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36. 実りを許されぬ畑

エステリアの王宮の客間で、ステファンが泥のように眠っていた、その晩。


ダリアの麦畑に夕闇が下りるころ、一艘の小舟が、黒くうねる海の上を、岸に沿って進んでいた。


舵を握っているのは、日に焼けた身軽な男だった。左の頬の半分が、熟れきらない果実の皮のような、赤みがかった緑に染まっている。右の足首には布が幾重にも巻かれていて、舟が波を越えるたびに、その奥で鈍い痛みが脈を打った。


男は、痛みに顔をしかめながらも、舵から手を離さなかった。


館の門の前で見た、あの黒騎士の顔が、まだ目の奥に焼きついている。崖の上で、夕闇の中を足音ひとつ立てずに追ってきて、振り向きざまにナイフを放ってきた男。その男が、主の館の門前に、商人の一行の顔をして立っていたのだ。


一刻も早く、ロランに知らせなければならない。


もっとも、ロラン本人は、これから向かう砦にはいない。近衛の騎士団長は、ふだんは王都の王宮に詰めていて、海辺の砦へ顔を出すのは、用があるときだけだった。それでも、砦にはロランの息のかかった者たちが詰めている。あそこまで知らせを届けさえすれば、あとは早馬が王都まで駆けてくれる。


陸の道を行けば、丸一日はかかる。風さえつかめば、舟のほうがずっと速い。旦那がそう言ったとおり、帆は、日暮れの陸風をはらんで、よく走った。


日が落ちきると、空にも海にも、月はなかった。


見えるのは、岸辺の崖の輪郭と、ときおり白く砕ける波頭だけになった。男は、潮の匂いと波の音だけを頼りに、舟を進めていった。


夜が更けはじめたころ、行く手の岬の上に、ぽつりと赤い火が見えた。


砦の見張りの火だった。


男は帆を下ろし、櫂に持ちかえて、岬の下の入り江へ舟を寄せていった。崖の陰に入ると、足もとの覆いをかけたランタンを手に取る。覆いを外して、三つ数えて、また覆う。それを三度くり返した。


しばらくして、崖の上の暗がりから、声が降ってきた。


「薔薇は」


男は、舟の上で顔を上げた。


「まだ、眠っている」


崖の上が、しんと静まりかえった。波の音だけが、岩に寄せては返していく。


やがて、岩をくりぬいた細い石段の上に、ランタンの灯りがひとつ揺れた。灯りは、ゆっくりと入り江まで下りてきた。


現れたのは、深い青の外套を羽織った男だった。外套の胸には、王家の紋が縫いとられている。近衛の外套だった。


近衛の男は、舟のそばまで来ると、ランタンを掲げた。灯りが、舟の上の男の顔を照らしだす。左の頬の、毒々しい赤緑の色が浮かびあがった。


近衛の男の目が、そこで止まった。


「……その顔は、どうした」


舟の上の男は、ランタンの灯りから顔をそむけもせずに答えた。


「黒騎士だ。サルヴィアの黒騎士が、ダリアに来ている」



********



納屋の戸を閉めると、乾いた花の匂いが、戸の隙間にわずかに残った。


アルベルトは、母屋の戸口へまわって、軽く戸を叩いた。戸が指一本ぶんほど開いて、その隙間から、昼間に滑車を直してやった主人の顔がのぞいた。


「親父さん。悪いけど、明日の朝になるまで、納屋には近づかないでくれるかい。夜中に何か物音がしても、だ」


主人の喉が、ごくりと動いた。


「それと、今日、黒騎士がここへ来たことは、誰にも言わないでほしい。女房さんにも、そう伝えといてくれ」


主人は、しばらくアルベルトの顔を見ていた。やがて、何も聞かずにうなずくと、そっと戸を閉めた。中で、閂の下りる重たい音がした。


ジェフリーは、その音を背中で聞きながら、海のほうへ目をやっていた。


館の屋根の向こうで、空と海の境目が、もう見分けられなくなりかけている。ディーターがしるしをつけた男が下りていったという道は、おそらく館の裏手から崖に沿って、海へ続いているはずだった。


「海への道へ回る」


ジェフリーの言葉に、セドリックが黙ってうなずいた。


館の者たちはいつも夜に来て、夜のうちに帰る。納屋の主人は、そう話していた。それでも、今夜もそうだとは限らない。ジェフリーは、ひとつの話だけを頼りに動くつもりはなかった。


だから、納屋を出る前に、アルベルトにひとつ、細工をさせておいた。


納屋の奥には、館の者たちが置いていった荷車が一台、藁を積んだまま止めてあった。アルベルトは、その荷車の片方の車輪の前にしゃがみこむと、外側の鉄の輪に、頭を少しだけ曲げた小さな釘を一本、短剣の柄で打ちこんだのだ。


車輪が一度まわるたびに、その釘の頭が、土の上に小さな傷を残していく。ふつうの轍のなかに、同じ間をおいて刻まれる、爪の先ほどのくぼみ。夜の闇の中では、誰の目にも留まらない。そのつもりで探す者が朝の光の中で見れば、荷車がどの道をたどったのか、ひと目で分かる。


時計の歯車のひとつひとつを、目を細めて合わせていた父親の手もとを見て育った男の、細かい仕事だった。


三人は、麦畑のあいだの細い道を、館のほうへ歩きだした。


しばらく行ったところで、前から、ぱたぱたと小さな足音が近づいてきた。


町のほうから、子どもがひとり駆けてくる。まだ十を少し過ぎたくらいの、痩せた女の子だった。白いはずの前掛けは、洗いざらしてすっかり灰色になっている。夕闇の中で、黒い外套の三人に気づくと、女の子は足をゆるめた。少し怯えたように立ち止まってから、意を決したように駆け寄ってきた。


ジェフリーは、その顔に見覚えがあった。


白猫の月亭に着いてすぐ、帳場の女主人が館の方角へ走らせていた子だった。あのときは、宿の裏口から、振り返りもせずに駆けていった。


「あの……黒い騎士様で、いらっしゃいますか」


女の子は、息を切らしながら言った。


アルベルトが、すっと腰をかがめて、女の子と目の高さを合わせた。


「そうだよ。どうした、そんなに慌てて。転ばなかったか」


人懐っこい声に、女の子の肩から、少し力が抜けた。


「名前は?」


「……テッサ、です」


「テッサか。いい名前だ。それで、テッサ。何があった」


テッサが口を開くまでには、まだ少し時間がかかった。


「白猫の月亭の、女将(おかみ)さんが……みなさんを、お捜しです。呼んでくるようにって、言われました」


三人は、顔を見合わせた。


宿の女主人が、いったい何の用なのか。


テッサは、両手で前掛けの裾を握りしめながら、言葉を続けた。


「ハルセリン様のご夫婦と、護衛の皆さまを、みんな、お連れするようにって。みなさん全員が来てくださらないと、わたし……」


その先は、言葉にならなかった。


テッサの両腕が、いつのまにか、自分の身体の前で交差していた。胸をかばうように、肩を抱くように。誰かに打たれる前に、身を縮めるときの形だった。


ジェフリーは、その腕を見た。


言いつけを果たせなければ、この子は、何かしらの仕置きを受ける。


宿や娼館では、珍しくもないことだった。見習いの子どもが言いつけをしくじれば、しつけという名のもとに、折檻が待っている。


ジェフリーは、それを知っていた。知っていながら、一度、見過ごしたことがあった。


何年か前、サルヴィアの王都でのことだった。ある娼館の下働きの子どもが、兵舎の門まで、ジェフリーを呼びにきたことがある。店の女将が、評判の氷の騎士を客として招きたがっている、という使いだった。ジェフリーは、ろくに子どもの顔も見ずに断った。


数日たって、門番から聞かされた。あの子は、使いをしくじった罰として、雪の降る晩に、店の外にひと晩じゅう立たされていたのだ、と。


あのとき、ジェフリーは、そんなことになるとは思いもしなかった。思いもしなかったことが、言い訳にならないことだけは、よく分かっていた。


ジェフリーは、テッサの前で膝をついた。


「女将さんに、伝えてくれるか。皆で、必ず戻る、と」


テッサが、顔を上げた。


信じていいのかどうか確かめるように、ジェフリーの顔をまじまじと見る。ジェフリーがうなずいてみせると、テッサの顔が、ぱっと明るくなった。ぺこりと頭を下げると、来たときよりもずっと軽い足どりで、町のほうへ駆け戻っていった。


ジェフリーは、立ち上がった。


「予定を変える。全員で、宿へ戻る」


セドリックが、海のほうへちらりと目をやった。


「館の裏の道は、見張らなくていいんですか。今夜、何か動くかもしれません」


ジェフリーは、テッサの小さな背中が、夕闇の中へ溶けていくのを見ていた。


「黒騎士がそろって戻らなければ、今夜、あの子がひどい目にあうかもしれない」


それ以上は、何も言わなかった。


ジェフリーは、セドリックとアルベルトに向かって、顎をわずかに町のほうへ傾けてみせると、先に立って歩きだした。


アルベルトとセドリックは、ほんの一瞬、顔を見合わせた。どちらも何も言わず、そのあとに続いた。



********



白猫の月亭へ戻ると、帳場の奥から、女主人がすぐに出迎えに現れた。


「まあ、ハルセリン様。おかえりなさいませ。ちょうど今、お食事の支度をしているところでございます。できあがりましたら、お呼びいたしますね」


ジェフリーは礼を言いながら、女主人の肩越しに、食堂の奥へ目をやった。


テッサが、水差しを抱えて、卓のあいだを行き来していた。頬が赤いのは、走ってきたせいだろう。腫れた跡も、泣いた跡も、どこにも見えなかった。


ジェフリーは、胸の奥で息を吐いた。


女主人が、ジェフリーの目の先をたどって、くすりと笑った。


「あの子、ちゃんと皆さまをお連れできましたのね。今夜のところは、褒めてやらなくては」


今夜のところは。


その言い方が、ジェフリーの耳に引っかかった。


「今夜は、皆さまを心をこめておもてなしするようにと、ヴァルモントの旦那様から言いつかっておりますの。エステリアのお料理を、どうぞ、ごゆっくりお楽しみくださいませ」


女主人は、にこやかに頭を下げると、食堂の奥へ戻っていこうとした。


「女将さん」


ジェフリーが呼びとめた。


女主人が、振り返る。


「給仕は、あの子に頼みたい」


ジェフリーは、水差しを抱えたテッサのほうへ、目を向けた。


女主人は、テッサを振り返った。その顔に、一瞬だけ、品定めをするような色が浮かんだ。


「あの子でございますか。ごらんのとおり、まだほんの子どもでございますよ。旦那様のお相手をつとめるには、とても」


「そういうつもりではありません」


ジェフリーは、穏やかに言った。


「妻が、自分の店に並べる品を、もう少し増やしたいと申しておりましてね。小さな子どもが喜ぶような品を、ずっと探しているのです。あの年ごろの子が、どんなものを欲しがるのか。妻の話し相手になってもらえれば、きっと喜びます」


ジェフリーは、二階のほうへちらりと目をやった。


「あわせて、これから妻と、明日の取引の段取りを話しておきたい。食事の支度ができたら、部屋まで呼びに来てもらえますか」


女主人は、しばらく、ジェフリーの顔を見ていた。


指輪をいくつもはめた手を胸の前で重ねたまま、何かを量るように。やがて、その唇に、いつもの愛想のいい笑みが戻った。


「さようでございますか。そういうことでしたら、喜んで」


女主人は、食堂のほうへ顔を向けて、声をかけた。


「テッサ。今夜は、ハルセリン様の奥様のお相手をなさい。お客様の前で、粗相のないようにね」


テッサは、水差しを抱えたまま、目をまるくしてこちらを見た。


ジェフリーは、その目には応えずに、階段のほうへ向きなおった。


女主人は、今度こそ、食堂の奥へ消えていった。


ジェフリーは、アルベルトとセドリックを振り返り、ついてこいと小さく手で示してから、階段を上った。二階の奥の扉の前では、カスパーが、壁に背をあずけることもなく、まっすぐに立っていた。ジェフリーは、カスパーにも中へ入るよう、顎で扉を示した。



********



扉を開けると、窓辺に立っていたアヤが、こちらを振り返った。


「おかえりなさいませ」


言い終えたところで、アヤの目が、ジェフリーのうしろに続いて入ってくる男たちの姿をとらえた。アルベルト、セドリック、それに、扉の前にいたはずのカスパーまで。アヤは、目を見ひらいた。


最後に入ったセドリックが、扉を閉めた。閉めたその場に、扉へ半身を向けるようにして立つ。


「見張りは、俺が」


廊下を誰かが通れば、足音ひとつ聞きもらさない位置だった。


ジェフリーは、長椅子のほうへ、アルベルトとカスパーを手で促した。房飾りのついた、深い色の布張りの長椅子だった。アルベルトは、遠慮なく腰を下ろした。カスパーは、大きな身体を窮屈そうに折りたたんで、その端に浅く座った。


アヤは、何が起きているのか分からないまま、おずおずと、空いていた椅子に腰を下ろした。


ジェフリーは、部屋にいる全員の顔が見える場所に、椅子を引き寄せて座った。


「消えた物資の行方が、分かりました」


アヤが、椅子から腰を浮かせかけた。


「本当ですか」


「まだ、推測にすぎません。それでも、ほぼ間違いないと思います」


ジェフリーは、今日見てきたことを、ひとつずつ話していった。


村の外れの農家の納屋に、ルシアンが眠れる薔薇を試すために預けていった花が、山のように積まれていたこと。その花と藁の下から、サルヴィアの鍛冶の町の刻印が入った剣が、木箱ごと出てきたこと。


アルベルトが、長椅子から言葉を足した。館の裏に、帆布をかぶせて積み上げてあった潰れた鎧や盾。あれは鉄として北へ送られ、剣の代金の足しにされているのだろう、と。


セドリックは、扉のそばから、懐の布切れを取り出してみせた。赤黒い血の染みが残る細い布。ディーターがしるしをつけた男が、館に知らせを持ちこんだあと、足を引きずって海へ下りていった道の途中に落ちていたものだった。


最後に、ジェフリーは、上着の内側から布の小さな包みを取り出して、卓の上で開いた。


殻のついた、細長い粒が、いくつか転がり出た。


「納屋の床に、落ちていました」


アヤが、粒のひとつを指先でつまみ上げた。ランタンの灯りにかざして、殻の筋を見つめる。


「……米」


「王都から送られていた麦は、どこかで米に換えられています」


ジェフリーは、卓の上に残った粒のひとつを、指先で転がした。


「米は、サルヴィアでは採れません。北へ運べば、麦よりずっと高く売れる。剣の代金を払うなら、麦のまま運ぶより、はるかに少ない元手で済むうえに、荷も小さくできる。民の口に入るはずだった麦は、米に換えられて北へ運ばれ、剣になって戻ってきていた」


アヤは、手のひらの米粒を、じっと見下ろしていた。


その指が、米粒を包みこむように閉じられていった。


話がひととおり終わると、扉のそばのセドリックが、ぽつりと口を開いた。


「隊長。ひとつ、気になっていることがあります」


全員の目が、セドリックに向いた。


「ダリアに入った日、村で、男たちに絡まれていた娘を助けました。そのとき、娘の父親が、懐から乾いた葉を出して、もみほぐして匂いを嗅いでいたんです。それを嗅いだら、震えていた指が、少しずつ落ち着いていきました」


セドリックは、そのときの父親の言葉をくり返した。


――殿様が、この葉を分けてくださる。これがあれば、腹がへっても、つらくても、なんとか、明日も畑に出られる。


「白い茶の葉とは、まるで違う匂いでした。あのときは、何の葉なのか分かりませんでした」


アヤが、セドリックのほうへ身を乗り出した。


「セドリック様。その葉の匂いを、もう一度、教えていただけますか。できるだけ、くわしく」


セドリックは、少し考えるように目を伏せた。


「かすかに甘くて……焦げたような匂いでした。乾いた土埃みたいな匂いも、少しまじっていたかもしれません」


アヤの顔から、血の気が引いていった。


膝の上で重ねた両手に、白くなるほど力がこもる。


アヤは、父の執務室で聞いた言葉を思い出していた。アジールとの交易の決まりが、なぜ変わらないのか。ミエにそう問うたあとで、父は言ったのだ。アジールには、エステリアがけっして受け入れられないものがある。陽炎草のような、人の心と身体を蝕む草だ、と。


「わたくし、あのあと、陽炎草のことを調べたのです」


アヤの言葉は、ひとつひとつ、確かめるように紡がれた。


「王宮の書庫で、アジールの薬草の書物を。どのようにして作られるのか。どんな匂いがするのか。そして、その葉の匂いを吸いこむだけで、この世のわずらわしいことが、何もかも消えていくように感じられるのだ、と」


アヤは、セドリックがくり返した父親の言葉を、口の中でなぞった。


腹がへっても、つらくても、なんとか、明日も畑に出られる。


「書物には、こうも書いてありました。陽炎草が身体を軽くしてくれるのは、ほんのひとときだけ。そのあとには、立っていることさえつらいほどの、重たい疲れがやってくる。それを忘れるために、また葉を求める」


アヤは顔を上げて、ジェフリーのほうへ向きなおった。


「兵のように鍛えられているわけでもない村の人たちが、何日も空腹のまま、畑に出られるはずがないのです。葉の匂いを吸ったときは、平気だと思えるかもしれません。でも、そのあとは、鍬を握る力さえ残らない。畑など、ろくに耕せるはずがありません」


部屋が、しんとした。


ランタンの火が、じじ、とかすかに鳴った。


その沈黙を破ったのは、長椅子のアルベルトだった。


「あの、ずっと気になってたんですけど」


アルベルトは、顎に手をやったまま、首をかしげていた。


「陽炎草ってのは、そんなに簡単に手に入るもんなんですか」


全員の目が、自分に集まったことに気づいて、アルベルトは少したじろいだ。


「あ、いや……だってほら、ダリアって、貧しいとはいっても、村はいくつもあるし、人もそれなりにいるわけでしょう。そのみんなに配るとなったら、相当な量がいるはずじゃないですか。エステリアじゃ禁じられてる草なんでしょう? そんなもの、どうやって、そんなにそろえてるのかなって」


アヤが、はっとしたように顔を上げた。


その目が、ジェフリーの手もとの米粒へ落ち、窓の外の暗い麦畑へ移り、また米粒へ戻った。


「……そういう、ことなのですね」


ジェフリーは、アヤを見た。


「王宮からの支援は、どこにでも届けられるわけではありません」


アヤは、自分の考えをひとつずつ確かめるように言った。


「領地の畑の実りや、民の暮らしぶりを、王宮の者が調べます。決められた基準よりも貧しいと分かったところにだけ、王宮は支援を出すのです」


アヤは、膝の上で握りしめていた手を、そっと開いた。


「ダリアには、毎年、荷馬車にして五十台分の麦が送られています。そのほかに、塩漬けの肉や、豆も。これだけの支援が出るのは、よほど荒れた畑が、何年も続いている土地だけです」


ジェフリーにも、アヤの言おうとしていることが見えてきた。


陽炎草は、ただ民を思いどおりに動かすためだけに配られていたのではなかった。


潤う畑が、邪魔だったのだ。


畑が実り、民が立ちなおってしまえば、王宮からの支援は止まる。畑が荒れ、領地が貧しいままであれば、日持ちのする上等な麦が、毎年王都から送られてくる。ガストンにとって、その麦は、米に換えて北へ送り、剣に変えるための元手だった。


そう考えれば、ガストンが雇ったならず者たちのことも、腑に落ちた。


ならず者に畑を荒らさせ、陽炎草で民から働く力を奪う。ひどく回りくどいやり方だった。それでも、ダリアがけっして豊かにならないためには、欠かせない歯車だったのだ。


陽炎草で判断の鈍った民なら、夜中に荷車を引かされても、何を運ばされているのか深く考えない。殿様の名で葉を配ってくれる館の旦那の言うことなら、逆らいにくい。


そのうえ、ルシアンがダリアのためにと、各地から集めてきた花や種の下に、剣を隠しておけばいい。万が一、誰かに見つかっても、すべて若様のしたことにできる。


何重にも重ねられたからくりの、いちばん底に、本当のことが埋められていた。


アヤが、手のひらの米粒を見つめたまま、言った。


「ダリアは、貧しいから、助けられていたのではありません」


その声は、ほとんど震えていなかった。震えていないぶん、かえって痛々しかった。


「助けを盗むために……貧しいままに、されていたのです」


誰も、何も言わなかった。


長椅子の端で、カスパーの大きな拳が、膝の上で握りしめられていた。



********



そのとき、扉が叩かれた。


遠慮がちな、軽い音だった。


「お、お食事の、お支度が、できました」


扉の向こうから聞こえてきたのは、テッサの声だった。


セドリックが、返事をしようと、扉の取っ手に手を伸ばした。


ジェフリーが、すっと片手を上げた。手のひらをセドリックのほうへ向ける。


セドリックの手が、取っ手の手前で止まった。ジェフリーは、椅子の脚を床に鳴らさないように立ち上がった。


この宿で起きたことは、夜が明けるまでに、館の主の耳に届く。名乗る前から夫婦の名を知っていた、あの女主人の口を通って。


部屋の隅に、旅の荷がいくつか置かれていた。ジェフリーは、その中でいちばん大きな革袋を持ち上げると、卓の真ん中に、どさりと置いた。続けて、上着の内側から小さな袋を取り出し、その口をほどく。中から出てきたのは、手のひらほどもある、乾いた大きな葉だった。


燻した薄氷草。


ガストンが、喉から手が出るほど欲しがっていた白い茶だった。


ジェフリーは、それを何枚か、卓の上に無造作に広げた。


アヤも、アルベルトも、カスパーも、わけが分からないという顔で、ジェフリーの手もとを見ていた。


ジェフリーは、セドリックに向かって、小さく顎を引いてみせた。


セドリックが、扉を開けた。


廊下には、テッサが、盆も持たずに立っていた。そのうしろに、女主人の姿があった。


女主人の目が、すっと、部屋の中を撫でた。


ジェフリーは、卓の上に広げた葉の上に、ゆっくりと手のひらをかぶせた。


本当に隠したいものなら、扉が開く前に、袋の奥へしまっている。人目に触れたくない品を、うっかり広げたままにしていた男が、慌てて手で覆う。戸口に立つ女の目に、そう映らなければ意味がなかった。


「申し訳ありません。まだ、明日の取引の話がまとまらなくて」


ジェフリーは、困ったように笑ってみせた。


「もう少しだけ、待っていただけますか」


女主人の目が、ジェフリーの手もとに落ちた。


手のひらの下からはみ出した、乾いた葉の先。その隣の、大きな革袋。


まばたきひとつほどのあいだだった。女主人はすぐに顔を上げて、いつもの愛想のいい笑みを浮かべた。


「もちろん、かまいませんわ。お急ぎにならなくても。……よろしければ、お食事を、こちらのお部屋へお運びいたしましょうか」


ジェフリーは、アヤのほうを見た。


アヤは、ジェフリーの顔と、卓の上の手と、扉の向こうの女主人とを、困惑したように見比べていた。いったい何が起きているのか、まるで分からない、という顔だった。


ジェフリーは、もう一度、女主人に向きなおった。


「でしたら、妻の分だけ、お願いできますか。今日は一日、歩きどおしで疲れたようで。今夜は、ひとりで静かに食事をしたいそうなので」


アヤが、何か言いかけて、口をつぐんだ。


女主人は、にっこりとうなずいた。


「かしこまりました。奥様のお食事は、この子に運ばせますわ」


女主人の手が、テッサの肩に置かれた。テッサの肩が、びくりと小さく跳ねた。


ジェフリーは、卓の上の葉を手早くかき集めると、大きな革袋の中へ押しこみ、口の紐を固く結んだ。革袋は、卓の上に置いたままにした。


ジェフリーは、アルベルトとカスパーとセドリックの顔を順に見て、扉のほうへ軽く顎を向けた。


三人は、何も聞かなかった。アルベルトが長椅子から立ち上がり、カスパーがそれに続き、セドリックが扉を大きく開けた。三人は、女主人に軽く会釈をして、廊下を階段のほうへ歩いていった。


黒騎士たちが出ていったあとも、女主人は、扉の前から動かなかった。


戸口に立ったまま、目だけが、部屋の中を順に移っていく。卓の上の革袋。窓辺の長椅子。天蓋の寝台。部屋の隅の旅の荷。何か見落としているものはないかと、ひとつずつ確かめていくような目だった。


ジェフリーは、椅子に座ったままのアヤのそばへ歩み寄ると、身をかがめた。


アヤの黒髪に、顔を寄せる。戸口から見れば、夫が、疲れた妻のこめかみに口づけを落としているようにしか見えなかっただろう。


唇は、アヤの髪に触れてはいなかった。


ジェフリーは、アヤの耳もとで、ひと言だけささやくと、身体を起こした。


「では、行ってくる。ゆっくりお休み、ナナ」


ジェフリーは、女主人の脇を抜けて、廊下へ出た。


扉が、軋みもせずに閉まっていく。


閉まりきる、その最後の瞬間まで、女主人の目は、椅子に座ったアヤから、一度も離れなかった。


扉が、閉まった。


部屋には、アヤひとりが残された。


アヤは、椅子の上で、身じろぎひとつできずにいた。卓の上には、紐を固く結んだ大きな革袋が、置かれたままになっている。


耳の奥に、さっきのささやきが、まだ残っていた。


――食事は、黒騎士に運ばせます。それまで、何が運ばれてきても、けっして口にしないでください。

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