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37. 花を浮かべた杯

ダリアを発った三頭の馬は、日暮れの街道を、王都の方角へ駆けていた。


西の空に残った茜色が、刻一刻と薄れていく。街道の両脇に続く雑木林は、もう幹と幹の見分けがつかないほど暗く沈みはじめていた。先頭を行くグスタフの下で、隊長から借りた黒馬が、乾いた街道の土を規則正しく蹴りつづけていた。


そのとき、最後尾から鋭い声が飛んだ。


「待った!」


ディーターだった。


グスタフとヨハンが手綱を引いて振り返ったときには、ディーターはもう馬の背から飛び降りていた。街道の脇の、一本の楢の木に駆け寄っていく。


「どうした」


グスタフは馬首をめぐらせ、ディーターのそばまで戻った。


ディーターは、楢の幹の、ちょうど馬上の男の目の高さあたりを、じっと見つめていた。


そこに、細長い鉄が一本、斜めに打ちこまれていた。


蹄鉄釘だった。蹄鉄を馬の蹄に留めるための、頭の平たい四角い釘。それが、北東へ傾くように、幹へ斜めに打ちこまれている。釘の頭には、細い革紐が一本、固く結びつけられていた。


「ステファンだ」


ディーターが、つぶやいた。


ただの落とし物ではないことは、ひと目で分かった。誰かが、わざわざ石か剣の柄で、この高さに打ちこんだのだ。釘の傾きが示しているのは、街道から外れて、雑木林の中へ分け入っていく細い道だった。


ダリアから王都へ向かうなら、街道をまっすぐ行くのがふつうだ。それでも、ステファンは脇道を選んだ。馬の脚のことなら、隊の誰よりもよく知っている男だった。どこを通れば馬が疲れず、どこなら速く駆けられるのか。それを見きわめたうえで、自分の通った道に、印を残していったのだろう。あとから王都へ急がねばならない誰かが、迷わずにすむように。


「さすがステファンだ」


ディーターの口から、思わずこぼれた。


グスタフは、馬の上から腕を伸ばして、釘に結ばれた革紐をつまんだ。


指に、なじみのある手ざわりが伝わった。鞍袋の留め紐が切れたときの継ぎ足しや、替えの蹄鉄や馬具の金具をまとめておくのに使う、細くて丈夫な革紐。黒騎士なら、誰もが鞍袋の底に何本か丸めて入れている。


間違いない。仲間の紐だった。


ろくに眠らずに馬を飛ばしていたはずの男が、それでも、ここで馬を止めて、釘を打ちこんでいった。グスタフは、胸の内で、ひとつうなずいた。あの若いのは、たいしたやつだ。


グスタフは、革紐から手を離して、手綱を握りなおした。


「ステファンが通った道なら、間違いなく速い」


ヨハンとディーターが、うなずいた。ディーターはもう、鐙に足をかけていた。


「俺たちも急ぐぞ」


三頭の馬が、釘の傾きが示す細い道へ、次々と駆けこんでいった。


蹄の音が、雑木林の奥へ遠ざかっていく。


あとに残された楢の幹で、蹄鉄釘に結ばれた革紐が、夕暮れの風にあおられていた。ぱたぱたと、行く手を指し示すように、いつまでも揺れていた。



********



白猫の月亭の食堂は、天井が高かった。


一階の奥がそのまま二階まで吹き抜けになっていて、見上げると、二階の廊下にめぐらされた木の手すりが、ぐるりと食堂を見下ろしている。手すりの向こうに、客室の扉がいくつも並んでいた。いちばん奥の、ひとつだけ少し大きな扉が、アヤの部屋だった。


ジェフリー、アルベルト、セドリック、カスパーの四人は、食堂のまんなかの卓に腰を下ろした。


卓の上のランタンの灯りが、四人の黒ずくめの姿を、鈍く照らしている。ほかの卓には、商人らしい客が二組ほど、杯を傾けていた。


奥の厨房から、女がひとり出てきた。


両手に、料理の皿を危なっかしいほど何枚も重ねて持っている。胸もとの紐をゆるく結んだ赤い衣を着て、手首では細い腕輪がいくつも鳴っていた。唇に塗った紅が、ランタンの灯りの中で、つやつやと光っている。歩くたびに、甘ったるい香油の匂いがふわりと広がった。給仕だけをしている女でないことは、身なりを見れば分かった。


女は、四人の卓の前で足を止めると、首をかしげた。


「あれ? 奥さんのほかに、あと三人いるんじゃないの? これだけ?」


卓の上の空気が、わずかに張りつめた。


ジェフリーは、顔色ひとつ変えなかった。


この宿の誰にも、護衛の黒騎士が何人いるかなど、話してはいない。それなのに、この女は、ここにいない三人の数まで知っている。グスタフとヨハンとディーター。館の門の前に、商人の護衛として並んでいた六人のうちの、三人。


館から宿へ、知らせは何もかも届いているのだ。


「三人には、明日の商談に持っていく品の支度をさせている」


ジェフリーは、何でもないことのように言った。


「食事は、あとで済ませるそうだ」


女の目が、ふっと、食堂の奥へ流れた。


帳場のカウンターの向こうに、女将の姿があった。帳面をめくる手を止めずに、顔だけをこちらへ向けている。


女は、ジェフリーに向きなおった。


「支度って、何の?」


探りを入れているのだと、隠す気もないような聞き方だった。こういう役回りには、まだ慣れていないのだろう。


ジェフリーが口を開くより先に、セドリックが言った。


「奥さんの商売のことだ。関係のない者には、話せない」


ぶっきらぼうな口ぶりだった。女の顔が、むっとこわばった。


ジェフリーは、その空気をやわらげるように、言葉を足した。


「もし、ここにいない者の分まで料理を作らせてしまったのなら、その分の代金も払う。女将さんに、そう伝えてもらえるか」


女は、もう一度、カウンターの向こうの女将をちらりと見た。


「まあ、あたしは料理が余ろうがどうしようが、どっちでもいいんだけどね」


女は肩をすくめると、重ねた皿を、四人の前に一枚ずつ並べはじめた。


アルベルトが、椅子から少し腰を浮かせて、女に人懐っこい笑顔を向けた。


「こっちで適当に分けて飲むからさ、何か飲むものを、水差しで持ってきてもらえるかな」


女は、まじまじとアルベルトの顔を見た。


「ここ、ダリアでいちばんの宿だよ? わざわざ来て、水を頼むの?」


「じゃあ、酒差しで」


アルベルトが、あっさり言いなおした。


女は、紅を塗った唇の端を、にやりと吊り上げた。それきり何も言わずに、腕輪を鳴らしながら厨房へ戻っていった。


アルベルトは、愛想笑いを顔に貼りつけたまま女の背中を見送ると、ようやく椅子に腰を落とした。笑顔を崩さないまま、目だけで三人の顔を順になぞる。


「ひとつの酒差しから、俺たちが自分で注ぐんなら、誰かひとりの杯にだけ細工するってわけにもいかないでしょ」


カスパーが、なるほど、という顔でうなずいた。



トン、トトトン、トン。



ジェフリーの指が、卓の板を叩いた。


軽い、何気ない音だった。退屈した客が、指で拍子をとっているようにしか聞こえない。


それでも、三人の背筋に、すっと一本、細い糸が張った。


黒騎士三番隊の合図だった。


黒騎士は、敵地での偵察や潜入のために、いくつかの合図と隠語を持っている。それは騎士団に共通のものではなく、隊ごとに違っていた。三番隊では、隊長が指で叩く拍子や、床を踏む足の音で、その合図が決まっている。


今のは、解く合図があるまで、本当の話はすべて別の言葉に包んで交わせ、という意味だった。


先に口を開いたのは、ジェフリーだった。


「妻の皿は、あとで俺たちの料理から取り分けて、持っていってやりたい。誰か、運んでくれるか」


商人の夫が、疲れて部屋にこもった妻を気遣っている。誰が聞いても、そうとしか聞こえない言葉だった。


カスパーが、すぐに答えた。


「俺が行きます。取り分けるのは、誰が」


「俺がやる。妻は塩加減にうるさいからな。先に、俺がひと口ずつ味を見てから取り分ける」


味を見る。


それが毒見のことだと、三人には分かった。


「取り分け終わったら、声をかける。そうしたら、運んでくれ」


「分かりました」


アルベルトが、皿の上の鶏肉をナイフで切りながら、のんびりとした口調で言った。


「ところで隊長。例の古道具の買い手、今夜あたり、荷を引き取りに来るんじゃないですかね。どこの店に運ばれていくのか、見ておきたいところですけど」


古道具。


館の裏に、帆布をかぶせて積み上げてあった、潰れた鎧と盾の山のことだった。


セドリックが、両手を卓の上で組んだ。


「今夜は、月が細い。灯りなしじゃ、品定めもできませんよ」


新月を数日後にひかえた月は、糸のように細く痩せていた。その細い月さえ、夜明けが近くならなければ昇ってこない。暗闇の中で、誰がどこへ何を運ぶのかを見張るのは、斥候の目でも難しい。


ジェフリーは、首を横に振った。


「月の細い晩に商いをする者は、必ず灯りを持って動く。追うのは、その灯りだ」


カスパーが、少し考えるように、天井の梁を見上げた。


「その灯りが、船にでも乗って沖へ出ちまったら? 海の上じゃ、追いかけようがない。梟の目でも、ちょっと厳しいでしょうね」


館の裏から海へ下りる道。その先に、船があったら。


「そのときは、星を覚えておけばいい」


ジェフリーは、パンをちぎりながら言った。


「灯りが、どの星の下へ消えていったか。星の並びは、船乗りの帳面みたいなものだ。どの方角へ向かったのかは、あとからでも読める」


そこまで話したところで、四人の前に、空の杯が四つと、大ぶりの酒差しが、どんと置かれた。


さっきの女だった。


「蜂蜜の酒だよ。うちでいちばん上等なやつ」


酒差しの口から、甘い香りが立ちのぼった。


女が背を向けかけたところで、アルベルトが呼びとめた。


「ごめん、やっぱり水もほしいんだけど」


女は、振りかえって、目をまるくした。


「まだ水?」


「いや、俺じゃなくて」


アルベルトは、ちらりとジェフリーのほうをうかがった。


「隊長は、あんまり酒を飲まないんだ」


ジェフリーが甘い酒を好まないことを、アルベルトは知っていた。それ以前に、この人が誰かの差し出した杯に口をつけないことも。アルベルトなりの気遣いだった。


女の目が、ジェフリーに向いた。


ジェフリーは、少しばかり言いにくそうに、口を開いた。


「すまない。水があると、ありがたい」


女の目つきが、とろりと変わった。卓に片手をついて、ジェフリーのほうへ身を乗りだす。香油の匂いが、むっと濃くなった。


「いい男が酔っぱらうとこ、見たかったのになあ。残念」


女は、ジェフリーの肩口に流し目をひとつ残して、また厨房のほうへ戻っていった。


女の足音が厨房の奥へ消えたところで、ジェフリーとアルベルトの肩から、ほとんど同時に力が抜けた。ふたりの口から、重たい息がもれる。


商いの話に見せかけて、本当のことをひとつずつ包んでは差しだす。そのあいだも、帳場の女将の目はこちらを向いたままで、厨房の女も、いつ戻ってきて背後に立つか分からない。何か気づかれたのではないか。そう思うたびに、背中にじわりと汗がにじんだ。たったあれだけのやりとりで、半日馬を走らせたあとのような疲れが、どっと押し寄せていた。


カスパーは、目のやり場に困って、視線をあちこちさまよわせていた。卓の上でもなく、女の背中でもなく、どこを見ていいか分からずに、とうとう吹き抜けの上の、二階の手すりのほうへ目を逃がした。


その目が、止まった。


二階の廊下の奥、アヤの部屋の扉の前に、小さな人影があった。


あの子だった。食事を運んでくるようにと、女将に言いつけられていた、給仕の小さな娘。車輪のついた配膳台を両手で押して、扉の前に立っている。配膳台の上には、皿がいくつも並んでいた。


カスパーは、ジェフリーのほうへ、ほんの少しだけ身を寄せた。


「隊長。奥さんのところに、先に品が届いたみたいです」


ジェフリーの手の中で、ちぎりかけのパンが止まった。


椅子の脚が、床をこすった。ジェフリーが腰を浮かせかけたのだ。


その腕を、アルベルトの手が、卓の下で押さえた。


「隊長、こっちの皿もまだそろってないのに、今、席を立つのは野暮ですよ」


アルベルトの顔は、笑っていた。声も、いつもの軽い調子のままだった。それでも、卓の下の手には、ぎゅっと力がこもっていた。


「品評会ってのはね、買い手が売り手の顔を、じっと見てるもんです。あっちの帳場にも、こっちの厨房の戸口にも、ね」


女将だけではない。さっきの女も、厨房の奥から、この卓を見ている。黒騎士たちの一挙手一投足が、見張られていた。


ジェフリーは、ゆっくりと椅子に腰を戻した。


膝の上で、拳を握った。指の関節が、白く浮いた。


「……妻には、うちの者が運ぶまで、届いた品には手をつけるなと言ってある」


ジェフリーは、二階の手すりを見上げなかった。見上げれば、それだけで、誰かの目に留まる。


「心配はないと思う。ただ、店の奥が見えないのは、どうにも落ちつかない」


セドリックが、組んでいた手をほどいた。


「店先は、俺が見ておきます」


セドリックは、椅子の向きをほんの少しだけずらした。卓の料理に目を落としているように見えて、その目の端に、二階の奥の扉が収まる角度だった。


「何かあれば、すぐに分かります」


ジェフリーは、セドリックを見た。


「助かる。頼んだ」


アルベルトが、杯に蜂蜜の酒を注ぎながら、明るい声を出した。


「よし。それじゃ、古道具の買い手の件、段取りの続きといきましょうか」



********



ひとりきりの部屋は、思っていたよりも、ずっと静かだった。


アヤは、卓の上のランタンを引き寄せて、紙にペンを走らせていた。


ジェフリーに耳もとでささやかれた言葉が、まだ耳の奥に残っている。じっとしていると、その言葉ばかりが頭の中をぐるぐると回った。だから、手を動かすことにしたのだ。今日見たもの、聞いたこと、考えたこと。それを、ひとつずつ紙の上に並べていく。


――王都からダリアへの支援。毎年、荷馬車五十台分の麦。肉と豆も。


――民の手には届いていない。届いた麦は、米に換えられている。


――米は北へ。北から剣。剣はルシアン殿の花の下に。


――陽炎草を配っているのは、本当に殿様なのか。ガストン殿では。


――畑が実らないように。支援が途切れないように。


――ガストン殿の金糸の上着。新しい長椅子。痩せた麦畑。


――ルシアン殿は、何も知らされていないのでは。


最後の一行を書いたところで、ペンが止まった。


ルシアン殿は、何も知らずに、眠れる薔薇を探して、遠いサルヴィアの山を歩いているのだろうか。叔父を信じて。自分の領地が、どうして貧しいままなのかも知らずに。


扉が、叩かれた。


アヤの肩が、ぴくりと跳ねた。ペン先から、インクがひとしずく、紙の上に落ちた。


「奥様。お料理を、お持ちしました」


扉の向こうから、か細い声がした。


アヤは、ペンを置いたまま、扉を見つめた。


――食事は、黒騎士に運ばせます。それまで、何が運ばれてきても、けっして口にしないでください。


開けるべきか。開けずにおくべきか。


ジェフリーは、運ばれてきたものを口にするなと言った。扉を開けるなとは言わなかった。それでも、開ければ、何かが運びこまれてくる。


迷っているうちに、もう一度、扉が叩かれた。


このまま、何も聞こえないふりをしていようか。眠ってしまったことにすれば、そのうち、あきらめて帰っていくかもしれない。


そう思ったとき、扉の向こうから、さっきよりもずっと心細そうな声がした。


「奥様……いらっしゃいませんか。奥様」


声の終わりが、震えていた。今にも泣きだしそうな声だった。


その声を聞いて、アヤは、考えるより先に、椅子から立ちあがっていた。


扉を開けると、廊下に、小さな女の子が立っていた。


十を少し過ぎたくらいの、痩せた子だった。洗いざらしてすっかり灰色になった前掛けを着けて、車輪のついた配膳台の取っ手を、両手でぎゅっと握りしめている。配膳台の上には、いくつもの皿と器が、湯気を立てて並んでいた。


女の子は、扉が開いたとたん、びくりと肩を縮めた。


「お、奥様の、お料理を、お持ちしました」


アヤは、その怯えきった顔を見下ろした。


大人の顔色ばかりをうかがって、叱られる前から身を縮めている。そういう子どもの顔を、アヤは、少し前に見たことがあった。


アヤは、膝を少し折って、女の子と目の高さを近づけた。


「ありがとう。どうぞ、入って」


女の子は、慣れない手つきで、重たい配膳台を押して部屋の中へ入ってきた。車輪が、絨毯の縁に引っかかってがたんと揺れ、皿がかちゃかちゃと鳴った。女の子は真っ青になって、慌てて皿を押さえた。


アヤは、黙って配膳台の端を持ち、絨毯の縁を越えるのを手伝った。


女の子は、卓の上に、ひとつずつ料理を並べていった。手つきはぎこちなく、器を置くたびに、こぼさないかと息を止めているのが分かった。


並べ終えると、女の子は扉を閉めた。そのまま、扉のすぐそばに、背中をつけるようにして立った。


「お……奥様の、お話し相手をするようにと、言われました」


アヤは、卓の上に並んだ料理を見た。


湯気の立つ、野菜と豆のスープ。香草をまぶして皮をこんがりと焼いた鶏肉。器にこんもりと盛られた、まるい揚げ物。白い飲みものを満たした杯には、小さな花が浮かんでいる。果物を山のように盛った鉢。


痩せた麦畑と、戸を閉ざした家々ばかりのダリアで、どこからこれほどのものが出てくるのだろう。ひとりでは、とても食べきれる量ではなかった。


アヤは、女の子を振りかえった。


「あなた、お名前は?」


「……テッサ、です」


「テッサ。一緒に食べましょう。わたくしひとりでは、とても食べきれないもの」


テッサは、扉に背中をつけたまま、首を横に振った。


「だ、だめです。お客様のお料理に手をつけたら、叱られます」


その言い方に、アヤの胸の奥が、ざわりと波立った。


叱られる、と言ったときの声の震え。言いながら、自分の腕を、もう片方の手でぎゅっとつかんだ仕草。


ノアだった。


はじめて野営地でノアに会ったときに感じた、あの違和感と同じだった。この子は、大人を怖がっている。叱られることを、ではない。叱られたあとに来るものを、身体が覚えているのだ。


アヤは、穏やかに言った。


「それじゃあ、お話し相手になってもらうのだから、もう少し近くに来てくれる? そんなに離れていたら、お話ができないわ」


テッサは、しばらくためらっていた。お客様の言うことを聞かなければ、それはそれで叱られる。そう考えたのか、やがて、おずおずと扉から離れて、卓のそばまで歩いてきた。


「お話をするときは、同じ高さで顔を見たいの。座ってちょうだい」


テッサは、部屋の中を見まわした。どこに座っていいのか分からない、という顔だった。


アヤは、卓と向かいあうように置かれた長椅子を、手で示した。房飾りのついた、深い色の布張りの長椅子。テッサは、その端に、そっと浅く腰を下ろした。お尻の半分も、座面に乗っていなかった。


テッサが腰を下ろしたとたん、卓の上の料理の匂いが、テッサのほうへ流れていった。


くう、と小さな音がした。


テッサのお腹だった。


テッサは、真っ赤になって、両手でお腹を押さえた。身体を折り曲げるようにして、ぎゅっと縮こまる。


アヤは、その姿を見て、尋ねた。


「わたくしが食べたあとのものなら、叱られないの?」


テッサは、意味が分からないという顔で、顔を上げた。


「お客様の食べ残しは、どうなるの?」


テッサは、しばらく迷うように、目を泳がせた。


「……お客様が残したものは、家畜の餌になります」


ぽつりと、テッサは言った。


「家畜の桶がいっぱいのときは……少しなら、食べても、叱られません」


アヤは、膝の上で、手を白くなるほど握りしめた。


この子の食事は、家畜よりあとなのだ。家畜の桶があふれたときだけ、そのこぼれた分を、口にすることを許される。


胸の奥で、熱いものが、ぐらりと煮えたった。


それでも、アヤは、その熱をテッサには見せなかった。今ここで怒ってみせたところで、怖がらせるだけだ。この子が悪いのではないのだから。


アヤは、握りしめていた手を、そっとほどいた。


「それじゃあ、テッサ。わたくしが食べたあとのものを、食べてくれる?」


テッサは、きょとんとした。


アヤは、卓の上を見まわした。果物の鉢の脇に、小さな皿が一枚添えられていた。果物の皮や種を入れるためのものなのだろう。種入れにしては、少し広い皿だった。


アヤはその皿を引き寄せると、まるい揚げ物をひとつ、その上にのせた。フォークを入れて、そっと割る。


さくりと、衣が割れた。


中から、湯気と一緒に、とろりとしたものがこぼれ出た。


米だった。


米をやわらかく煮て、丸めて、衣をつけて揚げたものだった。白い米粒の一粒一粒に、乳と香草の匂いがからんでいる。


アヤの手が、止まった。


ダリアでは、民の口に入るはずの麦が、米に換えられて北へ運ばれている。その米が、今、自分の目の前の皿の上で、湯気を立てている。


この宿の厨房に、米がある。


アヤは、皿の上の米粒を、しばらく見つめていた。


――何が運ばれてきても、けっして口にしないでください。


ジェフリーの言葉は、分かっていた。


分かっている。


それでも、目の前では、子どもが腹を空かせていた。家畜よりあとに回されて、桶からこぼれたものしか口にできない子どもが、両手でお腹を押さえて、身体を縮めている。


アヤがひと口も食べなければ、この子は、食べ残しにさえ手を伸ばせないのだ。


アヤは、フォークの先で、割れた揚げ物の端をすくった。


口に運んだ。


衣の香ばしさと、米のやわらかな甘みが、舌の上に広がった。


アヤは、残りを皿ごとテッサの前に差しだした。


テッサは、皿を受けとったまま、どうしていいか分からないという顔で、アヤを見上げていた。


アヤは、果物用の小さなフォークを、皿の縁に添えた。


「大丈夫。わたくしの、食べ残しよ」


テッサは、皿の上の揚げ物とアヤの顔を、何度も見比べた。


やがて、そろそろとフォークを手に取った。


フォークの握り方は、お世辞にも上手とは言えなかった。拳でぎゅっと柄を握りこんでいる。きっと、木の匙で汁をすくうことくらいしか、したことがないのだろう。割れた揚げ物を突こうとしても、丸い衣がつるりと逃げて、皿の上をころころと転がった。


テッサの顔が、泣きそうにゆがんだ。


アヤは、手を伸ばして、テッサの手の上から、そっとフォークを握った。


「こうやって、上から、まっすぐ刺すの」


ふたりの手で、揚げ物にフォークを刺す。


アヤは手を離して、テッサにうなずいてみせた。


テッサは、フォークの先の揚げ物を、おそるおそる口へ運んだ。


ひと口。


テッサの目が、まんまるに見開かれた。


この部屋に入ってきてから、はじめて見る顔だった。怯えも、ためらいも、どこかへ吹き飛んで、目の奥に、ぱっと灯がともったようだった。テッサは、口の中のものを、ゆっくりと、大事そうに噛んだ。飲みこむのが惜しい、というように。


アヤの口もとが、自然とほころんだ。


アヤは、揚げ物を、もう二つ三つ、テッサの皿にのせてやった。最後のひとつだけを、自分のフォークで刺して、一緒に口に入れた。


「おいしい? テッサ」


テッサは、頬をふくらませたまま、恥ずかしそうに、嬉しそうに、何度もうなずいた。


それからは、ふたりで、卓の上の料理を分けあって食べた。


スープを、小さな器に取り分けて。鶏肉を、食べやすい大きさに切って。果物の鉢から、熟れた実を選んで。


アヤは、何かをテッサの皿にのせるたびに、必ず同じものを、ほんの少しだけ、自分の口にも運んだ。テッサが、お客様の料理を勝手に食べたのではない、食べ残しを分けてもらったのだと、胸を張っていられるように。テッサが、遠慮をしなくてすむように。


鶏肉の皮の香ばしさに、テッサは目を細めた。スープを口にすると、ほうっと息をついた。熟れた果物の汁が顎をつたって、慌てて手の甲でぬぐった。


どれも、テッサにとっては、生まれてはじめて口にするものばかりのようだった。


アヤは、その顔を見ているだけで、胸がいっぱいになった。


ひとしきり食べたところで、アヤの目が、卓の端の杯に止まった。


白い飲みものの上に、小さな花が浮かんでいる杯だった。


アヤの目の動きに気づいたのか、すっかり肩の力が抜けたテッサが、声を弾ませた。


「それ、わたしが作ったんです」


アヤは、テッサを見た。


「乳と、やわらかいチーズと、お砂糖を、冷たい井戸の水でのばして作るんです。この飲みものは、いつも、わたしが作ってるんです。最後に、お花を浮かべるところまで、ぜんぶ。お花が浮かんでると、女の人はみんな、喜んでくれるので」


アヤは、杯を手に取った。


ひんやりと冷えた杯の中で、甘く香る白い飲みものが、ランタンの灯りを受けてゆらゆらと揺れていた。その表に、白と薄紅の小さな花が三つ、ふんわりと開いたまま浮かんでいる。花のまわりには、細かくちぎった緑の葉が、いくつか散っていた。


杯を傾けても、花は沈まずに、白い水面の上でくるりと向きを変えるだけだった。この子は、いつもこうして、ひとつひとつ花を選んで、そっと浮かべているのだろう。


テッサは、少し得意そうに続けた。


「奥様がお疲れだって聞いたので、生姜も、ちょっとだけ入れました。身体があったまって、疲れがとれるって、前に旅の人が言ってたから」


アヤの胸が、じんと温かくなった。


叱られることばかりを恐れていたこの子が、顔も知らない客のために、疲れがとれるようにと考えて、この一杯をこしらえてくれたのだ。


「わたくしのために、たくさん考えて作ってくれたのね。ありがとう、テッサ」


アヤは、杯に口をつけた。


冷たい。甘い。乳のやわらかなこくが、舌の上に広がった。


そのあとから、ぴりりと、舌の奥を刺すような辛みが追いかけてきた。


生姜が、少し効きすぎているのかもしれない。


それでも、子どもが自分のために作ってくれた一杯だった。多少の辛みなど、何でもなかった。アヤは、杯を傾けて、ごくごくと飲んだ。


「とっても、おいしいわ」


テッサの顔が、ぱあっと明るくなった。


ただ、このままでは、テッサには少し辛すぎるかもしれない。水で少しのばして、ちょうどいい味にしてから、この子にも飲ませてあげよう。


アヤは、卓の上の水差しに手を伸ばした。


水差しを持ち上げて、杯の上で傾けようとした、そのときだった。


どくん、と。


心臓が、ひとつ、大きく跳ねた。


胸の内側を、内から拳で叩かれたような鼓動だった。


アヤは、水差しを持ったまま、動きを止めた。


疲れが、出たのだろうか。今日は朝から、ずっと気を張りつめていた。


アヤは、もう一度、水差しを傾けようとした。


杯の縁が、二つに見えた。


ランタンの灯りが、にじんで、ふくらんで、ゆらりと揺れる。水差しの口から落ちた水は、杯の縁を外れて、卓の上にこぼれた。慌てて手を止めようとしても、指先が言うことを聞かなかった。水差しを握る両手が、小刻みに震えている。


「奥様?」


テッサの声がした。


テッサの手の中のフォークが、宙で止まっていた。


「大丈夫よ……少し、めまいがしただけ」


アヤは、震える両手で、どうにか水差しを卓の上に戻した。


杯のまわりは、こぼれた水で、びしょびしょに濡れていた。


水差しから手を離した、その瞬間。


身体から、すうっと力が抜けた。


アヤの身体は、そのまま横へ傾いで、長椅子の上に崩れるように倒れこんだ。


がちゃん、と、テッサが皿とフォークを放りだす音がした。


「奥様! しっかりしてください、奥様!」


テッサが駆け寄ってきて、アヤの肩に手をかけた。


その、瞬間だった。


アヤの喉から、悲鳴がほとばしった。


テッサの小さな手が触れたところから、焼けた鉄を押し当てられたような熱さが、肩から背中へ、腕の先へと、一気に走り抜けたのだ。服の布地ごしの、子どもの手のひらの、ほんのわずかな重みが、何倍にも、何十倍にもふくれあがって、肌の上に食いこんでくる。


テッサは、弾かれたように手を引っこめた。


自分の手を見て、アヤを見た。顔から、みるみる血の気が引いていく。


どうしよう。奥様が、死んでしまう。


テッサの唇が、声にならないままわなないた。


長椅子の上で、アヤが、震える唇を動かした。額に、玉のような汗が浮かんでいた。


「しゅ……主人を……呼んで、きて……」



********



セドリックの目の端で、二階の奥の扉が、いきなり開いた。


さっき料理を運びこんだ給仕の娘が、扉の隙間から、転がるように顔を出した。廊下の左右を、せわしなく見まわしている。何かを、誰かを、必死に捜している顔だった。


セドリックは、手にしていた杯を卓に置いた。


「隊長」


商いの話に包んだ言葉ではなかった。ただ、呼びかけただけの、ひと声だった。それだけで、三人には分かった。言葉を包んでいる場合ではないことが、起きたのだ。


その声が卓の上に落ちるより早く、セドリックは椅子を蹴って立ちあがっていた。


吹き抜けの階段へ向かって、まっすぐに駆けだす。


ジェフリーが、続いた。アルベルトも、カスパーも、椅子を倒さんばかりの勢いで立ちあがった。


食堂の客たちが、何事かと振りかえった。


卓の上には、運ばれてきた料理が、まだいくつか並んでいるだけだった。ジェフリーが、アヤの分を取り分けようとしていた鶏肉が、ナイフを刺したまま、皿の上に放りだされていた。



********



テッサは、二階の手すりにしがみついて、食堂を見下ろそうとしていた。


旦那様は、どこ。奥様の、旦那様は。


そのとき、階段を駆けのぼってくる足音が、いくつも重なって響いた。黒ずくめの男たちが、テッサの目の前を風のように駆け抜けていく。テッサが何かを言うより先に、先頭の男が、開いたままの扉から、部屋の中へ飛びこんでいった。


ジェフリーの目に、長椅子の上に横たわるアヤの姿が飛びこんできた。


ジェフリーは、駆け寄った。


アヤの額から、汗が玉になって流れ落ちていた。うっすらと開いた目は、どこも見ていなかった。焦点の合わない黒い瞳が、天井のどこかをさまよっている。薄く開いた唇のあいだから、浅く速い息が、何度ももれていた。


「ナナ」


ジェフリーは、長椅子のそばに膝をついて、アヤの手を取った。


その瞬間、アヤの身体が、びくりと大きく跳ねた。喉の奥から、引き裂かれるような声がほとばしった。


ジェフリーは、とっさに手を離した。


自分の手のひらを見た。握りしめたわけではない。ただ、指先を包んだだけだった。それなのに、アヤは、焼けた鉄でも押し当てられたように身をよじり、今も長椅子の上で、肩を震わせながら荒い息を繰りかえしている。


ただの病ではない。熱でも、疲れでもない。


卓の上には、食べかけの料理がいくつも並んでいた。スープの器。切り分けた鶏肉。揚げ物の欠片が残った小皿。果物の皮。そして、こぼれた水に浸かった杯。


ジェフリーは、戸口を振りかえった。


開いた扉のそばで、給仕の娘が立ちすくんでいた。


「何を、食べさせた」


ジェフリーの声は、自分でも驚くほど鋭かった。


テッサの肩が、びくりと跳ねた。両腕が、胸の前で交差しかけて、止まった。


「お……奥様は、お花の、飲みものを……お飲みに、なって……」


花の飲みもの。


ジェフリーは、卓の上の、水浸しの杯に目を落とした。


杯の中には、水で薄まった白い飲みものが、まだ半分ほど残っていた。杯を手に取り、鼻先へ近づける。乳の匂い。砂糖の甘い匂い。花の匂い。それだけでは、何も分からなかった。


ジェフリーは、ためらわずに、杯の中身を少しだけ口に含んだ。


舌の上に、甘みが広がった。そのすぐ下から、青くさい草の匂い。続いて、舌の奥を痺れさせるような、ぴりぴりとした辛み。


その辛みを、ジェフリーの舌は知っていた。


ジェフリーの目が、見開かれた。


懐から布を引きだし、口の中のものを、そこへ吐きだした。


「白い茶だ」


アルベルトが、息をのんだ。カスパーの手が、戸口の枠をつかんだ。


ジェフリーは、杯の中に目をこらした。水面に浮かんだ小さな花のあいだに、細かく砕かれた葉の欠片が、いくつも漂っていた。


セドリックが、ジェフリーのそばへ踏みこんできた。


「町の道なら、昼間にさんざん歩きました。夜道でも、迷いません。俺がいちばん速い」


セドリックの目は、まっすぐにジェフリーを見ていた。


「何を、持ってくればいいですか」


白い茶を飲んだ者には、手当てがいる。それを、セドリックは一瞬で察していた。


ジェフリーは、アヤから目を離さずに言った。


「野営地へ行って、イェンスを連れてこい。熱さましの薬草を、ありったけ持たせろ」


ジェフリーは、ひと呼吸だけ置いた。


「妻が、白い茶を飲んだ。……そう、伝えろ」


セドリックは、うなずくと同時に身をひるがえした。黒い背中が戸口の向こうへ消え、階段を駆け下りていく足音が、みるみる遠ざかっていった。


入れ替わるように、廊下に、ゆっくりとした足音が近づいてきた。


「何事です?」


女将だった。


騒ぎを聞きつけたのだろう。指輪をいくつもはめた手を胸の前で重ねて、開いた扉の前に立っている。その目が、部屋の中を、すっと撫でた。


ジェフリーは、立ちあがった。


アヤのそばを離れて、戸口の女将の前まで歩いていく。女将の目と、長椅子のアヤとのあいだに、自分の身体を置くようにして。


女将は、ジェフリーの肩越しに、長椅子の上で苦しげに横たわるアヤを見た。


「まあ。奥様は、お加減でも悪いんですか」


声は、心配そうだった。目の色は、少しも変わっていなかった。


ジェフリーは、女将を見下ろした。


腹の底で、何かが煮えたぎっていた。それを、ジェフリーは、ひと息ごとに押さえこんだ。ここで剣に手をかければ、それで終わる。ここで何かを壊せば、アヤがひとつずつ積み上げてきた芝居も、何もかもが崩れる。


「妻の飲みものを作ったのは、誰だ」


ジェフリーの声は、自分の耳にも、ひどく凪いで聞こえた。


女将は、ジェフリーの肩越しに、卓の上の料理をちらりと見た。


「お料理を作ったのは、わたしですけどね。飲みものは……」


女将の目が、ゆっくりと、戸口の脇へ動いた。


そこに、テッサが立っていた。


女将の目が自分に向いた瞬間、テッサの身体が、びくりと震えた。顔は、紙のように白かった。


「あの子が作りましたよ」


廊下の空気が、凍りついた。


カスパーが、女将とテッサの顔を、交互に見た。信じられない、という顔だった。さっきまで、配膳台を押すのにさえ、こわごわと息を止めていた子だった。


テッサの唇が、動いた。


「わたしが……つくり、ました……」


声も、唇も、細い肩も、すべてが、止まらずに震えていた。


その震えは、いつまでも、止まらなかった。

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