40. 差し込む光
ステファンが、エステリアの王宮の客間で目を覚ましたころ。
川べりの野営地では、もう、湯を沸かすための焚き火に火が入っていた。
東の空は、ようやく白みはじめたばかりだった。川面にはまだ薄い靄がたゆたっていて、対岸の柳の枝が、その靄の向こうでぼんやりと揺れている。夜通し焚きつづけた篝火は、灰の中に赤い芯をいくつか残すだけになり、ときおり、ぱちりと小さく爆ぜては、名残の火の粉を朝の空気に散らしていた。
夜の見張りに立っていた黒騎士たちが、ひとり、またひとりと天幕へ引きあげていく。それと入れ替わるように、朝の支度をする者たちが起きだしてきて、桶を提げて川へ下りたり、鍋を火にかけたりしはじめる。黒騎士の野営地は、毎朝そうやって、夜と朝とを静かに受けわたしていた。
その受けわたしで、最初に起きだすのは、今ではノアだった。
ノアが野営地に来て、まだ幾日もたっていなかったころのことだ。夜の見張りに立つのだと、ノアは言ってきかなかった。騎士になるなら、夜通し起きていられなくちゃだめなんだ、と小さな拳を握りしめて言いはるノアの頭に、マティアスは大きな手をのせて、こう言ったのだった。
「夜の見張りより、じつは朝のほうが、みんなつらいんだ。ノアが、朝いちばんに起きて、みんなを起こしてくれると、ずいぶん助かるんだがな」
ノアは、しょうがないなあ、と口をとがらせてみせた。その口もとが、うれしさをこらえきれずにむずむずと動いていたのを、マティアスは、見ないふりをしてやった。
その晩から、ノアは誰よりも早く眠り、誰よりも早く起きるようになった。
そして今朝も、まだ眠っている天幕の垂れ幕を、ひとつずつめくってまわっている。
「エミールにいちゃん、朝だよ。起きて!」
天幕の中で、毛布の山がもぞりと動いた。
「……まだ、暗いって……」
「もう明るいよ。キリアンさんが、もうすぐ見張りから戻ってくるんだから。ほら、にいちゃん、起きてってばー」
ノアは毛布の端をつかんで、うんと引っぱった。毛布は思いのほかあっさりとずれた。と思った次の瞬間、反対側から、ぐいっと強い力で引きもどされた。
「うわっ」
気がついたときには、ノアの身体は、毛布ごとエミールの腕の中へ転がりこんでいた。エミールは目をつむったまま、ちょうどいい大きさの抱き枕でも見つけたかのように、ノアを両腕でぎゅっと抱えこんでしまった。
「にいちゃん、くるしい!」
ノアはじたばたと手足を振りまわした。エミールの腕は、びくともしない。寝ぼけているくせに、腕の力だけは、ちゃんと黒騎士のものだった。
エミールが、ノアの頭のてっぺんに顔をうずめたまま、むにゃむにゃと口を動かした。
「ノア……おまえ、きのうの夜、ちゃんと身体を拭いたか?」
ノアは、振りまわしていた腕をぴたりと止めた。
「拭いたよ!」
「うーん……じゃあ、この匂いは、服のほうか……」
エミールは、眠りの底から考えをどうにか引っぱりあげるように、しばらく黙りこんだ。
「……よし。今日は、この服を洗濯する」
「そしたらおいら、ほかに着るもの、なくなっちゃうよ」
腕の中で首をひねって、ノアが当然のように言いかえす。エミールはまた黙り、やがて、観念したように息を吐いた。
「……じゃあ、俺の着替えを、貸すしかないかあ……」
ノアの目が、ぱっと輝いた。
「黒騎士の服、着れるの?」
「……やっぱり、だめ」
「えーっ!」
ノアの声が、天幕の布をびりびりと震わせた。毛布ごしに耳もとで響いたその大声に、エミールは目をつむったまま、たまらず吹きだしていた。
そのとき、天幕の垂れ幕が、外からめくられた。
「起きろ。朝飯ができるぞ」
キリアン・タールだった。夜の見回りから戻ったその足で、起こしにきたらしい。外套の肩に、朝露がうっすらと光っている。三番隊でいちばん崖登りの得意な男で、ふだんは、ひと晩じゅう黙っていても平気な顔をしている。そのキリアンの口の端が、今朝は、めずらしくわずかに持ちあがっていた。
「それと、今夜はシチューだ。仕掛けておいた罠に、野兎が二羽かかっていた」
シチュー、と聞いたとたん、ノアがはね起きた。ノアの、何よりの大好物だった。
はね起きた拍子に、ノアの肘が、まだ毛布にくるまっていたエミールの顔に、まともに入った。
鈍い音がした。エミールは声も出せずに顔を押さえ、毛布の上で身体を丸めた。ノアのほうは、シチューのことで頭がいっぱいで、自分が何をしたのかにも気づいていない。戸口に立ったキリアンの肩が、こらえきれずに小さく揺れはじめた。
天幕の外で、誰かが鍋の蓋を鳴らす音がした。
********
リーナたちが野営地に来てから、黒騎士たちの朝は、少しずつ様子を変えていた。
かくまってもらうばかりでは、申しわけが立たない。そう言って、リーナと、同じく洞窟から助けだされたコレットとマノンは、食事の支度や洗濯を手伝うようになっていた。今朝も、焚き火の上の大鍋のまわりに、三人の女の姿があった。
朝は、決まって麦粥だった。
そのことでリーナが驚かされたのは、助けだされた翌朝、初めて鍋の前に立たせてもらったときのことだ。黒騎士たちの麦粥は、煮た麦に、塩と香辛料をひとつまみ落とすだけのものだった。そのくせ、マティアスが見せてくれた携帯の食料や調味料の袋は、村のどの家の台所よりも、ずっと種類が多かった。束ねて干した香草。煙でいぶした肉。からからに乾かした茸。小さな壺に詰めた、香りのいい油。
これだけのものを持っていて、どうしてほとんど使わないのか。リーナがそう尋ねると、マティアスは、少しばかり苦笑いを浮かべたのだった。
「料理の得意なやつが、ひとり、来るはずだったんですがね。出立の直前に、人が入れ替わりまして」
マティアスはそれ以上は何も言わず、あの朝、焚き火のそばで火加減のことを小声で言いあっていたエミールとテオのほうを、ちらりと見やっただけだった。
それならば、とリーナは思った。あの日から、鍋の前に立つたびに、手伝いに来てくれた黒騎士に、どの頃合いで、どの香草を入れればいいのかを、少しずつ教えるようになった。コレットとマノンにも、同じように教えた。
ここ二、三日、いちばんよく手伝ってくれるのは、そのマティアスだった。
大鍋いっぱいに水を汲んでくるのも、薪の束を運んでくるのも、煮えたぎった鍋を火から下ろすのも、気がつけば、あの大きな身体の副隊長がしている。リーナが重いものを持とうとするたびに、横から太い腕が伸びてきて、何も言わずに、さっさと持っていってしまうのだ。
「マティアスさんって、きっと、リーナさんのことが好きなのよ」
ゆうべ、川で皿を洗っていたとき、隣にしゃがんだコレットに、こっそりそうささやかれた。
リーナは思わず手を止めて、目を見ひらいた。
たしかに、マティアスは親切だった。けれどその親切は、リーナひとりに向けられたものには思えなかった。ノアにも、コレットにも、マノンにも、あの人は同じように手を貸している。誰にでも優しく、誰にとっても頼りになる人だった。
マティアスだけではない。エミールも、テオも、この野営地にいる黒騎士たちは、誰もが女たちに礼を尽くし、黙って重い仕事を引きうけてくれた。今のダリアの男たちとは、何もかもが違っていた。
「村の男と比べちゃうとさ、黒騎士様って、ほんとうに素敵よね」
皿を洗いながらコレットがそう続けたとき、リーナは危うく吹きだしそうになった。自分がずっと胸の中で思っていたことと、そっくり同じだったからだ。
そして、何よりもうれしかった。コレットが、また、こんなふうに男の人の話をするようになったことが。
ダリアにならず者たちが来る前、コレットは、手が空くたびにリーナの家へ遊びにきて、村の誰それがどうだの、隣の村の若い衆がどうだのと、いつまでも話しこんでいったものだった。話の終わりは、いつも決まって「結局、ダリアの男はさあ」だった。愚痴のように聞こえて、少しも愚痴ではなかった。いつか誰かと、陽だまりのような暮らしをしてみたい。そういう娘らしい憧れが、言葉の端々からこぼれていて、聞いているリーナまで、少しだけ若返ったような気持ちになった。
そのコレットが、ならず者にさらわれてから、すっかり変わってしまった。
コレットが連れていかれたのは、リーナよりも先だった。リーナが洞窟の奥の岩室へ放りこまれたとき、コレットは、冷たい岩壁に背中を押しつけ、膝を抱えて震えていた。男の足音が近づくたびに、喉が裂けるような悲鳴をあげた。何があったのか、コレットは一度も口にしなかったし、リーナも尋ねなかった。尋ねることは、自分の身に起きたことを口にするのと同じだった。
そのコレットが、今朝は鍋をかきまぜながら、黒騎士の誰それが素敵だと言って笑っている。
少しずつ、戻ってきているのだ。
コレットは匙を動かしながら、隣で香草の葉をちぎっていたマノンの顔を、横からのぞきこんだ。
「ねえ、マノンは? 誰か、気になる人とか、いる?」
マノンの指が、ぴたりと止まった。
マノンは、村でもいちばんおとなしい娘だった。今年十八になったばかりで、白い頬に、小さな桜桃のような唇をしている。伏し目がちな目もとが、いつも、何かを言いたげにやさしかった。マノンが通りを歩くと、村の若い男たちは、話の途中でも振りかえったものだ。だからこそ、ならず者たちにも目をつけられた。
きのうの朝も、そうだった。アヤ様が商人の奥方に化けるための化粧を、三人がかりで手伝ったとき、紅の色にあれこれ口を出していたのはコレットで、マノンは、黙って刷毛を動かしていただけだった。
今も、マノンは手の中の香草に目を落としたまま、何も答えなかった。ただ、耳のふちだけが、ゆっくりと赤く染まっていく。
コレットは、あー、と声をあげた。
「分かった。あれでしょ、金色の髪で、青い目の騎士様!」
マノンが、はっとしたように顔を上げて、コレットを見た。
「分かるよー。だって、すっごくかっこいいもん。わたしも初めて見たとき、こんな人がほんとうにこの世にいるんだって、目を疑ったもの」
コレットは匙を持ったまま、大げさに肩を落としてみせた。
「でもさー、あんなにかっこいいんだもん。張りあう相手が、いったい何人いるんだろうね」
リーナは、こらえきれずに笑いだしてしまった。
「ハルセリン様のことね。マティアスさんに聞いたのだけど、黒騎士の三番隊の隊長さんで、サルヴィアでは、侯爵家のご子息なんですって」
コレットは、目をまんまるにした。
「侯爵家! じゃあ、わたしたちなんか、入りこむ隙間もないじゃない。……もう、そうなったら、そのへんの黒騎士様にするしかないわね」
そのへんの、黒騎士様。
北の国にその名をとどろかせる黒騎士を、つかまえて、そのへんの、とは。この娘は、なんということを言うのだろう。リーナはまた笑ってしまった。本当に、コレットらしかった。
コレットは、まだマノンの返事を聞いていないことに気づくと、また身を乗りだした。
「マノンだったら、誰がいい? みんな優しいから、迷っちゃう? ……あ、そうだ。マノンと同じくらいの歳の騎士様、いたよね。えーっと、ほら、いつもノアと一緒にいる人」
コレットの目が、天幕の並ぶほうへ向いた。
ちょうど、ひとつの天幕の垂れ幕が開いて、ノアに腕を引っぱられたエミールが、片手で鼻の頭をさすりながら出てくるところだった。
マノンは、つられるようにそちらを見た。見たと思うと、すぐに目をそらした。手の中に残っていた香草の葉を、意味もなく、もう一度細かくちぎりはじめる。白い頬が、さっきよりもはっきりと赤くなっていた。
コレットはそれに気づかないまま、歳もちょうどいいんじゃない、と無邪気に話しつづけている。
リーナは、マノンの横顔を、黙って見つめていた。
この子は、もしかして。
胸の奥が、ふわりとあたたかくなった。自分の娘が、生まれて初めての恋をしているところを、思いがけず見つけてしまった。そんな心持ちだった。
無理もない、とリーナは思った。今のダリアの男たちは、殿様から配られる葉のせいで、誰も彼もが働く気をなくしていた。昼間から家の陰に座りこんで、畑が荒れていくのを、ただぼんやりと眺めているだけだった。そこへ、こんなに働き者で、強くて、女に礼を尽くす騎士たちが現れたのだ。マノンの心が誰かに動いたとしても、少しも不思議ではなかった。
暗い洞窟から連れだしてくれたあとも、あの人たちは、怯える女たちに必要以上に近づこうとはしなかった。それでいて、困っていれば、当たり前のように黙って手を貸してくれた。そういう毎日を、マノンは、すぐそばで見てきたのだ。
「思いだした!」
コレットが、ぱんと手を打った。
「エミール! そう、エミールさんだった! わたし、すぐ人の名前を忘れちゃうのよねー。ねえマノン、マノンは覚えてた?」
鍋のまわりに、花が咲くように笑い声がひろがった。
その笑い声の中で、マノンは香草の葉を握りしめたままうつむいていた。うつむいた口もとが、ほんの少しだけ、ほころんでいた。
その「エミールさん」は、天幕の前まで、はっきりと届いていた。
エミールは、ノアに袖を引かれたまま、ばつが悪そうに頭をかいた。
「……全部、聞こえてるんだよなあ」
隣に立ったキリアンが、何も言わずに、エミールの肩をぽんと一度叩いた。
ノアが、きょとんとした顔でエミールを見上げた。
「何が聞こえてるの?」
エミールはノアの頭に手をのせて、その髪をくしゃくしゃにかきまわした。
「なんでもないよ」
********
野営地の外れで見張りに立っていたユーリが、ふと顔を上げた。
川下のほうから、一騎の黒馬が近づいてくる。ダリアの町へ続く道ではなく、川沿いの林を大きく回りこんできたらしい。馬の脚には、草の露と泥がびっしりとこびりついていた。
セドリックだった。
隊長の言いつけどおり、つけられることのないよう、わざわざ遠回りをしてきたのだ。セドリックは野営地に入ると、鍋のまわりのにぎわいには目もくれず、まっすぐにマティアスのもとへ馬を寄せた。鞍から降りるなり、声をひそめて言った。
「隊長からの伝令です。ドラゴンの爪あとの洞窟に、見張りを立ててほしいと。近いうちに、動きがあるかもしれません」
マティアスは、すぐには答えなかった。
ゆっくりと、野営地を見わたす。丸太の囲いの中には、三十人の賊がいる。その見張りには、昼も夜も人が要る。囲いの外には、リーナたち三人と、ノア。
いま野営地に残っている黒騎士は、来たばかりのセドリックを除けば、マティアスを入れて六人だった。そのうちの二人は、エミールとテオ。黒騎士になったばかりの新人で、三十人の賊を抱えたこの野営地を、どちらかひとりに任せるわけにはいかない。
セドリックもまた、マティアスと同じように、野営地の中の顔をひとつずつ目で数えていた。
洞窟の見張りに、二人。交代のことを考えれば、それだけでは済まない。そのうえ、セドリック自身は、日が高くなる前に宿へ戻らなければならない。ここに残るのは四人。そのうち二人が新人で、それで三十人の賊と、女子どもを守ることになる。
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
賊が暴れるだけなら、まだいい。
ステファンが胸に抱えていったアヤ様の手紙は、エステリアの近衛に、囲いの三十人を引きとりに来てほしいと頼むものだった。いずれ近衛は、この野営地へやって来る。そして、ダリアの裏で糸を引いている者のひとりは、エステリア軍の上のほうか、その近衛の中にいるかもしれない。宿の部屋で、隊長はそう言っていた。
もし、そういう近衛が、三十人を引きとりに来たら。
アヤ様の手紙が呼んだ近衛だ。渡せないと言える名目は、どこにもない。そのうえ、ここはエステリアの土地だった。エステリアの王を守る騎士に、サルヴィアの黒騎士が剣を向ければ、そのひと振りで、隊長も、アヤ様も、この旅そのものも終わってしまう。
数で負ける。それ以前に、剣を抜くことさえ許されない。
セドリックは、マティアスに向きなおった。ゆうべ、宿の部屋で隊長たちと話したこと。ガストンが、黒騎士の動きを妙に気にしていること。サルヴィアの剣が、アジールへ流れているらしいこと。そして、その話が、宿の耳に入ったこと。この人には、今のうちに、すべて話しておかなければならなかった。
「副隊長。お話ししておきたいことがあります」
マティアスは、セドリックの顔を見た。
いつも何を見ても顔色ひとつ変えない斥候が、言葉を選ぶように、口をきつく引きむすんでいる。
マティアスは、鍋のほうへ一度だけ目をやった。湯気の向こうで、女たちの笑い声が揺れていた。その中に、リーナの声が混じっていた。
マティアスは、セドリックに向きなおった。
「よし。聞こう」
********
白猫の月亭の、廊下の奥の部屋には、もうすっかり朝の光が差しこんでいた。
セドリックが部屋を出ていったのは、日が顔を出したころだった。ジェフリーとアルベルト、カスパーは、ゆうべと同じように部屋に残っていた。
テッサが目を覚ましたのは、窓の外がもうずいぶん明るくなってからだった。
柔らかな寝台の上で目を開け、見なれない天井を見た瞬間、テッサは跳ね起きた。
寝坊した。いつもなら、とっくに井戸の水を汲んで、台所の竈に火を入れて、客室の水差しを取りかえて回っている時刻だった。女将さんに、叱られる。
寝台から転げおりようとしたテッサに、床に座っていたカスパーが、のんびりとした声をかけた。
「今は、まだこの部屋にいていいんだよ」
テッサは、寝台の端で固まった。カスパーは壁にもたれたまま、大きなあくびをひとつした。その、あまりにも気の抜けたあくびを見ていたら、テッサの身体からも、少しずつ力が抜けていった。
ほどなくして扉が開き、アルベルトが、盆を抱えて入ってきた。
「ほら、テッサ。朝飯だ」
盆の上には、湯気の立つ杯と、器が二つ並んでいた。
杯からは、花のようにやさしい香りの茶の湯気が立ちのぼっている。器のひとつは平たい皿で、四角く切りわけた焼き菓子がのっていた。小麦の生地に卵とバターをたっぷり練りこんで、ずっしりと焼きあげたもので、その断面には、刻んだ橙の皮が、金色の粒になって散っている。もうひとつは、深い器によそったスープだった。黄色いとうもろこしの粒をすりつぶして、乳でとろりとのばしてある。その黄色い表面から、湯気と一緒に、甘い匂いがふわりと立っていた。
テッサは、盆を見つめたまま、動けなくなった。
知っている朝ごはんだった。この宿で、毎朝、お客様の部屋へ運んでいく朝ごはんだった。テッサがこの盆を両手で持って、こぼさないように階段をのぼって、扉の前で声をかけて、卓の上に並べる。お客様が食べ残しても、それがテッサの口に入ることはない。一度も、食べさせてもらったことのないものだった。
「台所で、作るところを最初から見てた。毒見もした。大丈夫だ」
アルベルトはそう言って、盆を卓の上に置いた。
テッサは、盆と黒騎士たちの顔とを、何度も見比べた。
盆の上の朝ごはんは、ひとり分しかなかった。騎士様たちの分は、どこにもない。
「それは、テッサの分だ」
長椅子のほうから、声がした。ジェフリーだった。ゆうべと同じ長椅子に、ゆうべと同じ服のまま、背もたれにもたれもせずに座っている。
「遠慮しなくていい」
それでも、テッサは手を伸ばせなかった。
ほかの騎士様は、誰も朝ごはんを食べていない。自分だけが、本当に食べていいのだろうか。それに、ゆうべ、テッサが眠っているあいだも、この人たちはろくに眠っていないように見えた。床に座りこんだままのカスパー。ゆうべと同じ服の王子様。テッサを守るために、この人たちのほうが倒れてしまったら、どうしよう。
テッサの迷いに気づいたのか、カスパーが壁から背中を起こした。
「俺たちは、まだ腹が減ってないんだ。あとで、ちゃんと食べる。だから、テッサは先に食べていいんだよ」
テッサは、カスパーの顔をじっと見た。本当に、あとで食べるのだろうか。
テッサは、ゆうべ教わったばかりの言葉を、おそるおそる口にしてみた。
「あとで、ごはんを食べるのも……神聖な約束、ですか?」
カスパーは、一瞬きょとんとした顔をした。そのあとで、大きな手をそっと伸ばして、テッサの頭をなでた。
「もちろん。神聖な約束だ。ちゃんと守るよ」
テッサは、ようやく、こくりとうなずいた。
匙を取って、黄色いスープをすくい、口に運ぶ。とろりとした甘さが、舌の上いっぱいにひろがった。とうもろこしの甘さと、乳のやわらかさ。お客様たちは、毎朝、こんなにおいしいものを食べていたのだ。
二口目をすくったときだった。
扉が叩かれた。
開いた扉の向こうに、ゆうべのお医者様の騎士が立っていた。目の下に、うっすらと影ができている。それでもその顔は、ゆうべ廊下を駆けぬけていったときより、ずっとやわらいでいた。
「峠を、越えました」
その言葉を聞いた瞬間、王子様は、もう長椅子から立ちあがっていた。ひと言も言わずに、お医者様の騎士と一緒に部屋を出ていき、扉が閉まった。
テッサは、匙を持ったまま、閉まった扉を見つめていた。
峠というのは、山の道の、いちばん高いところのことだ。それを越えた、というのは、どういう意味なのだろう。
カスパーが、テッサの顔をのぞきこんだ。その顔が、笑っていた。
「奥様の具合が、よくなったってことだ」
テッサの目が、まんまるに見ひらかれた。
「あとで、奥様のところへお見舞いに行けるか、聞いてみような」
テッサは匙を握りしめたまま、何度も、何度も、大きくうなずいた。
********
アヤの部屋の扉が、そっと開いた。
イェンスに促されて、ジェフリーは部屋の中へ足を踏みいれた。床板の軋みを確かめながら、一歩ずつ、音を立てないように足を運んだ。背後で、扉が閉まった。
部屋は、まだ薄暗かった。窓の厚いカーテンは閉ざされたままで、その合わせ目から、朝の光がひとすじだけ、床の上に細く伸びている。卓は、ゆうべイェンスが寄せたまま、壁際に押しやられていた。アヤが倒れていた長椅子は、空になっていた。
アヤは、寝台の上で眠っていた。
重ねた枕に背を預けるようにして、毛布を肩までかけている。黒い髪が、枕の上に乱れたままひろがっていた。頬には、まだ血の気が戻りきっていない。それでも、その寝息は、ゆうべ扉の向こうから漏れ聞こえていた、あの途切れ途切れの息とは、まるで違っていた。ゆっくりとした呼吸に合わせて、毛布の胸もとが、穏やかに上下している。
ジェフリーは、その寝息を、しばらく扉のそばで聞いていた。
イェンスが、声をひそめた。
「熱さましが、よく効いています。痛みは、もうほとんど残っていないようです。あと数時間もすれば、床を離れて歩けるでしょう。お食事も、ふだんどおりで構いません」
ジェフリーの口から、長い息がもれた。ひと晩じゅう胸の奥で張りつめていたものが、ようやく、ほどけていくのが分かった。
「ただ」
イェンスは、少しだけ言いにくそうに言葉を継いだ。
「奥様のお召しものは、スカートを除いて、切ってしまいました。今は毛布をおかけしていますが、このままでは、寝台から出ていただくこともできません」
ジェフリーは、少し考えた。
「アルベルトに頼もう。あいつなら、店で事情をうまく話して、要るものを見繕ってくるだろう」
イェンスはうなずき、それで用は済んだはずだった。一礼して扉へ向かおうとしたイェンスを、ジェフリーが呼びとめた。
「イェンス」
振りかえったイェンスを、ジェフリーはまっすぐに見ていた。
「ありがとう。……すまなかった」
イェンスは、すぐには何も言えなかった。
この隊長が、こうして自分の非を認めて謝るときには、必ず、それだけの重さがあった。白い茶を、潜入の芝居に持ちだしたこと。そのうちの一枚を、ガストンの館に置いてきたこと。そうして、アヤ様を、たったひとりで部屋に残したこと。この人は、ひと晩じゅう長椅子に腰を下ろしたまま、そのひとつひとつを、何度も胸の中で数えなおしていたのだろう。目の下に落ちた影が、それを物語っていた。
そして、一枚なら持ちだしてもかまわないと答えたのは、ほかでもないイェンス自身だった。
この人は、自分の判断の誤りを、誰のせいにもしなかった。誤りを誤りとして、そのまま受けとめようとしている。
それなら、と、イェンスは思った。
「私は、隊長に白い茶を預けたことを、後悔していません」
ジェフリーの目が、わずかに見ひらかれた。
イェンスはそれ以上は何も言わず、深く一礼して、扉の向こうへ消えていった。
部屋の中に、ジェフリーとアヤだけが残った。
寝台のそばへ椅子を運ぼうとして、ジェフリーは、壁際の卓の上に目をとめた。
紙が、何枚か重ねて置いてあった。
ゆうべ、アヤが書いていたものだった。卓を動かしたときに、イェンスがひとまとめにしておいてくれたのだろう。いちばん上の紙には、見なれたアヤの筆跡で、ガストンの館の広間の様子が、こまごまと書きつけてあった。窓の数。扉の位置。ガストンが口にした言葉の、ひとつひとつ。
この宿には、耳がある。
ゆうべ、扉の外に誰かが立っていたように、昼間、この部屋に誰かが入りこまないとは限らなかった。
ジェフリーは紙の束を手に取り、ランタンの覆いを開けた。紙の端を、小さな炎に近づける。火は、紙の角をなめるように這いあがって、アヤの書いた文字を、端から黒く縮れさせていった。燃えあがる前に、空の水盤の中へ落とす。次の一枚。また次の一枚。卓の上にあった紙が、一枚、また一枚と炎に呑まれていくのを、ジェフリーは最後まで、目を離さずに見届けた。
卓の上には、もう何も残っていなかった。
水盤の灰を指先で崩してから、ランタンの覆いを閉める。ジェフリーは、寝台のそばへ椅子を運び、アヤに触れないよう、毛布の端からも少し離したところに腰を下ろした。
眠るアヤの顔を、見つめる。
守ると、誓ったのだ。
エステリアの王宮を発つ前、初夏の風の吹きぬけるあのバルコニーで、この人の手を取り、命を守ることを誓った。手の甲に口づけて、その誓いを受けとってもらった。王もまた、出立の朝、娘を頼む、と言った。
それなのに、この有様だった。
サルヴィアにいたころは、無敵だと言われたことも、一度や二度ではなかった。黒騎士の三番隊を預かる者として、どんな任務も、どうにかしてやり遂げてきた。龍の涙を探す旅に余裕などないことは、初めから分かっていたはずだった。それでも、黒騎士である以上、もう少しうまくやれると思っていた。
思いあがりだったのだ。
雪に閉ざされた北の国で、自分の知る戦い方ばかりを磨いてきた男が、知らない国の、知らない土地で、自分たちが持ちこんだ葉で、大切な人をこんな目に遭わせた。広い世界に出てみれば、自分の手の届く範囲など、こんなにも狭かった。
だからといって、今さら引き返すことはできない。
弱音を吐いて、どうする。覚悟を決めろ、ジェフリー・ハルセリン。おまえが立ちどまれば、この旅は、そこで終わる。悔やむ暇があるなら、前へ進め。誓った以上は、守りとおすしかないのだ。サルヴィアの民のために。そして、今、目の前で眠っている、この人のために。
膝の上で、ジェフリーは両手を固く組んだ。
そのとき、毛布が、かすかに動いた。
アヤのまつ毛が震えて、まぶたが、ゆっくりと持ちあがった。黒い瞳が、天井のあたりをぼんやりとさまよう。まだ、どこにも焦点が合っていない。その目が、少しずつ、寝台の脇へと下りてきた。
すぐそばに、誰かがいる。
ぼんやりとにじんだ輪郭の中に、黒い服の色が浮かんでいた。
「……ジェフリー……様?」
ジェフリーは、椅子から身を乗りだした。寝台の縁ぎりぎりのところまで、身体を寄せる。
「ここにおります」
その声を聞いて、アヤの唇が、ほんの少しだけほころんだ。
「わたくし……長い……夢の、中に……いたみたいで……」
まばたきを、ひとつ、ふたつ。にじんでいた輪郭が、少しずつ形を結んでいく。乱れた淡い金の髪。眠っていない目もと。心配そうに、こちらをのぞきこんでいる青い瞳。
「まだ……夢の、なか……かしら……」
アヤの手が、毛布の下から、ゆっくりと伸びてきた。目に映っているものが、本当にそこにあるのかどうか、確かめようとするように。白い指が宙をさぐりながら、ジェフリーのほうへ近づいてくる。
ジェフリーは、右手を、その指の届くところへ、そっと差しだした。
自分からは、触れなかった。まだ、痛むかもしれない。ゆうべ、指先を包んだだけで、この人は身をよじって叫んだのだ。
アヤの指先が、ジェフリーの指に触れた。
触れて、すぐに離れた。離れて、もう一度、そっと触れた。夢ではないことを、一本ずつ、指先で数えて確かめるように。
ジェフリーは、たまらなくなった。
両手で、アヤの手を包んだ。割れやすい硝子の器を、手のひらで囲うように、そっと。力は、少しも込めなかった。
アヤは、痛がらなかった。
手のひらの中に、ぬくもりが伝わってきた。
ゆうべ、指一本触れることさえできなかった手が、今、自分の手の中にある。冷たくもなく、震えてもいない。生きている人の、あたたかさだった。
生きている。
その実感が、胸の真ん中から、泉のように湧きあがってきた。うれしさとも、安堵ともつかないものが、とめどなく満ちてくる。どうしようもなく、この人がいとおしかった。
「……あたたかい……」
アヤが、そうつぶやいて、目を細めてほほえんだ。
ジェフリーは、両手で包んだアヤの手を、自分の手ごと、そっと額に当てた。
目を閉じて、あふれてくるものに、ほんの少しのあいだだけ、身をまかせた。
カーテンの合わせ目から差しこむ光の筋は、さっきよりも少しだけ、その位置を変えていた。




