは、にっと笑った。
「そうだよ。おたくは?」
女は、すっと立ちあがった。スカートの裾をつまんで、芝居がかった丁寧さで、膝を折ってみせる。
「白猫の月亭で、夜のお客さまのお相手をしております。ニーナと申します」
ここにも、耳がいたか。
アルベルトは、笑顔を崩さなかった。
ゆうべ、宿の食堂で、この女の顔は見なかった。給仕の女たちの中にも、帳場のまわりにも。
いなかった女が、今朝は、サルヴィアの奥方の服を抱えた男の前に座っている。
ニーナは、ゆっくりと笑った。笑うと、目尻に甘いしわが寄った。
「お待ちのあいだ、よろしければ、少しお話ししません?」
さあ、どう出てくるか。
アルベルトは、目の奥でだけ、そう思った。
「喜んで」
二人は、並んで長椅子に腰を下ろした。
********
アヤの部屋には、ゆっくりとした時間が流れていた。
ジェフリーは、窓辺の卓にランタンをひとつ置いて、ガストンに宛てた手紙を書いていた。
――妻が具合を悪くしたので、今日はお伺いできない。明日、私ひとりでお伺いしたい。
そこまで書いて、ジェフリーは、ペンの先を紙から浮かせた。
ひとりで行く。そう決めたのは、ゆうべ、長椅子に座ったまま夜明けを待っていたあいだのことだった。病みあがりのこの人を、あの男の前に、もう一度座らせるわけにはいかない。妻は寝こんでいると言えば、ガストンも、それ以上は勘ぐるまい。
ジェフリーは、もう一度ペンを紙に下ろした。結びの一行を、どう書くか。言葉を選んでいるうちに、インクが、ペン先で乾きかけていた。
「……何を、書いていらっしゃるの?」
寝台のほうから、声がした。
ジェフリーは、振りかえった。
明け方に、一度、目を開けて、ジェフリーの手の温かさを確かめたあと、アヤはまた浅い眠りに落ちていた。夢とうつつのあいだを、行ったり来たりしているような眠りだった。
その声が、今は、はっきりとしていた。にごりのない、いつものアヤの声だった。
「ガストンへの手紙です。妻の具合が悪いので、明日は私ひとりで伺う、と」
ジェフリーはペンを置いて、立ちあがった。
「空気を入れかえましょう。窓を、少しだけ開けます」
アヤが、毛布の中でうなずいた。
厚いカーテンを開けると、部屋じゅうが、初夏の光で満たされた。窓を細く押しあけると、やわらかな風が流れこんでくる。どこかの庭で咲いている花の匂いと、乾いた土の匂いが、かすかに混じっていた。
アヤは、光の中で、まぶしそうに目を細めた。
その頬に、昨夜にはなかった色が、うっすらと戻っていた。
ジェフリーは、胸の奥でそっと息をついた。
扉のほうへ、一度だけ目をやる。廊下は、しんとしていた。それでも、ジェフリーは寝台のそばまで歩いていくと、その縁に腰を下ろした。身をかがめて、アヤの耳もとへ顔を寄せる。
アヤは、慌てて毛布を胸もとまで引きあげた。
その毛布の下に、何ひとつ身につけていないことを、アヤはとうに気づいていた。
ジェフリーの顔が、すぐそこにあった。その目は、アヤではなく、扉のほうを向いていた。
「この宿には、まだ、耳があります」
ささやき声だった。耳もとをくすぐるような、澄んだ声だった。冷たいほど涼やかなのに、言葉の終わりが、ほんの少しだけかすれる。その声が、すぐ耳もとで、ひとつずつ言葉を置いていった。
ゆうべ、黒騎士たちの部屋の扉の前に、何度も、誰かが立っていたこと。今朝、ジェフリーがこの部屋に入ってからも、扉の前で足音が止まったことが、一度や二度ではなかったこと。黒騎士たちは、それぞれに役目があって出払っていて、今は廊下に見張りを置けずにいること。
テッサは、ゆうべ、黒騎士たちの部屋で、ひと晩ゆっくり眠ったこと。
ゆうべのことで、今話せるのは、イェンスがひと晩じゅう手当てをしてくれた、ということだけ。それより先は、この宿の中では口にできない。どこで誰が聞いているか、分からないから。
アヤは、ジェフリーの声を、ひと言も聞きもらすまいとするように、じっと耳を傾けていた。
耳がある、と聞いて、アヤの胸に、ひとつ思いあたることがあった。
「ジェフリー様。わたくしが、ゆうべ、お食事の前に書いていた紙……あれも、始末しなければ」
「卓の上にあったものは、今朝、すべて燃やしました」
アヤの肩から、すうっと力が抜けた。
「……よかった」
ジェフリーは、身を起こしかけて、もうひとつ言い足した。
「今、アルベルトに、あなたの着るものを探しに行かせています。それまで、着替えはお待ちください」
アヤは、ジェフリーの言葉をひとつずつ胸の中で受けとめるように、少しのあいだ黙っていた。
やがて、小さくうなずいた。
「はい。待ちます」
アヤが、毛布の中から、ジェフリーを見上げた。
「ガストン殿には、明日、伺いましょう」
ジェフリーは、思わず目を見ひらいた。
ついさっき、ひとりで行く、と書いたばかりの手紙が、窓辺の卓の上にあった。
アヤは、ジェフリーの顔色を読んだように、毛布の上で首を横に振った。
「今のお話を伺ったら、なおさら、わたくしが一緒に参らなければ、怪しまれます。黒騎士の動きを探られているということは、わたくしたちが、商いのほかに何かを企んでいると、疑われはじめているということでしょう。そこへ、夫ひとりが顔を出したら」
ジェフリーは、黙った。
アヤの言うとおりだった。
それでも、あの館へこの人を連れていくことで、いったい何が得られるのか。ガストンが白い茶の使い道を知っていることは、もう確かめた。これ以上、商談の芝居を続けても、引きだせるものは多くない。
「悪党が気をゆるめるときには、わずかな隙ができる。そうおっしゃったのは、ジェフリー様ですよ」
アヤは、少しだけいたずらっぽく、目を細めた。
「わたくしは、その、気をゆるめさせる役だと思ってくださいませ」
「そこまでして、何を探るのです」
「わたくしたちが、まだ一度も見ていない場所が、ひとつだけあります」
「どこです」
「館の中です」
ジェフリーは、アヤの顔を見つめた。
館の中なら、一度、入った。広間で、ガストンと向かいあった。ただ、アヤが言っているのは、そういうことではないらしかった。
「商いをする者は、品物をやりとりした証を、決して手もとから離しません。どこから何を仕入れて、どこへいくらで売ったのか。誰に、いくら払ったのか。それを書きとめておかなければ、商いは続けられないのです」
アヤの声は、毛布の中から聞こえるとは思えないほど、まっすぐだった。
「帳簿は、きっと、あの館のどこかにあります。それを押さえることができれば、ガストン殿がしてきたことを、ひとつずつたどれます。ルシアン殿にも、臥せっておられるお父上にも、罪をなすりつけさせずに……ガストン殿ご自身のしたこととして、裁くことができるのです」
ジェフリーは、言葉を失った。
自分の考えに、穴があった。
黒騎士たちが追っている荷も、ガストンとつながっているらしいエステリアの軍の上の者も、追いつめるだけなら、追いつめられるだろう。ただ、追いつめたその先で、ガストンが、臥せった兄と、人のいい甥の名を盾にしたら。陽炎草を配っていたのは殿様だ、商いを決めたのは若様だ、と言いはったら。
そうなれば、本当に裁かれるべき男は、するりと逃げおおせる。
悪党は、悪党として、きちんと捕らえなければならない。黒騎士の仕事でも、それは、何より守らなければならないことだった。
アヤは、芝居などしなくても、もう、黒騎士の隣に立つ者として、ものを考えていた。
扉が、叩かれた。
ジェフリーは、すばやく立ちあがった。扉の前まで行き、少しだけ間を置いてから、細く開ける。
廊下に、テッサが立っていた。両手で盆を、こぼさないように捧げもっている。盆の上には、湯気の立つ麦の粥の椀と、井戸の水で冷やした林檎の果汁の杯がのっていた。杯の外側には、細かな水の粒が浮いている。その隣に、カスパーがいた。こちらは、両腕に、紙で包んだ荷を抱えていた。
テッサが、ジェフリーを見上げた。その目が、部屋の奥の寝台のほうを、懸命にのぞこうとしている。
「奥さまは……起きて、いらっしゃいますか」
ジェフリーは、扉を大きく開けて、二人を中へ通した。カスパーが最後に入って、扉を閉める。
カスパーは、紙の包みを卓の上に置いた。
「奥さまの服です。アルベルトが、さっき持って帰ってきました。それと、テッサがこしらえた冷たい飲みものと、麦の粥です。今度は、俺が台所で、最初から最後まで一緒に作りました。何も、入っていません」
ゆうべのことがあってから、一行の口に入るものは必ず黒騎士が台所に立って見届ける。そのことは、ゆうべのうちに、アルベルトが宿の者たちに話をつけていた。
テッサは、盆を卓の上に下ろすと、寝台のほうへ、一歩、また一歩と近づいていった。
アヤが、毛布の中から、テッサを見た。
テッサの顔が、くしゃりとゆがんだ。
「奥さま……ごめんなさい。わたしが、作った、飲みもので……」
アヤは、毛布を胸もとで押さえたまま、ゆっくりと首を横に振った。
「テッサは、悪くないわ」
ゆうべ、痛みの底から、何度もジェフリーに伝えようとした言葉だった。今は、ちゃんと声になった。
「わたくしのために、たくさん考えて、作ってくれたのでしょう。生姜まで入れて。……とても、おいしかったのよ」
テッサの目から、ぽろりと涙がこぼれた。
アヤは、左の腕で毛布を胸もとに押さえたまま、右の手だけを、毛布の脇からそっと差しだした。白い指が、寝台の縁から、テッサのほうへ伸びていく。
テッサは、寝台の脇の床に膝をついた。差しだされたその手を、自分の両手で、すっぽりと包みこむ。小さな手の中で、アヤの指が、確かめるように一度だけ動いた。
ジェフリーは、その二人を、少し離れたところから見ていた。
カスパーが、ジェフリーの隣に並んだ。その口もとが、何か面白いものを見てきたというように、むずむずと動いていた。
「隊長。さっき、アルベルトがやらかしたこと、聞きました?」
********
ジェフリーがイェンスに呼ばれて、黒騎士たちの部屋を出ていってから、しばらくたったころのことだった。
窓から差しこむ光は、もう床の真ん中あたりまで伸びていた。
部屋には、カスパーとテッサだけが残っていた。
テッサは、朝ごはんを、ひとかけらも残さずに食べおえていた。黄色いスープは、器の底を匙でこそげるようにして、最後のひとしずくまで。焼き菓子のくずは、皿の上から指先で拾い集めて、口に運んだ。
食べおえると、テッサは、じっとしていられなくなったらしかった。
黒騎士たちの寝台の毛布を、一枚ずつ、ていねいにたたみはじめたのだ。カスパーが、そんなことはしなくていいと言っても、テッサは首を横に振った。ごはんをもらったのだから、と。
カスパーは、それ以上は止めなかった。そのかわり、毛布の端をもう片方から持って、二人でたたむことにした。大きな毛布を、ふたりで引っぱりあって、四つに折る。テッサの背丈では、毛布の端が床をこすってしまう。カスパーが少しだけ腰をかがめてやると、ようやく、角と角がぴたりと合った。
テッサが、ほんの少しだけ、得意そうな顔をした。
四枚めの毛布をたたみおえたとき、扉が叩かれた。
カスパーが開けると、廊下に女将が立っていた。指輪をいくつもはめた手を、腹の前で重ねている。
「そろそろ、テッサを返していただけます?」
女将の顔には、いつもの愛想笑いが貼りついていた。
「ひと晩、というお約束でしたからねえ。こっちも、仕事が山ほど溜まってるんですよ」
カスパーの背中のうしろで、テッサが、たたみかけの毛布を胸に抱えたまま、身を固くしたのが分かった。
カスパーは、黙って女将の顔を見た。
テッサは、毛布を寝台の上にそっと置いた。前掛けの皺を両手でのばして、扉のところまで小走りにやってくる。
「……もう、戻ります。働けます」
カスパーには、すぐ分かった。
この子は、自分のせいで、騎士様が女将さんと揉めるのを、何よりも怖がっている。
カスパーは、テッサの肩に手を置こうとして、その手を宙で止めた。この子を、このまま女将に渡したくない。それなのに、引きとめる名目が、何ひとつ思い浮かばなかった。
そのときだった。
階下で、宿の扉の鈴が鳴った。
「おーい! 奥方の服、見繕ってきたぞー!」
アルベルトの、のんきな声だった。
紙で包んだ荷を両腕に抱えて、アルベルトが、階段を上がってくる。そのすぐうしろから、蜂蜜色の髪の女が、軽い足どりでついてきていた。
カスパーは、目をしばたたいた。
見たことのない女だった。ゆうべ、宿の食堂でも、廊下でも、見かけなかった顔だ。襟もとの大きく開いた服と、すれちがいざまに漂ってくる甘い香油の匂いで、この宿で客をとる女のひとりなのだろうと、カスパーにも察しがついた。
アルベルトは、二階の廊下に上がってくると、女将とカスパーと、扉の前で前掛けを握りしめているテッサとを、順に見比べた。
「何かあったのか?」
「ひと晩という約束でしたので、テッサを引きとりに来たんですよ」
女将が、愛想よく答えた。
アルベルトは、ふうん、と首をかしげた。
その顔に、何かを思いついたような色が、ちらりと浮かんだのを、カスパーは見逃さなかった。
「へえ。それにしても、おかしいなあ」
アルベルトは、廊下じゅうに響きわたる声で言った。
「さっき、服屋でこのニーナさんと話してたんだけどさ。この宿でいちばんのニーナさんでも、ひと晩、十五セラなんだって?」
ニーナが、まあ、と口もとに手を当てて、くすくすと笑った。
女将の頬が、ぴくりと引きつった。
「ところがさ、給仕の手伝いの子を、ひと晩、話し相手に借りるのに、女将さんは二十セラって言ったんだよ。いちばんのニーナさんより、高いんだ。うちの隊長は人がいいから、それに色までつけて、三十セラ払った」
アルベルトは、心底感心したように、何度もうなずいてみせた。
「さすがは、白猫の月亭だなあ。いちばんの子より、手伝いの子のほうが高いんだ。それだけもらっておいて、朝になったら、もう返せってさ。いやあ、恐れいった」
廊下の空気が、ざわりと揺れた。
客室の扉が、いくつか、細く開いていた。階下の食堂からも、手すりごしに、何人かがこちらを見上げている。
「三十セラだと? 手伝いの子に?」
「女将、ずいぶんふっかけたもんだな」
「この宿、そんなにぼったくるのか」
ひそひそとした声が、あちこちから聞こえてきた。宿の客たちだった。自分の払っている宿代まで、急に疑わしく思えてきたのかもしれない。
女将の顔から、愛想笑いが、少しずつ剥がれ落ちていった。
女将は、指輪の手をせわしなくもみあわせた。廊下の客たちと、アルベルトと、カスパーとを見比べて、口を開いたり閉じたりした。
やがて、ひきつった笑顔を、もう一度、顔の上に貼りなおした。
「あら、いやだ。あたしったら、勘違いしてましたよ。隊長さんとのお約束は、明日の晩までってことでしたわね。三十セラも頂戴したんですもの、そりゃあ、ひと晩じゃ申しわけない。ええ、ええ」
それだけ言うと、女将は、くるりと背を向けて、足早に階段を下りていった。指輪の手で、スカートの裾を握りしめたまま。
廊下に、ざわめきの名残だけが残った。
アルベルトは、何事もなかったように、紙の包みを抱えなおした。
テッサは、扉のところに立ったまま、ぽかんと口を開けていた。何が起きたのか、よく分かっていない顔だった。
カスパーは、テッサの前にしゃがみこんだ。
「テッサ。今夜、一緒に晩飯を食べられるってさ」
テッサの目が、まんまるに見ひらかれた。
その顔に、ゆっくりと、笑顔が咲いた。
********
カスパーの話を聞きおえて、ジェフリーは、寝台のそばを見やった。
テッサは、寝台の脇に膝をついたまま、毛布の脇から出たアヤの右手を、まだ両手で包んでいた。今夜は騎士様たちと一緒にごはんを食べるのだと、うれしそうに話している。アヤは、左の腕で毛布を胸もとに押さえたまま、目を細めてその話を聞いていた。卓の上の冷たい杯には、まだ手を伸ばせずにいる。毛布を押さえている腕を離せば、胸もとがはだけてしまうからだ。
「アルベルトは?」
ジェフリーが尋ねると、カスパーは、肩をすくめた。
「さっきまで、ニーナに、ずいぶん気に入られてましたよ。今夜ひと晩、一緒に過ごさないかって、廊下で口説かれてました。どうにか断って、ゆうべ打ちあわせたとおり、荷車の跡を見に出ていきました」
ジェフリーは、小さく息をついた。
あの男は、どこへ行っても、まず懐に入りこむ。入りこんで、相手が何を探っているのかを、相手より先に探りあてる。それがアルベルトのやり方だった。
ジェフリーは、窓辺の卓に戻ると、書きかけの手紙を取りあげた。
明日、私ひとりでお伺いしたい。
その一行を、しばらく見下ろしていた。やがて、手紙をランタンの炎にくべた。紙の端が黒く縮れて、ひとりで、という字が、最初に灰になった。
ジェフリーは、新しい紙を広げて、ペンを取った。
――妻が具合を悪くしたので、今日はお伺いできない。明日、あらためて、夫婦そろってお伺いいたします。
インクが乾くのを待って封をし、カスパーに手渡す。
「館へ届けてくれ。そのあとは、ゆうべ話したとおりだ」
館の裏の、崖のほう。
カスパーは、黙ってうなずくと、手紙を外套の内側にしまって、部屋を出ていった。
扉が閉まると、ジェフリーは、寝台のそばのテッサに向きなおった。
「テッサ。ひとつ、頼みがある」
テッサが、ぱっと顔を上げた。
「俺は、隣の部屋にいる。妻が着替えるのを、手伝ってもらえないか」
テッサの顔が、見る間に明るくなった。
「はい……!わたし、ちゃんと、お手伝いします」
ジェフリーは、アヤに一度だけ目をやってから、部屋を出た。
扉を閉める直前、毛布を胸もとに引きあげたまま、アヤが、ほっとしたように小さく笑うのが見えた。
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日が西へ傾きかけたころ、黒騎士たちが、ひとり、またひとりと宿へ戻ってきた。
最初に戻ったのは、セドリックだった。野営地から、また遠回りをして帰ってきたらしい。馬の脚は、膝のあたりまで泥にまみれ、細かな草の実がいくつもからみついていた。
セドリックは、黒騎士たちの部屋に入ると、扉に背を預けたまま、口を開いた。
「副隊長に、すべて話しました。洞窟には、見張りを二人出しています」
ジェフリーはうなずいた。
続いて、カスパーが戻ってきた。
カスパーは、部屋に入るなり、一度だけ扉の外の気配を確かめてから、ジェフリーのそばまで来て、ほとんど息だけの声で話しはじめた。ゆうべ扉の外に耳がついてから、この宿の中で大事な話をするときは、誰もがそうするようになっていた。
「手紙は、届けました。門で、館の者が受けとりました。……そのあと、館の裏の、崖のほうへ回ってみました」
崖の下は、白い波が岩に打ちつけるばかりで、舟を寄せられるような浜も岩場もなかった。カスパーは、崖の上へ引きかえした。
崖の上は、館の裏庭から続く林になっていた。林を抜けると、海へ突きだした岬の先に出る。そこに、石を積んで平らにならした台があった。台の上には、乾いた薪が、油を染ませた布をかぶせて、人の背丈ほどにも積みあげてあった。
「館の下男らしいのが二人、薪の具合を見ていました。……ひとりが、言ってました。月が消える晩に、ここに火を入れる。沖から、よく見えるように、と」
月が消える。
新月のことだ。
ジェフリーは、窓の外へ目をやった。
ゆうべ、夜更けにようやく昇ってきた月は、糸のように細かった。新月の晩まで、もう幾日もない。
最後に戻ってきたのは、アルベルトだった。
ずいぶん歩いたのか、外套の裾に、乾いた土がこびりついていた。アルベルトは、部屋に入ってくるなり、ジェフリーの前の卓に、手のひらほどの紙切れを置いた。ダリアの町と、そのまわりの道を、炭で走り書きにしたものだった。
「釘の跡、追ってきました。……あの農家の納屋を出て、町を大きくよけて、林の中の道を抜けて」
アルベルトの指が、紙の上の線をなぞっていった。町から離れ、村からも離れ、海のほうへ。
その指が、止まった。
崖が、下へ大きく弧を描いて曲がっているところだった。
「ドラゴンの爪あとです」
部屋の中が、しんとした。
アルベルトとディーターが、あの洞窟の奥で見つけたものがある。太い梁に据えつけられた、大きな滑車。腕ほどもある縄の先に吊られた、鉄の帯で囲った板張りの箱。大人が三人、四人は楽に乗れる。それだけの重さを、崖の上から海の洞窟の底まで、昇り降りさせられる仕掛けだった。
「洞窟の手前で、見張りに出てたキリアンと落ちあいました。……キリアンたちが着いたときには、もう荷車が置いてあったそうです。昼過ぎに、男が四人やってきて、荷車の荷を、あの滑車で、下へ下ろしていったと」
アルベルトは、紙切れの上の崖の印を、指の腹で叩いた。
「村からも町からも、離れてる。荷車が何台通ったって、誰の目にもつかない。あの滑車があれば、重い木箱でも、まとめて下の舟まで下ろせる。……王都から届いた麦も、たぶん、あそこから船に積まれてたんでしょう。どこかの港で米に化けて、北へ。それで、北から来た剣も、あそこから揚げられた」
荷馬車五十台分の麦。それを、町の中を通して運びだせば、必ず誰かの目に留まる。あの洞窟なら、留まらない。
ジェフリーは、紙切れの上の、二つの印を見比べた。
館の裏の岬に積まれた、薪の山。月が消える晩に、沖から見えるように火を入れる。
崖の洞窟の滑車。下ろされていく、剣の箱。
灯は、館がともす。荷は、洞窟から出ていく。新月の晩、沖から来る船は、館の岬の火を目印に、ドラゴンの爪あとの下へ舟を寄せる。
その段取りのすべてを決めているのは、臥せった兄に代わって館を取り仕切る、ガストンだった。
アヤの言葉が、耳の奥によみがえっていた。
帳簿は、きっと、あの館のどこかにあります。
剣も、麦も、草も、あの洞窟を通って、海へ出ていく。その流れのいちばん奥で、あの男が、何もかもを一冊に書きとめている。
明日、もう一度、あの館の扉をくぐる。
ジェフリーは、紙切れを指先でたたんだ。
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同じころ、ヴァルモントの館の書斎では、ガストンが、三通の知らせを、机の上に並べていた。
一通は、白猫の月亭の女将からのものだった。
ゆうべ、黒騎士たちの部屋の扉の外で、女将の手の者が聞いた話が、乱れた字で書きつけてあった。ガストンの名。黒騎士が、その動きに目をつけていること。剣の行き先。アジール。ドラゴンの爪あとの洞窟。
文の終わりには、今朝、廊下で、黒騎士のひとりに大恥をかかされたことが、恨みがましく書き添えてあった。
ガストンは、そこまで読むと、鼻を鳴らした。
二通めは、サルヴィアの商人、ハルセリンからの手紙だった。
妻の具合が悪いので、今日は伺えない。明日、あらためて、夫婦そろってお伺いしたい。
几帳面な字だった。
三通めは、町の服屋のメルからの、ほんの短い走り書きだった。
宿の奥方の服を、明日の朝、宿まで届ける。
ガストンは、三通を、指先で一枚ずつ揃えなおした。
黒騎士は、気づいている。少なくとも、気づきかけている。
それでも、ハルセリンは、明日、病みあがりの妻を連れて、この館へ来るという。逃げも隠れもせずに。
ガストンは、椅子の背にもたれて、天井の燭台を見上げた。
ロランへの知らせは、もうとっくに届いているはずだった。船を出させたのは、昨日の夕方だった。あの男のことだ。知らせを受けとれば、すぐに手の者を連れて、こちらへ向かってくるだろう。新月の晩には、きっと間に合う。
それまで、荷を守りきればいい。
爪あとの洞窟は、一度、黒騎士どもに踏みこまれている。危うい場所だということは、ガストンにも分かっていた。それでも、あれだけの荷をまとめて海へ下ろせる場所は、ほかにはない。月が消える晩まで、あと二晩。そのあいだ、荷を下ろす男たちのほかに、崖の上にも見張りを立たせておけばいい。少しでも妙な影が見えたら、すぐに知らせが来るように。
ガストンは、机の脇の呼び鈴を鳴らした。
すぐに、執事が姿を現した。
「納屋の荷は、ゆうべのうちに、爪あとまで運ばせたな」
「はい、旦那さま。昼のうちに、半分は下へ下ろしました」
「今夜のうちに、残りを全部、下ろさせろ。月が消えるまでに、ひとつ残らずだ。岬の薪にも、雨よけの布を二重にかけておけ。……それと、白猫の月亭の女将に、言づけを頼む」
ガストンは、メルの走り書きを、指先でつまみあげた。
「明日の朝、服屋が奥方の服を届けにくる。その服を、部屋まで運ばせろ。運んだついでに、部屋の中を、よく見てこいとな」
執事が一礼して、書斎を出ていった。
ガストンは、ハルセリンの手紙を、もう一度、手に取った。
夫婦そろって、お伺いいたします。
その一行のところで、ガストンの目が止まった。しばらく、そこから動かなかった。
ガストンは、手紙を机の上に戻すと、指輪の青い石を、親指の腹で、ゆっくりとなでた。




