39. 待つ者たち
林檎と蜂蜜の甘い匂いが、まだ部屋の中に残っていた。
杯が空になっても、テッサの涙は、しばらく止まらなかった。
黒騎士たちは、誰もテッサに何も問わなかった。カスパーは寝台の端に腰を下ろしたまま、窓の外の闇を眺めていた。アルベルトは、空いた杯をひとつずつ盆に戻していく。セドリックは扉の脇の壁に背を預け、腕を組んで目を伏せていた。部屋の中で動いているものといえば、卓の上のランタンの炎と、しゃくりあげるたびに揺れる小さな背中だけだった。
しゃくりあげる間が、少しずつ長くなっていった。
テッサが前掛けの端で顔をぬぐい終えたころ、長椅子の座面が、ぎしりと沈んだ。
ジェフリーが、テッサのすぐ隣に腰を下ろしていた。
卓をはさんだ向かいではなかった。テッサが顔を上げれば、すぐそこに黒い軍服の袖が見える。小さな声で話しても、ちゃんと届く近さだった。
テッサは、その袖を、そっと盗み見た。
近くで見ると、黒い布の上を、細い金の糸が走っていた。袖口から肘のあたりまで、蔓が絡みあうような模様が縫いとられていて、ランタンの灯りを受けるたびに、ちらちらと光る。村の祭りで見た、どんな晴れ着にも似ていなかった。
触ってはいけないもの、という気がした。指で触れたら、そこだけ曇ってしまいそうな。それなのに、目を離すことができなかった。いつだったか、麦畑の真ん中で、遠い空を渡っていく白い鳥の群れを、首が痛くなるまで見上げていたことがある。あのときと、同じ気持ちだった。どんなに手を伸ばしても届かないのに、ずっと見ていたくなる。
「あの……」
自分でも驚くほど、かすれた声が出た。
テッサは、隣の顔を見上げた。
「奥様は……助かりますか?」
ジェフリーは、すぐには答えなかった。
テッサの目をまっすぐに見て、閉ざされた奥様の部屋のほうへ、ほんの少しだけ顔を向ける。ひと呼吸ぶんの間があった。
「今、元気になるように、手当てをしている」
約束でも、慰めでもなかった。本当のことだけを、怖がらせない形にくるんで、そっと手渡されたような答えだった。
テッサの頭に、奥様の部屋の扉が閉まる前に見た姿が浮かんだ。薬の袋を抱えて、階段を駆けあがってきた黒い服の男。テッサの知っているお医者様は、白い髭を生やして、革の鞄を提げて、村の家を一軒ずつゆっくりと回る人だった。あんなふうに、風のように飛びこんではこない。
ジェフリーは、テッサが何を考えているのか分かったように、言葉を足した。
「妻を診ているのは、イェンスという。これまで、俺たちのような騎士を、数えきれないほど手当てしてきた男だ。剣の傷も、熱も、毒も見てきた。……信じていい」
騎士様が、お医者様のようなこともする。
テッサは、生まれて初めて、それを知った。剣を振るって悪い者を倒すだけではなく、倒れた人を起こすこともできるのだ。王子様の家来は、なんでもできる。だから、おとぎ話の魔女だって、ちゃんと捕まえられる。
そこまで考えて、テッサの喉が、ひくりと鳴った。
魔女。
奥様の飲みものには、毒が入っていた。その飲みものをこしらえたのは、テッサだった。
テッサは、また膝の上に目を落とした。
「奥様の、飲みもの……いつものように、つくりました。いつもと、ちがうのは……生姜を、入れたことだけで……」
かり、と、背中のほうで小さな音がした。
テッサは、びくりと振りかえった。
扉の脇で、セドリックが小さな帳面を開いていた。壁に背を預けたまま、細い炭筆を走らせている。テッサが口をつぐむと、炭筆の音もぴたりと止んだ。
もう、取り調べは始まっていたのだ。
ただ、それは、黒騎士がいつも囚われた者に向けるような取り調べではなかった。迷子になった子どものそばに、迎えが来るまで心細くないようにと、ついていてくれる大人がいる。その大人が、ぽつりぽつりと話しかけてくる。そういう穏やかさだった。
「あの白い飲みものは、いつもテッサが作っているのか」
テッサは、少しだけ迷ってから、こくりとうなずいた。この人には、何ひとつ嘘をついてはいけない気がした。
「はい……いつも、わたしです。女将さんが、作り方を教えてくれました。お客様が、喜ぶ飲みものだって」
「そうか」
ジェフリーは、卓の上の空になった杯に目をやった。
「さっき、ひと口だけ味を見た。甘くて、うまい飲みものだった。客が喜ぶのも、よく分かる」
テッサは、目をしばたたいた。
あのとき、この人は、ひと口含んだと思ったら、すぐに布へ吐きだしていた。白い茶だ、と、ぞっとするような声で言っていた。それなのに今は、おいしかったと言う。
テッサを安心させるための嘘なのかもしれなかった。それでも、少しも嫌な気持ちはしなかった。王子様が、テッサのこしらえた飲みものを、おいしかったと言ってくれた。胸の奥のどこかに、小さな灯りがぽっとともったようだった。
「ところで、テッサ」
ジェフリーは、同じ調子のまま続けた。
「あの飲みものには、花が浮かんでいた。あの花は、どこから持ってきた」
壁際の炭筆の音が、止まった。
急に音がしなくなったのが、テッサには、なんだか怖かった。窓の外を眺めていた大きな黒騎士も、いつのまにか、こちらを向いている。部屋じゅうの大人たちが、テッサの次の言葉を、じっと待っているような気がした。
テッサは、あちこちへ目を泳がせながら、思い出そうとした。
「お花は……お店の、裏のお庭で摘みました。お庭に少ないときは、道ばたに咲いてるのを探します。家畜のいないところで。家畜のそばのお花は汚いって、女将さんが、怒るから……」
女将さんが、怒る。
その言葉を口にしたとたん、テッサの身体がこわばった。何かを思い出したように、膝の上の手が、また小刻みに震えはじめる。震えは、見る間に大きくなっていった。
その手の上に、ジェフリーの手が重なった。
さっきと同じ、大きくて、あたたかい手だった。押さえつけるのではなく、ただ包むように置かれている。ここには、怖いものは何もない。もし来たとしても、ここにいる騎士たちが追いはらう。手のひらの重みが、そう言っているようだった。
テッサの震えが、少しずつ小さくなっていった。
ジェフリーは、それがすっかり収まるのを待ってから、口を開いた。
「今日の花も、全部、店の庭で摘んだものか」
テッサは、膝の上に重ねられた手を見つめたまま、少し考えて、大きくうなずいた。
「全部、お庭のです」
「では、あの飲みものを作る手順を、教えてもらえるか」
テッサは、思わず顔を上げた。
すぐそばに、ジェフリーの顔があった。
作り方を聞かれたのは、初めてだった。お客様が口にするのは、いつも、甘いとか、きれいだとか、飲んだあとのことばかりだった。
ジェフリーは、ふと思いついたように付け足した。
「誰にも教えるな、と言われているなら、無理には聞かない」
テッサは、女将さんに言われてきたことを、ひとつずつ思い返してみた。こぼすな。割るな。走るな。お客様の前で泣くな。作り方を人に教えるな、とは、一度も言われたことがなかった。
だったら、話してもいい。こんなに親切にしてくれる王子様になら。
「ええと……最初に、乳と、壺に入ってるやわらかいチーズと、お砂糖を、器に入れて混ぜます。ぜんぶがきれいに混ざったら、井戸から水を汲んできて、それでのばします。井戸の水は、混ぜるすぐ前まで、汲んできちゃだめなんです。少しでも冷たいほうが、おいしいから」
話しているうちに、テッサの声に、少しだけ張りが戻ってきた。
「最後に、お庭で摘んできたお花を、ひとつずつ洗って、浮かべます。お花についてた葉っぱも、きれいなのだけ細かくちぎって、まわりに散らします。白いところに緑があると、きれいに見えるから」
ジェフリーは、ひと言も聞きもらすまいとするように、黙って耳を傾けていた。テッサが話し終えても、すぐには口を開かなかった。
「今日の葉も、庭の花についていたものか」
「はい。……たぶん」
ジェフリーは、ゆっくりと息を吐いた。
テッサから目を外し、窓の向こうの、何も見えない闇のほうへ顔を向ける。今聞いた手順を、頭の中でひとつずつ並べなおしているようだった。
壁際では、セドリックが帳面を少し傾けて、自分の書きつけた行を指でなぞっていた。寝台の端のカスパーは、膝の上で組んだ指に、ぎゅっと力をこめていた。
辻褄が、合わない。
この部屋にいる黒騎士の誰もが、同じことを考えていた。
テッサの話がすべて本当なら、白い茶の葉は、この宿の裏庭に生えていたことになる。厳重に燻された薄氷草が、田舎の宿の花壇で、花と並んで風に揺れていたことになる。
そんなことが、あるはずはなかった。
だとすれば、この子の話のどこかに、抜け落ちているものがある。
「隊長」
扉のそばから、アルベルトが声をかけた。
「俺からも、ちょっとテッサに聞いていいですか」
さっき、林檎の飲みものを作るところを、台所で最初から見ていたと言った男だった。いつもの軽い口ぶりはそのままに、その目だけが、獲物の匂いを嗅ぎあてかけた猟犬のように光っていた。
ジェフリーがうなずくと、アルベルトは長椅子の前にしゃがみこんだ。大きな身体を折りたたんで、テッサと同じ目の高さになる。
「なあ、テッサ。台所には、壺だの皿だの籠だの、いろんな入れものが置いてあるだろ。今日、あの飲みものを作るときに触ったものを、覚えてるか」
テッサは、また目を泳がせた。
乳の壺。砂糖の壺。やわらかいチーズの皿。井戸の桶。花を洗うための、木の鉢。どれも、いつもと同じものばかりだった。
――あ。
声がもれかけて、テッサは慌てて唇を噛んだ。
遅かった。その一瞬の顔を、ジェフリーも、アルベルトも、見逃してはいなかった。
テッサは、今日、ひとつだけしくじっていた。
そのことを、女将さんはまだ知らない。知られたら、ただでは済まない。この人たちに話したら、きっと女将さんの耳にも入ってしまう。そうしたら、朝になって納屋に戻ったとき――
テッサの顔から、すうっと色が引いていった。
テッサは、肩越しに、一瞬だけ背後の扉を振りかえった。廊下の向こうに、誰かが立っていないかを確かめるように。
ジェフリーは、その小さな仕草を見ていた。何かを思い出したときのテッサは、まだ怯えてはいなかった。怯えたのは、扉を振りかえった、そのあとだった。
この子を怖がらせているのは、思い出したことそのものではない。それを、扉の向こうにいる誰かに知られることだ。
「何か思い出したのなら、話してほしい」
テッサは、ジェフリーを見た。でも、と言いたげに唇が動いて、声にならなかった。
ジェフリーは、テッサの手に重ねていたのとは反対の手を、小さな背中に回した。てのひらで、背中を、ゆっくりと一度だけなでおろす。
「大丈夫だ。ここで聞いたことは、女将には言わない。約束する」
約束。
テッサは、村の誰かが言っていた言葉を思い出した。騎士の約束は、神聖なものだ、と。
神聖、というのが何なのか、テッサにはよく分からなかった。教会の鐘とか、お祈りのときの蝋燭とか、そういうものの仲間なのだろうか。騎士の王子様なら、きっと知っている。
「騎士の約束は……神聖、ですか?」
おそるおそる尋ねると、ジェフリーの口もとが、ふっとほどけた。
「ああ。騎士の約束は、神聖なものだ。だから、必ず守る」
テッサの胸の奥で、固く結ばれていた何かが、ゆるんだ。
テッサは、膝の上の手を見つめたまま、口を開いた。
「夕方……女将さんに言われて、ヴァルモントのお屋敷に、お使いに行きました。商人の旦那様と奥様が、宿にお着きになりましたって、お伝えしに」
壁際で、炭筆がまた紙の上を走りはじめた。
「帰りに、お屋敷の裏口で、お屋敷の人が、小さな包みをくれました。女将さんに渡しなさいって。……走って帰って、女将さんに渡したら、女将さんは、中をちょっとだけのぞいて、ふうん、って言って……台所の棚の、いちばん隅っこに、ぽいって」
テッサは、女将の手つきを思い出したのか、首をすくめた。
「そのあと、お庭にお花を摘みに行きました。奥様のお飲みものに浮かべるお花です。奥様がお疲れだって聞いたから、いちばんきれいなのを選ぼうと思って……」
声が、そこで少しだけ揺れた。
「両手いっぱいにお花を抱えて、裏口から台所に入ったときに……敷居に、つまずいて。転びそうになって、棚の角に、肩をぶつけて……お花が、床じゅうに、ばあって」
ランタンの灯りの向こうに、その光景が見えるようだった。日の暮れかけた薄暗い台所。床いっぱいに散らばった白と薄紅の花。その真ん中で、ぶつけた肩を押さえてうずくまる、小さな女の子。
「そしたら、上から、何か落ちてきて……」
「包みか」
ジェフリーが言うと、テッサは、泣きそうな顔でうなずいた。
「棚の隅っこに置いてあった、あの包みです。床に落ちて、口のところがほどけちゃって……。お屋敷からお預かりした、大事なものなのに。中のものが壊れてたら、どうしようって」
細い肩が、そのときの怖さをなぞるように縮こまった。
「女将さんは、帳場にいました。わたし、ずっと耳をすませてました。廊下から、女将さんの足音が聞こえてこないかって。聞こえてこないうちに、急いで、お花のあいだを探しました」
「何が、見つかった」
「紙が、一枚だけです。何か、字が書いてありました。……わたし、字が読めないから、何て書いてあるのかは、分かりません」
炭筆の音が、ひと呼吸ぶんだけ止まって、また続いた。
「ほかには、何もありませんでした。お花と、紙だけ。だから、包みの中は、きっとその紙だけだったんだって思って……。紙を包みに戻して、口を結んで、棚の隅っこに戻しました。女将さんに、見つかる前に」
テッサは、そこで大きく息を吸った。
「それから、床のお花を拾って、ひとつずつ、洗いました。床に落ちたお花を、奥様に出すわけにはいかないから。踏まないように、つぶさないように、そうっと……」
話し終えると、テッサは、自分の膝をじっと見つめた。
部屋の中が、しんと静まりかえっていた。
「テッサ」
ジェフリーの声は、さっきと少しも変わらなかった。
「拾い集めた花の中に、大きな葉はあったか」
テッサは、目をまるくした。どうして、この人はそれを知っているのだろう。
「ありました。黒っぽくて、かさかさした、大きな葉っぱが一枚。なんのお花の葉っぱか、分からなくて……お庭でお花を摘んだときに、一緒にくっついてきたんだと思いました。床に落ちて汚れちゃったから、黒っぽく見えるんだと思って……」
それだ。
ジェフリーの顔から、ふっと表情が消えた。ばらばらに散っていたものが、頭の中で、音を立てて一本の線につながっていく。
包みの中に入っていたのは、紙だけではなかったのだ。床に落ちた拍子に、乾いた葉が一枚、花のあいだにまぎれこんだ。紙だけを拾ったテッサは、その葉に気づかなかった。そして、花についてきた葉だと思いこんで、洗って、ちぎって、奥様の杯に散らした。
ジェフリーは、長椅子の背に身体を預けて、長い息をついた。
「……おそらく、俺がガストンの館に置いてきた葉だ。一枚だけ」
アルベルトが、しゃがんだまま振りかえった。
「なんでまた、それをわざわざ宿の女将に」
ジェフリーは、ほんの少しだけ言いよどんだ。子どもの前で口にするには、あまり具合のいい話ではなかった。
「あの男には、娼館の女に売る葉だと言ってある。本物かどうか、ここで試させたかったんだろう」
アルベルトは、それ以上は聞かなかった。この宿で、本当なら誰の杯にその葉が入るはずだったのか。言われなくても分かった。
アルベルトは、テッサのほうへ向きなおった。
「その大きな葉っぱ、全部、飲みものに入れたのか」
テッサは、首を横に振った。
「葉っぱの先のところが、くしゃっと折れ曲がってて、そこだけ、どうしても汚れが落ちなかったんです。だから、そこはちぎって捨てました。あとの、きれいになったところは、細かくちぎって、ぜんぶ……」
「ぜんぶ」
アルベルトは、思わず聞きかえしていた。
テッサは、こくりとうなずいた。奥様のために、いちばんきれいなところを選んだのだと、言いたげな顔だった。
アルベルトの顔から、軽さが消えた。
一枚の葉の、ほとんどすべて。それが、あの杯の中に入っていた。
隊長の言葉を待つまでもなかった。アルベルトは、もう立ちあがっていた。
「イェンスに、伝えてきます」
扉が開いて、閉まった。廊下を遠ざかっていく足音は、走ってはいなかった。宿じゅうに慌ただしさを聞かせないための、押し殺した急ぎ足だった。
テッサは、閉まった扉とジェフリーの顔を、不安そうに見比べた。葉っぱを洗って入れたことの、何がいけなかったのか、テッサには分からなかった。
ジェフリーは、テッサの手を、もう一度そっと包んだ。
「話してくれて、ありがとう」
テッサは、重ねられた大きな手を見下ろした。
おとぎ話の騎士は、剣を振るうときにだけ強いのだと思っていた。お姫様をさらったドラゴンを倒し、悪い魔女を捕まえて、白い馬で去っていく。強い、というのは、そういうことなのだと。
けれど、この人は、待っていてくれた。
怖くて言えなかったことを、テッサが自分の口で言えるようになるまで、急かさずに、ずっと隣に座っていてくれた。
テッサには、それが、剣を抜いたどんな騎士よりも、かっこよく見えた。
********
浅瀬の水音は、変わらずに闇の底で鳴りつづけていた。
ヨハンが縛りあげた男を木の根もとに転がし、三人は、細く絞ったランタンの灯りを囲んでしゃがみこんでいた。グスタフの手の中で、一度握りつぶしかけた書状が、しわだらけのまま広げられている。
「ステファンは、もう王宮に着いてるころだ」
グスタフは、王都の方角の闇をにらんだ。
「手紙も、もう陛下に渡したはずだ。早けりゃ明日の朝には、近衛が城を出る」
ヨハンが、ごくりと唾をのんだ。
「じゃあ、ステファンが連れて帰ってくるのは……その団長の手下ってことですか」
「手下ならまだいい。団長が自分で出てこねえとも限らねえ」
グスタフは、手の中の書状に目を落とした。
「どっちにしろ、ステファンは何も知らねえ。迎えに来てくれた近衛だと思って、敵と並んで馬を進めることになる」
ディーターは、黙っていた。木の根もとの男の頬に浮いた、赤と緑のまだらを、じっと見ていた。
洞窟で、この男を取り逃がしたのは、ディーターだった。追いすがって、刃がとどいたのは、頬と足首だけだった。あの夜、野営地に戻ってから、ディーターはほとんど誰とも口をきかなかった。逃がした男が、どこで誰に何を知らせるのか。考えるたびに、腹の底が冷えた。
その男が、今、自分の足もとに転がっている。
取り逃がしたしるしが、遠回りをして、とんでもないものを連れて戻ってきた。
グスタフは、書状をていねいにたたみなおした。
「三つに分かれる」
ふたりが、顔を上げた。
「ヨハン。お前は、こいつを連れて、あとから来い。急がなくていい。逃がさねえことだけ考えろ。こいつには、生きたまま口を開いてもらわなきゃならねえ」
「どこへ連れていけば」
「王都の方角へ、ゆっくりだ。そのうち、ディーターが、陛下の寄こした兵を連れて戻ってくる。道のどこかで行き会ったら、そっちへ渡せ」
ヨハンは、口を引きむすんでうなずいた。
グスタフは、ディーターのほうへ向きなおった。
「ディーター。お前は、この書状を持って、まっすぐ王都へ行け。近衛には、死んでも見せるな」
ディーターは、書状とグスタフの顔を見比べた。王都の大通りに立つ自分の姿が、うまく思い描けないという顔だった。
「行って、誰に渡すんです。王宮の門を守ってるのは、その近衛でしょう」
「陛下だ」
ディーターが、ぽかんと口を開けた。
「アヤ様が、ステファンを送りだすときに言ってただろう。必ず、陛下の御手に直接お渡しください。途中で、誰にも預けないでください、ってな」
グスタフは、書状を指で叩いた。
「あのときは、ずいぶん念を押すもんだと思ったが、今なら分かる。アヤ様は、王宮の中の誰が敵か分からねえと、とっくに気づいてたんだ。……お前も、同じようにしろ。陛下のほかには、誰にも渡すな」
「門で、なんて言えばいいんです」
「ステファンと同じ隊の者で、アヤ様の使いの続きだ、とだけ言え。ステファンが手紙を届けたばかりだ。黒騎士がもうひとり来たって、門の連中は、そう不思議には思わねえ」
ディーターは、書状とグスタフの顔を、もう一度見比べた。
「陛下が、俺みたいなのに会いますかね」
「会うまで、門の前を動くな。黒騎士の外套を着た男がひとり、いつまでも門の前に座りこんでりゃ、そのうち、誰かが様子を見に出てくる」
乱暴な理屈だった。それでも、グスタフが言うと、本当にそうなりそうな気がした。
「で、グスタフさんは」
ヨハンが聞くと、グスタフは、ランタンの灯りの向こうで、にやりともせずに言った。
「俺は、近衛の隊列を探す。見つけたら、迎えに来たって顔で混ざって、ステファンのそばにつく」
ヨハンが、目をむいた。
「近衛の真ん中に、ひとりで?」
「ひとりのほうが目立たねえ。三人で押しかけりゃ、何かあったと白状するようなもんだ。……それに、あの若いのを、ひとりで敵の真ん中に置いとけるか」
ヨハンは、それでも引かなかった。
「ステファンのそばにつくなら、俺も行きます。こいつは縛って、どこかの村に預けておけば――」
「村に預けて、近衛が取りかえしに来たらどうする」
グスタフが、ヨハンの声をさえぎった。
「この辺りの村の連中が、近衛の紋を突きつけられて、首を横に振れると思うか。こいつは、団長殿に書状を届けるはずだった男だ。こいつが着かなきゃ、向こうは必ず探す。探しに来たやつらに、こいつを渡すわけにはいかねえんだ」
ヨハンは、木の根もとに転がされた男を見た。男は、縄の中で身を縮めて、三人の顔色を上目づかいにうかがっていた。
ヨハンは、それきり口をつぐんだ。膝の上で、拳を握りしめていた。
グスタフは、その拳にちらりと目をやった。その目が、木の根もとに転がる男の手首へ移った。
縄は、手首と足首を一本でつなぎ、男がどうもがいても、結び目が締まる一方になるように掛けてあった。浅瀬で取り押さえたあと、ヨハンが、暗がりの中で手早く結んだものだった。男の腰の革袋から、近衛の鉄の札を探りあてたのも、ヨハンだった。
グスタフは、少しだけ声の角を落とした。
「その縄を見りゃ分かる。お前の結んだもんは、ほどけねえ。……だから、こいつを任せるんだ」
グスタフは、腰の物入れから、すり切れた帳面と短い炭筆を取りだした。帳面の白いところを一枚、端からびりびりと破りとる。
その紙と炭筆を、ヨハンの胸もとへ突きだした。
「書け」
「俺がですか」
「陛下に、ひと言添える。俺の字は、報告を出すたびに、隊長に読めねえから書きなおせって突き返されるんだ。陛下の前で、それをやられちゃかなわねえ」
ディーターが、こらえきれずに、ふっと吹きだした。闇の中で、肩が小さく揺れている。グスタフは、ちらりとそちらを見ただけで、何も言わなかった。
ヨハンは、膝の上に帳面を置いて、紙を広げた。
「なんて書きます」
グスタフは、少し考えた。長く書けば、それだけ途中で誰かの目に触れたときに危うくなる。
「近衛を信じるな。それだけでいい」
ヨハンは、炭筆を走らせた。
――近衛を信じるな。
ランタンの灯りの中で、黒い文字が、やけに重たく見えた。
ディーターは、その紙と書状を重ね、男の腰の革袋から出てきた鉄の札と一緒に油紙でくるむと、外套の内側の、いちばん奥にしまった。胸の上を一度、てのひらで押さえる。
それから、自分の馬の手綱を取った。
「行ってきます」
「おう。落とすなよ」
ディーターは鞍に飛び乗ると、浅瀬を渡って、王都へ続く一本道へ駆けだしていった。蹄の音が、見る間に闇の向こうへ遠ざかっていく。
グスタフは、その音が聞こえなくなるまで、じっと街道の先を見ていた。
あの若いのは、今ごろ、王宮のどこかで、ようやく横になっているころだろうか。隊長とアヤ様の手紙を届けおえて、安心しきって。
自分が、誰を呼んでしまったのかも知らずに。
グスタフは、膝についた砂を払って立ちあがった。
「ヨハン。夜が明けたら、俺も出る。それまで、少しでも眠っとけ」
********
薄暗い部屋に、ランタンがひとつだけ灯っていた。
イェンスは、長椅子のそばに膝をつき、アヤの手首の内側に指先を添えていた。羽根を一枚のせるほどの、軽さで。
脈は、さっきよりも落ち着いていた。狂った小鳥のように跳ねていた拍子が、今は、坂道をのぼりきった旅人の足どりくらいにまで戻っている。痛みの波が、いっとき引いているのだ。
今のうちに、水を飲ませなければならない。
つい先ほど、扉を叩いたアルベルトから、葉の量を聞いたばかりだった。一枚の、ほとんどすべて。杯の底をのぞいたときから、覚悟はしていた。それでも、言葉にして聞かされると、背中を冷たい手でなでおろされたような気がした。
イェンスは、そのとき、アルベルトに頼みごとをした。水差しいっぱいの水と、きれいな杯と、匙。それに、できれば軽い毛布を。
ほどなくして戻ってきたアルベルトは、大きな水差しを、両手にひとつずつ提げていた。
「どっちも、毒見は済んでる。台所で、俺が汲んだ」
二つ。
病人に水が要ることくらい、黒騎士なら誰でも知っている。この水がアヤ様の命をつなぐのだと思えば、一つでは足りない気がしたのだろう。こんなときだというのに、イェンスは、口の端がゆるみそうになった。水がどれほどあっても、今のアヤ様には、匙で一杯ずつしか飲ませられないのだ。
「毛布は、この部屋にあるのが、宿でいちばん上等で軽いやつだそうだ。女将がそう言ってた」
アルベルトは、扉の隙間から部屋の奥を見ないようにしながら言った。
「みんな、廊下の奥の部屋にいる。何かあったら、呼んでくれ。……頼んだぞ」
扉が、閉まった。
イェンスは、杯に水を注ぎ、まず自分の口に含んだ。舌の上を、ただの冷たい水が流れていった。匙は、布で念入りに拭った。
「奥様。少し痛むかもしれませんが、水を飲みましょう」
宿の中では、どこに耳があるか分からない。野営地からの夜道で、セドリックがそう言っていた。だからイェンスは、この人を、奥様と呼んだ。
匙に水をすくい、乾いた唇の端へ、そっと寄せる。
ひと匙。唇がかすかに動いて、水を受けいれた。
ふた匙めを運ぼうとしたとき、アヤの唇が、離れていく匙を追うように、わずかに前へ出た。
イェンスは、急がなかった。ひと匙ずつ、喉が動くのを確かめてから、次をすくう。水がもし気管に入れば、激しく咳きこむことになる。咳は、身体じゅうを揺さぶる。今のアヤにとって、それは、全身を鞭で打たれるのと変わらなかった。
杯一杯ぶんの水を、時間をかけて飲ませ終えた。
もう一度、手首の内側に指先を添えて、脈を確かめる。胸の上下する速さに目をこらし、唇の色を見る。指先に、また震えが来てはいないか。
アヤの足が、ときおり、長椅子の上で苦しげに動いていた。
上の衣は、さっき切り開いてあった。胴着の紐を断ち、ブラウスを前から裂いて、肌から浮かせるように左右へ広げてある。スカートには、まだ手をつけていなかった。腰の幅広の革帯をはずし、重ねた布の結び目を、少しゆるめただけだった。
女性の衣を、どこまで解いていいのか。軍医として多くの身体を診てきたイェンスにも、すぐには決められなかった。
アヤの足の動きは、さっきから少しも収まらない。
白い茶の痛みは、絶え間なく続くわけではなかった。大きな波のように押し寄せては、いっとき引いていく。引いているあいだなら、肌に触れても、どうにか耐えられるほどの痛みで済む。次の波がいつ来るのかは、誰にも分からない。来てしまえば、布を一枚動かすことさえ、この人を責めさいなむことになる。
やるなら、波の引いている今しかなかった。
スカートは、何枚もの布を重ねて腰に巻きつけ、紐で結んだものだった。旅のあいだに身体の形が変わっても、巻き方ひとつで合わせられるように仕立ててあるのだろう。結び目は、もうゆるんでいる。これなら、切らずに済む。
「失礼いたします」
イェンスは、重ねられた布の端を、一枚ずつ、ゆっくりと肌から離していった。
アヤの顔が、苦痛にゆがんだ。
まだ、痛みは残っている。時間をかければかけるほど、苦しませることになる。イェンスはそこから先を、できるかぎり手早く済ませた。布を広げて、左右へ逃がす。
その下から現れたものに、イェンスの手が止まった。
下履きの上に、革の帯が巻きついていた。
腰をひと巡りした帯から、何本もの細い帯が、腿のつけ根のほうへ回りこんでいる。帯と帯の継ぎ目ごとに、小さな金具が鈍く光っていた。
貞操を守るための、防護帯。
話には聞いたことがあった。この目で見るのは、初めてだった。
なんてものを――
そう思いかけて、イェンスは言葉をのみこんだ。
この人は、女性なのだ。そのうえ、一国の王女なのだ。男ばかりの騎士の一団に混じって、何十日もの旅に出る。この人の身を案じた誰かが、これを持たせたのだろう。そしてこの人は、それを毎朝、自分の手で締めてきたのだろう。
足が苦しげに動いていたのは、これのせいだった。汗でふやけた肌に革が食いこみ、金具のひとつひとつが、焼けた釘のように肌を責めている。
身を守るはずのものが、今は、この人をいちばん苦しめていた。
あとでこのことを知ったら、この人は、どれほど苦しむだろう。手当てのためとはいえ、男の手でここまで解かれたと知ったら。
そう思うと、イェンスの胸の奥も、きしむように痛んだ。
それでも、手を止めている暇はなかった。
留め金を探す。腰の脇に、ひとつ。革の帯を挟みこむように、しっかりと噛みあっている。金具を外そうと帯を引けば、その分だけ、帯が肌に食いこむ。アヤの喉から、細い呻きがもれた。
イェンスは、両手の指先で革をわずかに浮かせ、肌から離したところで、金具を外した。ひとつ外れると、残りの金具も、順に外すことができた。最後のひとつが外れると、防護帯全体が、ふっとゆるんだ。
それを広げようとしたとき、手の甲が、その下の薄い麻の下履きに触れた。
イェンスは、はっと手を引いた。
湿っていた。
血か。
とっさに、そう思った。どこかに傷があるのか。
ランタンを引き寄せて、目をこらす。赤い色は、どこにもなかった。
汗だった。
痛みに耐えるあいだに噴きだした汗が、薄い麻を、絞れば滴りそうなほどに濡らしていた。
これほど、苦しんでいたのだ。
声にならなかった分を、この人の身体は、こうして流しつづけていた。
濡れた布は、乾いた布よりも重く、肌にはりつく。これも、取らなければならない。
「奥様、申し訳ありません」
イェンスは小刀を取り、刃先が肌に触れないように、下履きの布を慎重に切り開いた。
それで、アヤの身体を覆うものは、何もなくなった。
イェンスは、軍医として、数えきれないほどの身体を見てきた。男のものも、女のものも。どれも、傷を負い、熱に焼かれ、一刻も早く手当てをしてやらねばならない身体だった。手を尽くせば、その分だけ、楽にしてやれる身体だった。
今、目の前にある身体は、そのどれとも違っていた。
触れれば、痛む。介抱しようと手を伸ばすほどに、苦しみが増す。ただ、時が過ぎるのを、耐えて待つしかない身体だった。
これが、白い茶だった。
だからこそ、あの葉は、一枚ずつ数えられ、帳面に記され、決められた者の手で、決められた手順を踏んでしか扱ってはならないことになっている。使い方を知らない者の手に、渡ってはならないものなのだ。
潜入のためとはいえ、持ちだすべきではなかった。
いや、とイェンスは思いなおした。誰かのせいにできることではなかった。
偽の夫婦の支度をしていた日の朝、川べりの野営地でのことを、イェンスは覚えていた。
薬の木箱を机がわりにして帳面をつけていると、隊長に名を呼ばれた。白い茶の葉は、あとどれくらい残っているか。イェンスは帳面をめくって、残りの数を答えた。
隊長は、ガストンにこの葉を見せるつもりだと言った。あの男がこの葉を知っているのかどうか、確かめたい。知っているそぶりを見せたら、必要に応じて、一枚だけ置いてくる。
――かまわないか。
隊長は、そう尋ねた。命じれば済むことを、わざわざ、葉を預かる者に尋ねたのだ。
イェンスは、少し考えてから答えた。
――一枚なら。こちらが使わせないかぎりは、問題ないでしょう。
隊長はうなずき、イェンスは、帳面のその日の欄に書きつけた。一枚、持ちだし。見せるため。使う予定なし。
使う予定なし。
その一行が、今になって、喉の奥に刺さっていた。
相手の手に渡ったものを使うか使わないか、決めるのは、もうこちらではない。そんな当たり前のことを、あのときの自分は考えもしなかった。他人の手にゆだねるものを、まだ自分の帳面の中にあるかのように数えていた。
悔やんでも、悔やみきれなかった。
そのときだった。
アヤの唇から、かすかな声がこぼれた。
「……どうして……」
イェンスは、身をかがめた。アヤの口もとへ、耳を寄せる。
「ジェフリー……さま……どうして……」
隊長を、呼んでいる。
「奥様。旦那様を、お呼びしましょうか」
アヤのまぶたが、わずかに持ちあがった。潤んだ黒い瞳が、焦点を結ばないまま、イェンスのほうへ揺れた。
芝居を続けている場合ではなかった。
「アヤ様。お望みなら、隊長をお呼びします」
アヤの唇が、震えながら動いた。
「どうして……わたくしに……言って、くださらないの……」
イェンスは、息をひそめた。
「……信用、して……くださらないの……」
何のことなのか、イェンスには分からなかった。
「わたくしが……あひる……だから……」
閉じかけたまぶたのあいだから、涙がひとすじ、こめかみへ流れていった。
「……さみしい……」
白い茶の作用だった。
この葉は、問われたことに答えさせるだけではない。心の底に沈めておいたものまで、勝手に浮かびあがらせてしまうことがある。誰も、何も尋ねていない。それなのに、この人の口から、言葉がこぼれ出てくる。
ずっと、胸の奥に抱えてきたものなのだろう。
言ってくれない。信用してくれない。さみしい。
隊長とこの人とのあいだに、何があるのか。イェンスには知りようがなかった。
これは、自分が聞いてよかった言葉ではない。
隊長にも、伝えるべきではない。この人が、自分の口で言うつもりのなかった言葉なのだから。
イェンスは、その言葉を、胸のいちばん奥の誰にも開けない引き出しにしまった。
「アヤ様」
できるかぎり、やわらかく呼びかける。
「もう少し時が経てば、熱さましの薬草をお出しできます。それで、痛みはずいぶん和らぎます。どうか、それまで、こらえてください」
聞こえたのかどうか、分からなかった。
それでも、アヤの唇が消えいりそうに動いた。
「……はい……待ち、ます……」
イェンスは、立ちあがった。
今のうちに、やっておくことがある。
寝台へ行き、上掛けをめくって、敷布に手のひらを当てた。冷たすぎはしない。二人分として並べてあった枕を二つ重ね、背もたれのように立てかける。上半身を斜めに起こしておけば、水を飲ませるときにも、気管に入りにくくなる。
長椅子の上では、次の波が来たときに、身をよじる場所さえない。
卓を壁際へ寄せ、床に置かれていたものを片端からどけて、長椅子から寝台までの道をあけた。足を取られそうなものは、ひとつ残らず。
イェンスは、長椅子のそばに戻って膝をついた。
「これから、寝台へお運びします。少し、痛みます。ほんのわずかのあいだだけ、辛抱してください」
片方の腕を、肩から背中へ、できるかぎり広く差し入れる。もう片方の腕を、膝の裏へ。触れる場所を少なくし、それでいて、ひとところに重みが集まらないように。
腕を差し入れただけで、アヤの喉から、うめきがもれた。
もう少しです。もう少しですから。
イェンスは、アヤの身体を抱えあげた。
人の身体は、見た目よりもずっと重い。力の抜けた身体なら、なおさらだ。それでも、長く軍にいたイェンスにとっては、何ということもない重さだった。これまでに、鎧を着けたままの大男を、何人も担いで運んできたのだから。
一歩ずつ、床を確かめながら歩く。揺らさないように。腕の中の身体が痛みにこわばるたびに足を止め、その息に、自分の息を合わせた。
寝台に、そっと下ろす。重ねた枕に背を預けさせ、上半身が斜めになるように整えた。
アヤの肩が、小さくこわばっていた。寒いのだ。
暖炉に火を入れれば、部屋はあたたまる。ただ、熱と痛みが続いているあいだは、身体をむやみに温めてはならなかった。これもまた、白い茶の厄介なところだった。アルベルトが言っていた上等な毛布も、今のこの人には、重たい石の板と変わらない。
イェンスは、洗面台の脇に掛けてあった薄く軽い布を手に取ると、アヤの肩にだけかかるように、そっとのせた。次に痛みの波が来たら、すぐに取りのけられるように。
アヤの顔を見る。
苦痛にゆがんではいなかった。
肩さえあたためておけば、少しの冷えはしのげる。
イェンスは、寝台のそばの床に腰を下ろした。
窓の外の闇が、少しずつ重さを増していった。宿の階下の物音も、いつのまにか途絶えている。聞こえるのは、アヤの浅い息と、ランタンの芯がときおりじじっと鳴る音だけだった。
アヤの指先が、敷布の上で、ぴくりと跳ねた。
イェンスは、膝立ちになった。
来る。
次の瞬間、アヤの背が、枕から浮くほどにしなった。喉の奥から、押し殺しきれない声がもれる。肩にのせた薄い布が、それだけで、ささくれた木の皮のように肌をこすった。
イェンスは、布の端を指先でつまみ、肌から浮かせるようにして取りのけた。
あとは、何もできなかった。
手を握ってやることも、背をさすってやることも、汗をぬぐってやることもできない。イェンスは、両手を膝の上で握りしめたまま、波が過ぎるのを待った。アヤの荒い息に、自分の息を、そっと重ねる。吸って、吐いて。ゆっくりと、深く。乱れた息づかいが、少しずつ、その速さに引き寄せられていくのを、祈るような思いで見守った。
軍医の手は、こういうとき、何の役にも立たなかった。
長い時間に思えた。
やがて、アヤの背が、ゆっくりと枕の上に戻ってきた。敷布をつかもうとしていた指が、一本ずつ、ほどけていく。
イェンスは、自分の額に浮いていた汗を、手の甲でぬぐった。取りのけていた布を、もう一度、肩にだけそっとのせる。
窓の端に、細い月がのぞいていた。
薬草が効きはじめる刻限まで、もう、そう遠くはない。
イェンスが、ほっと息をついたときだった。
「……ち……ず……」
アヤの唇が、何かを言いかけていた。
イェンスは、もう一度、耳を寄せた。
アヤは、それきり何も言わなかった。力を使いはたしたように、まぶたを閉じ、浅い息を繰りかえしているだけだった。
今、何と言ったのか。
イェンスには、とうとう分からなかった。
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廊下の奥の部屋では、テッサが長椅子の肘かけにもたれて、こくり、こくりと舟をこいでいた。
窓の外の闇は、いっそう深くなっていた。宿の階下から聞こえていた物音も、いつのまにか途絶えている。
「テッサ」
ジェフリーが声をかけると、テッサは、はっと顔を上げた。
「もう遅い。今夜は、休もう」
テッサは、重たいまぶたを手の甲でこすった。
「納屋に……戻らないと……女将さんに、叱られます……」
「今夜は、ここで眠っていい。女将には、俺から話をつけてある」
テッサの顔から、すうっと力が抜けた。
張りつめていた糸が、ぷつりと切れたようだった。朝からずっと、怯えどおしだったのだ。館への使い。落とした包み。奥様の悲鳴。黒い服の男たちに囲まれた部屋。小さな身体にも、心にも、もう何も残ってはいなかった。
返事をしかけた唇が、そのまま止まった。長椅子にもたれたまま、テッサは、すうすうと寝息を立てはじめていた。
ジェフリーは、身をかがめてテッサを抱きあげた。
驚くほど軽かった。腕の中で、テッサは目を覚まさなかった。王子様に、お姫様のように抱きかかえられていることにも気づかずに。
寝台の端から、カスパーが立ちあがった。
「隊長。俺の寝台を使ってやってください。俺は、どこでだって眠れますから」
ジェフリーはうなずいて、カスパーの寝台にテッサを下ろした。上掛けを、肩まで引きあげてやる。
テッサは、寝返りをひとつ打って、枕に頬をうずめた。
いつもの納屋の藁の上では、きっと、こんなふうに手足を伸ばして眠ることなどないのだろう。生まれて初めての柔らかな寝台に寝かされたことにも気づかずに、テッサは、上掛けの中で手足をいっぱいに伸ばしていた。
カスパーは、その寝顔を、しばらく黙って見下ろしていた。
「……三十セラって、あとどれくらいの時間が残ってるんですか」
ぼそりとした問いだった。
この子を、あの女将のもとへ戻したくない。カスパーの顔には、そう書いてあった。怖いのと同じくらい、腹が立っていた。子どもを怯えさせる大人は、カスパーにとって、剣を向けてくる敵と何も変わらなかった。
「一晩借りる、と言ってある」
ジェフリーは、さっきまでテッサが座っていた長椅子に腰を下ろした。
「少なくとも、今夜は、この子はここで安心して眠れる」
カスパーは、それ以上は何も言わなかった。テッサの眠る寝台のそばの床に、壁を背にして腰を下ろす。そこが、今夜のカスパーの寝床になるらしかった。
膝を抱えたまま、カスパーは、寝台の上の小さな寝顔から目を離さなかった。ずっと昔、北の村で、同じように大人に怯えた目をした子どもを、救ってやれなかったことがある。その子の顔が、今夜は、なぜか何度も浮かんだ。
ジェフリーは、腕を組んだ。
「白い茶の葉は、本物かどうか、疑われていたらしい」
ランタンの炎を見つめながら、考えをひとつずつ確かめるように言う。
「それに、あの男は、ずいぶんと黒騎士の動きを気にしている。品物を売りにきた妻のことよりも、だ」
黒騎士の分まで、宿の夕餉を手配していた。夕餉のあいだじゅう、帳場の女将の目は、こちらの卓に張りついていた。
アルベルトと、カスパーと、扉の脇のセドリックが、顔を見あわせた。
「黒騎士の動きが気になるのは、どういうときだと思う」
問われて、三人は考えこんだ。
最初に口を開いたのは、床に座ったカスパーだった。
「その……追われてるとき、とか」
「そうだ。追われている覚えがあるときだ」
ジェフリーは、うなずいた。
「ただ、ここはエステリアだ。サルヴィアではない」
エステリアに住む者が、サルヴィアの黒騎士に追われる覚えを持つ。そんなことが、あるのか。
扉の脇で、セドリックが組んでいた腕をほどいた。
「……敵の仲間に、サルヴィアの人間がいる、ということですか」
「あるいは」
ジェフリーは、卓の上の水差しを取って、自分の杯に注いだ。
「敵の商売に、サルヴィアが欠かせない」
アルベルトが、何をいまさら、という顔をした。
「そりゃあ、サルヴィアの剣を仕入れてるんですから、取引の先はサルヴィアでしょう。でも、それで黒騎士に追われる筋合いがあります? 剣を買うのは、別に罪じゃない」
「ある」
ジェフリーは、アルベルトを見た。
「剣は、白い茶ほどではないが、国の外へ出すときには管理されている。どこの商会を通して、誰から誰へ渡るのか。鍬や鋤とは違う。どこの鍛冶屋で打ってもいいものではないし、好きなだけ外へ出していいものでもない。国が認めた鍛冶屋で打ち、認められた数だけしか、国の外へは出せない」
ジェフリーは、杯の水を飲みほして、卓に置いた。
「認められていない先へ剣を流す道を見つけて潰す。それも、黒騎士が平時から担っている任務のひとつだ」
部屋の中が、しんとした。
寝台の上から、テッサの小さな寝息だけが聞こえていた。
カスパーが、膝の上で指を組みなおした。
「その、認められてない剣が流れていく先って……エステリアですか」
「いや、違う」
ジェフリーは、かぶりを振った。
「もうひとつあるだろう。この土地から、国境の近い国が」
セドリックが、ほとんど息だけでつぶやいた。
「……アジール」
その名が、ランタンの灯りの下に落ちた。
これまで、ばらばらに拾い集めてきたものが、一本の道の上に並びはじめていた。
ジェフリーは、確かめるように言葉を継いだ。
「ダリアの民は、陽炎草を殿様から配られている。妻の話では、陽炎草は、もとはアジールの草だ。サルヴィアの剣をアジールへ売り、その儲けで陽炎草を買う。その草を民に配って、畑を荒れたままにしておけば、王都からの支援は途切れない。……ドラゴンの爪あとの洞窟が、もし海に通じているのなら、アジールとの受け渡しは、あそこだ。どの地図にも載っていない洞窟なら、どの国も、あそこを交易の場所として認めてはいない」
アルベルトが、天井を仰いだ。
「麦が米に化けて、米が剣に化けて、剣が草に化けるってわけですか。……とんだ手品師だ」
軽口のはずの言葉が、少しも軽く聞こえなかった。
その言葉が終わらないうちに、セドリックが、足音ひとつ立てずに扉のそばを離れた。
ジェフリーのそばまで来て、身をかがめる。セドリックが口を開くより先に、ジェフリーが、ほとんど唇を動かさずに尋ねた。
「いつからだ。扉に耳がついたのは」
セドリックの目が、わずかに見ひらかれた。隊長も、気づいていたのだ。
「一度目は、アルベルトが向こうの部屋から戻ってきたあとです。テッサが眠りかけるころまで、いました。二度目は、たった今です」
ジェフリーは、指先だけで、アルベルトとカスパーを呼び寄せた。四人の頭が、ランタンの灯りの下で、ひとつに寄った。
「ガストンの動きに、俺たちが目をつけている。そのことは、この宿の耳に聞かれた。夜が明ければ、ガストンにも伝わるだろう」
アルベルトの顔が、苦くゆがんだ。
「まさか……このまま、泳がせるつもりですか」
ジェフリーは、アルベルトを見た。
「そうだ。泳がせる」
追われていると知った獲物は、必ずどこかへ動く。隠していたものを移すか。仲間に知らせるか。逃げ道を確かめにいくか。動けば、そこに足跡が残る。
「見張りは、どうします」
セドリックの問いに、ジェフリーは向きなおった。
「セドリック。お前は野営地へ戻って、残っている者に、ドラゴンの爪あとの洞窟を見張るよう伝えてくれ。伝えたら、お前は必ず、この宿へ戻れ。護衛がひとり欠けていれば、それだけで怪しまれる」
「分かりました」
「野営地へは、馬で、遠回りをして行け。万にひとつも、あとをつけられないように」
セドリックが、うなずいた。
ジェフリーは、アルベルトに目を移した。
「今日、細工をした農夫の荷車の鉄輪。朝になったら、その跡を見てこい。釘の跡が、どの方角へ向かって続いているか。確かめたら、戻れ。俺は、明日は一日、宿にいる」
「ガストンのほうは、誰が」
ジェフリーは、床に座ったカスパーを見た。
「明日は、妻と館へ伺う約束をしていた。この有様だ。日を改めたいと、手紙を書く。カスパー、それを館へ届けてくれ。ついでに、館の裏の崖の下を、見つからないように見てきてほしい。誰かがうろついていたら、無理はしなくていい」
カスパーは、黙って、深くうなずいた。
ジェフリーは、身を起こした。
寄せあっていた四つの頭が、ほどけた。
「今夜は、全員、よく眠るように」
扉の外の暗がりまで、はっきりと届く声だった。
その声とはうらはらに、ジェフリーは、卓の下で片手を小さく振った。散れ、の合図だった。
黒騎士たちは、それぞれの寝台へ、壁際へ、扉のそばへと、音もなく散っていった。
ランタンの灯りが、ひとつ、絞られた。
暗くなった部屋の中で、ジェフリーだけは、横にならなかった。
長椅子に腰を下ろしたまま、部屋の扉に背を向けて座っていた。この扉を開けて、廊下を少し歩けば、あの人の部屋だった。その部屋で、あの人は、今もひとりで痛みの波に耐えている。
ときおり、背中の扉の向こうから、押し殺した声がかすかに届いた。
そのたびに、ジェフリーは長椅子から腰を浮かせかけ、扉を振りかえった。振りかえって、そのまま、座りなおした。行ったところで、指一本、触れてやることはできない。分かっているのに、身体が、何度でも勝手に立とうとした。
夜が白むまで、ジェフリーは一度も、長椅子の背にもたれなかった。




