38. ひとつ多い杯
川べりの野営地に、夜がおりてきていた。
丸太の囲いのまわりに焚かれた篝火が、ぱちぱちと爆ぜながら、杭の影を草の上に長く揺らしている。囲いの中では、三十人の賊たちが、思い思いの格好で地面に身を横たえていた。少し前まで、柵をつかんで悪態をついていた男たちとは思えないほど、どの顔もとろりと眠たげだった。
イェンスは、薬の木箱の蓋を机がわりにして、帳面をつけていた。
賊たちに水と夕餉を配り終えたのは、ついさっきのことだった。そのあとで、ひとりずつに灰葉草を煎じた茶を飲ませてまわった。黒騎士のあいだでは、鎮め草と呼ばれている草だ。飲めば、昂った血の気がすうっと引いて、一日じゅう眠気がまとわりつく。囚われの身で暴れる気力も、柵を破ろうと企む頭も、霧のようにぼやけていく。
癖になりにくい草ではある。とはいえ、量を誤れば、人の心を鈍らせすぎる。だからイェンスは、今日どれだけ煎じ、どれだけ飲ませたかを、毎晩欠かさず帳面に書きつけていた。
囲いの風下で、木桶の蓋が閉まる音がした。
粗布で目隠しをした厠の桶を、マティアスが運び終えて戻ってくるところだった。副隊長の大きな身体が、篝火の明かりを横切っていく。いつもなら見張りの若い者に任せる仕事だった。今夜は野営地に残った黒騎士が少ない。マティアスは、誰に言われるでもなく、自分で桶の縄を肩にかけていた。
「湯は、沸いてるか」
「はい、副隊長。鍋に、たっぷり」
焚き火のそばから、エミールが返事をした。
マティアスは、軍服の袖をまくりながら、天幕の陰へ消えていった。厠の始末をした者は、その夜のうちに熱い湯で身体を拭い、洗いあげた軍服に着替える。
野営地に病を持ちこまないため。仲間のため。囲いの中の者たちを、生きたまま引き渡すため。
三番隊では、それが決まりだった。軍医あがりのイェンスが隊にいるあいだは、なおさらだった。
ほどなくして、エミールが、濡れた手を前掛けで拭いながら、イェンスのところへやってきた。
「イェンスさん、洗濯、終わりました。これ、残った石鹸です」
差しだされた石鹸は、思っていたよりもずっと大きかった。
イェンスは、帳面から顔を上げて、片眉を上げかけたところで、思わず口もとをゆるめた。
「ずいぶん余ったな」
「前に教えてもらったとおり、少しぬるめのお湯を使ったんです。そうしたら、ちょっとの石鹸で、汚れがするする落ちて。それに今夜は、洗う服も少なかったですから」
エミールは、少し得意そうだった。
イェンスは石鹸を受けとると、乾いた布で表面の水気を拭い、木箱の脇に置いた小さな秤にのせた。洗濯の前に量っておいた重さと、今の重さ。その差を、帳面の端に書きこむ。
石鹸などの衛生用品も、口に入れば害になる薬品類も、黒騎士の隊では医務の者の管理下に置かれている。使う前と使ったあとに量り、数字で残す。数字が合わなければ、誰かがどこかへ持ちだしたと分かる。昔から黒騎士が続けてきた、地味で、それでいて確かなやり方だった。
ペンを走らせながら、イェンスは言った。
「サルヴィアじゃ、ぬるま湯で洗うやり方は、嫌がられるんだ」
エミールが、目をまるくした。
「こんなに、汚れが落ちるのに?」
「そう思うだろ」
イェンスは、帳面から目を上げて、エミールを見た。
「洗濯に湯を使うのは、もったいないってさ」
エミールは、一瞬ぽかんとしてから、ぷっと吹きだした。イェンスも、つられて肩を揺らした。湯くらい、薪があるうちは、いくらでも沸かせばいいのに。雪に閉ざされた北の国で育った者たちが、薪の一本まで惜しむ気持ちも分からなくはない。分からなくはないから、なおさらおかしかった。
焚き火のはぜる音に、ふたりの笑い声が混じった。
その笑い声を、蹄の音が断ち切った。
野営地の外の暗がりから、一騎の馬が、土を蹴散らすような勢いで駆けこんできた。見張りが誰何するより早く、馬の背から黒い騎士服の男が飛び降りる。
セドリックだった。
篝火の明かりに浮かんだ顔を見て、イェンスの笑みが、すっと消えた。いつも、何が起きても眉ひとつ動かさない斥候の顔が、こわばっていた。肩で息をしている。夜道を、馬を潰しかねないほど飛ばしてきたのだ。
セドリックは、まっすぐにイェンスのもとへ歩いてきた。
「隊長が、イェンスを呼んでいる。……アヤ様が、白い茶を」
その先は、聞く必要がなかった。
イェンスは、もう立ちあがっていた。薬の木箱の蓋をはね上げ、中の袋をつかんでは、口を確かめて脇へ放る。熱さましの薬草の袋。清潔な布。小刀と針の入った、古い革の包み。手を動かしながら、頭の中では、ひとつのことばかりが渦を巻いていた。
「どれくらいだ」
セドリックが、え、と目を瞬いた。
イェンスは、袋をあさる手を止めた。顔を上げ、セドリックの目をまっすぐに見る。
「葉は、どれくらい入っていた」
セドリックは、答えられなかった。
隊長は、白い茶だと言った。それだけだった。杯の中に何が、どれほど沈んでいたのか、セドリックは見ていない。
答えのない沈黙が、焚き火の音の中に落ちた。
イェンスの顔から、血の気が引いていくのがエミールにも分かった。
量が分からない。
イェンスにとって、それは何を飲んだのか分からないことより、ずっと恐ろしいことだった。帳面に数字を書きつづけてきたのは、まさにその恐ろしさを知っているからだった。
天幕の陰から、湯で身体を拭いかけたままのマティアスが顔を出した。濡れた髪から、しずくが落ちている。
「行け、イェンス。こっちは任せろ」
イェンスは、うなずくより先に、鞍袋に薬を押しこんでいた。
********
セドリックが野営地へ駆けだしてから、どれほどの時が経ったのか。
アヤは、長椅子の上で浅い息を繰りかえしていた。
額に浮いた汗が、こめかみを伝って、乱れた黒髪の中へ吸いこまれていく。半ば開いたまぶたの下で、黒い瞳が天井のどこか一点を探すようにさまよっている。ときおり、身体の奥から波が来るのか、細い指先が長椅子の布をつかもうとして、つかみきれずに震えた。
ジェフリーは、長椅子のそばに膝をついていた。
何もできなかった。
手を取れば、焼けた鉄を押しあてたように、アヤは身をよじって叫ぶ。額の汗を拭ってやることさえできない。乱れた髪を払ってやることも、背をさすってやることも。何かをしてやりたいと思うたびに、伸ばしかけた手が、宙で行き場を失った。
これほど近くにいて、指一本、触れられない。
剣を握れば、たいていのものは斬れた。目の前で苦しんでいる人ひとり、楽にしてやれない手が、自分の膝の上にあった。
アヤの唇が、かすかに動いた。
「……みず」
ジェフリーは、はっと顔を上げた。
部屋の中を見まわす。卓の上には、食べかけの料理と、こぼれた水に浸かった杯と、半分ほど水の残った水差し。どれも、この宿の台所から運ばれてきたものだった。どれひとつとして、口に入れていいと言えるものはなかった。
ジェフリーは、腰の革紐から、自分の水筒を外した。
旅のあいだ、肌身離さず下げてきたものだ。栓を抜き、まず自分でひと口含む。舌の上を、ただの冷えた水が流れていった。妙な甘みも、痺れも、何もない。
ジェフリーは、水筒の口を、アヤの唇の近くへそっと寄せた。肌に触れないように、指一本ぶんの隙間をあけて。
「水だ。……飲めるか」
アヤの瞳が、ゆっくりと水筒のほうへ動いた。
震える右手が、長椅子の上から、少しずつ持ちあがってくる。水筒をつかもうとしているのだ。白い指が、ジェフリーの手に向かって、ゆらゆらと宙をさまよう。
あと少しというところで、その指から力が抜けた。
手は、ぱたりと長椅子の上に落ちた。
ジェフリーは、水筒を握りしめたまま、動けなかった。
この手で口もとを支えてやれば、ひと口でも飲ませてやれる。その手が、触れれば痛みにしかならない。水さえ、飲ませてやれない。
アヤの胸が、苦しげに上下していた。はぁ、はぁ、という息の合間に、唇が、また何かを紡ごうとしていた。あまりにかすかで、言葉の形にならない。
ジェフリーは、身をかがめた。髪の先さえ触れないように、息を殺して、アヤの口もとへ耳を寄せる。
「……テッサは」
ジェフリーは、そのまま待った。
アヤの息が、何度か途切れた。言葉を探しているのではなかった。言葉を押しだす力を、身体の奥からかき集めているのだった。
「テッサは……悪く、ありません……わたくしが……自分で……食べました、から……あの子は……悪く……ない……」
最後のほうは、ほとんど息だけだった。
ジェフリーは、身を起こした。
自分がいちばん苦しいときに、この人は、そばにいた子どものことを案じている。皿を分けあい、一緒に食べた小さな給仕の娘のことを。叱らないでほしい。責めないでほしい。そう言い残すように、アヤはまた、浅い息の中へ沈んでいった。
ジェフリーの奥歯が、きしんだ。
水筒の栓を閉め、卓の端に置く。ジェフリーは、立ちあがった。
開いたままの扉の外、廊下の薄暗がりに、女将と、テッサが立っていた。
テッサは、女将の半歩うしろで、両手を胸の前で握りあわせていた。部屋の中から漏れてくるアヤの息の音を聞くたびに、細い肩が、びくりと跳ねる。泣くことさえ、自分には許されていないと思っているような顔だった。
ジェフリーは、戸口まで歩いた。
「妻が飲んだ杯に、毒が盛られていた。本来なら、入るはずのないものだ」
女将の目が、わずかに細くなった。
ジェフリーの視線が、一度だけ、テッサの上を通りすぎた。テッサは、その視線に打たれたように、さらに小さく身を縮めた。ジェフリーは、すぐに女将へ目を戻した。
「飲み物の作り手に、疑いがかかっている。テッサを、借りたい。かまわないか」
テッサが、自分の名前に、びくりと顔を上げた。
女将は、怯えるテッサを横目でちらりと見て、またジェフリーに向きなおった。顔には、困ったような愛想笑いが貼りついていた。
その笑みの下で、女将の頭は、まるで別のことを考えていた。
今日の夕方、商人の夫婦が宿に着いたことを知らせに、館へ走らせたテッサ。その帰りに、テッサが抱えてきた小さな包みのこと。中には、干からびた黒っぽい葉が一枚と、ガストンの走り書きが入っていた。
――この葉を、宿の娘に使わせろ。葉の先を五分の一ばかりちぎって、茶に浮かべて飲ませること。客との夜が、どれほどよかったか、あとで聞かせてほしい。
また旦那が妙なものを持ちこんできた、と女将は鼻で笑ったのだった。宿でいちばん客のつくニーナにでも、あとで渡してやろう。そう思って、台所の棚の隅に、包みごと放りこんでおいた。
夕餉の支度に追われるうちに、それきり、忘れていた。
あの子が、あの葉を。花の飲みものをこしらえるときに、一緒に揉んで入れたのだとしたら。
女将の背筋を、冷たいものが這いあがった。
ここで旦那とのつながりが知れたら、ただでは済まない。この子が余計なことを口走る前に、黒騎士から引き離さなければ。あとで、たっぷり言い聞かせておかなければ。
「子どもとはいってもねえ、うちの大事な給仕なんですよ。持っていかれちゃ、こっちだって暇じゃないんだから、困りますよ」
「妻の飲み物に、毒が盛られたのだ」
ジェフリーの声は、少しも揺れなかった。
「それも、そこらの人間が手に入れられるような毒ではない。黒騎士として、取り調べる必要がある」
「それは、そちらのご都合でしょう。こっちにはこっちの都合ってものが、あるんですよ」
女将は、テッサの前に半身を割りこませるように、ほんの少し立ち位置を変えた。
廊下の端で聞いていたカスパーは、思わず女将の顔を見た。一見すれば、怯える子どもを黒騎士の取り調べから庇っているようにも見える。
ジェフリーには、それが庇っているのではないことが、分かっていた。女将が守ろうとしているのは、テッサではない。テッサの口だった。
「いくらだ」
女将が、え、と聞きかえした。
「一晩、テッサを借りる。いくらだ」
女将は、すぐには答えなかった。
小ずるい目が、ジェフリーの顔と、テッサと、それからジェフリーの腰のあたりを、行き来した。
この子に余計なことを喋られるのは面倒だ。もっとも、一晩分の代金が転がりこむなら、それはそれで悪くない。この子が何を言おうと、あとでうまくはぐらかせばいい。それで済まなければ、また、しつけ直せばいい。
この宿でいちばんの女でも、一晩十五セラ。こんな子どもの給仕なら、五セラでも高すぎるくらいだ。
だったら、いっそ。
「二十だよ」
女将は、どうだい、払えるものなら払ってみな、とでも言いたげに顎を上げた。
「あの子の働きは、二十セラ。欲しいなら、二十セラはもらわないとねえ」
廊下の空気が、ひやりと冷えた。
カスパーの隣で、アルベルトが、誰にも聞こえないくらいの声でつぶやいた。
「……三日分だぞ」
娼婦でもない、十を少し過ぎたばかりの給仕の娘に、黒騎士の三日分の給金。どれほど吹っかけているのか、そこにいた黒騎士の誰もが分かっていた。
そのとき、階下で、宿の扉が乱暴に開け放たれる音がした。
階段を駆けあがってくる足音が、二つ。
セドリックと、薬の袋を抱えたイェンスが、廊下に飛びこんできた。女将とテッサの脇をすり抜け、イェンスは、そのまま部屋の中へ駆けこんだ。
長椅子の上のアヤを見た瞬間、イェンスの足が、一歩だけ止まった。
イェンスは、長椅子のそばに膝をついた。
「奥様、少しだけ失礼いたします」
声をかけてから、指先で、アヤのまぶたにそっと触れる。羽根でなぞるほどの軽さで、まぶたを持ちあげた。
それだけで、アヤの喉の奥から、細い呻きがもれた。
イェンスは、ランタンを引き寄せ、アヤの瞳をのぞきこんだ。黒い瞳の奥が、灯りに向かって、ほとんど縮まない。手首の内側に、指の腹をごく軽く添える。脈が、皮膚の下で、狂った小鳥のように跳ねていた。浅く、速い息。白い額にじっとりと浮いた汗。指先の震え。
思っていたよりも、ずっと悪い。
イェンスは、振りかえった。
「奥様が飲まれた杯は」
ジェフリーが、卓の上から、水に浸かった杯を取って差しだした。
イェンスは、杯をランタンの灯りにかざした。
水で薄まった白い飲みもの。水面に浮かぶ、小さな白と薄紅の花。その花びらのあいだに、細かく揉みほぐされた、黒ずんだ葉の欠片が漂っている。
イェンスは、杯の底をのぞいた。沈んだ欠片を、指で寄せ集めるようにして、ざっと数える。
杯に残っているだけで、少なくとも、一枚の葉の半分近い。
アヤの喉を通っていった分は、そこには残っていない。実際に口にした量は、もっと多いのかもしれなかった。
イェンスの顔から、色が失せた。
白い茶に使う葉を、ずっと量ってきた手だった。この量が、どれほどのものなのか、指先が知っていた。
イェンスは、杯を卓に置くと、ジェフリーを振りかえった。
「飲まれたのは、いつです」
「夕餉の途中だ。セドリックを走らせる、少し前になる」
イェンスは、窓の外の闇に、ちらりと目をやった。セドリックが野営地まで駆けて、自分を連れて戻るまでにかかった道のりを、頭の中でなぞる。
まだ、二時間も経っていない。
「……六時間」
イェンスは、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「この葉を口にしてから六時間が経つまでは、どんな薬草も、効きません。それまでは、身体をもたせるしかない」
イェンスは、立ちあがった。
声に、迷いはなかった。
「灯りを、ひとつだけ残して消してください。物音も、なるべく立てないように。奥様の身体には、誰も触れないでください」
ランタンの灯りが、ひとつ、またひとつと絞られていく。部屋が、薄暗い琥珀色に沈んだ。
イェンスは、アヤの身体を見下ろした。
アヤが身につけているのは、柔らかな布の衣だった。普段なら何でもない布の重みが、今のアヤには、肌の上を引っかく爪にも、のしかかる石にもなっている。布の擦れる音がするたびに、アヤの眉が苦痛にゆがんでいた。
イェンスは、腰の革の包みを開いた。小刀を取りだし、ジェフリーを見る。
「服を、切ります」
ジェフリーの目が、小刀に落ちた。
「腕を抜いたり、身体を起こしたりして脱がせれば、それだけで、奥様はひどく苦しまれます。布を、肌から離すほうが先です。……よろしいですね」
問いかけの形をしていたが、待つつもりのない声だった。
ジェフリーは、ほんの一瞬、長椅子の上のアヤを見た。
「分かった」
その短い返事が、部屋の空気を変えた。誰に言われたわけでもないのに、黒騎士たちが、音を立てずに戸口へと下がっていく。ここから先は、男たちが見ていていい場所ではなかった。
最後に部屋を出ようとしたジェフリーを、イェンスの声が追いかけた。
「葉の作用は、まだ身体の中で続いています。急ぎますが、こちらから扉を開けるまで、どなたも入らないでください」
ジェフリーは、戸口で振りかえった。
薄暗い部屋の中に、長椅子の上で小さく震えるアヤと、小刀を手にしたイェンスの背中が見えた。
「分かった。……妻を、頼む」
扉が、閉まった。
********
廊下の板の上に、ジェフリーは、しばらく立ちつくしていた。
扉の向こうから、布を裂く、かすかな音がした。続けて、押し殺した悲鳴。イェンスの、何かを言い聞かせるような声。
ジェフリーは、目を閉じた。
俺のせいだ。
今日、あの人には、館で無理な芝居をさせた。それなのに宿に戻るなり、あの人は、まだ力になれると言って笑った。だから、せめて夕餉のあいだだけは、誰の目も気にせずに休ませてやりたかった。
敵の目を、自分たち黒騎士のほうへ引きつけておけば、あの人の部屋は静かになる。そう考えた。
その静けさの中に、毒が運ばれた。
閉じたまぶたの裏に、伸ばしかけて、届かずに落ちたアヤの白い指が浮かんだ。
ジェフリーは、目を開けた。
青い瞳に、もう迷いはなかった。ここで立ちつくしていても、扉の向こうの痛みが、ひとつも減るわけではない。
ジェフリーは、廊下の端に立つ女将のもとへ歩いていった。外套の内側から革の小袋を取りだし、そのまま女将の手に押しつける。
「三十セラある」
女将の目が、手の中の小袋に吸い寄せられた。ずしりと重い。
三十セラ。この宿でいちばんの女を、二晩買える額だった。
「言い値に、色をつけた」
ジェフリーは、女将を見下ろした。
「多少、テッサの戻りが遅くなっても、かまわないな」
女将の喉が、ごくりと鳴った。小袋を握る指に、力がこもる。
「え、ええ、ええ。うちは、払っていただけるなら、もう、何でも」
ジェフリーは、テッサのほうへ向きなおった。
テッサは、ジェフリーを見上げた。
その顔を、テッサは、たぶん一生忘れないだろうと思った。
冬の朝の氷のように、冷たく、美しい顔だった。廊下の薄明かりの中で、淡い金の髪が、ほの白く光っていた。青い瞳は、何の色も浮かべていないように見えた。
その奥に、別のものがあった。
氷の底で、何かが燃えていた。凍りついた湖の、厚い氷の下で、赤い火が揺れているような目だった。
この人は、ひどく怒っている。
テッサの膝が、がくがくと震えだした。
当たり前だ。奥様の飲みものをこしらえたのは、自分なのだから。奥様が、あんなに苦しんでいるのは、自分のせいなのだから。きっと、ひどい目にあう。女将さんに叩かれるより、もっとひどい目に。
テッサは、すがるように、女将のほうを見た。
女将は、手の中の小袋の口を開けて、中の硬貨を数えていた。唇の端が、隠しきれずにゆるんでいる。
一度も、テッサのほうを見なかった。
テッサは、握りしめていた前掛けの端から、そっと指をほどいた。
もう、すがるものは、どこにもなかった。
ジェフリーは、何も言わなかった。ただ、手のひらで、廊下の奥の、黒騎士たちの部屋の扉を示した。
テッサは、ふらつく足で、その扉へ向かって歩きだした。
********
その頃。
ダリアから王都へ続く街道を、三頭の馬が駆けていた。
ステファンの残した蹄鉄釘の道しるべをたどって雑木林を抜けると、細い道は、やがてふたたび街道に合流する。その合流のすぐ手前に、浅い瀬があった。昼なら、馬の膝ほどの深さの水が、石の上をさらさらと流れているだけの浅瀬だ。
日が落ちて、もうずいぶん経っていた。
細い月は、まだ昇っていない。あたりは、墨を流したような闇だった。浅瀬の水音だけが、闇の底で、絶え間なく鳴っている。
「ここで少し、馬を休ませる」
グスタフが手綱を引くと、ヨハンとディーターも馬を止めた。
ヨハンが、鞍に下げた小さなランタンに火を入れた。覆いの隙間を細く絞り、足もとだけを照らす。三頭の馬が、鼻を鳴らしながら、浅瀬の水に口をつけた。
グスタフは、川べりの石に腰を下ろして、硬いパンをかじった。
この浅瀬の先で、道は海沿いから延びてくる街道と交わる。そこから先は、王都まで、太い一本道だった。ステファンも、きっとここで馬に水を飲ませたのだろう。あの若いのは、馬を休ませることだけは、どんなに急いでいても怠らない。
パンを半分かじったところで、ディーターが顔を上げた。
「……誰か来る」
グスタフは、パンを口に押しこんで立ちあがった。
ヨハンが、ランタンの覆いを閉じた。闇が、いっそう濃くなる。三人は、馬を岸の木立の陰へ引きこみ、身を低くした。
海の方角から延びてくる街道の先に、小さな灯りが揺れていた。
灯りは、ひとつきりだった。馬に乗った誰かが、ランタンを提げて、こちらへ駆けてくる。蹄の音が、闇の中で、だんだんと近づいてきた。
こんな夜に、海辺から、たったひとりで、王都の方角へ。
灯りは、浅瀬の手前で止まった。
乗り手が馬から降りる。手綱を引いて、水際まで馬を連れてきた。馬が、首を伸ばして水を飲みはじめる。乗り手は、ランタンを足もとの石の上に置き、自分も水を手ですくって、顔を洗った。
ランタンの灯りが、下から、男の顔を照らした。
ディーターの喉が、ひくりと鳴った。
男の左の頬に、まだらの痣があった。赤と緑が混じりあったような、気味の悪い色。灯りの加減で、それは、頬の上に貼りついた枯れ葉のようにも見えた。
ディーターは、その痣を知っていた。
自分がつけたものだった。ドラゴンの爪あとの洞窟で、逃げる男の頬をかすめた、毒を塗った小さなナイフ。皮膚の色を変え、一か月は消えない、黒騎士のしるし。
「……あいつだ」
ディーターの声は、ほとんど息だった。
「洞窟から、逃げたやつだ。俺の、しるしだ」
グスタフの目が、闇の中で光った。
洞窟で取り逃がした、賊の仲間。その男が、こんな夜にたったひとりで、海の方角から王都へ向かって急いでいる。ただの旅であるはずがなかった。捕まった仲間のことを、誰かに知らせに行くのだ。
グスタフは、指を二本立てて、浅瀬の両側を示した。ヨハンが右へ、ディーターが左へ、音もなく散っていく。グスタフは、真ん中から、まっすぐに男の背後へ近づいた。
男が、顔を拭って、立ちあがりかけた。
その背中に、グスタフの太い腕が巻きついた。
男が叫ぶより早く、ヨハンが馬の手綱を押さえ、ディーターが男の足を払った。三人がかりで、男を浅瀬の石の上に押さえつける。ばしゃりと水が跳ねた。男はしばらくもがいていたが、グスタフの膝が背中に乗ると、すぐに、蛙のような声を上げて動かなくなった。
「暴れるな。まだ、何もしちゃいねえだろうが」
グスタフは、男の背に膝をのせたまま、顔だけをディーターへ向けた。
「刃物を持ってねえか、見ろ」
ディーターが、男の腰と袖口を手早く探り、短刀を一本抜きとって、浅瀬の向こうへ放った。
グスタフは、男の外套の内側に手を入れた。知らせに走る者が、口で伝えるだけとはかぎらない。どこかに、書いたものを隠しているかもしれなかった。
指先に、硬いものが触れた。油紙にくるまれた、薄い包み。引っぱりだして、油紙をはぐ。
中から出てきたのは、一通の書状だった。
ヨハンが、ランタンの覆いを開けた。
灯りの中で、封蝋が、赤黒く光った。白金の花と王冠に、交差した二本の剣を添えた紋。エステリアの近衛の紋だった。
グスタフの眉間に、深い皺が刻まれた。
迷わず、封蝋を指で割った。
紙を広げる。書かれていたのは、ほんの数行だった。
――爪痕の巣、黒い鴉に荒らさる。
――雛は、みな籠の中。
――薔薇は、まだ眠っている。
ヨハンが、肩越しにのぞきこんで、息をのんだ。
爪痕。ドラゴンの爪あとの洞窟。黒い鴉。黒い外套の、自分たち。籠。野営地の、丸太の囲い。
ガストンの一味が、自分たちに洞窟を押さえられ、仲間を囚われたことを、誰かに知らせようとしている。
グスタフの目が、文面の最後へ落ちた。
宛名は、ただひと言だった。
――団長殿。
グスタフは、その一行を、長いあいだ見つめていた。
浅瀬の水音が、やけに大きく聞こえた。
グスタフは、書状を持ったまま、足もとの男の襟首をつかんで引き起こした。濡れた顔に、ランタンの灯りを突きつける。
「この団長ってのは、どこの団長だ」
男は、目をそらした。唇が、何か言いわけを探すように動いた。
ディーターが、男の目の前にしゃがみこんだ。腰の鞘から、小さなナイフを抜く。刃が、灯りを受けて、ちらりと光った。
男の目が、そのナイフに吸い寄せられた。左の頬の痣が、ひくひくと引きつった。この刃に、何をされたのか、身体が覚えているのだ。
「し、知らねえ……俺は、砦の隊長に言われて、届けるだけで……」
「どこの砦だ」
「こ、近衛の……海っぺりの、近衛の砦だよ」
男の声が、裏返った。
「王宮の、近衛の団長様に、じかに渡せって……ロラン様に、じかにって……そう言われただけなんだ、俺は」
ヨハンが、男の腰の革袋を探っていた。指先に、冷たいものが当たる。引きだしてみると、手のひらほどの鉄の札だった。札の表に、封蝋と同じ紋が打ちだされている。白金の花と王冠に、交差した二本の剣。夜でも王宮の近衛の詰め所を通れる、通行の札だった。
三人のあいだに、沈黙が落ちた。
ロラン。
ガルドが白い茶を飲まされて吐きだした、雇い主の名前。エステリアの兵を名乗り、ダリアの女たちを売り飛ばしていた男の名前。どこの誰なのか、これまで誰にも分からなかった名前だった。
ただの兵ではなかった。エステリアの王を守る、近衛の頂に立つ男だった。
グスタフの頭の中で、ひとつの顔が浮かんだ。
ステファン。
あの若いのは、隊長とアヤ様の手紙を胸に抱えて、王宮へ走っていった。エステリアの王に、近衛の助けを求める手紙を。
近衛を、呼びに行ったのだ。
この書状の宛名の男のもとへ。
書状を握るグスタフの拳に力がこもり、節が白く浮いた。
握りつぶしかけて、グスタフは、その手を止めた。
これは、証だった。
********
黒騎士たちの部屋に入ったとたん、テッサは、自分がどこにいるのか分からなくなった。
天井が、高く感じられた。いつもは布団を敷きに入る、見慣れた客室のはずだった。
その部屋に、黒い服の男たちが立っていた。
扉の脇に、ひとり。窓辺に、ひとり。寝台のそばに、ひとり。テッサの目の高さには、黒い騎士服の裾と、腰に下げた剣の柄ばかりが並んでいた。見上げようとすると、首が痛くなるほど、どの男も背が高かった。
「座ってくれ」
ジェフリーの声に促されて、テッサは、部屋の真ん中の長椅子に腰を下ろした。
布張りの長椅子は、テッサには深すぎた。浅く腰かけた爪先が、床に届かない。
低い卓をはさんだ向かいの椅子に、ジェフリーが座った。
テッサは、黒騎士たちに、ぐるりと囲まれていた。逃げ道は、どこにもなかった。
ジェフリーは、何も言わなかった。
卓の向こうから、ただ、じっとテッサを見ていた。
テッサの両手が、膝の上で震えはじめた。前掛けの端を握りしめても、震えは止まらなかった。指の関節が白くなるほど力をこめるほど、かえって、がたがたと揺れた。
見ていられなくなって、テッサは、うつむいた。
自分の膝と、震える手と、灰色の前掛けだけが目に映った。
どれほど、そうしていたのか。
椅子の脚が床をこする音がした。向かいの男が、立ちあがったのだ。
テッサは、ぎゅっと目をつむった。
足音は、テッサのほうには来なかった。ジェフリーは、扉の脇に立っていたアルベルトのそばへ歩み寄り、その耳もとに、何事かを低くささやいた。
アルベルトは、少しだけ目をまるくした。それから、ふっと口の端をゆるめ、ひとつうなずくと、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
窓辺に立っていた大柄な黒騎士が、のそりと動いた。カスパーだった。カスパーは、窓際の寝台の端に、黙って腰を下ろした。それだけで、テッサを見下ろしていた影が、ひとつ低くなった。
足音が、また近づいてきた。
今度は、テッサのほうへ。
テッサは、身を固くした。
足音は、長椅子のすぐ脇で止まった。衣擦れの音がした。
目を開けると、ジェフリーが、テッサの目の前に、片膝をついていた。
背の高い男が、床に膝をつき、身をかがめていた。うつむいたテッサの顔を、下からのぞきこめるくらいの高さに。
逃げられない。
テッサの喉が、ひゅっと鳴った。長椅子の背に、背中を押しつける。それ以上、どこへも下がれなかった。
ジェフリーの手が、伸びてきた。
テッサは、打たれると思った。
その手は、膝の上で震えているテッサの手の上に、そっと重ねられた。
テッサは、息をするのを忘れた。
大きな手だった。剣を握りつづけてきた手なのだろう。手のひらの皮は硬く、指の付け根にまめの跡があった。
少しも、乱暴ではなかった。
握りしめるのでも、押さえつけるのでもなく、ただ、震える小さな手を、上から包むように置かれているだけだった。
あたたかかった。
「テッサ」
名前を呼ばれて、テッサは、そろそろと顔を上げた。
すぐ目の前に、ジェフリーの顔があった。
さっき廊下で見た、氷の底で火が燃えているような目は、もうなかった。眉のあいだに、かすかな影がさしていた。テッサの震えを、どうにかして止めてやりたいと困りきっているような。
心配している顔だった。
最初にこの人を見たときより、ずっと優しい顔だった。
テッサは、この人を前にも見たことがあった。
女将さんの言いつけで、ヴァルモントの館へ荷物を届けた帰りだった。館と宿のあいだで、荷物や手紙を運ぶのは、いつもテッサの役目だった。
あの日、近道をしようと、テッサは麦畑の中を走っていた。痩せた麦のあいだを抜けているとき、街道のほうから、たくさんの蹄の音が聞こえてきた。
テッサは、麦のあいだにしゃがみこんで、そっと街道をのぞいた。
黒い服の男たちが、黒い馬に乗って、二台の幌馬車を囲みながら、ダリアの町のほうへ進んできた。
その先頭にいた人に、テッサは目を奪われた。
淡い金の髪が、陽の光を受けて、透けるように光っていた。背筋をまっすぐに伸ばして、黒い馬の上で、前だけを見ている。村のお婆さんが話してくれたおとぎ話の中から、そのまま抜けだしてきたような人だった。
王子様だ、と思った。
麦の陰に隠れていたから、目は合わなかった。
その人は、しばらく町の家々を眺めていた。やがて、片手をすっと上げると、ほかの黒い服の人たちに何かを告げた。
一行は、町に入らずに、来た道を引きかえしていった。
あのときは、ほんの少しだけ、思ってしまった。お婆さんのおとぎ話のように、王子様が、自分を助けに来てくれたのかもしれない、と。そんなはずはないのに、と、テッサはあとから思った。
王子様は、ダリアを振りかえりもせずに去っていった。
その王子様が、今、目の前にいる。
テッサを助けに来たのではなかった。王子様の大切な奥様を、殺しかけた娘を、裁くために。
お婆さんのおとぎ話の終わりには、いつも、お姫様に毒を盛った魔女が出てきた。魔女は、王子様に捕まって、ひどい目にあって、誰にも助けてもらえずに、消えていった。
テッサは、あの魔女なのだ。
テッサの手の震えが、ひどくなった。顔から血の気が引いて、唇の色まで、灰色になっていく。
ジェフリーは、手を離さなかった。
震えが収まるのを、ただ、黙って待った。急かさなかった。問いつめもしなかった。テッサの手の上に、自分の手を置いたまま、床に片膝をついて、ずっとそこにいた。
寝台の端で、カスパーが、鼻の頭を指でこすった。何かをこらえるように、窓の外の闇へ目をやった。
やがて、扉が開いた。
アルベルトが、両手に盆を抱えて戻ってきた。
盆の上には、杯がいくつも並んでいた。数えてみると、部屋にいる黒騎士とテッサを合わせた数より、杯がひとつだけ多かった。盆の端には、大ぶりの水差しものっていた。
アルベルトは、盆を卓の上に置くと、杯をひとつずつ並べていった。テッサの前に、ひとつ。黒騎士たちの前に、ひとつずつ。最後のひとつを、誰も座っていない椅子の前に、そっと置いた。
「台所で、最初から見ていました。使ったものも確かめてあります。毒見も済ませました。問題ありません」
アルベルトの言葉に、ジェフリーはうなずいた。
テッサの手の上から、ジェフリーの手が、静かに離れた。
離れたあとの手の甲が、急に、すうすうと冷たく感じられた。
ジェフリーは立ちあがり、水差しを取った。並んだ杯に、ひとつずつ注いでいく。
注ぎ口から、ほんのりと甘い香りが立ちのぼった。
テッサは、思わず顔を上げた。
知っている匂いだった。林檎の果汁を、蜂蜜でのばした飲みもの。この宿で、女の人たちがお客にねだって頼む飲みものだった。ニーナ姉さんが飲み残したのを、ときどき、こっそり分けてもらう。テッサが、この世でいちばん好きな味だった。
ジェフリーは、誰もいない椅子の前の杯にも、同じように注いだ。
最後に、テッサの前の杯を手に取って、テッサの前に差しだした。
「サルヴィアには、昔から伝わる習わしがある」
テッサは、杯とジェフリーの顔を、見比べた。
「家族や、大切な者が病に伏せっているとき、残された者たちで食卓を囲む。皆で同じものを口にして、病人が一日でも早く起きあがれるように祈るんだ」
ジェフリーの目が、誰もいない椅子の前の杯に向いた。
「料理のないときは、こうして杯を分けあう。病人の分の杯も用意する。いつか、この席に戻ってきて、同じ杯を飲みほしてくれるように、と」
テッサは、その空っぽの椅子を見た。
杯の中で、林檎の果汁が、ランタンの灯りを受けて、金色に揺れていた。
「大切な妻が、今夜、苦しみの床にいる」
ジェフリーの声が、ほんのわずかに、かすれた。
「助けたい」
ジェフリーは、ふたたび膝をついた。テッサの両手を、そっと取る。その手のひらに、杯を握らせた。
「一緒に、妻の回復を祈ってくれるか」
テッサは、両手で杯を握った。
杯は、少し冷たかった。その外側を包むジェフリーの手は、あたたかかった。
テッサは、大きく、うなずいた。
何度も、何度も、うなずいた。奥様が元気になるのなら、何だってする。どんなことだって。うなずくたびに、その思いが、目からあふれそうになった。
ジェフリーは、テッサの手から自分の手を離すと、卓の上の杯を取った。
カスパーが、寝台の端から立ちあがって、杯を取った。セドリックも、壁際から歩み寄って、杯を取った。アルベルトも。
アルベルトは、杯を取りながら、ちらりと隊長の手もとを見た。
水ではないものの入った杯を、この人が自分から持ちあげるところを、アルベルトは、ほとんど見たことがなかった。
ジェフリーが、杯を、胸の高さまで掲げた。
「妻の回復のために」
黒騎士たちの声が、低く重なった。
「奥様の、回復のために」
テッサの唇が、震えた。
「……奥様の、回復の、ために」
声は、ひどく小さかった。それでも、確かに、黒騎士たちの声の中に混じった。
皆が、杯を傾けた。
テッサも、杯に口をつけた。
冷たくて、やわらかい甘さが、喉を流れていった。いつもニーナ姉さんに分けてもらう、あの味だった。
その甘さと一緒に、目から、熱いものがこぼれた。
一度こぼれはじめると、もう止まらなかった。杯を両手で握ったまま、テッサは、声も出さずに泣いた。ぽたぽたと落ちた涙が、杯の中に、小さな輪を描いた。
背中に、何かがそっと触れた。
ジェフリーの手だった。
テッサの小さな背中に、大きな手のひらが、静かに当てられていた。押すのでも、さするのでもなく、ただ、そこにあった。
あたたかかった。
テッサは、思い出していた。
さっき、奥様の部屋で、一緒に料理を食べたときのこと。フォークの使い方が分からなくて、揚げ物がころころと逃げていったとき、奥様が、テッサの手の上からそっとフォークを握ってくれた。こうやって刺すのよ、と、やわらかく笑って。
あの手と、同じだった。
背中に感じる手のぬくもりは、あのときの奥様の手と、同じあたたかさだった。
テッサは、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたまま、杯を胸に抱きしめた。
やっぱり、そうだったんだ。
ここにいる人たちは、テッサを裁きにきた人たちではなかった。
おとぎ話の、王子様だった。
テッサを、助けにきてくれた。




